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89 ばんごはん
「葉子ちゃん、あと何欲しいんだっけ?」
「洗顔料、かな‥‥‥あ、これだ。“メルサボン”」
「‥‥お、これ良い匂い!ねーねー拓真、これ買って!」
「自分で買えよ。‥‥‥‥あ。リサ、ひっしー」
ドラッグストアの店内を物色していた拓真は、入店してきたリサと菱和を見付けて軽く手を振った
「もう終わった?」
「うん‥‥大体これで買うもん揃ったかな。ごめん、色々見て回ってたら遅くなっちゃって」
「いや、なんも。あったかいもん頼んで飲み終わったからこっち来ただけだし。‥‥な」
「‥‥‥うん」
リサに目配せする菱和
リサはちらりと菱和を見て直ぐに目を逸らし、ぶっきら棒に返事をした
リサと菱和からいつもとは少し違った雰囲気を感じ取った拓真
だが、今この場で詮索しようとは思わなかった
「そっか‥。じゃ、会計してくるわ」
ユイとリサと菱和は、拓真が会計を終えるまで傍らで待つ
「‥‥俺も買い物してって良い?」
「うん!何買うの?」
「晩飯の食材」
「おお!今日は何?」
「クリームパスタ。‥‥こいつのリクエスト」
そう云って、菱和はリサを指差した
そっぽを向くリサに対し、ユイはニコニコとする
「‥ラッキー!俺、アズのパスタめっちゃ好き!リサ、超期待してて良いよ!」
「‥‥‥そ」
リサはいつものように、素っ気ない返事をした
***
拓真の買い物が済んでから、4人は最寄りのスーパーで食材の買い出しをし、菱和のアパートへ向かった
「2日振りに、お邪魔しまーす」
「俺は昨日振り!お邪魔します!」
「‥‥どーぞ」
菱和はユイと拓真の言葉を聞き、少し口角を上げた
食材の入った袋を提げて、真っ直ぐキッチンへと向かう
リビングのテーブルを囲い座るユイ、拓真、そしてリサ
リサは室内を見回し、感想を述べる
「‥‥‥‥なんか、ほんとに何もないね、この部屋。一昨日来たときはあんま気にしてなかったけど」
「でもシンプルで良くない?俺結構好きよ、この空間」
「俺も!無駄がなくて、アズっぽいよね!」
「‥‥まぁ、“らしい”と云えば“らしい”けど」
「この辺にさ、でっかい観葉植物でもあったらオシャレじゃない?」
「ああ、良いかもね。カウンターでもアリじゃないか。小さいの何個か並べて」
「熱帯魚の水槽も欲しいな!」
「『欲しいな』って、ここはあんたの家じゃないでしょ」
「いや、そりゃそーだけどさ‥‥」
「でっけぇアロワナとか合いそうだな。プレコとか」
「俺、タイガーシャベルノーズが良い!」
「‥マニアックだなそれ」
「‥‥、ウーパールーパーは?」
「意外とマッチしそう」
「アルビノ限定でね」
「それもマニアックだな」
「よく見たら“めんこい”顔してるもんね、ウーパールーパーって!」
「でもあれ、唐揚げとかにして食ったりするみたいよ」
「え!!!マジ!?」
「テレビで観たことある。あの姿のまま揚げるんだよね」
「そうそう。見た目結構キツいよな」
「うへぇ‥‥、なんか可哀想‥‥‥」
3人は、殺風景な菱和の自宅の話からだいぶ飛躍し、唐揚げにされるウーパールーパーの悲運について話している
食材を一旦冷蔵庫に仕舞ってから換気扇の下でのんびりと煙草を喫い、3人の話に耳を傾けていた菱和は、喫い終えるとリビングへ来た
「‥‥‥‥じゃあ、機会があれば今度の晩飯は“ウーパールーパーの唐揚げ”だな」
悪戯にそう云って、3人の話に混ざる
「冗談でしょ!わざわざそんな可哀想なことしないでよ!」
「食ってみたら意外と美味ぇかもしんねぇじゃん」
「まぁ、ね。どんな味すんのか皆目検討もつかんしね。ひっしーなら上手く調理出来んじゃない?」
「衣次第な気はするけどな」
「私は無理。絶対無理」
「俺も無理!丸揚げとか可哀想過ぎる!」
「‥っつうかまずウーパー確保すんのが大変そう」
「うんうん。どこで手に入れれば良いんだろね?」
「‥‥、熱帯魚屋?」
「『晩飯のおかずにするから下さい』って?めっちゃシュール!店員さんもドン引きだなきっと」
「もぉ、拓真もアズもやめろよ!そんなにウーパールーパー食いたいの?」
「いや、全然」
「俺だって食いたかないよ。ゲテモノじゃん」
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
『ウーパールーパーを食べる』
改めて考えてみるとそのワードがツボにハマり、菱和は軽く噴き出した
「‥‥くっ‥‥‥」
「‥ふはっ!ははは!フツー食わないよね、ウーパールーパーなんて!」
拓真もつられて笑い出した
ユイはほっと胸を撫で下ろす
「‥‥‥何だ、本気じゃなかったのか‥‥びっくりした」
「本気なわけないでしょ。そんな食卓あったら堪んないよ」
「大体、んなもん食う奴の気が知れねぇ」
「うぅ‥‥そっか、そうだよね」
ウーパールーパーの話題でここまで盛り上がるとは思いもよらないことだった
他愛もない話をしながら、4人は夕食までの時間を談笑しながら楽しんだ
***
リサのリクエスト通り、菱和はクリームパスタを作った
スモークサーモンと法蓮草の入ったとろとろのパスタは、その見た目だけでご飯のおかずになりそうだとユイは思った
「頂きます!」
「‥‥どーぞ。お代わりもあるから」
「よっしゃあ。たらふく食うぞー」
ユイと拓真は、いつものように勢いよくパスタを頬張る
美味しそうに食事をとり始めた2人を見て、リサもパスタを口に運ぶ
「‥‥頂きます」
ふと、咀嚼していたリサの動きが止まる
ユイと拓真は手を止め、したり顔でリサを見た
「‥‥‥‥」
「‥‥‥」
麦茶を淹れた菱和はグラスをリサの皿の傍に置いた
「‥‥どうすか、お口に合いますか」
「───‥‥‥‥、美味しい‥‥。‥すごい美味しい」
スモークサーモンの程好い塩気がとろとろのソースと絡み、法蓮草の緑が彩りを添える
リサがリクエストしたクリームパスタは、今までの献立同様に絶品だった
一昨日の献立は鍋だった
正直なところ誰でも作れるものだが、一品物の献立となると鍋のように出汁に頼ったりすることは出来ず、誤魔化しが利かない
ユイと拓真から菱和の手料理のことは散々聞かされていたが、リサはそれが自分の想像以上だったことに驚く
「ね!アズのごはん、最高に美味いっしょ!」
にこにこしながらパスタを頬張るユイ
リサは十分に納得し、軽く頷いた
菱和の料理は、ユイの胃袋をがっちりと掴んでいる
家庭の事情もあるのだが、食生活に無頓着なユイならば尚のこと
美味しい食事は、人の心を幸福にする最大の栄養だ
ふと、視線を感じたユイは、口の中のものを飲み込み、怪訝な顔をした
「‥‥ん、何?なんか付いてる?」
菱和は徐に手を伸ばし、親指でユイの口元を軽く拭った
その指を口に含み、少し舌なめずりする
途端、ユイは顔を赤くした
口にソースを付けたまま食事をしていた恥ずかしさもあるが、菱和に口元を拭われたことに堪らずドキドキしてしまう
「‥‥ほんと、子供なんだから」
「あっちゃんの云う通り、ひっしーが女ならほんと良い嫁さんになったろうなぁ」
「‥‥そうか?」
「うん。地味にちょっと憧れちゃうね、今の」
───惚れちゃうのも仕方ない部分もあるよな。それに、然り気無く“あんなこと”されちゃなぁ‥‥ユイは免疫ゼロだし、相手はひっしーだし
呑気にそんなことを思いながら、拓真もパスタを頬張った
「‥‥‥じゃあ、拓真もアズにやってもらえば良いじゃん、“今のやつ”」
ユイは恥ずかしそうに顔を赤くしたまま、俯いてボソリと呟いた
拓真はくすくす笑う
「いやいや。それはユイの特権でしょ?俺は将来のお嫁さんにしてもらうから」
そう云って拓真はかち、と軽くフォークを齧った
ユイにとって、菱和はもうただの友達ではない
菱和にとっても、それは同じこと
抱き締め合うこと
手を繋ぐこと
『好き』だと伝え合うこと
ただの友達ではない存在ならではの“特権”が、互いにある
それは、ユイが知り得ないものばかりだ
菱和は、多少のことならば第三者の前でも『普通にする』と端から決めていた
拓真もリサも、目の前で菱和がユイに対して特別な行動をとったとしても、ある程度のことは静観するつもりでいた
先程の菱和の行為も、『大したことではない』と思った
ただ、“免疫ゼロ”のユイにとっては、多少のことでも“大事”だった
菱和と2人で居るときでさえ緊張の連続だったユイは、幾ら第三者が気にしなくとも、それが腐れ縁の幼馴染みだったとしても、恥ずかしくて仕方がない
自分達は気の置けない幼馴染みだ
ユイと菱和が仲睦まじく過ごせるよう応援し、時にはからかい、時には助け船を出す
自分達は、ユイと菱和を見守っていければそれで良い───
拓真もリサも、その想いは同じだった
「‥‥っつうか、佐伯は口にソースつけたまま食事しなさそうだけどな」
「そこの違いだよね、やっぱり」
リサは頷きながら菱和の意見に同意した
「もおぉ、みんなして子供扱いすんなよ!!」
ユイは気恥ずかしさに堪らず大声を出した
「はいはい、ごめんな。‥‥冷めちゃうから、早く食お!」
「食べないなら、あんたのサーモン私が貰っちゃうけど」
「‥だめだめ!!ちゃんと食う!お代わりもするし!」
「‥‥‥めいっぱい食ってって」
半ばムキになりパスタを頬張り始めたユイの姿を見て、菱和は少し口角を上げた
4人は、談笑しながら食事を進めた
ユイと拓真は、いつも通りお代わりをする
食事の後は、ユイと拓真が食器を片付ける
そして、リビングで寛いだり音楽雑誌を見たり楽器を弾いたりCDやDVDを視聴して過ごす
その時間は、3人にとってはいつもと何ら変わらない
───こんな時間を過ごしてたんだ、今まで
菱和の自宅に出入りするようになってからの出来事を逐一聞いていたが、
それを目の当たりにした今、3人が本当に楽しく過ごしていたのだと実感して安堵したリサ
何の変哲もない日常が、これからも沢山訪れることを願った
88 リサちゃんと菱和くん
全員がクレープを食べ終えた頃、ふと拓真が窓の外を見る
近所のドラッグストアが目に入った
「‥‥あ。俺ちょっとアインズ見てくる。姉ちゃんに洗顔とか頼まれてんだった」
「え、じゃあ俺も行く!」
「ユイなんか買うもんあんの?」
「無い!無いけど行く!」
「あっそ‥‥。リサとひっしーはどうする?」
「ここで待ってる」
「‥‥俺も」
「じゃあ、待ってて。ちょっと行ってくる」
「すぐ戻って来るから!」
「はいはい。行ってらっしゃい」
ユイと拓真は席を立ち、足早にドラッグストアに向かっていった
リサは『いつものこと』という顔をして2人を見送る
こうして菱和と2人きりになるのは何度目だろうか
未だ多少の気まずさがあるリサだが、取り敢えず菱和に話し掛けることにした
「‥‥、ついてかなくて良かったの?」
「ん。コーヒー飲みてぇし」
「ふーん‥‥」
「‥‥‥お前もなんか飲む?」
「‥‥、あったかいレモンティー」
「りょーかい」
席を立ち、菱和はドリンクを頼みにカウンターへ向かった
程なくして、菱和はブラックコーヒーとホットレモンティーが入ったカップを携えて戻ってきた
レモンティーをリサの前に置き、また椅子に座る
「ん」
「‥‥ありがと。幾らだっけ」
「要らねぇ」
「え‥‥でも、なんか悪いから」
「要らねぇ。200円くらい素直に奢られろよ」
くす、と笑い、菱和はコーヒーに口を付けた
小銭を渡すつもりでいたリサは、申し訳なく思うも素直にその好意に甘えることにし、財布を仕舞った
琥珀色の紅茶に、輪切りのレモンが沈んでいる
レモンをティースプーンで軽く潰し、口を付けた
菱和とどんな会話をすれば良いのか未だ迷いがあるが、リサは何の気なしに尋ねてみた
「───‥‥どうなの?ユイとは」
「‥‥何だよ、“どう”って」
菱和はコーヒーを啜りながら素っ気ない返事をする
「‥だから、ユイとはどうなのかな‥‥って。ただの素朴な疑問」
本当に“素朴な疑問”を尋ねただけだったが、菱和は意地悪そうな顔をした
「‥‥ふーん‥‥‥‥やっぱ“保護者”的には変に手ぇ出されてないか気になる感じ?」
「‥“保護者”云うな!!」
「すいません。‥‥‥‥別に何もねぇよ、添い寝したくらい」
「‥‥そ。‥‥仲良く、やれそ?」
「多分、な。‥‥今後、お前にも佐伯にも、あいつのことで相談することあっかもしんねぇけど」
「それは別に、構わないけど。何時でも」
「うん。頼むわ」
「‥‥‥っていうか、ユイのどこが好きなの?」
「‥‥ん?」
「“好きになった決定打”みたいなの、無いの?」
「‥‥んー‥‥‥‥‥‥。‥‥何だろ、月並みな云い方かもしんねぇけど、“気付いたら好きになってた”‥かな」
「‥‥‥‥何それ」
「さぁ。俺にもよくわかんねぇ」
「‥‥‥、でも、本気なんだよね。その‥‥“友達として”じゃ、ないんだよね」
「ん」
「‥‥‥‥」
菱和から漠然とした答えが返ってきて、リサは怪訝な顔をした
本人しか知り得ない情報を当の本人が『わからない』と云うのだから、当然こちらにも何もわからない
「───多分、お前と佐伯があいつとずっと一緒に居る理由と大差ねぇと思うんだけど」
「‥‥‥‥、私たちと、一緒?」
「ん。違げぇんかな」
友達だから
一緒にいて楽しいから
幼馴染みだから
空気が読めなくて心配だから
あの笑顔が好きだから
腐れ縁だから
よくよく考えてみると、単純にパッと思い付く理由はそんなところだった
ユイと自分の関係は、ただの“友人A”という範疇をとっくに凌駕している
恋愛の“好き”とも、家族に抱く感情とも違う
だが、確かにある、ユイへの特別な気持ち
ただ一つ云えることは、ユイと自分の仲は理屈ではないということ
リサが改めて考え付いた末に出た結論は、菱和と同じようによくわからない曖昧なものだった
─────結局は、同じってことになるのか
「‥‥知らない」
リサは何となく嘯き、レモンティーを口にする
仄かな苦味と酸味が、口の中に充満した
菱和は少し口角を上げて、コーヒーを一口飲んだ
飲み下し、また意地悪そうな顔をする
「‥‥そ。‥‥‥‥っつうか、お前も意外とそういう話すんのな」
「は‥?」
「“恋バナ”ってやつ?やっぱ女なんだな、お前も」
「‥‥今まで私のことどんな目で見てたわけ?」
「‥‥‥‥‥‥、“ユイの保護者”?」
「‥だから、保護者じゃないって‥‥!!」
「──────ねぇ」
リサがムキになり出すと、女性の声がした
顔を上げると、2人の女子高生が菱和の傍らに立っていた
傷むほど何度もカラーリングされた髪、濃い化粧、だらしなく着崩された制服、極端に短いスカート、どぎつい香水の臭い、下品な笑み───そのどれもに、リサは引いた
「その制服、音羽高?」
「オニイサン、超イケメンだよねー。何年生?」
菱和はずけずけと話し掛けてくる女子高生からふい、と目を逸らし、何の興味も無いかのようにコーヒーを飲み出した
女子高生たちは、嬉々として菱和に話し掛ける
「やーだぁ、オニイサン“つんでれ”ってやつー?かーわいい!」
「さっきまでクレープ食べてたよね?超ウケる!」
「てかさー、背ぇ高いよねー。何センチあるのぉ?」
「なかなかうちらの学校に居ないよねー、こんな背ぇ高い人!」
「っていうか、今からうちらとカラオケ行かない?」
「ゴハンとかでも良いんだけど。遊ぼーよオニイサン?」
ひょっとしなくても、これは、
───‥‥‥‥逆ナン、されてる‥‥?
長身でクールな顔立ち、鬱蒼と伸びた髪、ピアスに煙草といったほんの少し“不良”だった名残のある菱和の見た目
決して『悪くない方』だと思っていたが、逆ナンされるほどの容姿であるとは全くの予想外
リサは固まりつつ、ちらりと菱和を見た
いつもの無表情で、まるで女子高生たちを無視するかようにしている
「っていうかさー、どう見てもそのコじゃオニイサンと不釣り合いだよ。さっきからそのコ怒鳴ってるしさぁ、なんかおっかなくってー」
「ねー!うちらずっと見てたけど、オニイサン大丈夫かな?と思ってヒヤヒヤしてたんだよねー」
「そーそー!ひょっとして、付き合ってもないのにしつこく彼女ヅラしてんじゃないかなー、とか」
「‥ね、ちょっと!私今めっちゃ睨まれたんだけど!」
「えーやだー!怖あぁい!」
リサが黙っているのを良いことに、女子高生たちは大袈裟に喋った
周りからも、次第に注目されていく
───っていうか、睨むどころか1秒も見てないし。‥‥それより、めちゃくちゃ香水臭い。公害レベルに臭い。具合悪くなりそ
リサにとっては苦手な部類の人間だった
あることないこと云われたい放題でいることに、徐々に青筋が立ち始める
「‥‥ね、行こうよオニイサン?こんなつまんない顔してるコと居るより、うちらと一緒の方が楽しいよ?」
女子高生たちは菱和を連れ出そうと促す
そのうちの一人は、馴れ馴れしく菱和の肩に手を置いた
───‥‥そろそろキレても良いかな、私
リサがそう思った矢先、菱和がコーヒーを飲み干してから低く呟いた
「───うぜぇ」
その一言で店内は一気に騒然とし、周りの客は目を見張る
無表情ながらも苛ついた菱和の声に、女子高生たちは怪訝な顔をする
「‥え‥‥」
「‥‥‥本人に聞こえる距離でそいつの悪口云うとか、世の中には平気でそういう下衆なことする奴がいんだな。‥な、リサ?」
少し語気を強め、菱和はリサに同意を促す
事情がわからなかった客たちは菱和の言葉で事の次第を理解し、「何あいつら」「マジキモくね」と口々に蔑み始める
取りつく島もなく弁解の余地もない2人の女子高生は、途端に慌て出した
「え、あ、あの‥‥」
「うちら別に、そういうつもりじゃ‥」
「‥‥‥‥出よ。ここ、空気悪りぃ」
狼狽える女子高生たちを尻目に菱和はゆっくりと立ち上がり、リサの腕を掴んで立たせた
そのまま、颯爽と出口へ向かう
「え、ちょっと‥‥」
半ば引き摺られるようにして、リサも店から出る
ざわつく店内から、悲鳴にも似た声が響いた
「───‥‥ちょっと‥!手、離っ‥‥!」
「‥‥‥おう、悪りぃ」
“PANACHE”を出、リサの腕を掴んで歩いた菱和は、ぱっと手を離した
「‥‥‥‥な、んで‥‥‥」
「‥‥何が」
菱和が取った行動の意味が理解出来なく、リサは目を丸くしている
「‥‥あいつら、あの店行ったよな。行ってみよ」
ユイと拓真が向かったドラッグストアをちらりと見て、菱和はリサを促し歩き始めた
目を丸くしていたリサも、その後ろを歩き出す
何を話していいやらわからず、ただ黙って菱和の背を追った
「‥‥、うざかったな、さっきの」
「‥うん。めっちゃうざかった」
「‥‥だから女って嫌い。特に、ああいう頭悪そうな女」
菱和はボソリと呟いた
リサは、眉間に皺を寄せる
「私も、女なんだけど」
「‥‥そうだっけ?」
「あんたね、いい加減に‥!!」
「冗談だって。‥‥相対的に女は嫌いだけど、初対面のわけわかんねぇ奴とお前の仏頂面、比べるまでもねぇから。‥‥‥‥っつうか、性別云々の前に、お前は“ダチ”だし」
そう云って、菱和は少し口角を上げた
──────また、護ってくれた
リサは唇を尖らせた
ただの“友人A”にここまでしてくれるとは、思ってもみなかった
ただ単に菱和が「うざい」と思ったから、それだけのことなのかもしれない
だが結果的には、自分を“護ってくれた”
そう思った
「‥‥‥‥、‥‥と」
「ん?」
「‥ありがと!」
リサはそっぽを向いて、菱和に精一杯の礼を云った
素直じゃないのはわかっている
別にそれで構わない
それがいちばん“リサらしい”
と、
菱和はくす、と笑った
「どういたしまして。‥‥‥あいつら今日うちで晩飯食ってくけど、お前も来る?お前の好きなもん作るよ。‥‥何食いたい?」
そう云われ、リサはぱっと思い付いたものを口にした
「‥‥‥‥サーモンが入ってるクリームパスタ」
「‥りょーかい」
リサには自分の前を歩く長身の“友人A”の表情を見ることは出来なかったが、その顔はとても穏やかなものだった
87 “PANACHE”'s Crepe
美術準備室で昼食をとった後、教室へと戻る道すがら
ユイは菱和の制服の袖を軽く引っ張った
「アズ、放課後クレープ食い行かない?」
「‥‥クレープ?」
「今日、リサに奢る約束してるんだ。拓真も一緒に」
「ふーん‥‥‥‥っつうか、俺が行っても良いの?」
「へ、何で?甘いもん嫌いじゃないよね?」
「いや、幼馴染み水入らずの方が良いんじゃねぇの」
「美味いもんは、皆で食った方がもっと美味いじゃん!」
「‥‥そ」
放課後、制服姿のまま街をぶらつくのは久し振りのことだ
その雰囲気がどういったものであるかを全く掴めないまま、菱和は“PANACHE”へ行くユイたちと行動を共にすることにした
駅前通りの公園近くのアーケード
ディスカウントストアやドラッグストア、カフェ、ゲーセンなどもあり、学校帰りの学生でいつも犇めき合っている
“PANACHE”も、そのアーケード内にある
人混みは好きじゃない
寧ろ、嫌いな方だ
だが、周りの賑やかさに負けじとはしゃぐユイに何となく根負けし、菱和も自然と街の喧騒に紛れる
“PANACHE”は、連日のように行列が出来る人気店だ
看板メニューはクレープだが、アイスやパフェ、飲み物も充実している
行列に並び順番を待つ一際長身の無愛想な男に、誰もが振り返る
カフェで濃いブラックコーヒーを飲む姿の方が似合いそうな菱和の見た目は『甘いものを好んで食べそう』という印象が少しも見当たらなく、スイーツ店に並ぶその姿は周囲に強烈なインパクトを与える
ただただ驚きガン見する者もいれば、“ギャップ”に萌えて二度見、三度見する者もいた
そんな“ガラ”じゃない
そんなことは本人が一番よくわかっている
だからと云って、『男だから甘いものを食べて何が悪いというのか』と菱和は思った
確かに自分はクレープを食べに来ている
それは紛れもない事実なのだが、『“目的はクレープではなくコーヒーかも知れない”という想像もつかないものなのか』と、好奇の目を向けてくる周囲の反応があっという間にうざったくなった
───まぁ、そりゃ当然の反応だわな。‥‥‥‥でもやっぱ、うぜぇ。他人のことなんてどうでも良いだろっての
“スイーツ男子”という括りに勝手にカテゴライズされてしまうのは不本意だ
ましてやわざわざ“ギャップ萌え”を狙っているわけでもない
若干苛ついて一瞥くれるとその視線は散るのだが、次々と人の出入りがある場所ではその行動は最早無意味なものだった
リサやユイが居ることが、この場にえらく不釣り合いな自分の印象をほんの僅かに和らげる
それだけが、順番待ちをする菱和にとっては唯一の救いだった
順番が来ると、ユイとリサはカウンターの目の前で、拓真と菱和はその後ろからメニューを覗き込んだ
ユイは、女子高生に負けないくらい目をキラキラさせている
「毎度毎度のことだけど迷うなぁ。みんな、何にするー?」
「私、“ストロベリーレアチーズ”」
「早っ。ってか、それ美味そうだな」
「最近ずっと、これしか食べてない。最強」
「最強って‥‥そんなに好きか。じゃ、俺は‥‥オーソドックスにストロベリーチョコカスタード。ユイは?」
「んー‥‥‥‥じゃあこれ、“ティラミス”!」
「ひっしーは、何にする?」
「‥‥“抹茶”」
「お、それも美味そう。んじゃ、会計しよー。リサの、幾ら?」
「あ、あー‥‥450円です‥‥‥」
「ほい。‥‥お前のティラミス、一口寄越せよ」
「‥もっちろん!拓真、ありがと!」
会計を済ませて番号札を受け取り、クレープが出来上がるのを暫し待つ
「ひっしーて、わりと好みがシブいのね。和菓子とか餡子平気な人?」
「ん。黒蜜と黄粉って、ヤバくね?」
「あー、最高の組み合わせだなぁ」
「抹茶って、メニューだと生地が緑色だったね!どんな味すんだろ?」
「‥‥美味しいよ、抹茶。白玉入ってて。結構好き」
「リサが云うなら、間違いないね!ね、一口ちょうだい?」
「‥‥ティラミス半分寄越すんなら良いよ」
「‥‥‥‥、俺は一口なのにアズは半分もいっちゃうの?」
「半分貰っても全然不公平じゃないじゃん。お前の“一口”でかいし。結構前だけど、俺クレープん中のアイス殆ど食われたことあんだよね」
「‥‥私もチーズケーキごっそり食べられたことある」
「‥‥‥‥じゃ、やっぱ半分な」
「‥ぶ‥‥」
ユイはバツが悪そうに唇を尖らせた
意地悪そうに口角を上げる菱和
2人の顔を見て、拓真はくすくす笑っていた
番号を呼ばれ各々がクレープを受け取り、席を捜す
テラス席もあるのだが、流石に寒そうなので今回はやめ、4人は窓際の席に座った
リサのクレープは、小さめのピースケーキの周りにホイップが盛られており、甘酸っぱい苺のソースがかかっている
拓真が頼んだのは、カスタードクリームにチョコソースがかかっており、ざくざくと切られた苺がふんだんに入っている
ユイが注文したものはマスカルポーネムースにコーヒーを含ませたスポンジが散りばめられていて、ほろ苦くも濃厚なクレープ
そして、菱和が頼んだ抹茶はホイップに黄粉と黒蜜がかかっていて餡と白玉が入っており、生地にも抹茶が混ざっている
4人は感想を述べながら、クレープを食べ進める
「美味ぁ!ティラミス美味いっ!」
「コーヒー入ってるのに、よくそれ頼んだね」
「コーヒーなんか気になんないくらい美味いよ!この‥‥ムース?みたいなの!とにかく美味い!」
「抹茶の味は、どう?」
「‥‥超美味ぇ。色々、絶妙」
「‥‥‥‥っていうかさ、クレープ食ってるひっしーって、絶対レアだよな」
「そうか?」
「ほんとだね!今のうちに写メ撮っとこっかなー」
「‥‥何に悪用する気だよ」
「悪用なんてしないよ!レアだから撮っとくだけ!」
「‥‥‥、なんかの“厄除け”程度にはなるんじゃない」
「あー‥『悪い人に絡まれない』、とか?」
「‥‥んなもん“厄除け”にすらなんねぇよ」
「アズ、“一口ちょうだい”っ!」
「ん」
「‥‥‥美味ぁ!抹茶の味する!」
「抹茶のクレープなんだから当たり前でしょ」
「っていうか、俺も一口貰って良い?緑の生地の味、めっちゃ気になってきた」
「ん。どーぞ」
「人の見てたら、食いたくなるよね!」
「そうなんだよなぁ‥‥。‥‥、うわ、マジ美味!俺も次、抹茶食おうっと」
「‥‥たっくん、俺にも苺食わして」
「う‥‥‥。‥‥その、たまにくる“たっくん”、めっちゃ心臓に悪い‥‥」
「何で?結構気に入ってんだけど」
「そっすか‥‥‥」
「リサのも一口ちょうだいっ!」
「‥先っぽだけあげるから、もうちょっと待ってて」
「何だよそれ!いちばん美味いとこ全然なくなるじゃん!」
「待てないならもう1個買えば?」
「むー‥‥リサのケチ!」
「‥‥‥‥」
「‥‥、ほんとにくれないの?」
「‥‥‥‥どうぞ」
「むふふっ、頂きます!」
一口ずつ貰い貰われ、自分が注文した以外のものも互いに楽しむ
リサも菱和も、意地悪なことを云いつつもしっかりとユイにクレープを“一口”あげた
舌鼓を打ちながら、4人は談笑して放課後を過ごす
中学時代、放課後といえば毎日のように喧嘩に明け暮れていた
当時の自分からは全く想像もつかない、友人とクレープを食している現在の姿
やはり、“毒されてしまった”と思うより他ない
ただ、その“毒”に不快な要素は皆無と云って良いほど見当たらない
あらゆる不快感を一瞬で消し去るユイの笑顔、拓真の笑い声、リサの仏頂面、そして甘味
他愛ない放課後をともに過ごす仲間が居てくれることに感謝し、菱和はほろ苦い抹茶のクレープを堪能した
86 美術準備室にて
「ここ」
旧校舎の2階、最奥の教室
菱和はそこで立ち止まり、指を差した
「‥‥‥‥“美術準備室”?」
菱和を除く5人は、その表示をぽかんと見上げる
「ずっと使ってねぇっぽいから誰も来ねぇし、でも何でか鍵かかってねぇし暖房入ってるから、冬の間はここ使ってた。‥‥6人だとちょっと狭めぇかもしんねぇけど」
「へぇー‥‥」
「じゃ、入ってみるべ」
「お邪魔しまーす」
菱和がドアを開け美術準備室に入ると、5人が続いて中に入る
足を踏み入れると、ツンとした臭いが鼻についた
「うお、臭っ!」
「ほんと、油臭いなー」
「使いかけの油絵の具とか筆とか残ってるから。慣れればわりと快適」
12帖程の美術準備室は、部活動で使用していたものの名残があった
カンバスや石膏、油絵の具、その他の画材が棚に所狭しと置かれ、雑然としている
換気を兼ね、菱和は窓を開けた
「ほんとだ。絵も残ってるんだね」
「‥‥あ、これ見たことある」
ユイはある石膏を指差した
拓真もそれに近付き、首を傾げた
「誰だっけそれ?」
「“モリエール”、だったかな」
「お、“アメンホテプ”もいんじゃん!」
「‥‥“あめんほてぷ”って、どれ?」
「こいつ。なんか、それっぽくね?」
上田はニヤニヤしながら石膏の頭をぺちぺちと叩いた
「‥‥それは“マルス”」
「あ、ちゃんと名前付いてんだ」
「当たり前でしょ。樹、教養無さ過ぎ」
「いやいや、教養云々の前に“美術”ってガラじゃないっしょ、俺は」
「まぁ、そーだよな‥‥‥‥てか、カナちゃん、詳しいね」
「私、選択美術だから」
「なるほど、そっかー。つーかさ、大分前に帽子被したり眼鏡かけさしたりしてたよな」
「そーそー!あれは新校舎の美術室でさ、マサとかケンゴと一緒に忍び込んでやったわー。速攻で拓真に写メ送ったっけー」
「マジでクソみたいな嫌がらせだったんだけど」
「うっそ、バカウケだったっしょ!?」
「俺もその写メ見してもらったけど、めっちゃ笑った!」
「だろー!?ユイ、わかってるー!たっくん、も少しユーモアのセンス磨いてよ」
「いや、ユーモアじゃなくてただの悪ふざけだろあれは」
菱和とリサ、カナは、拓真の意見に同意せざるを得なかった
適当に並べられた机と椅子を整理し、机を軽く拭いて、各々は昼食を広げ出した
「ほんとに、誰も来ないの?」
カナは少し不安げに室内を見回し、菱和に尋ねた
「‥‥何回か美術の先公来たけど、別に何も云われなかった」
「とか云って、ガンたれたりしたんじゃねぇのぉ、菱和ぁ?」
紙パックジュースのストローを噛みながら、上田がニヤニヤ笑って茶化す
「いやいや、ほんとに」
「美術のセンセーって、誰だっけ?」
「“木邑”だな。俺のクラスの副担だわ。たまに教室来るけど、なーんかいっつもやる気ねぇ顔してんだよなー」
「キムラ先生かー‥‥‥なんかあの人、結構大変な思いしてるみたいよ」
「そうなん?」
カナは唐突に、美術教諭について自分が知り得ている情報を話し出す
「私も人伝に聞いた話だからほんとかどうかわかんないけど、先生の奥さんも同業者で、何年か前に亡くなったとかって‥‥‥。それまでは、“あんな感じ”じゃなかった‥‥って」
「ほー‥‥‥‥よっぽど奥さんラブだったんだな」
上田は、部屋の片隅に置かれているゴミ箱目掛けて紙パックを投げた
ゴミ箱は空に等しく、カコン、という音が響いた
「‥‥最愛の人を亡くすって、私たちにはまだまだ理解出来ないよね」
「そうなー‥‥‥」
「その話がほんとなら、そういうのって人格まで変えちゃうんだね‥‥‥‥てか、カナめっちゃ詳しいね」
「美術部に友達いるから、その子から聞いたの」
「へー‥‥」
「長原の情報網、ほんとすげぇよな」
「別にー。たまたま耳に入ってくるだけだし」
謎多き美術教諭の話に花が咲き、昼食は進められた
美術準備室は、美術室と隣接している
扉を隔てた向こう側は、暫くの間ほぼ使われていない旧美術室
準備室よりも雑然としており、時折人の出入りもあるようだが、教諭や美術部員が画材を取りに来たり等、ちょっとした用事でたまに訪れる程度だった
まるで存在そのものが忘れ去られているかのように、普段は閑散としている
長らく一人で過ごしてきた菱和にとっては、『真に独りになれる場所』としてかなり好都合だった
南向きなこともあり、日によっては暖房が要らないくらい暖かくなる
転た寝をし、そのままサボることもしばしばあった
「なぁ、裸婦画とかねぇんかな?」
「さぁ‥‥捜せばあんじゃない?てか、今はやめろよ。みんな食事中なんだから」
「何だよ、つまんね。みんな食うの遅せぇんだよ」
「お前が早過ぎんだよ。それか、量が少な過ぎるか」
「上田、俺のパン1個食う?」
「お、良いの?」
「うん。俺いっつも多めに買っちゃうから余るんだよね。‥‥はい、これ!」
「じゃ、貰いー!さんきゅー!さーて、裸婦画捜してみよー」
「良いから、大人しく食えっての!」
「‥‥たっくん、怖ーい」
「樹、行儀悪過ぎ。座って食べな。あと、超うざい」
「‥は!?‥‥あのさ長原、俺だって傷付くんだけど‥‥‥」
「知るかっつーの。バカ。エロ。変態」
「うおぉー‥‥‥今の3連コンボはマジ効いたわ‥‥泣きてぇ」
「勝手に泣いてろ」
「いっそパン喉に詰まらせて喋れなくなっちゃえば良いのに」
「‥‥菱和ぁ、どう思うよこの2人?辛辣過ぎね?」
「‥‥‥‥御愁傷様」
「‥‥‥お前は俺を裏切らないと思ってたのに‥‥」
「上田、元気出して。パン、もいっこ食う?」
「‥ユイがもう食わないなら食う」
「うん、あげる!」
「あー、俺の心の拠り所はユイだけか‥‥」
「‥‥‥‥同レベルっぽいから合うんじゃない」
「‥‥近藤サン、今然り気無く問題発言しなかった?」
「気の所為じゃない?リサは変なこと云わないもーん」
「あ、そーですか‥‥」
───‥‥‥‥この調子じゃ、寝てる暇も無くなんな‥‥
屋上だけでなく、美術準備室までも
何時の間にやらすっかり賑やかな場所になってしまったことを憂いたりなどしないが、菱和は一人で過ごしていた時を少しだけ懐かしく感じた
85 WAITED
月曜日
日曜の夕方、『明日からバスで通学』と拓真から連絡が来ており、ユイはその手筈で登校の支度をした
パーカーの上からブレザーを羽織ると、“冬仕様”の出来上がり
玄関を開けると、冷たい風が吹き付けてくる
予想以上の寒さに驚くも、玄関先にいる2人の幼馴染みの姿を捉えると、心なしか寒さも吹き飛ぶ
何時ものように、3人は挨拶を交わした
「おはー」
「‥おはよ」
「はよっ!」
多少の気恥ずかしさはあるが、何時もと変わらない2人の態度に、ユイは今一度安堵した
「すっかり良くなったなー」
「うん!お陰様で全快!“PANACHE”いつ行く?」
「‥‥今日」
「うぉ、今日か‥‥俺、今財布淋しくてさー。先週、弦買っちゃったし‥‥」
「別に明日でも良いけど」
「俺今日バイトないし、行くべ!ユイ、足らない分は貸しといてやるよ」
「お、助かる!」
3人は仲良く並び、バスに揺られて通学した
学校に着き、教室で談笑していると、菱和が来た
約一ヶ月振りの菱和の登校に教室内はざわめくが、ユイと拓真は以前と何ら変わらない態度で、揃って菱和に挨拶をする
「はよっ、アズ!」
「ひっしー、はよー」
「‥‥はよ」
何時もと同じ、素っ気ない返事
だが、その表情は何時もと少しだけ違った
その微妙な変化に気付くクラスメイトは、当事者であるユイたちを除いて一人も居なかった
***
昼休み
ユイたちは揃って上田とカナが来るのを待つ
昼食を提げて現れた上田は相変わらずオニキスのブレスレットをチャラチャラ鳴らし、チャラい調子で菱和に話し掛ける
「よー菱和、久し振り!何してたんだよずっと、やっぱサボりー?」
ニヤニヤしている上田の問いに、菱和はこくん、と首を傾げる
「───‥‥‥‥雲隠れしてた」
「‥は??」
眉を顰める上田の頭の上には無数のはてなが浮かんでいる
全ての事情を知っている拓真はくすっと笑い、上田の肩を叩いた
「‥‥まぁ、何でも良いっしょ!早く飯食うべし!」
「‥そだな。移動すっか!」
ユイと拓真、菱和、上田
そして、リサとカナ
6人は、昼食を取りに移動を始める
「あれ‥‥アズ、屋上行かないの?」
旧校舎に到着するも、菱和は屋上への階段を昇ろうとはしなかった
「ん。別んとこ行く」
「へ??」
何時ものように屋上へ向かうつもりでいた5人は、怪訝な顔をして菱和を見た
見詰められた菱和はその意図がわからず、硬直するしかなかった
「‥‥ひっしーさ、ずーっと屋上で昼食ってたわけじゃないんだ?」
「‥‥‥‥冬の間は、流石に」
「───え゙!!!??そうなの!!??」
「うん。だって、寒みぃじゃん」
「‥‥‥‥‥‥」
『当然のこと』と云わんばかりに放たれた菱和の言葉に一番驚いたのは、ユイだった
確かに、菱和は一学年時から旧校舎の屋上で昼休みを過ごしていた
ユイはてっきり、雪も寒さも我慢し一年間ずっとそうしていたのだとばかり思っていた
だが、寒さが厳しくなると流石に屋上では過ごさず、一人になれ、尚且つ暖かい“別な場所”を捜し、雪解けの季節までは“そこ”を使っていたのだった
「‥‥だから『ホールとか教室で食べよ』って云ったのに。あんな寒い中ずっと屋上に居てさ。ほんと、バカみたい。だから風邪引くんだよ、バカ」
「‥‥‥そんなバカバカ云うなよ‥‥」
呆れるリサの横で、ユイは唇を尖らせ萎縮した
拓真と上田は、肩を震わせている
笑いを堪える口元は歪み、今にも噴き出しそうになっていた
「‥‥‥‥くっ、‥‥」
「‥‥いっちー、やめろって」
「‥たっくんこそ‥‥‥‥ぶふっ‥」
「‥‥‥ぶはっ!‥もう無理!!あははは!!!」
「‥俺も無理!ぎゃははは!!ユイ、だっせぇー!!!」
涙を流してゲラゲラ笑う拓真と上田
ユイは堪らず赤い顔をして叫んだ
「笑うなよ!!!そんなん知らんかったもん!!!」
「うん、そーだねそーだね。知らんかったもんなぁ、そんなこと」
「いやー、マジ腹痛てぇ。やっぱ寒いもんな、屋上は」
一同の反応を見て、菱和はきょとんとした
「‥‥‥‥ほんとに、待ってたのか?‥‥んな寒い中‥‥」
「そうだよ。11月入ってからも、ユイくんずっと屋上でお昼食べてたよ。放課後も居たし。ね?」
ユイを慰めるような顔をして、カナは菱和に云った
『あんたが学校来なくても、ユイは屋上に居るの!ずっとずっとあんたのこと待ってんだよ!!それがどういうことか、あんたならわかるでしょ!?』
電話でリサに云われた言葉が、菱和の頭の中を駆け巡った
──────こいつは、何処ででも待ってたんか。‥‥学校でも、俺んちでも
「‥‥‥‥そっか‥‥」
「‥‥云ったでしょ、『バカ』だって」
リサは追い討ちをかけるようにまた『バカ』と云い放ち、溜め息を吐いた
菱和はふ、と口角を上げる
「‥‥‥‥うん。バカだな」
「なっ‥誰のこと待ってたと思ってんだよっ!!」
ユイが待ち続けていた人物
その張本人からも『バカだ』と罵られ、ユイは耳まで真っ赤になる
「──────うん」
菱和は、穏やかに笑った
溢れる感情をそのまま表したような菱和の笑顔に、上田とカナは驚く
「‥‥ありがとな。待っててくれて」
菱和は徐に手を伸ばし、ユイの頭の上にぽん、と置き、穏やかな表情を崩すことなくユイに礼を云った
ゆっくり、優しく、頭を撫でる
ユイは唇を尖らせたまま、もじもじとした
拓真たちは、その光景微笑ましく見つめた
拓真と上田は、今度は嘲笑ではなく安堵の気持ちで軽く笑った
「‥‥じゃあさ、菱和くん、冬の間はどこでお昼食べてたの?去年も、教室にはずっと居なかったよね‥‥?」
ふと、カナが未だ残っている“謎”を口にする
「‥‥‥‥ついてきな」
冬期間を過ごしていたその場所へと案内するべく、菱和は旧校舎の最奥を目指してゆっくりと歩き出した
84 また、明日
翌朝
目を覚ますと、すぐ傍に菱和の顔がある
「‥‥おはよ」
「‥‥はよ、アズ」
徐に伸ばされた大きく無骨な手は、優しくユイの頭を撫でる
「‥‥良く眠れた?」
「うん」
ユイは柔らかく笑み、菱和の胸元に額をくっ付けた
頭を撫でているその手で、菱和はユイを抱き寄せる
気怠い朝の心地好さ
寝惚け眼にも、心から想っていた人の姿がはっきりと写し出される
その人が目覚めの瞬間に隣に居てくれることが、嬉しくて堪らなくなる
好きな人の腕の中で眠ることが出来るなんて、思ってもみなかったこと
優しさに触れる度、“この時間が永遠に続けば良いのに”と願ってしまう
体温計が鳴る
表示は「36.8」となっていた
「アズ、見て」
ユイはドヤ顔をして菱和に体温計を見せた
「だいぶ熱下がったな」
「うん!アズのお陰!ほんとにありがとね!」
「いえいえ。飯も普通に食える、よな?」
「うん!腹減ったー!」
にしし、とはにかむユイ
何時ものユイの顔が、そこにはあった
「‥‥待ってな、今なんか作るから」
菱和はぐしゃぐしゃとユイの頭を撫で、キッチンへ向かった
昨日の朝が粥だっただけに、ちゃんとした菱和の朝餉は初めてだ
炊きたての白米、味噌汁、焼き魚、すり下ろした長芋、法蓮草のお浸し───絵に描いたような和食
立ち上る湯気と香りに、思わず喉が鳴る
「‥‥頂きます!」
「どーぞ」
手を合わせて挨拶をするや否や、白米に豪快に長芋を掛け、大雑把に醤油を垂らして勢い良くかき込む
「‥‥んんんーまぁ!!俺とろろごはんめっちゃ好きなんだー!」
「美味いよな、長芋」
「うん!美味い!!お代わりしたい!」
「どーぞどーぞ」
ユイがいちばん“美味しい”と感じたのは、味噌汁だった
“お袋の味”を彷彿とさせるような、五臓六腑に染み渡る味
“お袋の味”を味わった記憶がないユイだが、『きっとこんな感じなのだろう』と思い、菱和の料理の腕に改めて感動した
昨日までくったりとしていて粥を食べていたとは思えないほどのユイの回復力に、菱和は感心しながら食事を進める
大満足で朝餉を終えたユイは、洗い物をした
食器を洗うのは久し振りだ
結局2日間も菱和の自宅で世話になり、“一宿一飯の恩義”どころの話ではなくなってしまったが、ユイは感謝の気持ちを込めて食器を洗った
***
「これ」
洗い物が終わってソファで一息吐いていると、菱和が衣服を寄越してきた
雨に濡れ、滴るほどびしゃびしゃになっていたロンティーとパーカー、ジーンズ
もうすっかり乾いており、柔軟剤の良い匂いがした
もう、菱和の温もりを忘れることはない
この2日間で、すっかりと馴染んでしまった
だからこそ離れ難くなり、これ以上迷惑を掛けられないと思うも、帰宅するのも躊躇われる
───でも、今日は帰らなきゃ
「‥‥ありがと」
ユイは名残惜しそうな顔で衣類を受け取り、膝を抱えた
「‥‥どした?飯の時と比べたら随分テンション低いけど」
「ん?うん‥‥‥‥、‥‥帰りたくない、なぁ‥‥って」
ユイは素直に今の心境を吐露した
「もう一泊してく?」
「‥‥‥ううん、流石に今日は帰んなきゃ。明日、ガッコだし」
「また泊まりに来れば良いよ。今度は、佐伯も一緒に」
「‥それ、超楽しそう!お泊まり会だ!パジャマパーティーだ!」
「ぱじゃまぱーてー、か」
「うん!ピザとか取って、夜中までトランプとかゲームやりたい!‥‥あ、アズはゲームやる?」
「あんまやったことねぇ」
「そっかぁ。でも、ゲームはやろ!持ってくるから!スマブラ知ってる?超楽しいよ!」
「‥‥‥‥俺のネス、強えぇぞ」
「ぷっ‥‥はは!なんだ、やったことあるんだ!俺のカービィも超強いし!」
「あんな風船のなり損ないみてぇな奴に負ける気しねぇし」
「いやいや!ネスなんか何回でも吸い込むし!」
「何それ、超怖えぇんだけど」
2人は、声を出して笑った
菱和の笑い声が聴けた
何時ものユイの笑顔が見られた
こんな下らない話題すら、嬉しいと思える
今まで知らなかった相手の一面が、次々と現れる
それを見せ、見られること
互いに、その喜びを分かち合った
脱衣所を借りて、ユイは自分の服に着替えた
部屋着を洗濯機に放り込んだところで、キッチンで煙草を喫っている菱和に声を掛けられた
「終わった?」
「‥‥うん。ばっちり!」
ユイは脱衣所から顔を覗かせ、Vサインをしてにこにこ笑った
その顔を見て、菱和はふ、と笑んだ
「‥‥‥‥あ、そーだ。アズの使ってる香水、見てみたかったんだ」
「‥‥そうだったな」
菱和は煙草の火を消し、脱衣所に入った
洗面台の棚の一番上に、10㎝程の小さな筒上の缶ケースがあった
それを手に取り、ユイに手渡す
「これ。開けてみ」
ユイは手渡されたケースをしげしげと見つめた
その名の通り、デニム生地のような柄の小さなアルミ製の缶
黄色い文字で“VERSACE BlueJeans”と書かれており、文字の下には星のマーク
その中央に円があり、ギターを弾くオジサンのイラストが描かれていた
「‥‥‥‥わ」
徐に蓋を開けた途端、何時も香っていた匂いが鼻を擽る
中には、7㎝程の小さな青い小瓶が入っていた
本当に酒のボトルのような瓶だった
やはり、“BlueJeans”と黄色い文字で書かれている
獅子の顔を象った細工が瓶の中央を巡るようにぐるりと施されており、キャップにも獅子の顔があった
「‥ほんと、“めんこい”!」
「だろ。貸してみ」
菱和は瓶を受け取り、キャップを外す
「手首出して」
「手、首?」
「ん」
どういう意図でそんなことを云われたのか全く要領を得なかったが、怪訝な顔をしつつも云われるままに手首を差し出す
その華奢な手首に、菱和は香水を一滴垂らす
瓶を置き、ユイの両手を掴むと、手首の内側を合わせ、ぎゅっと押した
「‥‥擦り合わせてみな」
またも云われるままに、ユイは自分の手首を軽く擦り合わせた
2、3度手首を擦り合わせたのを見て、菱和はその手をユイの項に持っていき、押し付けた
嗅ぎ慣れた匂いが、ふわりと漂う
「わぁ‥‥‥‥‥‥“アズの匂い”だ」
「‥‥“俺の”っていうより、“BlueJeans”の匂いだけどな」
「“アズの匂い”なの!すげぇ、アズになった気分!」
「‥‥何だそりゃ」
「ふふふー。‥‥っていうか、香水ってこうやって付けるんだね。知らなかった」
「体温高いとこに付けると良いらし。肩とか腰に付ける奴もいるみてぇだけど」
「ふーん‥‥豆知識」
「‥‥‥‥どうすか?“初めての香水”は」
「‥‥うん‥‥‥‥初めてがアズと同じので、嬉しい!」
「‥‥そーですか」
満足気に笑うユイを見て、菱和は少し口角を上げた
***
玄関に行くと、ヒーターの傍に置いてあったスニーカーがきちんと揃えてあった
ユイはスニーカーを履き、菱和に向き直った
「ほんとに、ほんとーに、お世話になりました!」
「いえいえ。‥‥そこまで送ってく」
菱和も、すっかり草臥れた自分のブーツを履いた
揃って部屋を出て施錠したところで、菱和はユイに云った
「‥‥‥‥あのさ、」
「ん?」
「‥‥手、繋ぎたい」
「え‥」
「ちょっとそこまで、手ぇ繋いで歩きたい」
「‥‥‥う、うん‥‥」
菱和は徐に手を伸ばした
若干躊躇いつつ、ユイはその手に触れた
触れた途端に、大きな手に包まれる小さな手
ぎゅっ、と握られる自分の手を見て、ユイの顔が赤くなる
菱和は少し口角を上げ、歩き出した
日曜の午後
人通りは少なく、霜月の風が一段と冷たく吹く
雨はすっかり上がっているが、あの雨は本格的な冬への兆しだ
寒さに少し身を震わせると、握られた手にぐっと力が込められる
菱和は何も云わず、ただユイの手を握って歩いた
最寄りのバス停までの、ほんの僅かな道程
菱和の歩みに少し遅れて、ユイも歩く
───大っきくて、あったかいな
手を引かれて歩いているということに少し照れ臭くなるも、その温みに心が綻んだ
バス停が見えると菱和はゆっくりとユイの手を離し、その手をボトムのポケットに突っ込む
「‥‥ありがと」
「う、うん」
「‥‥また、繋いでもい?」
「うん。‥‥嬉しい」
「‥‥そっか」
「‥‥‥‥じゃ、俺行くね!」
「ん。気ぃ付けてな」
「また、明日ね!」
「‥ん、また明日」
穏やかに笑むと、菱和は踵を返して自宅の方へ行った
菱和の姿が見えなくなるまで、ユイはその後ろ姿を見送った
深く息を吸うと、菱和の香水の香りが鼻を擽る
パーカーのポケットをまさぐると、silvitで購入したギターの弦が出てきた
──────まずは、弦張り替えなきゃな
明日から、また何時もの日常が訪れる
何時ものように、拓真やリサ、上田、カナにも会える
明日から訪れる全てのことに、ユイは心が躍った
83 Midnatt Diskussion
「お前、奥行って」
「え?何で‥‥?」
「転がって落ちたらやだろ」
「そんなに寝相悪くないよ」
「どうだか。夕べ、結構蹴られたけど?」
「‥う、そ‥‥」
「‥‥嘘。夜中に肘鉄食らったくらい」
「何だよもう‥‥!」
「良いから早く入れよ。寒い。‥早く“ぎゅっ”てしたい」
「んん‥‥‥‥」
「‥‥よしよし。‥‥‥‥は‥‥‥、‥‥‥あったけー‥‥」
「‥‥アズ」
「ん?」
「ちょと、苦し、い」
「あ、そ」
「‥‥んんっ‥」
「何だよ、やなの?」
「や、じゃない、けど‥‥破裂、する‥‥」
「‥‥心臓が?」
「‥ん‥‥」
「まだ慣れねぇの?」
「んな、昨日の今日ですぐ慣れるわけないじゃん‥!」
「‥じゃあ破裂させとけよ、もう」
「‥‥他人事だと思って‥!」
「他人事だからな」
「‥‥。‥‥、‥でも、‥‥落ち、着く‥‥‥」
「俺も落ち着く‥‥今日もよく寝れそうだわ」
「‥‥。‥、‥‥そういえば、アズ何て香水使ってんの?」
「‥‥ん?“BlueJeans”ってやつ」
「この、匂い、も?」
「ん?」
「枕の、匂い」
「‥‥‥ああ、そうだな」
「ふーん‥‥‥‥なんか、好き。“アズの匂い”って感じする」
「‥‥朝、洗面所見てみ。酒のボトルみたいな青い小瓶に入ってる」
「小瓶?」
「ん。結構“めんこい”よ」
「そーなんだ‥‥‥見てみる」
「うん。‥‥お前は香水つけないの?」
「俺は、何も。拓真とあっちゃんは使ってるよ。拓真は青い瓶のやつ」
「『青い瓶』‥‥。‥情報が少な過ぎる」
「ごめ‥‥俺そういうブランドとか疎くて‥‥‥えと、何だっけ‥‥‥‥ぶる‥がり?」
「ああ、“BVLGARI”の“ブルー”かな」
「多分、それだと思う」
「あれも嫌いじゃねぇけど」
「良い匂いだよね」
「使ってる奴、多いんじゃねぇかな。‥‥あっちゃんは?」
「あっちゃんは、赤い瓶のやつ」
「『赤い瓶』‥‥‥。‥てか、やっぱ赤なんだ」
「赤は“あっちゃんの色”、って感じ」
「ほんとだな。髪もギターも赤だもんな」
「ふふ‥‥」
「‥‥佐伯は何色?」
「拓真は青かな」
「リサは?」
「白、かな」
「‥‥‥‥、俺は?」
「‥‥黒、かな。あ、でも“暗い”って感じじゃなくて、“カッコいい黒”、みたいな‥‥」
「‥‥何だそれ」
「何て云うのかな‥‥‥‥黒って、絶対他の色に染まったりしないから、その‥‥“凛としてる”っていうか‥‥」
「『リントシテル』ね‥‥‥難しい言葉知ってんな」
「む‥‥今バカにしたろ」
「してねぇよ、褒めてんじゃん」
「ほんとにー?」
「ん」
「‥‥、‥‥‥‥じゃあさ、俺は、何色?」
「‥‥黄色か橙、かな」
「‥‥‥んふふー」
「‥‥何だよ」
「俺もギターとおんなじ色ー。なんか、嬉しい」
「‥‥そ。‥‥‥‥あっちゃんのギターって、チョコボンボンの“味”、だっけ」
「ん?‥うん、そう。“甘くて苦い”んだ」
「佐伯は?」
「ラムネ。“シュワシュワー”って」
「‥‥“っぽい”な」
「でしょ?ふふ‥‥」
「‥‥‥‥‥‥ずっと訊きたかったんだけどさ。‥‥俺は、何味なの?」
「‥‥アズは‥‥‥‥」
「‥‥」
「‥アズはね、‥‥‥ミルクティーだよ」
「‥‥ミルクティー‥‥?」
「うん。甘ぁい、よ。凄く」
「へぇ‥‥意外」
「そう?」
「うん。なんか、“辛い”か“苦い”か、とんでもねぇ味なのかと思ってた」
「そんなこと、ないよ。‥‥‥‥兄ちゃんもね、ミルクティーなんだよ」
「‥‥お前の兄ちゃん?」
「うん。アズと兄ちゃんのベースの音は、おんなじ味なん、だ」
「‥‥それもまた意外」
「そう?」
「ん。だって、全く別の人格なのに同じ味って‥‥」
「でも、ほんとにおんなじなんだよ」
「ふぅん‥‥。昨日云ってたのも、それか」
「昨日?」
「寝る寸前まで喋ってたよ。俺が『兄ちゃんと似てる』って」
「ああ、うん。もうあんま記憶にないけど‥‥」
「だろうな。最後の方、寝言みてぇだったし」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥眠い?」
「‥‥‥んーん‥‥」
「無理すんなよ。まだ熱あんだから」
「まだ起きてたい。‥‥アズと、沢山話したい」
「‥‥‥‥別に今日じゃなくても、明日からも、嫌ってほど話せるよ」
「‥‥そうだけど、さ‥‥‥‥てか、アズ眠い?」
「まだ起きてられるけど」
「‥‥‥‥じゃあ、あと一つだけ」
「うん。何?」
「あの‥‥‥‥ありがとね。昨日から、ずっと」
「いえいえ」
「‥‥‥ほんとに、有難う」
「うん」
「‥‥‥‥‥好きに、なってくれて、‥‥‥‥有難う‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥ございます‥‥」
「‥‥くっ‥、‥‥‥」
「なっ、なんで笑うんだよ‥!」
「いや、ごめん。‥‥うん、なんか、可笑しかった」
「ぶ‥‥‥」
「‥‥‥ユイ」
「ん?」
「‥‥俺も、有難う」
「‥‥‥‥うん」
「‥‥いっぱい、いっぱい、ありがとな」
「あ、アズっ‥‥」
「何?また破裂しそう?」
「んんっ‥‥、‥」
「‥‥かわい」
「‥‥‥うぅー‥‥」
「ふふ。‥‥‥‥‥、‥寝るか」
「‥‥うん」
「また明日、沢山話そ」
「‥うん」
「おやすみ」
「‥‥おやすみなさい‥‥‥‥」
82 Sent på natten
久々に同じ曲を奏でた2人
共に演奏するのは、やはり楽しくて仕方がない
早く、メンバー全員で一つの曲を奏でたい
その時間は、近い将来必ず訪れる
ユイは名残惜しみながら楽器を片付け始めた
ギターをクロスで丁寧に拭き、大事そうにケースに仕舞った
「‥‥また今度ね」
にこりと笑ってそう云い、スタンドに立て掛ける
菱和もベースを片付け、ユイの頭をぽん、と叩いた
「楽しかった、な」
「‥うん!またやりたい!」
「そうだな、またやるか。‥‥‥今、身体拭いてやるよ。汗かいたろ、着替えもしてねぇし」
そう云って菱和はユイの手を引き、リビングへ促す
ユイはそわそわしつつ上に着ているものを全て脱ぎ、ソファに座った
菱和は着替えを持ってきて、ソファの傍らに置いた
水面器に少し熱めの湯を張り、タオルを浸して固く絞ると、ゆっくりとユイの背中を拭き始めた
細く色白の肌は、まだ熱が残っているのか少し火照っているように見えた
見た目よりもずっと小さな背中が、そこに在った
この身体で、只管自分を待ち続けていたユイ
今度からは、絶対にそんなことはさせない
“護りたい”と、今一度強く思う
「お前、ほんと小せぇな」
「う‥‥‥、‥余計なお世話だよっ」
「すいませんでした」
「俺にしてみればアズとかあっちゃんの方がおかしいよ。何だよ、180㎝って。化け物だよ、化け物」
「‥‥化け物って。‥お前は幾つあんの?」
「168、だったかな。最近は測ってないけど」
「‥‥まぁ、でかけりゃ良いってもんでもねぇしな」
「そうそう、チビはチビなりに良いこともあんだよ!」
「例えば?」
「え?う、うーん‥‥‥えーとね‥‥‥‥‥」
「‥‥ま、良いや。何でも」
「‥‥む‥」
「‥‥‥どっちにしても、俺よりでかくなくて良かった」
「何で?」
「めちゃくちゃ抱き締め易いから」
「‥‥‥‥‥‥」
気化熱で、身体が冷える
それでも、ユイの体温は平熱より高めだ
熱の所為なのか、菱和に云われた言葉の所為なのか、将又その両方なのか───
自分が裸の身体を晒していることが、余計に恥ずかしくなってくる
そんなユイの気持ちを知る由もなく、菱和は首回りや腋、腕、腰回り、全て丁寧に拭いていく
一度濯ぎ絞ったタオルを、ユイに手渡した
「前は、自分でやんな」
「う、うん‥‥」
「‥‥何だよ、俺がやっても良いの?下も全部脱ぐことになるけど?」
「自分でやります」
「遠慮すんなよ。タオル貸してみ、早く脱ぎな」
「自分でやります!!」
「あっそ。‥‥終わったら全部ここに置いといて良いから。俺シャワーしてくるわ、も少し待ってて」
「‥‥うん、わかった」
受け取ったタオルをくしゃくしゃにして赤面するユイを残し、菱和は脱衣所に向かった
菱和がシャワーを浴びている間、ユイは清拭の続きをした
用意して貰った部屋着に着替え、洗濯物と洗面器、タオルを洗面所に下げに行く
洗濯機の側に、ユイのパーカーとジーンズが畳んで置いてあった
───‥‥寝てる間に、洗っててくれたのかな。そういえばスニーカーもヒーターの側に置いてあった‥‥‥‥
シャワーの流れる音が聴こえる
浴室をちらりと見て、ユイはリビングに戻った
ソファに凭れ掛かるように座り、すっかり冷えてしまったホットかりんを一口飲んだ
昨日からずっと、至れり尽くせりだ
食事も清拭も体調管理も、自分がこの部屋に入った瞬間から、全てに於いて菱和は手を抜いていない
『好きだから』という理由だけでここまでさせてしまっていることに、何だか申し訳ない気持ちになる
じゃあ逆に、自分は菱和に何かしてあげられるだろうか
自分には、何が出来るだろう───?
───アズがシャワーから上がってきたら、そんな話でもしてみようか‥‥‥‥
夕食時に飲んだ風邪薬が効いてきたのか、ユイはソファに凭れたままふらふらと船を漕ぎ出した
***
ふと目を開けるとテレビの画面が眩しく、軽く目を擦る
「‥‥んー‥‥‥‥今何時だろ‥‥」
「‥‥1時半」
「───ぅわっ‥‥っ!!」
直ぐ横から菱和の声
ユイは思わず跳ねるように身を起こした
シャワーから上がった菱和はユイを起こすのも忍びないと思い、部屋の灯りを最小限にして深夜に放送している洋画を観ていた
ユイの膝には、毛布が掛けられている
「一緒に寝たい」と自分から云っておきながら、ソファどころか菱和にも凭れ掛かって寝ていたユイ
恥ずかしさに、また顔を赤らめた
「‥‥‥‥ごめ、ん、アズ‥‥俺‥‥‥」
「んーん」
ソファの前に置かれているテーブルに、灰皿がある
菱和も手持ち無沙汰で、キッチンから灰皿を持ってきていたようだ
無愛想に返事をし、煙草の煙を吹かす
音もなく、ただ垂れ流され続ける洋画
字幕を目で追い、何やら必死の様相の俳優をぼんやりと眺める
ユイはちらりと菱和を見た
怠そうにソファに凭れ掛かり、煙草を咥えている
───怒らせちゃったかな‥‥
ユイは軽く深呼吸をし、菱和に話し掛けた
「アズ、あの‥‥」
「ん?」
「ごめん、ね。寝ちゃって」
「別に」
「‥‥‥‥これ、何てやつ?」
「知らねぇ。点けたらやってたから、ただ流してるだけ」
「‥‥、そっ‥‥か」
それ以上、会話が続かない
これ以上何を話せば良いかわからなくなり、ユイは困ったような顔をした
ふと、肩に重みを感じる
菱和の方に顔を向けようとすると、大きな肩が凭れ掛かってきた
長い黒髪が、さらりと頬に流れてくる
「アズ‥‥?」
「‥‥‥‥眠てぇ‥‥ベッドまで運んで」
「え‥‥お、俺じゃあ無理だよ‥‥‥」
「‥‥じゃあここで寝る」
「駄目だよ、寝るならベッド行こ?」
「‥‥‥‥何その台詞。‥‥誘ってんの?」
「ちっ、違うよ!!」
「‥‥‥あっそ‥」
菱和は、軽く笑った
「怒って、ない‥‥?」
「‥‥何が?」
「先に、寝ちゃったこと‥‥」
「‥‥そんなこと気にしてたの?」
「‥‥、うん‥‥」
「怒ってねぇよ。んなことくらいで怒んねぇよ」
「そ、っか‥‥てか‥何で、起こさなかったの?」
「‥‥ん?‥‥‥‥可愛かったから」
「‥‥何が?」
「寝顔」
「‥‥‥‥‥」
ユイはまた顔を赤らめた
寝顔は何度か見られているが、やはり恥ずかしくて堪らなくなる
菱和は照れるユイの頭をぽん、と軽く叩き、優しく笑った
「‥ベッド行くか。一緒に寝るんだろ?」
「‥‥うん」
煙草を火消しに挿し、立ち上がる
テレビを消し、ユイの膝に掛けていた毛布を携え、寝室へと促した
81 GUITAR KIDS
菱和は鍋の材料と一緒に買ってきたホットかりんをマグに淹れ、ソファに座るユイの前に置いた
「お前は休んでな。起きてても良いし、もう寝ても良いし。なんかあったら呼べよ」
「‥‥ありがと。‥‥‥‥あの‥」
「‥‥‥ん?」
「‥‥‥‥また、一緒に、‥寝たい‥‥」
「‥‥云われなくてもそのつもりだったけど?」
「‥!‥‥‥」
「‥‥待ってな、直ぐ終わらすから」
「‥‥‥うん」
まだ熱はあるが、動けないほどしんどいものではない
だが、テレビを観る気にもなれず一気に手持ち無沙汰になる
ユイは、楽器が置いてある部屋に入った
菱和がメインで使っている白いボディのベース
その隣には、ギグケースに仕舞われたもうひとつのベースと、ソフトケースに入っているであろうギターがスタンドに立て掛けられている
ソフトケースには、黒いボディに白いピックガードのストラトが入っていた
エリック・クラプトンが使用しているものと同じシェイプとカラーだ
徐にケースから出し、ギターアンプにシールドを繋いだ
チューニングをしてみると、然程狂ってはいなかった
ユイは胡座をかき、軽く爪弾き始めた
***
家事を進めていると、ギターの音が聴こえてきた
菱和は手を止め、音のする部屋を覗いた
小さな背をこちらに向け、部屋の隅でギターを弾くユイの姿があった
切なげな、哀愁漂う高音域のアルペジオ
指板を滑る、指の音
メロディラインの鼻歌を重ね、無我夢中でギターを爪弾くその後ろ姿を、見守る
サビらしきところに入ると、アルペジオからストロークへと奏法が変わる
正確にコードを押さえながら、ユイは半ば陶酔しながらストロークを刻む
トーン、と、最後の一音が間延びする
その音が途切れたところで、ユイはずしりと背中に重みを感じた
気付けば、後ろから菱和に抱き締められていた
ユイの体温が、ぐっと上がる
「───‥‥ア、ズ‥‥‥‥」
「‥‥‥‥なんて曲?」
「‥‥、前に俺が、作った、曲‥‥」
「ふーん‥‥‥。‥良いな。“ユイっぽい”」
「そ‥‥かな。‥‥ごめん、勝手に触って」
「なんも。俺全然ギター触ってないから、たまにいじってやって」
「うん‥‥‥」
ユイの顎の直ぐ下に、菱和の大きな腕がある
ユイは指板を押さえていた手をその腕へと添え、袖を軽く引っ張り、頬を腕に乗せた
───何だ今の。可愛い、な
菱和はくす、と笑った
「‥‥な、今の、歌詞あんの?」
「ん?うん‥‥一応、あるけど‥‥‥」
「‥‥じゃあ、もっかい聴かして」
「え‥‥」
「詞があるなら歌えよ」
「ええー‥‥」
「何だよ、良いじゃん。減るもんじゃなし」
「ん‥‥そうだけど‥‥‥恥ずかしい‥から‥‥」
「今更何云ってんだか‥‥‥。‥何なら俺も弾くよ。それなら歌ってくれる?」
「う、うん‥‥」
「じゃあ、コード教えて。ルート拾うから」
菱和は名残惜しそうに身を離し、ベースの準備を始めた
その傍ら、ユイは曲のエピソードを話し出す
「サビまで、ギターだけなんだ。だから、演ってもライヴ映えしないかなーと思って、お蔵入りにしようと思ってたやつで」
「ライヴで演んなくても、皆で演れば良いんじゃねぇの」
「うーん‥‥‥‥一応拓真にもあっちゃんにも聴かしてるんだけど、皆があんま楽しくないんじゃないかなー、って‥‥」
「俺は気に入ったよ。すごく」
「‥‥そぉ?」
「うん。歌詞も気になるし」
「歌詞は‥‥‥‥ほんと、適当に宛てただけだから‥‥」
「日本語?」
「ううん。英詞。あっちゃんに、『詞は自分で付けろ』って云われて‥‥‥‥。辞書引っ張り出して、徹夜で書いた。めっちゃ頑張ったよ」
「‥‥‥そっか」
「わ、笑わないで、ね?」
「‥‥笑わねぇよ」
「ん‥‥じゃ、いきまーす‥‥」
ユイは、心のままに綴った詞を歌った
淋しい夜を、何度も過ごしてきた
でも、誰も恨んではいない
幾度となく朝と夜を迎え、ちっぽけな自分に気付く
それでも、自分の周りには沢山の人が居てくれる
それに気付いたとき、回遊病のように彷徨っていたこの心は真に落ち着き、在るべき場所に還る
素直な心が綴った歌は、聴く者の耳へと真っ直ぐに届く
バンドのオリジナル曲は、主にアタルが作詞作曲している
アタルのセンスは折り紙付きだが、ユイにもそれなりのセンスを感じる
アタルが作ったものはアタルにしか、ユイが作ったものはユイにしか無いものが沢山ある
ユイが作った曲には、何処か憂いを帯びている印象があった
それでも菱和は、ユイがその想いの丈を綴った曲を大切にしたいと思う
上手く重なるかどうか見定めつつ、菱和はユイが歌うメロディラインに自分の声を重ねる
サビのストロークにも、ベースの音を重ねた
綺麗にハモる、2人の声と楽器の音
ユイはゾクリとした
今までも、菱和のベースが自分達の音に乗ることで悪寒が走ることはあった
だが、今までと今現在とでは、互いの想いは少し違っている
クラスメイトから友達へ
友達からバンドメンバーへ
バンドメンバーから、想い人へ───
まるで自分の全てを包み込むように、優しく穏やかに奏でられるベースの音
悪寒は何時の間にやら遠退き、心の底から安らかになっていく
いつまでも、同じ音楽を一緒に奏でていけたら良いな───
その想いだけは、2人同じだった
80 微熱
散々ベッドでだらだらした後、2人は漸く起き上がり、食事を摂ることにした
「‥‥‥‥、やっぱでかかったな」
「ん?何?」
「その部屋着」
ベッドに腰掛けているユイを見て、菱和は苦笑いする
夕べ着せた自分の部屋着のサイズがあまりにも合っていない
まるで、“着せられている”ようだ
「ああ‥‥。でも仕様がないよね、アズと俺じゃ全然体格違うもん」
ユイも苦笑いし、袖を少し捲った
菱和は思った
今のユイの姿は、『彼氏の家にお泊まりし、彼氏の寝間着を借りて寝た彼女』のよう
俗にいう、
───何だっけ‥‥“彼シャツ”‥?“彼パジャマ”?っぽい
「ん?」
「‥‥‥梅粥だったよな」
「? うん‥」
「‥‥りょーかい」
「お願いしま、す。‥‥‥‥?」
菱和は“邪念”を取り払うとぱっと顔を逸らし、足早にキッチンへと向かった
出来上がった梅粥には紫蘇の葉が散らされており、条件反射によって自然と唾液が分泌される
テーブルには梅粥の入った器が、2つ
そのうちの一つは菱和の手に、もう一つは菱和の前にある
「‥‥アズもお粥食うの?」
「ん。足りなかったらまたあとでなんか食うし。‥‥‥‥ほい、“あーん”」
蓮華に軽く一掬い
息を吹き掛けてある程度冷ました梅粥は、真っ直ぐユイの口元に差し出された
いつかの昼休み、ユイが菱和に唐揚げを差し出したときと同じような状況
唐突に差し出された蓮華に吃驚し、更には“あーん”を促され、ユイは顔が熱くなった
「‥い、良いよ!自分で食えるから‥‥」
「遠慮すんなって、ビョーニン」
「や、もう微熱だ、し」
「‥‥お前の“微”熱は38度もあんのか」
「そ、そうだよっ‥‥」
「そ。‥‥まぁ良いや、“あーん”して」
「ん‥‥なんか、‥‥ちょと恥ず、かし‥‥」
「‥ついさっきまで散々“これ”以上のことしといて、今更恥ずかしいも何もねぇだろ」
菱和は協調しながら蓮華をすっとユイの前に出し、意地悪そうな顔をした
「‥‥!!‥それはそうだけどっ‥‥‥さっきは、今よりまだ少し熱あったし‥」
「‥‥‥‥熱の所為にすんのか」
「いや、ちが‥‥だから‥‥‥」
「“あんなこと”よか飯食わして貰うことの方が恥ずかしいなんて、結構大胆なのな。‥‥実はお前の方がよっぽど経験豊富なんじゃないの?夕べの『ベロチュー』といい、なーんか先が思い遣られるわ」
「んなっ、違うって‥‥!‥‥もぉ‥からかうなよっ!」
ユイは恥ずかしさに居た堪れなくなり、両手で顔を覆った
恋愛に関しては滅法ビギナーなユイをからかってしまったことに少し反省し、菱和は器と蓮華を一旦置いた
「‥‥‥‥‥さっきさ、なんで何も云わないでずっと抱き締められてたの?」
「‥、そんな、の‥‥云わなくてもわかるだろ‥‥っ」
「わかんねぇよ」
真摯な眼差しに、顔を覆っていた手が自然と落ちてくる
「思ってることは口に出さねぇと何も伝わんねぇよ。人の心の中は、誰にもわかんねぇんだから。‥‥お前の場合特に、何も云わなくてもわかるときもあるよ。‥でもやっぱ、お前の口からちゃんと聞きたい」
とっとと口に出してりゃあ、もっと早く色んなことに気付けてたんだろ
お前も俺も遠回りしてた
もう遠慮なんかしねぇ
もうそんなことする必要はねぇ
───‥‥だから云うよ、俺も
「‥‥‥俺は、いつものお前がいちばん好き。佐伯もリサも、きっとそうだろ。‥‥だから大人しくこれ食って早く元気になれ。治るまで、しっかり面倒見るから」
菱和は笑み、また蓮華を持ってユイに差し出した
やはり、菱和と自分とでは菱和の方が『ずっと大人だ』と思えてならない
いちいち緊張したり動揺することなく、揺るぎない優しさで全てを受け止めてくれる
『思ってることは、口に出さないと伝わらない』
菱和なら、自分の気持ちなど手に取るようにわかるかもしれない
ただ単にユイの口から『好き』だと云わせ、からかいたいだけなのかもしれない
だとすればただの意地悪だが、そんな一面を見せてくれることも“嬉しい”と思える
「‥‥‥‥アズ」
「ん?」
「‥‥俺、も‥‥‥‥アズが好き、だよ。何回も、“ぎゅっ”てしてくれて、‥‥嬉しかっ‥た」
赤面し、辿々しく自分への気持ちを口にするユイ
舌っ足らずな子供のよう
それでも、菱和にとっては嬉しい言葉だった
「‥‥ちゃんと伝わった。‥ありがとな」
「‥‥うん‥‥‥。‥頂きます」
「どーぞ」
ユイは顔を真っ赤にしたまま、菱和が差し出した蓮華に漸く口を付けた
ユイのペースに合わせるように、口へと運ばれてくる蓮華
じんわりと胃を癒す、梅粥
今までも風邪を引けば粥を食す機会はあったが、菱和の気遣いもあってか、口にした粥は風邪などあっという間に消え去ってしまいそうだと思えるほど美味に感じた
***
食事を終えると、菱和はユイをソファに座らせ、リビングに毛布を持ってきて膝にかけてやる
食器の片付けを終え煙草を一本吹かした後、怠そうにユイの横に座った
ユイは一息吐く菱和をちらりと見て、膝に掛けてある毛布を菱和の膝にも掛けた
その様子を見て、菱和は柔らかく笑む
「‥‥ありがと」
ユイの頭を優しく撫で、そう云った
今、この時、自分だけに向けられている菱和の笑みが嬉しくなり、ユイははにかんだ
すぐ隣にいる、大切な人の体温
“怪我の功名”ならぬ“風邪の功名”で、心理的にも物理的にも一気に距離が縮まった2人
想い想われることがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった
ただ傍に居るだけでこんなにも落ち着ける人がすぐ近くに居てくれたことに、感謝の気持ちが沸いてくる
拓真とリサがアパートを訪れる寸前まで、2人はその悦びを噛み締めた
***
「‥久し振り!」
「‥‥‥‥、どーぞ」
開け放った玄関のドアから、ポカリの入った袋を提げた拓真が顔を覗かせた
その隣には、仏頂面のリサが居た
「‥‥いらっしゃい」
「‥‥‥‥お邪魔します」
菱和と目を合わすことなく、リサは歩みを進めた
「ほんとに、ほんとーに、すみませんでした」
ユイと菱和は正座し、テーブルに向かいに座る拓真とリサに深々と頭を下げる
「ぶっ‥‥ははは!何なの2人して改まっちゃって!」
「‥‥ほんと、揃ってバカなんだから」
拓真は噴き出し、リサは唇を尖らせた
「‥‥マジでバカなことした。迷惑かけて、すまない」
「そこまで自分のバカさ加減がわかってんなら、もう良い。ユイも、思ったより元気そうだし」
「ほーんと。『39度』とか聞いたからびっくりしたわー。ユイ、なんか食ったの?」
「うん。さっきお粥食わして貰った」
「‥‥なんか食ってくか?」
「良いよ良いよ、も少ししたら帰る。ここにユイ置いとけば何も心配要らんし、2人で居たいしょ?」
「‥‥さっきまで散々堪能してたから。‥‥夜も一緒に寝るし」
「なっ‥‥も、変なこと云うなよ‥‥!」
慌てふためくユイに反し、菱和は恥ずかしげもない様子
アンバランスな2人に、拓真はくすくす笑った
「そーお?じゃあ、なんか御馳走になろっかな」
「ん。何食いたい?‥‥っつっても、買い出し行かなきゃなんねぇんだけど‥‥」
「そんなら俺、買い物付き合うよ」
拓真と菱和は早々に出掛ける準備をした
「好きなもん摘まんだり飲んだり、適当にしてな」
「ユイのこと頼むなー」
リサにユイを託し、部屋を後にした
***
「ユイのあの様子じゃ、ちゃんと気持ち伝えられたみたいだなー」
「‥‥ん。伝わった」
「‥ひっしーも?」
「ん。伝えた」
「そっかー。っていうか、ひっしーも“そうだった”んだって、俺、リサの鬼電まで全く気付かなかったよ」
「‥‥案外わかんねぇもんなんだな」
「ほんとねー。まぁでも、ひっしーだから尚更わかんなかったのかも。で、ユイはすぐわかんじゃん?だから結構ハラハラしてたんだよね、実は」
「そっか‥‥」
「‥あー、でもなんか今、無性に嬉しい!もうなんか、ふっつーに祝福したい!」
「‥‥どーも」
「ご存じの通り変ちくりんでKYな奴だけど、ユイのこと宜しく頼みます」
「いえいえ、こちらこそ。‥‥っつうか、佐伯たちの方があいつと付き合い長いし、力になってもらうことあるかもしんねぇ。‥あと、あんま気ぃ遣わないで欲しい。‥‥2人になりたくなったら、勝手にどっか連れてくから」
「‥ははっ!‥‥うん、わかった。ユイの扱いに困ったら遠慮なく云ってよ、何時でも」
「‥‥助かる」
「ふふ。‥あ、そーだ。あっちゃんには、黙っとく‥‥よね?」
「‥‥‥‥いや、機会があったらちゃんと云うわ」
「‥多分、あっちゃんは気にしないと思う。偏見とか全く無いから。俺も気にしてないし。ってか寧ろ嬉しいし。変にギスギスしてるよりオープンにしてる方が気分良いしね」
「‥‥‥‥、ほんと、このバンド最高だわ」
「ん?‥‥んふふー」
***
「はい、忘れ物」
「お、さんきゅー!」
「ケータイ忘れるとか、ほんとバカ」
「‥‥‥ごめんなさい」
「‥‥ちゃんと、伝えられた?」
「うん。伝えたよ」
「‥‥そう」
「ごめんな、色々心配かけて」
「全くその通り」
「ん‥‥」
「‥‥でも良かった、ほんとに。‥‥伝えるだけでも大変だったんだろうけど、受け入れられたんなら尚更良かった」
「‥‥‥‥もし伝わらなかったとしても、『俺にはリサと拓真が居る』って思ったら、それだけで元気になっちゃった。‥‥俺、ほんと恵まれてる!」
「‥‥じゃあ、いっぱい感謝してよね。私、“PANACHE”のクレープ食べたいんだけど」
「お、良いねー!奢る奢る!3個くらい奢る!風邪治ったら、皆で食いに行こ!」
「‥‥1個で良いよ。ポカリ飲む?」
「‥うん!」
***
大きめのサミット袋を提げて、拓真と菱和が部屋に戻ってきた
ユイの体調と今日の寒さを考慮し、4人で鍋を囲むことになった
ざくざくと切られた野菜や茸類
鱈の切り身や小さめのロールキャベツ、水餃子を入れ、蛋白質も欠かさず取り入れる
味付けはシンプルに塩のみ
擂り身や肉類から程よく出汁が出て、良い具合に仕上がった
様々な旨味が沁み、じんわりと身体を温める
「あー、なんか良いねー。寒い日には鍋だな、やっぱり」
「拓真、豆腐取って」
「あいよー」
「この辺、まだ火ぃ通ってねぇから」
「わかりー。頂きまーす。‥‥はー、うんまぁ」
「出汁、結構出てるね。美味しい」
「擂り身がさ、良い仕事すんだよ」
「ほんとだな、鶏ごぼうだっけ?俺も今度うちでやってもらお」
菱和はユイが食べ易いようにくたくたになった野菜や豆腐を取り分け、梅粥のときと同じように蓮華を口元に持っていく
「‥‥‥‥“あーん”は?」
「‥もう、自分で食えるったら‥‥!」
当然のことのように差し出された蓮華に、ユイは赤面した
「遠慮しないで食わして貰えばー?」
「‥‥‥‥拓真の意地悪」
「照れない照れない。早く食えよ、マジで美味いよ?」
「‥‥‥ん」
湯気が立つ鍋、食欲を唆る薫り
ユイは観念し、梅粥同様、菱和に食べさせて貰った
***
「‥‥なんか、良かったよな、色々」
「そうだね」
「多分、8割くらいはリサの『バカ』のお陰なんじゃないかな?」
「だって、バカでしょ。2人とも」
「辛辣だこと‥‥‥。ま、あとは見守っていきましょ」
「‥‥うん」
落ち着くところに落ち着き、一安心───拓真とリサは幼馴染みの幸せを心から願い、帰宅の途についた
79 FEVER④
カーテンの隙間から薄暗い光が差し込む
上がりかけている雨粒が屋根に落ちる音が聴こえる
肩の辺りに重みを感じ、ユイは目を覚ました
何度か瞬きをした
菱和が横で眠っている
肩の重みは、菱和の腕だった
夕べ、互いの気持ちを伝え合った後、ユイは菱和の腕の中で眠りに就いた
夕べのことを思い出すと照れ臭く、今自分の横で眠っている菱和を見ると、心が擽ったくなった
───睫毛が長いなぁ
暫く顔を見つめていると、菱和が低く唸り、ゆっくりと目を開けた
「‥‥‥‥んー‥‥」
「おはよ、アズ」
「ん‥‥はよ‥」
いつもより低く嗄れた菱和の声
徐に伸びた手は目を軽く擦り、ユイの頬に触れる
「具合‥どう?」
「うん、‥‥だいぶいい」
「‥そっか‥‥」
まだ半開きの菱和の目が、少し細くなった
「‥‥‥眠みぃー‥‥起きたくねぇー‥‥‥‥」
「あ、アズっ‥」
ぎゅっ、と、ユイを抱き締める大きな腕
ユイの鼓動が高鳴り出すと、菱和はぼそりと呟いた
「───お前、あったかくて気持ちいい」
「‥‥そう?」
「‥ん。お陰で熟睡どころか爆睡出来た」
「‥‥昔から体温高い方なんだ、俺。今は熱あるから余計かもしんないけど」
「‥‥そっか」
腕を緩め、菱和はユイの顔を覗き込んだ
「‥‥食欲あるか?」
「うん、まぁまぁ」
「普通に食えそうか?それとも粥にする?」
「‥じゃあ、お粥食べたい」
「梅と卵、どっちがいい?」
「‥梅」
「だよな。‥今作る」
ぽん、とユイの頭を軽く叩き、菱和は布団から出ようと体を起こした
「っ、待って」
「ん?」
「‥後で良い」
ユイは菱和を呼び止め、腕を掴む
「‥‥?」
「‥も少し、このまま‥‥‥‥」
寝起きの脱力感
眠気の残る頭
いつまでもだらだらとしていたい、心地良い朝の気だるさ
そして、互いの温もり
きっとこの先も思う存分味わえるのであろうが、特に今は───
「‥ああ、うん」
菱和は優しく笑い、また布団に入り込んだ
「夢じゃないよ、ね」
「ん?」
「‥‥俺、今、‥アズと一緒にいるよね」
嬉しそうにそう呟くユイを見て、菱和は意地の悪い顔をした
「‥‥ほっぺ抓ってやろうか?」
「‥!‥‥いいよ、そういうのは!」
「遠慮すんなって、ほら」
「してないから!何で朝から意地悪なんだよっ」
「朝とか夜とか関係あんの?」
「‥知らないよっ」
ユイは菱和に背中を向けた
夕べのことは、夢か幻だったのだろうか
いや、違う
気恥ずかしさの残る心と身体が、ちぐはぐになっているだけだ
軽く咳払いをすると、背後から菱和の声が聴こえた
「‥‥ユイ。‥ゆーい」
「‥‥‥‥‥‥っ‥───」
呼びかけてもこちらを向かないユイを、後ろから抱き締める菱和
後頭部に菱和の息が伝わった途端に、顔が熱くなる
鼓動は早く鳴りっぱなしだった
「‥‥ユイ」
「な、に?」
「お前、抱き心地よくて気持ちいい」
「‥‥そう、なの?」
「ん。気持ちいい」
「そぅ‥ですか‥‥」
極度の緊張状態に陥り、何故か敬語になってしまう
「───リサにも云われたけど、“ちゃんとする”」
「‥‥、んん?」
「‥‥もうあんな顔させねぇから」
「えっ‥‥、と」
ユイは漸く振り返った
「‥ほんとに初めてなんだ、こんな気持ちになったの。お前の顔、ずっと忘れらんなかった。‥‥ごめんな。沢山心配かけて」
全て自らの言動が引き起こしたこと
その後悔はあまりにも大き過ぎた
今こうして傍に居られることに、相手の有り難みを感じずにはいられない
謝罪の言葉に、ユイはふ、と笑った
「‥‥‥んーん。‥結局、あんとき云ったことは嘘だったんだよ、ね?」
「‥‥、嘘と云えば嘘、かな。わりとマジな部分もあったけど」
「‥‥‥そう、なの?」
「もうあんな下らねぇこと思ってねぇしこれからも思わねぇ、ぜってぇ」
「‥‥だったら良いよ、もう」
ゆっくりと目を閉じ、ユイは菱和の胸に顔を埋めた
菱和は遠慮なく、その身体を抱き締める
ユイの頭を優しく撫でながら、慈しむように髪を梳く
「‥‥‥‥、なんかそれ、落ち着く‥‥」
「‥‥そう?‥‥ほんとはさ、ずっとこうしたかった」
“ずっとこうしたかった”
それは、何時からかなのか
「‥‥‥てか、いつから‥想ってくれてたの?」
「いつから‥?んー‥‥‥‥。‥‥覚えてねぇや」
「何それ?思い出して!今すぐ思い出してよ!」
「覚えてねぇもんは覚えてねぇんだよ」
気恥ずかしさを隠すように、菱和はユイを抱く力を込める
「‥‥‥‥嘘吐いたくせに」
「‥何だよお前、結構根に持つタイプ?案外底意地悪りぃな」
「嘘吐いた罰だよ!それなりに傷付いたんだから!」
「お前だって胸倉掴んできたろ。超怖かったんですけど?」
「‥‥嘘吐いたアズが悪い」
「あっそ‥」
「‥‥‥‥、‥嫌いになっ、た?」
「‥んなわけあるかよ。ばーか」
菱和はユイの額に軽くデコピンをした
唇を尖らしながら額を擦るユイの顔は、次第に笑顔になる
何時もの、ユイの顔
今度は、独りではなく、願わくば拓真やリサの力も借り、いつまでも“護りたい”と、そう思った
「‥取り敢えずさ、俺がこうしたいとき身体提供して。‥‥なんか癖になるわ、これ」
そう云って長い溜め息を吐き、菱和はまたユイを抱き締める
この短時間だけで、一生のうちの幾つ分鼓動を打ったのだろう
この“想い”を、手離さなくて良かった
そんなことを思いながら、2人はだらだらとベッドに寝転がり、互いの体温を確認した
78 FEVER③
まだ夜も明けない頃
雨は若干小降りになっていた
ユイはふと目を覚ました
身体は怠く、頭はぼーっとしている
───あ。風邪ひいてんだ、俺
関節に鈍い痛みを感じ身体を伸ばすと、肘に何かがぶつかる
寝返りを打つと、肘を枕にしながら気だるそうにしている菱和の顔が目の前にあった
「‥おはよ」
「ぅわっ‥アズ‥‥!!」
───あ、そうか俺‥‥夕べアズが介抱してくれたんだ‥
こんな時でさえ至れり尽くせりだったことを思い出し、ユイは驚きと共に畏縮した
「‥具合どう?」
菱和はユイの額を触りながら尋ねた
その手が触れると、ドキリとする
「あ‥うん‥‥」
「熱は少し引いたみたいだな」
「‥‥アズ、もしかして寝てないの?」
「少し寝たよ。‥‥今肘鉄食らって目ぇ覚めた」
「あ、ごめ‥‥‥‥てか、何で一緒に寝てるの‥?」
「何でって、うちベッドひとつしかねぇもん」
「それは知ってるけど、さ」
「何だよ」
「2人じゃ狭いじゃん。それに、一緒に寝たら風邪移しちゃ───」
ユイが全ての言葉を云い終わる前に、菱和は身体を起こそうとしたその腕を掴み、無理矢理布団に押し沈めた
「良いから寝ろ、風邪っ引き」
「う‥ん‥‥‥」
図星を突かれたユイは、大人しく菱和のいう事を聞いた
ちらりと横を見ると、肘を枕にして目を閉じる菱和がすぐ隣にいる
暗順応により、菱和の顔が目視出来るようになってきた
「‥風邪、移っちゃうよ?」
菱和はゆっくり目を開け、ユイの頭を撫でて笑った
その笑みに心が鳴り、ユイは熱ではなく別の理由で体温がじわりと上がるのを感じた
「俺丈夫だから、風邪なんか移んねぇよ」
「‥‥わかんないじゃん、そんなの」
「‥ま、じゃあ移ったら移ったで看病して」
菱和は意地悪そうにそう云って、笑った
───あんな機敏に動けないよ‥‥俺ひとりじゃアズをベッドに運ぶことも出来ないし‥‥
そんなことを思い、ユイは口唇を尖らせた
「───お前さ、さっき喋ったこと、覚えてる?」
「‥さっき?」
「ん、寝る前に喋ったろ」
「‥‥?」
「‥“友達としてじゃなく特別な何とか”、ってやつ」
菱和に告白したことを思い出し、ユイはまた身体が熱くなるのを感じた
恥ずかしさが募る毎に、より布団に潜り込む
その様子を見て、菱和はくすっと笑った
「何、照れてんの?」
「‥‥‥んん‥」
「‥‥なぁ。あれってさ、ほんとの話?」
「‥嘘云ってどうすんだよ」
「いや、熱に浮かされて云ったんかなーと思って」
「違う、よ。頭は冴えてたから‥」
「ふぅん‥‥。じゃあ、本気にして良いの?」
「う、うん‥本気、だよ」
「そっか。じゃあ、もっかい聞かせて」
「へ?」
「もっかい」
「‥‥‥‥、病人いじめんなよ」
「いじめてねぇ。確認だよ、カクニン」
「‥‥‥、‥‥」
菱和は心底意地の悪そうな顔をしていた
ユイは困惑し、また口唇を尖らせた
「‥‥さっき云ってくれたじゃん、“好き”って。‥やっぱ、熱の所為で変なこと口走った感じ?」
「違う、よ!ほんとにす───」
穏やかに、真っ直ぐと、菱和の瞳がユイを捉える
その眼差しに、吸い込まれそうになる
出かけてしまった言葉を飲み込むことも出来ず、ユイは尻すぼみに残りの言葉を発した
「───き、だよ‥‥」
「‥‥、よく聞こえなかった。やり直し」
「───アズっっ!!」
「‥何だよ」
───もう、恥ずかし過ぎてまともに顔見れないよ!
澄まし顔の菱和に対し、ユイは羞恥で熱くなった顔を隠すように頭から布団を被り、ボソリと呟いた
「‥‥嫌い」
「‥あ?」
「嫌いだよ、アズなんて」
「‥あっそ」
突っ慳貪な返事をすると、菱和は仰向けになった
ぎ、とベッドが軋み、ユイの身体も揺れる
───冗談だとでも思ってるんだろきっと。からかってくるアズが悪いんだ、アズが‥‥
そうは思いつつも、菱和から素っ気ない返事以降何もリアクションがないことに少し不安になり、布団から顔を覗かせた
横を見遣ると、菱和と目が合う
何か云いたげなユイに、菱和は目を細めた
「‥‥何だよ」
「‥‥‥‥ごめん。今の、嘘」
「‥何じゃそりゃ」
「恥ずかしいんだよ、今更だけど」
「ふふ‥ほんと今更な」
「‥‥‥てか、迷惑じゃ‥ない?」
「何が?」
「その‥‥‥“好き”‥って、云ったこと」
「何で?全然」
「‥‥、そう‥」
「───俺もお前と同じだからさ」
何が同じなのか、分からない
ユイが少し首を傾げると、菱和はその仕種に笑み軽く息を吐いた
「‥‥‥‥お前はちゃんと云ってくれたけど、俺はまだだったな」
そして頬杖をつき、ユイの方を向く
「‥好きだよ、お前のこと。‥‥“友達としてじゃなく特別な好き”、な」
ユイの瞳を真っ直ぐ捕らえ、菱和は優しく笑みながらそう云った
ユイは目が点になった
暫し目を瞬かせる
「‥‥‥‥、ほんと、に‥?」
「ん。ほんと」
「‥‥‥んなこと云って、またからかってんじゃ‥」
「いや、至ってマジだけど」
「‥‥俺に合わせてくれて、とかじゃなくて?」
「‥そこまで親切じゃねぇよ、俺」
菱和はくすくす笑った
まさか意中の相手が自分と同じ気持ちを抱いているとは、思いも寄らないこと
菱和を疑うのも気が引けるのだが、ユイにはまだ実感が沸かないでいた
「───嘘じゃ‥な、い?」
「うん」
「ほんと、に‥‥?」
「うん」
「‥‥そう‥思っちゃって良い、の?俺、自惚れちゃうよ‥」
「自惚れ?上等じゃん。お前、さっき“本気にして良い”って云ったろ。だから俺も本気で云った。‥『お互い同じ気持ちだった』ってことで良いんじゃねぇの」
「ん、‥でも、なんか、何ていうか‥その‥‥」
目も合わせられず、もじもじするユイ
「───ユイ、おいで」
「え‥‥“おいで”、って‥?」
「言葉だけじゃ信用してねぇっぽいから態度で示そうってだけ。ほら、ここ来な」
菱和は布団を広げて、ユイを自分の胸元に呼び寄せた
ただでさえ至近距離
これ以上近付けば心臓の音までバレてしまいそうな気がした
「なっ、なん‥‥信じてないわけじゃないけど‥」
「なら早く来いよ」
「で、でも‥‥」
「‥はぁやぁく」
急かされたユイは『ままよ』と思い、菱和の胸にとん、と額をつけた
「‥‥よしよし」
腕枕される形になると、菱和は布団を掛け直した
頭に、菱和の顎が当たる
熱と緊張、ふんわりと香ってきた菱和の香水の匂いに、頭がくらくらしそうになる
「‥‥めっちゃ、緊張する‥」
「俺もだよ、ばーか」
「‥え‥‥‥アズでも、緊張するん‥だ」
「たりめぇだろ。好きな奴が至近距離にいんだぞ。あんま余裕ねぇよ、俺だって」
「好きな、奴‥‥‥」
口ではそう云うが、緊張している様子など全く感じられない
反面、“好きな奴”という言葉に、ユイの鼓動は只管早く打ち続けている
「‥‥余裕無いついでなんだけどさ、ちょっと良い?」
「え?な───」
ぼそりと呟いた言葉に返事を返す隙もなく、ふわりと鼻を擽る香水の香り
肩に、背に、身体に伝わる体温
背中に回る、大きな腕
“抱き締められている”と自覚するのに、さほど時間はかからなかった
「んんっ‥‥ちょっ‥」
「何だよ、嫌?」
「や‥ちが‥‥けど、だって」
「何?」
ユイには予想外過ぎる行動だった
一気に顔が熱くなり、思わず両手で菱和の胸を押さえ付ける
徐に顔を覗き込まれ、更に戸惑う
「こ、困る‥」
「困る?」
「ん‥どうしていいかわかんない」
「‥‥どうもしなくて良いよ」
ユイは手を退けられ、再度菱和に抱き締められた
恥ずかしさに耐え切れず抵抗してはみるものの、熱のせいもあってか体が思うように動かず、弄ばれている気分だった
『どうしていいかわからない』という思いも『どうもしなくて良い』とあっさり打ち消され、胸の高鳴りに息苦しさを覚える
「‥‥もおぉ‥‥‥‥死に、そ」
「は?何で?」
「苦し‥‥ヤバいって‥っ!」
「あ、何?」
菱和が手を緩めると、ユイは手で顔を覆い、身体を強ばらせ、ひたすら困惑していた
「‥大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよっ、も‥心臓破裂するっ!!」
肩で息をするユイを見て、菱和はく、と笑った
「‥別に良いよ、破裂しても」
「良くないよ!俺慣れてないんだから、こういうの‥!」
「そりゃ俺もだから」
「‥は‥‥‥、‥っても、全然そんな風に見えないよ、アズは‥」
「‥‥‥どういう意味だよ?」
「いや、だから‥慣れてそう、ってか‥」
「慣れてねぇっつんだよ。俺もこんなことすんの初めてだから」
「そ‥‥なの?」
「ん。つか今一瞬過ぎて感触とか何も分かんなかった。もっかいやらして」
「や‥で、でもさ、‥心の準備ってやつが‥‥」
「知っかよそんなもん。別に捕って食ったりしねぇから。‥‥‥‥もっかい、“ぎゅっ”てさせて」
そう云って、菱和は腕を広げる
『“ぎゅっ”てさせて』
優しく云い放たれたその言葉は、ユイの思考回路を完全にバグらせた
最早熱の所為なのか緊張の所為なのかもわからなくなった身体の暑さをどうにかしたいという思い
不思議と『抱き締めて欲しい』という思い
交錯するユイを急かすように、菱和は隙間をぽんぽん、と叩いてくる
「‥‥お邪魔します」
「どーぞ」
ユイは、困惑しながらも菱和に身を預けることにした
先程のように額をくっ付けると、菱和はユイを抱き寄せる
自分の心臓の音が耳障りでならない
バクバクなり続ける鼓動に耳を塞ぎたくなる
ぎゅっと目を閉じ、何とか心を無にしようと試みたが、所詮は無駄な足掻きだった
緊張でガチガチになった小さな背中を、菱和はゆっくりと擦った
「ほんと、慣れてねぇのな」
「何だよ、悪い?」
「別に。俺もだし」
「‥嘘だ、そんなの」
「嘘じゃねぇし」
「じゃあ、何で、こんなこと‥‥」
「云ったろ、『余裕ねぇ』って。我慢出来んかった」
「‥‥そういう、もん?」
「好きだったらしたくなるもんなんじゃねぇの。少なくとも俺はそうなんだけど‥‥っつーか、この期に及んでそんなんどうでも良くねぇ?」
「わかんない‥よ」
「そっか。じゃあ、俺もわかんねぇ」
「だから、『わかんない』なんて絶対嘘だろ‥!」
「嘘じゃねぇっての。疑り深い奴だな。あんまりしつけぇとちゅーしちまうぞ」
菱和は若干苛ついたようにユイの顎を掴み、顔を近付けた
ユイはまた慌て出す
「べっ、ベロチューなんて無理無理!絶対無理!」
「‥‥いつ『舌入れる』っつったよ」
「え‥違う、の?」
「っつうか、しても良いなら今“ベロチュー”するけど。良いの?」
「なっ‥まっ、まだ!俺にはまだ早いっ‥‥!」
更に顔を近付けてくる菱和をガードするように、ユイは両手で顔を塞いだ
そのあまりの慌てように、菱和は噴き出した
「‥くっ‥ふふ‥‥‥そうなの?」
「んん、ん‥‥もぉ、そうじゃなくて‥‥っていうかやり方わかんないし!」
「じゃあ一回やってみりゃ良いだろ。“習うより慣れろ”って云うじゃん」
「あっ、アズは出来るかもしんないけど、俺はまだ無理なのっ!」
「‥わかったわかった。悪かったって。まだ早いのな。‥‥おいで、ユイ。何もしねぇから」
「‥‥ぅうー‥‥‥‥」
唇を尖らすユイの目が、少し潤んでいる
菱和はくすくす笑ってユイの頭をぽんぽん、と叩いた
『何もしない』という言葉を信じることにしつつも、ユイは不安そうに菱和の胸に戻った
「‥な、さっきのもっかい云って」
「な、に?」
「“好き”、って」
「え、な‥‥も、もう云ったじゃんっ」
「また聞きたい」
「えー‥ぅうー‥‥‥‥好、き‥だけど‥‥」
「なんて?」
「も‥からかうなよ‥‥!」
「‥かわい」
くす、と笑う菱和
ユイをまた抱き締める
さっきよりも、力を込めて
「‥あったけー‥‥」
珍しく無防備な声
菱和の腕の中にいる安心感に、どんどん心が満たされていく
ユイは力が入らないなりに、漸く自ら菱和に抱きついた
「アズ‥」
「‥ん?」
「‥‥、好き」
「ん。‥‥俺も好き」
「ありがと、アズ」
「‥こちらこそ」
2人は顔を見合わせ、笑った
───あったかい‥アズの匂いがする
布団や枕から香る菱和の香水の匂い
それは今隣にいる菱和本人からより強く香り、同時に菱和の体温も感じる
“一緒に居る”という実感が、より増していった
「‥なんか温くて眠てぇ。‥‥寝るか」
「‥うん」
ユイは菱和にすり寄った
ほぼ無意識だったその仕種が堪らなく可愛く感じた菱和は、子供をあやすようにユイの背中をとんとん、と叩いた
心地好いリズムと大きな掌の感触に、ユイは安堵の中で眠りに就いた
「‥おやすみ」
空が少し明るみ始めている
車の走る音と未だ降り止まない雨音が、微かに夜明け前の部屋に響いていた
77 FEVER②
「さ、今日はもう寝ろ。どうせ明日から連休だし、治るまでここにいて良いから」
菱和はユイの頭をぽん、と叩き、布団に入るように促した
ユイはもぞもぞと布団に入り埋まる
「ほんとごめんね、こんなことになって」
「謝るなら明日佐伯とリサに云えよ。あいつらぜってー心配してんぞ」
「‥‥‥‥てか俺、ケータイ忘れて出てきたんだよ、そういえば」
「‥‥ばーか」
「どうせバカだよ」
「悪り。知ってる」
「何だよもぉ、アズだってリサに『バカ』って云われたんだろ!俺と同じだよ!」
「うわー‥‥‥‥傷付いた」
「‥俺だって傷付いてるし!」
「そ。んじゃ、早く寝ろ」
「ん‥」
「なんかあったら呼べよ。俺まだ起きてるから」
「あ、アズ」
「ん?」
「‥‥‥俺が寝るまで、ここにいてくれない‥?」
「‥‥わかった」
菱和は優しく笑い、またベッドの脇に座って寄りかかった
手の届く距離に菱和がいるということを改めて実感し、ユイはほ、と息を吐いた
「‥アズ」
「ん?」
「アズって、兄ちゃんに似てるかも」
「‥お前の兄ちゃん?」
「うん」
菱和はベッドの脇に頬杖をつき、ユイの話を聞いた
「どの辺が?」
「んー‥‥よくわかんないけど、似てる‥気がする‥‥」
「何だよそれ。‥‥‥お前の兄ちゃんって、どんな人?」
「んーとね‥‥頭が良くて、クールな感じ。でも優しんだ、凄く」
「‥ふぅん」
「性格は似てないけど、顔は似てるってよく云われるんだよ。兄ちゃん眼鏡かけてるんだけど、俺も眼鏡掛けたら兄ちゃんそっくりみたい」
「‥‥‥‥ちょっと見てみたいかも」
「あ、写メ見る?‥‥‥って、今は無理、だけど‥‥」
「そうだな。今は無理だな。ケータイ無いもんな」
「んん‥‥。‥、ほら。やっぱ似てる」
「ん?あぁ、兄ちゃんと俺が?」
「うん。兄ちゃん、いっつも俺の揚げ足とるから‥‥」
「‥‥それは兄ちゃんじゃなくても同じだと思うな」
「う‥‥‥‥」
「‥他に何かある?兄ちゃんと俺が似てるとこ」
「‥‥ベースの音も、似てるよ」
「へぇ‥どの辺が?」
「‥ん?‥‥‥‥だってね、アズのベースは‥‥兄ちゃんと同‥じ‥‥‥‥ミ‥ク‥‥ティー‥‥‥‥───」
言葉が途切れ、代わりに寝息が聴こえてきた
菱和はユイが眠ったのを見て安堵し、寝室の電気を消した
取り敢えず拓真に報告をと思い、携帯を取りにリビングへ向かった
携帯には数件の着信があった
拓真からだ
最後の着信履歴は、ほんの数十分前
時刻はあと数分で日付が変わる頃だった
深夜の電話は迷惑かもと思いつつ緊急事態ではあるので、菱和は拓真に折り返し電話をした
電話はすぐに繋がった
『あ、ひっしー!?良かったぁ、やっと繋がった!』
「音消してた。悪い」
『んにゃ、良いんだけどさ。あのさ、ユイ知らない?雨ん中どこほっつき歩いてんだか‥‥携帯も部屋に置きっぱなしだし』
「‥‥、うちにいるよ」
『‥え、マジ?』
「ああ、熱出して寝てる」
『熱って‥なんで』
「俺のアパートの前でずっと待ってたみてぇで。上から下までビッチャビチャだった」
『そっか‥‥‥‥もう、バカだなーほんとに!』
「‥‥否定はしねぇわ」
『ぷっ‥‥‥ふふ、だよね』
「‥‥今寝たとこなんだ。結構酷いから、今日はうちに泊める」
『酷い?熱が?』
「ん、39度あった」
『‥39度!?あーったくもうあいつは‥‥‥‥そっかそっか、了解。もし良かったら、明日様子見に行って良い?』
「ん。‥あ、ポカリ買ってきてくれると助かる」
『ポカリね、おっけー。取り敢えず、ユイのこと頼むわー』
「───‥‥佐伯」
『ん?』
「‥‥‥‥迷惑かけてごめん」
『全っ然!気にしない気にしない!ひっしーはひっしーなりに何か考えてたんだもんね?ユイが治ってから、みんなで話そう』
「‥‥、ああ」
ユイだけじゃなかった
佐伯もとっくに自分を受け入れてくれていた
そんなことはずっと前から分かってた
自分があれこれ考えていたことを、その時間を、佐伯も理解してくれていた
“みんなで話そう”
「‥‥頗る良い奴過ぎだな、お前らは───」
菱和は自分の事を想ってくれる友達への本音を呟くと、最小限の灯りの下、煙草を喫い始めた
76 FEVER①
暫く無人だった室内は、すっかり冷えきっている
部屋に入ると、菱和はタオルでユイの頭を拭き、濡れている服を脱がせて、自分の部屋着を着せる
ヒーターをつけてユイをベッドに寝かせると体温計をユイの腋に挟み、「寝てろ」と云い残して寝室を出た
───相変わらず器用だな
部屋に入ってからベッドに運ばれるまでの動きがあまりに機敏なことに、ユイは朦朧としながらも感心した
風邪薬を捜しにリビングへ向かった菱和
薬を見つけると部屋着に着替え、冷蔵庫の中に具合の悪い人間でも食べられそうな物はないか物色し、序でにキッチンで煙草を喫い始めた
予想外の出来事ではあったが、寒空の中数時間も人を待たせ、結果的に風邪をひかせてしまったことに少なからず罪悪感が募っており、溜め息混じりに煙を吐いた
ユイはぼーっと天井を見つめていた
思ったよりも体が怠く、熱のせいで暑いのか寒いのかもわからない
布団や枕からふんわりと、菱和のつけている香水の香りがした
微かに煙草の匂いも混じっている
───‥‥‥‥アズの匂いがする
会いたくても会いたくても会えなくて思いあぐねいていたが、やっと会えた
体の具合は絶不調だが、菱和に会えた、一緒にいるという喜びが、ユイの心を満たしていた
「───もう鳴った?」
菱和は水の入ったコップと薬を持ち、寝室に戻ってきた
もうとっくに報せの音は鳴り止み、ユイの腋に挟まったままの体温計を手に取ると、呆れた視線を寄越す
「‥39度2分」
「あ‥アズ‥‥ごめん、ね。俺、平気だから‥‥」
「いいから寝てろ」
身体を起こそうとしたユイは菱和に制止され、布団をかけ直された
溜め息を吐き、菱和はベッドの脇にどたりと座り込んだ
髪を掻き上げ、ユイを一瞥する
「‥‥‥アホかお前は」
「う、ん‥アホだよね、ほんと‥」
「マジで、な。‥‥俺が帰ってこなかったらどうする気だったんだよ」
「それでも待ってたよ。会えるまで、ずっと」
───こいつなら、やりかねないな
「‥そうか」
菱和はくす、と笑った
「‥‥会いたかったんだぁ‥アズに」
顔色が悪いながらもにこりと笑いながらそう呟くユイ
菱和にまた罪悪感が募る
「‥悪かった」
「なに、が?」
「風邪引かせちまって」
「ううん、だいじょーぶ‥」
「‥‥水飲むか?」
「‥うん」
菱和はベッドの脇に座ってユイを起こし、肩を支えてコップを手渡した
ユイは水を飲むついでに手渡された薬も飲み、ほ、と一息吐く
そして、弱々しい声で話し出した
「‥‥‥‥あの、ね、アズ」
「‥‥ん?」
「俺ね、色々考えてたんだ」
菱和はコップを受け取りテーブルに置くと、ベッドに座り直した
「‥‥‥うん。何?」
「アズと同じクラスになって、友達になって、仲良くなって、一緒にバンドもできて‥‥嬉しかったよ」
「うん」
「だから、アズが居なくなっちゃって、‥‥すげぇ淋しかった」
「うん」
「俺‥‥俺ね、アズのこと、好きだ。友達としての好きとはちょっと違う‥ってか、“それ以上の特別な好き”っていうか‥‥‥‥上手く云えないんだけど、多分そう‥なんだ」
「‥うん」
「‥‥だからね、アズと一緒にバンド続けたい。‥またみんなで一緒にやりたい」
「うん」
「アズと‥一緒に居たい」
「うん」
「‥‥‥それだけ、伝えたかったんだぁ‥」
菱和はユイの一言一言にただ頷いていた
顔色が悪いながらも何時もの調子で笑むユイに、溜め息を吐く
「‥んとにアホだなお前は‥‥そんなこと云う為だけに風邪引きやがって」
ユイは力なく「うん」と云い、頭を垂れる
「だって‥顔見てちゃんと伝えたかったんだもん‥‥来週まで、待てなかった‥‥。ここで待ってたら、早く会えるんじゃないかと思って‥‥‥へへ」
高熱を出してまで自分を待ち続け、気持ちを吐露したユイ
『友達ごっこ』などと云い放ち、ユイたちを拒絶し遠ざけていたことを、菱和は酷く後悔した
自分の決断がもう少し早ければこんなことにはならなかったかもしれないと思うと、今までの行いに無性に苛ついた
一度自覚してしまったら、いつまで経っても“想い”を断ち切ることが出来なかった
伝えたくても、伝わるわけがないと思っていた
“普通”であって、“普通”ではないから
互いに、ずっと“そう”想っていた
知らなかった
ただ、今はより一層
愛おしくて、堪らない───
相手がぶつかってきたなら、こちらもぶつからないわけにはいかない
これからのことを憂いても仕様がない
菱和も、自らの想いをぶつける決心をした
「───‥、もう、わかったから」
「アズ‥?」
「‥‥俺も少し、話して良い?」
「うん‥」
「悪かった。マジで」
「平気だよ、これくらい」
「‥熱のことだけじゃねぇ。ずっと露骨にお前らのこと避けてたろ。沢山連絡くれてて、わざわざ実家にまで訪ねてきてくれたってのに」
「‥‥ん‥」
「‥‥‥‥俺も考えてた。お前らと一緒に居て良いのかなって。そんな資格あんのかな、って」
怪訝な顔をするユイに笑いかけ、菱和は続けて話した
「───怖かった。ずっと」
菱和が恐怖感を覚えるとは、露程も思えない
どういうことなのだろうかと、ユイは首を傾げる
「‥怖い?‥‥何で?」
「大事なんだ。もうずっと前から大事なものになってたんだよ。お前も、佐伯も、あっちゃんも、リサも、バンドも全部」
「‥‥大、事‥」
「うん、すげぇ大事。傷付けたくねぇんだ‥傷付いて欲しくねぇんだ、お前らには。でも俺が関わるようになってから何度か危ねぇ目に遭わしちまってるし、このままじゃいつまで経っても同じだって思った。それなら、『俺が消えるしかねぇ』って結論になった」
「そんなの、俺ら何とも思ってないよ。アズと一緒にバンド出来ない方が、ずっと嫌だ‥‥」
「わかってる、もうわかった。お前らが俺を受け入れてくれてることはもうずっと前からわかってた筈なんだ。ただ、俺に覚悟がなかっただけだ」
「覚悟?」
「ん。‥‥お前らと一緒にいる覚悟」
そう云って、菱和は真っ直ぐユイを見つめた
「もう、お前らからも自分からも逃げねぇ。バンドも辞めねぇ。また誰か殴っちまうかもしんねぇし、迷惑かけることもあると思うけど、これから先、何があってもお前らのことは必ず護る。約束する」
約束事が、どんどん増えていく
でも、もう、決して破りはしない
だから───
「‥‥‥‥だから‥、‥‥『だから』っつーのも変な話だけど‥‥‥‥俺、またお前と一緒に居て良い?」
菱和の言葉に心が暖かくなるのを、ゆっくりと感じる
「‥‥駄目って云うと思う?」
ユイがいつもの無邪気な顔を見せると、菱和は首を傾げた
「‥駄目か?」
「ふふ、んなわけないっしょ!」
天真爛漫なユイの笑顔が弾ける
その顔を見て、菱和も笑った
「‥‥ありがとな、ユイ」
「ん?」
「我妻から聞いた。俺のこと“待ってる”って」
「ああ、うん。てか、店長に色々話しちゃった‥‥ごめん」
「いや。‥っつうかもっと早く帰って来るべきだった。そしたら風邪引かせずに済んだかもしれねぇのに‥‥ごめんな」
「んーん。結果的にアズに会えたから、良いんだ」
「‥‥お前、ほんと良い奴な。我妻も云ってたけど」
「‥店長が?」
「うん。お前ら蔑ろにする俺が悪い、ってさ。ほんとだよな」
「ふふふ。‥‥‥‥俺も聞いたよ、アズのこと」
「‥‥何て?」
「アズは、昔は口が悪くて生意気な不良だった、って」
「‥‥の野郎、んなこと云いやがったのか」
「でも、真面目だからちゃんと話せば伝わる、遠慮しないで話しておいで‥って。やっぱ、店長がいちばんアズのこと良く知ってるね」
「‥まぁ、付き合い長いしな‥‥」
「‥‥店長が背中押してくれなきゃ、俺こんな風に自分の気持ち伝えられなかったよ‥‥あ、あとリサも」
「リサ?」
「うん。話したんでしょ?」
「あー‥‥‥‥説教された」
「へ?アズが?」
「ん。『バカ』ってさ」
「‥‥そういや俺もリサに『バカ』って云われたよ」
「‥‥‥‥なんか、ほんとバカみてぇだな。ふたりしてリサと我妻にお節介焼かしちまって」
「‥‥‥‥くっ‥ふふ、ははは!なんか可笑しいね!」
「‥‥ほんとな、参るわ」
2人は顔を見合わせて、笑った
2人を見守り、説教までかましてくれた友人がいることに惜しみない感謝をした
一頻り笑い、ユイはその笑顔を菱和に向ける
「‥おかえり、アズ」
“おかえり”
菱和の耳に谺するユイの声
───そっか
「‥‥、ただいま」
菱和は柔らかく笑み、返事をした
頑なにならず自分自身に素直でいれば
少しでも相手に甘え寄り掛かっていれば、もっと早くこうしていられた筈なのに
それでも、気持ちを伝えるのは容易ではなく、「叶わぬ想い」だと思い込もうとしていた2人
随分と遠回りしてしまっていたが、相手も自分も気持ちを吐露した今───互いに互いを想い合っていたということを知り、それ以上2人が傍に居られない理由は何も無かった
75 Waitin' ⑤
silvitを後にしたユイは、晴れ晴れとした気持ちで帰宅を急いだ
来週、アズが学校に来る
今までの“想い”を、打ち明けられる
その結果がどうであれ、アズの顔が見られるなら何だって良い
アズに会えるなら、何だって───
菱和に会えるという喜びに、自然と笑みが零れてきた
そしてふと、立ち止まる
そういえば、アズはどっちの家から来るんだろう?
学校に近いのはアパートの方だから、実家にいたとしてもこの週末を使ってアパートに帰ってくる‥かな
それなら、もしかしたら今日にも帰ってくるかもしれない
‥‥もし、もし今、アパートに行ったら、アズに会えたりするかな
来週まで待とうと思ってたけど、何だか待てそうにない
待ち惚けでも良いや、きっとアズはアパートに帰ってくる───
逸る気持ちは、最早抑え切れない
ユイは、菱和のアパートへと足を向けた
アパートの電気は点いていなかった
まだ帰ってきていないのか、それとももう眠ってしまったのか
自宅に携帯を忘れてきたお陰で、今の時刻がわからない
もう、いっそのこと日曜日までここで待とうか
待つことは、苦じゃない
アズに会いたい
ここで待ってれば、きっと会える
びっくりさせちゃうかもしれないけど、早くアズに会いたい
会えたらまず、何を話そう
話したいことが、沢山ある
お礼を云いたい
謝りたい
アズの声を、沢山聴きたい
顔を見て、話したい
ちゃんと、“好き”だと伝えたい
ユイはアパートの入口にしゃがみ込み、菱和を待つことにした
「───‥‥あ、‥‥‥」
頬に一粒、雨が落ちてきた
次第にぱらぱらと降り注ぐ雨粒は、直ぐに止むようなものではなさそうだった
生憎、アパート周辺には雨避けになりそうな場所がない
ユイはパーカーのフードを深く被り、蹲って霜月の雨風に耐えた
***
繁華街の外れを彷徨いていると、ポケットに突っ込んだ携帯が着信を報せて震える
『っていうか、今どこにいるの?』
菱和は辺りを見回し、目に入ってきた建物の名前を呟いて電話を切った
「‥‥‥ラブホ」
『え?ちょっ───』
我妻の返事も待たず通話をぶった切り、携帯をポケットに仕舞った
「‥‥あのお節介」
憎まれ口を叩くも、お節介を焼かせてしまったのは自分の失態だ
何を意固地になっていたのか、リサに『バカ』と一蹴されるとどうでも良くなってしまった
そして、お節介な我妻からの電話は、菱和の背中を更に一押しした
来週学校に行かなければ、今度こそリサに殴られる
殴られるのは痛い、痛いのは嫌だ
きっと、今まで食らったどの一撃よりも痛いのではないかと思う
ただ、今度も殴られずに済みそうだ───
「──────‥‥雨かよ」
ぱらぱらと、雨粒が落ちてきた
自宅アパートまでは、まだ少し距離がある
菱和は溜め息を吐き、最寄りのコンビニでビニール傘を買った
雨足は次第に強まり、11月の空気を一層冷たくする
時刻は日付を越える一時間ほど前
少し足早に、アパートまでの道程を歩いた
怠そうに傘をさす菱和は、自宅を目前にして立ち止まった
アパートの前に、蹲る何かを見つけた
暗くて良く見えないが、恐らく人だ
目を細めてみると、よく見えないながらも見慣れたパーカーとスニーカーが目に入った
まさかとは思ったが、蹲る小さなそれに歩み寄る
しゃがみ込み、ずぶ濡れの小さな体に持っている傘を差し、声を掛けた
「‥‥ユイ‥?」
ユイは、聞き覚えのある低く嗄れた声にはっとして顔を上げた
目の前には、いつもの無表情で自分の前にしゃがみ込んでいる菱和の姿があった
菱和の髪や肩が、僅かに濡れ始めていた
「‥‥‥、アズ‥」
「お前‥何で」
「‥アズ───」
ユイは菱和に抱きついた
その拍子に、菱和の手から傘が落ちる
無我夢中で菱和に抱きつくユイは、すぐに安堵の表情を浮かべる
「会いたかったんだー、アズに」
びしょ濡れの小さな身体と、自分を掴んで離さない手
『会いたかった』という言葉
菱和は胸が苦しくなった
「‥‥ユイ」
「会え、て‥良かっ‥たぁ‥‥」
全ての言葉の云い切る前に、ユイはずるずると崩れ落ちた
咄嗟に菱和が支える
「おい、ユイ」
「‥あはは、どうしたんだろお、れ‥‥力、入んない、や‥へへ」
額に手をやると、異常に熱い
上から下までずぶ濡れの状態で寒空の中にいたユイは、風邪をひいたようだった
菱和を待ち屋上で過ごしてきたことも要因としては充分だったが、追い討ちをかけるように降り注ぐ雨はあっという間に小さな身体を風邪に冒した
「‥まえ、熱‥‥」
「だ、いじょぶだ、よ‥‥アズと‥話が、したくて」
「話?」
「うん‥‥」
「‥あとにしろ、とにかく中入れ」
菱和はユイを半ば引き摺りながら、アパートに入っていった
74 Waitin' ④
金曜日
ユイはこの日も、昼休みと放課後を屋上で過ごした
日一日と、寒さが増しているように感じる
もう少しで期末テストがやってくる
勉強もギターも、何も手につかない
今の自分を見たら、菱和はどう思うだろうか
『バカみてぇ』と云って、呆れた顔をされるだろうか
待ち続けることは、苦ではない
きっと菱和は、決断する
その答えを、自分は待ち続ける
今は、孤独でありませんように───
そんなことを、強く願った
陽が落ちかけ、ユイは溜め息を一つ吐き、帰宅することにした
陽が落ちると、より寒さが増してくる
帰宅途中に吐いた息は、白くなった
しんと静まり返った部屋に、いつも以上に孤独感に苛まれる
久々にギターを弾こうと、準備をする
大好きな、黄色のレスポール
兄の尊から貰った、大切な宝物
この楽器のお陰で、自分は菱和との縁が出来た
ここ暫く触っていなかった所為か、指がもたつく
それでも、ずっと弾き続けてきた指先は固くなり、もう痛みなど感じない
何とか感覚を取り戻そうと、我武者羅にギターを弾く
「───いってぇっっっ!!」
突然、1弦が切れた
バチンと切れた金属の細い弦が指に当たり、持っていたピックは弾かれて床に転がった
「ああもうっっ‥‥!」
苛ついたユイは、ギターをベッドに投げ捨てた
スプリングで跳ねたギターから、微かに金属音が響いた
「───‥‥‥‥」
ギターに八つ当たりするとは、自分はよっぽど重症なのだと実感する
こんなことをしても、ただ空しいだけなのに
“恋患い”とは、何というものなのだろう
何も手につかなくなるくらい、その思考を狂わせる
こんな思いをするくらいなら、いっそ忘れてしまった方が───
───出来ないよ、そんなこと
「──────‥‥ごめん。痛かったよな」
ユイはギターを抱え、抱き締めた
誰かが階段を昇ってくる音がした
軋む音が止み、私服のリサが部屋のドアを開ける
「───リサ」
「‥‥なんて顔してんの、あんた」
今にも泣き出しそうな子供のような目
云い様の無い不安に駆られる顔
縋るようにギターを抱え、すっかり小さくなっている
ユイのこんな顔、見たくない───
「っバカっっっ!!!!!」
菱和にぶちまけたように、リサはユイにも同じ言葉をぶちまける
ユイは驚き、飛び上がりそうになった
「もうバカ!!!あんたら2人ともバカなんだよっ!!!」
「は‥!?な、なん‥‥」
リサは吃驚したまま吃るユイを一瞥し、溜め息を吐いた
「‥‥は‥‥‥‥バカ過ぎて笑える。ほんとバカ」
謗ることを止めないリサに、ユイはむっとする
「‥知ってるよ!わかってるよ!俺だって自分がバカなことくらいっ‥‥」
「この大バカっ!!いつまでもうじうじすんなっ!!」
「なっ‥‥じゃあどうすれば良いんだよ!!皆で待つって決めたんだよ!もうそうするしかないじゃんか!」
ユイは菱和に会えない苛立ちを、リサは互いにどうしようもない勘違いをしているユイと菱和に
2人は、ストレスをぶつけるように怒鳴り合った
今までの長い付き合いの中で、これほど云い合いをしたのは意外にも初めてのことだった
暫しの睨み合いの後、リサは息を吐いた
「───もう、そんな必要ないよ」
「‥‥?‥‥何、それ」
「‥あいつなら来週から学校来る。ちゃんと、自分の気持ち伝えなよ」
「え‥‥」
「鬼電したら出たよ。大丈夫、ちゃんと約束したから。‥もし破ったら、今度は私があいつを殴るから。‥‥‥‥だから、もうそんな顔しないで」
そう云って、リサは穏やかにユイを見る
こんなリサの顔を見るのは、久し振りだ
何とも云えない安心感が、ユイの心を落ち着かせた
拓真にもリサにも、多大な心配をかけた
自分には特別な幼馴染みが2人もいる
例え菱和に想いが届かなかったとしても、拓真とリサはきっと傍に居てくれる
何の根拠もないが、そんなものは必要ない
互いを想う絆は、確かに此処にある───
リサは、ユイが抱えるギターに手を伸ばす
少し重いレスポールを携えた
「‥‥弦が切れたギターは、可哀想だよ。張り替えなきゃ」
ユイの大好きな黄色のレスポール
まるで生き写されたように、ユイに似た“音”を出す
大切な宝物、大切な相棒
ほんの一瞬でもギターを粗末に扱ってしまったことに、ユイは胸がチクリと痛んだ
「‥‥‥‥そうだな。‥‥俺、弦買ってくる」
ユイは顔を上げ、笑顔でリサを見た
その顔は、いつもの天真爛漫なユイだった
「‥‥、いってらっしゃい」
リサは穏やかな表情のまま、階段をかけ降りるユイを見送った
***
スタジオ経営も行っているsilvitの閉店時間は深夜近く
特に急ぐ必要もなかったが、ユイは足早にsilvitへと向かった
時間を確認しようとポケットをまさぐったが、携帯が見当たらない
思えば、机の上に置きっぱなしだった
───‥‥まぁいっか、弦買ったらすぐ帰れば
携帯がなくて不便なことといえば、時間がわからないことと、大事な電話に出られないこと
後者は少し困るが、どうせすぐに帰宅すれば良いと思ったユイは、携帯のことなどどうでも良くなった
来客を報せるベルの音に気付き、我妻はドアの方を見遣る
「いらっしゃい‥‥あら、ユイくん」
「店長、こんばんは」
「珍しいね。今日は一人なの?」
「ああ、うん。拓真もあっちゃんもバイトで、今日は個人練習の日。‥‥でも弦切れちゃって」
「また1弦かい?よっぽど沢山弾いてるんだよねーユイくんは」
「‥俺の取り柄、ギターしかないから!」
そう云って、ユイはにこっと笑った
「えーと、D'Addarioだよね」
「うん、レギュラーライトで」
「おっけー。バラの1弦、おまけしとくね」
「アリガト、店長!」
我妻は弦のコーナーを物色してお目当ての弦を手に取り、ユイに手渡した
レジを打ちながら、ユイに尋ねる
「ところでさー、ユイくん」
「あ、はい?」
「最近、アズサちゃんどうしてる?」
バンドを休んでいる菱和は、silvitにも顔を出していないようだった
「‥‥俺も知らないんだ。学校にも、来てないから」
「え、そうなの?どのくらい?」
「3週間‥‥4週間、くらいになるかなぁ」
「‥そんなに?」
「‥‥‥うん」
「‥‥ふーん‥‥‥‥」
会計を済ませたユイは、直ぐに帰るつもりが結局店内を物色して歩いた
壁一面に飾られた“ASK”と書かれたギターたち
キラキラと照明に照らされ、新しい飼い主が現れるのを待ち侘びる
一度足を踏み入れれば、絶対に離れ難くなる
それが、楽器屋だ
「飲む?俺の奢り」
我妻は、ギターを眺めていたユイに梅サイダーを手渡す
「あ、どうも!さっすが店長、頂きます!」
「ユイくんそれ大好きだもんね。あ、適当に座んなよ。もう店閉めちゃうから」
「え‥‥良いの?閉めちゃって」
「どうせ今日はスタジオ予約も入ってないから。アズサちゃんの話も訊きたいし、ゆっくりしてってよ」
そう云って、我妻は梅サイダーと一緒に買った自分の缶コーヒーの蓋を開けた
「‥‥アズサちゃんと、何かあったの?」
「ん‥、何から話せば良い、かな」
「そんなに色々あったの?ここ1ヶ月くらいで」
「‥‥‥‥うん」
「そう‥‥。じゃ、ユイくんが話し易いところからで良いよ」
サングラスから覗く我妻の目が、細く柔らかく見えた
***
ユイは我妻に打ち明けた
菱和に初めて声を掛けた日のこと
ここでセッションをした時こと
菱和がHazeに入る為に喧嘩をし、骨折したこと
加入後のライヴで、手を握ってくれたこと
学校に来なくなった日のこと
自分達を護るために、菱和が嘘を吐いたこと
そこまで想ってくれていたこと
来週から登校する筈であること
早く戻ってきて欲しいと、願っていること───
学校生活からバンドの活動まで、菱和と過ごしてきた時間のほぼ全てを、我妻に話した
我妻は時折頷きながら、ユイの話を聞いた
一頻り聞き終えると、軽く溜め息を吐く
「そっ‥‥か。そんなことがあったのね」
「‥‥でも、あんま自信無くなってきた。友達に『うじうじするな』って怒られたんだけど、アズに会うのちょっとだけ怖くなってきちった。‥や、ほんとはめちゃくちゃ会いたいんだけど‥‥」
薄く笑いながら不安そうにするユイ
───ああ、ユイくんはほんとに良いコだなぁ
我妻は、ユイの頭を撫でくり回したくなった
「───アズサちゃんはね、」
穏やかな口調で話し出した我妻の声に、ユイは顔を上げた
「‥‥前は物凄ーーーく目付き悪かったんだ。もう、『僕は不良です』って顔しててね。口は悪いし生意気だし‥‥‥って、今でもそこはあんま変わんないか。‥‥でもね、ベースを弾くようになってから凄く変わったんだ。ギラギラしてた目付きが段々穏やかになっていってさ」
菱和の過去のことは、恐らく本人か我妻からしか聞く機会はない
ユイは我妻の話に耳を傾けながら、興味深そうに頷く
「アズサちゃんにベースを勧めたの、俺なんだよね。アズサちゃんはギターよりベースが似合ってると思ってね。今にして思えば大正解だった。君らのバンドに入ったことも、凄く良かったと思ってる。アズサちゃん楽しそうだもんね、やっぱ」
「そんな感じ、だった?」
「うん。アズサちゃんのあんな顔、今まで君らとスタジオ入った時くらいしか見たこと無いもん」
「‥‥‥そっかぁ」
自分と同じように楽しい時間を過ごしていたのだとわかると、嬉しさのあまりつい笑顔が溢れてくる
我妻は、はにかむユイの頭をぽん、と叩いた
「‥‥大丈夫だよ。多分わかってると思うけど、アズサちゃんて見た目よりもずっとずっと真面目で優しいから、ちゃーんと話を聞いてくれるよ。遠慮しないで、どーんとぶつかっておいで」
優しくそう云う我妻の言葉に、ユイは少しずつ自信を取り戻した
駄目で元々、当たって砕けろ
そう、自分に云い聞かせた
「‥‥ありがと、店長。店長と話出来て、良かった」
「いえいえ。陰ながら、応援してるから」
「‥うん!ほんとに有難う!‥‥あ、もしアズが来たら、“待ってる”って伝えて」
「わかったよ。伝えとく」
ユイはギターの弦を提げて、元気良くsilvitのドアを開けて出ていった
「‥‥さぁーて‥‥‥‥オジサンは更にお節介焼いちゃおっかなぁ」
ユイを見送ったあと、我妻は軽く伸びをして、携帯を取りに行った
***
『アーズサちゃんっ。元気ぃ?今どこにいるのぉ?』
「‥なんか用か」
『何でそんなに冷たいのー。用事がなかったら電話しちゃ駄目?ってか、大事な用事だよー』
「だから、何なんだよ」
『最近、学校行ってないんだってねー。真吏ちゃんにチクっちゃうよ?君のお母様と俺の関係、忘れたとは云わせないぜ』
「‥‥‥性格悪りぃな、てめぇ。前から思ってたけど」
『まぁま、冗談は置いといてー。‥‥さっき、ユイくんが店に来たよ。色々聞いたよ、ユイくんたちと喧嘩中なんだって?』
「‥‥まぁ、そんなとこ」
『駄目駄目ー。絶対駄目ー。すぐ仲直りしてよ』
「何でお前にそんなこと云われなきゃなんねぇんだよ」
『何でって?友達だからに決まってるっしょー!あのコたちのこと蔑ろにしたら、俺が怒っちゃうよ。マジで“おこ”だからね。‥‥いや違うな、“ムカ着火何とか”だよ』
「無理して若者ぶった言葉遣うなよ、鬱陶しい」
『ほんとだねー、なんか自分でも恥ずかしくなってきた。‥‥まぁ良いや。それより、ユイくんから伝言預かってんだけど』
「‥‥伝言?」
『‥“待ってる”、ってさ』
「───‥‥‥‥‥、‥‥我妻」
『うん?』
「俺、今から家帰るわ。来週からガッコだし」
『‥うん、そうだね。それが良いね。‥‥っていうか、今どこにいるの?』
「‥‥‥ラブホ」
『え?ちょっ───』
───確実にそんなとこいないだろ
通話が切れた携帯を見つめていた我妻はそう思いつつ、満足げな様子で閉店作業を始めた
窓から空を見上げると月や星はなく、厚い雲が夜を覆っていた
「‥‥一雨来そうだなー」
73 Waitin' ③
マンスリーライヴが終わり、次の週
ユイは未だ、屋上で昼休みを過ごしていた
特別用事のない放課後は、陽が暮れるまで屋上に居た
霜月も半ば、流石に風が冷たくなってきた
じっとしているだけでも身震いするような寒さ
拓真やリサの心配を他所に、ユイは屋上で過ごすことを止めなかった
あの時の冷たく固い無表情は、優しさを隠す為のものだった
氷のような冷たい顔の裏側の心は、優しさただ一つ
だが、ユイたちを護ることと引き換えに、菱和は独りになった
心から“護りたい”と想ってくれていたことを、嬉しく思うと同時に切なくも感じる
自ら選んだ道なのだろうが、その孤独を何とかしたい
もう独りじゃない
その孤独はもう必要ない
そのことに、気付いて欲しいと願う
いつも菱和が居たこの場所に居ることで、菱和の気持ちや孤独が理解出来るような気がしていたのかもしれない
「‥‥っくしっ。‥‥あー、寒‥‥‥」
一つ嚔をし、ユイは腕を擦った
ユイが“恋患い”を拗らせている
最早、口で云ってどうにかなるレベルの拗らせ方ではなかった
柄にもなく黄昏るユイの背中は、いつもより小さく見えた
拓真とリサは溜め息を吐きながら、放課後の歩道を並んで歩いていた
今日もユイは、屋上で黄昏れている
木枯らしが木々の葉を揺らし、殆ど水分が無くなった落ち葉がひらひらと舞い上がる
もう、冬は目前だ
何となく自宅に帰りたくなく、リサは拓真の家に寄った
拓真は温かいココアを淹れ、リサに渡した
冷えきった身体に、じんわりと沁みる
「‥‥ユイ、何時までああしてるつもりなんだろうな」
「あいつが来るまでやるんじゃない。そのうち絶対風邪引くよ。せめて教室で待つとかしてくれれば良いんだけど」
「んなこと云ってもさ‥‥ユイが云うこと聞くわけないっしょ。あー、なんか良い薬ないもんかねー」
「薬なら、あるでしょ」
「へ?何?」
「‥‥あいつが学校来れば、解決する」
「‥いやでもさ、メールも電話も返ってこないとこ考えると、学校にはまず来ないと思うんだけど」
「そんなもん、やってみなきゃわかんないじゃん」
「そりゃそうだけど‥‥」
椅子に座り、腕組をしてうーんと唸る拓真
「‥貸して。あいつの連絡先、入ってんでしょ」
「え、ちょっ‥‥」
リサは、机の上に置きっぱなしだった拓真の携帯を手に取った
電話帳を開き、菱和の番号を自分の携帯に控える
菱和はリサの携帯の番号を知らない
拓真からの着信にすら出ないのだから、知らない番号からの着信に応じる可能性はより低い
それでも、リサは電話をかけ続ける
通話ボタンを押し、10コール目くらいで切り、リダイアルする
凡そ5分近く、それを繰り返した
まさに、“鬼電”だった
「‥‥かけ過ぎじゃね?」
「こんくらいやんなきゃ出ないよ」
逆効果なのではと思いつつも、拓真は菱和が電話に出てくれることを願った
云ってやりたいことが山ほどある
苛つきながらも、リサは電話を掛け続けた
なかなかに諦めが悪く、負けず嫌い
友達を想う気持ちなら、自分だって負けてはいない
大事な友達の恋路なら、その想いはより強くなる
滑稽だと笑われても良い
そんなことはどうでも良くなるくらい、幼馴染みへの想いは真っ直ぐだ
リサの願いが通じたのか、突然コール音が止み、嗄れた声が聴こえた
『‥‥‥‥誰』
低くぶっきら棒な声に負けず劣らず、リサはぶっきら棒に返事をした
「‥‥私だけど」
───出たのか
リサが言葉を発したのを聴き、拓真は顔色を変えた
『‥‥、番号、誰から訊いた?』
「拓真。今、拓真の家に居るから」
『‥‥そ』
電話口から、息を吐く音が聴こえる
恐らく、煙草を喫っているのだろう
JPSの煙が、漂ってきたような気がした
『‥‥なんか用か?』
「何で学校来ないの?」
『‥‥‥‥‥‥』
「答えて。何で?」
『‥‥‥‥、行ったところで、何がどうなるってんだ』
「は?」
『俺はあいつらに「もうバンドやらねぇ」って云ったんだ。今更ガッコ行くことに何の価値もねぇ』
「‥‥どういう意味?」
『‥‥‥‥言葉通りだよ』
「‥‥『もうバンドやめるから学校にも来ない、ユイにも拓真にも会わない』ってこと?バンド辞めるのとユイたちと友達辞めるのに何の関係があるって云うの。それとこれとは別問題でしょ。何で全部一緒くたにしちゃうわけ?バンドを辞めたって、ユイたちとは友達で居られる筈でしょ」
『‥‥‥‥ほんとにそう思うか?』
「‥‥何?」
『俺とダチで居て、あいつらに何の徳があるんだ。俺が居る所為で、今まで有り得なかった問題が色々起きてんだろ。もう、嫌なんだ。これ以上嫌な思いして欲しくねぇんだよ。‥‥あいつらにも、お前にも』
友達付き合いに不慣れな菱和
他人とコミュニケーションを図るのは元々苦手な方だ
それ故か、菱和は大きな勘違いをしている
友達の大切さはユイたちと共に過ごすことで充分学んだ筈だが、“友情のなんたるか”をまだ知らない
友達の為に身を引くことは、時として大事なことかもしれない
でも、菱和のそれは、“優しさ”じゃない───
「‥‥‥‥何云ってんの」
リサは次第に俯いた
徐々に苛立ちが募り、みるみるうちにそれは怒りに変わっていく
「───っバカっっっ!!!」
話の内容はわからずもリサを見守っていた拓真は、突然の叫び声に心臓が弾けたかと思うくらい驚いた
「ただの損得であんたと友達で居るわけないでしょ!!友達はそんなに軽いものじゃない!ユイも拓真も、ちっともあんたを恨んでない!!!」
リサは力任せに叫び散らした
リサの『バカ』に驚いたのは菱和も同じだったようで、電話の向こうは静寂に包まれている
そんなことはお構いなしに、リサは続けて話をする
「‥‥今まで何があったのか全部聞いた、あんたの元バンドメンバーから。わざとなんでしょ、『バンドやらない』って云ったのも『暇潰しだ』って云ったのも、何もかも全部。あんたはそんなことする奴じゃない、誰もそんな風に思ってないんだよ!それにね、あんたが学校来なくてもユイは屋上に居るの!ずっとずっとあんたのこと待ってんだよ!!それがどういうことか、あんたならわかるでしょ!?‥もう、見てらんないんだよ!いい加減ユイのこと見ろ!!ちゃんとしろっ!!!」
拓真の胸がぐっ、と詰まる
いつもクールな幼馴染みの、滅多に見ることのない激昂振り
それは強かで優しい、大事な幼馴染みを想う気持ち
思いの丈を存分に菱和にぶちまけたリサは、肩で息をしている
こんなにも大声で叫んだことは、久しく記憶に無い
拓真の部屋にも電話口にも、再び静寂が訪れる
「‥‥‥‥ユイに云わなきゃなんないこと、ある筈でしょ。約束して。来週からガッコ来て、ユイにちゃんと自分の気持ち伝えて。‥‥もし来なかったら、今度こそマジで殴るから」
菱和は、リサの想いを黙って聞いていた
リサがユイを想う気持ちは、出会った当初から知っている
──────こいつも俺も、あいつのことになったら見境無くなんな
恥も外聞も捨てて友達の為にここまで本気になれるものかと驚くと同時に、ユイとリサの関係が羨ましく思った
そして、何だか可笑しくなった
『───‥‥‥‥っく‥‥っ‥‥ふふ‥‥』
電話の向こうで、菱和が笑っている
その声は、リサを更に苛つかせた
「‥何笑ってんの?」
『‥‥いや、何でもねぇ。‥‥‥‥云っても良いのか?あいつに』
「私の許可なんて、必要ないでしょ。ユイはあんたを拒否したりしないから。絶対に。だから、‥‥ちゃんと向き合って」
『───‥‥‥‥わかった。‥‥来週から、ガッコ行くよ』
「‥‥必ずね」
『ん。約束する』
ユイは自分を絶対に拒絶しない
その言葉が何よりも心強く感じた菱和は漸く折れ、約束をした
軽く息を吐き、リサは通話ボタンを押した
静観していた拓真は、恐る恐るリサの顔を覗き込む
「‥‥‥‥リサ‥‥」
「‥‥云いたいことは全部云った。来週から、学校来るって。‥‥あとは、どうなろうと知ったこっちゃない」
「‥‥それ、めちゃくちゃ無責任じゃん」
「‥‥‥‥、そんなことないと思うけど」
「え?」
「拓真だって、応援したいでしょ。‥‥“2人”のこと」
拓真は目を丸くした
ユイの気持ちは知っていたが、まさか菱和も同じ想いを抱いているとは───
リサと菱和は似ている
ただ、それだけだと思っていた
似ているからこそ、なのだろうか
あまり感情を表に出さない2人は、その裏側でとてつもなく強い想いを抱いている
自分の知らぬ間に菱和とも充分親しくなっていた様子のリサに、『してやられた』などと思った
「‥‥‥‥知ってたのか‥‥ひっしーのことも、ユイのことも」
「‥マック行こ、拓真。アップルパイ食べたい」
「‥‥3個くらい御馳走しようか?」
「‥、2個で良い」
拓真とリサは携帯と財布を持って、最寄りのファストフード店へと向かうことにした
72 FACT
バンド休止の最中
ユイと拓真、そしてアタルは、マンスリーライヴの観覧に来た
観る側として会場に来るのは久し振りのことだったが、逆に新鮮な気持ちだった
いつものようにリサとカナも誘い、犇めき合う人混みに紛れてライヴの開始を待った
相変わらずの盛況振りで、ライヴ前の会場内はごった返している
アタルはライヴが始まる前に一服をと、喫煙所に向かった
───次にマンスリー出れんのは、いつになるかな
そんなことを考えながら喫煙所で煙草を吹かしていると、オレンジに近い金髪の大柄の男がアタルに声を掛けてきた
「のせー!!」
「‥ターシ!」
アタルを苗字の“一ノ瀬”から捩って“のせ”と呼ぶ人間は、一人しかいない
それは、アタルと古い付き合いのある『WINDSWEPT』というバンドのギタリスト、高橋だった
「元気かよぉ!?まだ髪赤くしてんのか、相変わらずガラ悪りぃな!」
「お前こそ!久し振りだなー。いやー、いつかのときは助かったよ。お前が何とかってチームの奴とダチじゃなかったら、危うく俺も喧嘩するとこだった」
「それはそれで良かったんじゃねぇの?昔はよくやってたじゃんよ!」
「‥“よく”って、そんな頻繁にじゃなかったろ!たまにな、たまーに!」
「ははっ!直前になって尊に止められたりしてなー。‥‥てか、お前ら今日出てなかったんか」
「ああ。っつうか、バンド自体暫く休みだ」
「‥‥何で?」
「ちょっと、な」
アタルは目を細めて笑い、少し困った顔をして見せた
「お前らも出てないんか。てか暫くマンスリー出てねぇんじゃんよ」
「おう、皆忙しくてな。そんで今雄大の奴、両足骨折してっからよぉ」
「骨折だぁ?何でまた?」
「バイクでコケたんだよ。足使えなきゃドラム出来ねぇべよ?」
「確かにな。‥‥でも笑いはとれんじゃねぇの?ギプスつけたままバスドラ踏みまくってよ!」
「んなことで笑いとってどうすんだよ!」
ガラの悪い2人の男が、ゲラゲラと笑っている
そのインパクトは、とてつもなく強烈なものだった
他の喫煙者たちはアタルと高橋の容姿にビビってしまい、いつの間にか喫煙所にはアタルと高橋しかいなかった
そんな中、2人組の男がアタルと高橋に近付いていく
「───‥‥‥あの」
「‥あ?」
涙目で笑っていたアタルは、声のする方を振り返る
2人組の男は、高野と駒井だった
「‥‥Hazeの‥ギターの人、ですよね?」
「‥‥?誰だお前ら?」
「! お前ら確か、古賀と一緒にバンドやってた‥‥」
高橋は2人をじろりと睨み付ける
若干たじろぐも、2人は話し出した
「あの‥‥菱和のことで、話があります」
***
ユイたちは、ドリンク片手に雑談をしていた
本来なら今日も4人揃ってステージに上がっていたかもしれないと考えると、今ここに菱和の姿が無いことが歯痒くて仕方ない
それでも、バンドの意向として“待つ”と決めた以上、待ち続けるしかない
あーでもないこーでもないとどうでも良い話を進めていると、喫煙所から戻ってくるアタルの姿と共に、高橋の姿も見えた
「‥あ、高橋くんじゃん!」
「よっ!元気かぁボウズども!」
「あははー、元気元気ー!」
「喫煙所でアタルに会ってよー。乗りかけた船だからついてきちった」
「‥‥ん?何それ?」
「なんか、こいつらが話あるみてぇよ」
そう云ってアタルは、親指を立てて後ろを指す
「‥!!!」
アタルと高橋の後ろを見ると、高野と駒井の姿があった
2人の姿を捉えると、ユイと拓真はリサとカナの前にすっと出る
リサとカナをつけ回した張本人たちだ、もしまた何か悪いことが起こったら菱和に面目が立たない
ユイは、2人を冷たく睨み付けた
「‥‥何の用だよ」
「そう喧嘩腰になるなっつの。ひっしーのことで、話があるんだと」
アタルがユイの頭をぽん、と叩く
「‥アズのこと‥‥?」
怪訝な表情のユイと拓真、そしてリサとカナ
駒井は、真剣な面持ちでユイたちに話し出した
「‥‥‥俺らとバンドやってた、ギタボの奴覚えてるか?古賀ってんだけど、そいつがBLACKERの残党使って菱和と俺らをボコろうとしてずっと狙ってて、この前こいつがヤられたんだ」
そう云って駒井は高野の方を見る
高野は、顔に幾つか絆創膏を貼っていた
痛々しく痣が残っている
「その話したら菱和がキレちまって‥‥ついこないだ、古賀をボコボコにした。でも別に、俺らの為にやったんじゃねぇんだ。‥あんたらのこと護る為に、やりたくもない喧嘩したんだ」
───あいつ、もしかしてあの怪我‥‥‥
リサはピンときた
傷の手当てをしたあの日のことを思い出すと、また胸がちくんと痛んだ
「‥‥‥‥マジかよ‥‥ひっしー‥」
次々と真実が語られ、拓真は眉を顰める
やはりリサとカナがつけられていたことを知っていたのだとわかり、より最善の策を尽くせなかったことを悔やんだ
駒井は続けて話した
「‥‥そんとき、菱和、『もう戻れねぇ』って云ってたんだ。どんな理由か知んねぇけど、もしか菱和がまだバンドに戻れる余地があるなら、そうしてやりたいと思って‥‥」
「‥‥‥『戻れない?』」
ユイたちにも、その理由はわからなかった
菱和がバンドに戻ってくる“余地”など言わずもがな
その日の為に“皆で待つ”と決めたのだから
「‥‥‥、何でそんなこと云ったんだろ」
「さぁな。あいつの云う“不利益”って、十中八九その古賀とかいう野郎のことだろ。あいつがボコったんなら、とっくに“問題”は解決してる筈だよな‥‥なんか他の理由があるってことか。‥っていうか、あいつまた喧嘩したんか。手、大丈夫なんだべか」
「大丈夫です。結構殴ってたけど‥‥あいつ自身も、軽く一発殴られただけでケロっとしてました。“あんとき”は無抵抗だったからってのもあって‥‥でも元から喧嘩はめちゃ強かったみたいですね」
「そんな強えぇのかよ、そいつ?」
“乗りかけた船”と云い、混ざって話を聞いていた高橋は、堪く興味を示す
「ばっか、強えぇなんてもんじゃねぇよ。あんときも10人くらい、一人でぶっ飛ばしたんだかんな」
「マジでぇ!?そりゃあ将樹も頭上がんねぇわな」
「マサキって、BLACKERの頭の奴か?」
「そーそー。古賀ってやつ、下っ端の奴等使ってだいぶ好き勝手やりやがったから将樹と俺でシメたんだけどよー。まだ懲りてなかったんか」
「‥‥最近、パクられたみたいすよ」
「そうなん?」
「なんか、窃盗とか薬もやってたみたいで」
「ふぅーん‥‥ま、どうでもいっか」
パクられたということは、暫くは古賀の脅威を心配する必要はない
安堵した拓真は、未だ謎だったことを高野と駒井に尋ねる
「リサとカナちゃんの後をつけたのは、何で?」
「古賀がまだ恨んでるってこと、菱和に伝えて貰おうと思っただけなんだ。それ以上の理由はない。そんときも、あいつわざわざ俺らんとこまで話聞きに来たんだ。『無駄な喧嘩したくねぇ』って‥‥誤解させるような真似して、すまなかった」
「それから、‥‥‥“あんとき”も‥‥ごめん」
高野と駒井は、頭を下げた
リサは軽く溜め息を吐いた
「‥‥もう良いけど、別に」
一同は、それぞれ神妙な面持ちで菱和のことを思った
菱和はまた、我が身が傷付いたとしても大切なものを護ろうとしていた
自分達の知らぬ間に、また、護ってくれた
自分達のことを、想ってくれていた
その想いは、間違いなく本物だ
『戻れない』と思う理由は、何なのだろう?
バンドやメンバーが嫌になったわけではなかった
“暇潰し”なんかじゃなかった
『護りたい』と思うほど、大切なものではなかったのか
ならば、早く戻ってきて欲しい
『戻れない』理由が『喧嘩をしたから』とかいうものだったりしたら、そんなことは大した理由じゃない
でも
例えどんな理由であっても
自分達は、待ち続けるしかない
今理由を話せなくても、菱和はきっと、きちんと決断するだろう
その結果がどうであれ、菱和の口からその言葉が聞けるまで、自分達は待ち続ける
「‥‥‥‥アズ」
ユイがぽつりと呟いた菱和の名は、ざわつく会場の喧騒に飲まれて消えた
Waitin' ②
古賀とのタイマン後
菱和は駒井と別れ、口元に痣を作った顔のまま漫画喫茶で一夜を過ごした
両親はまだ留守にしており、この顔で帰宅しても誰にも咎められないが、自宅に帰るのが面倒臭かった
深夜3時を回った漫画喫茶は、基本的には静まり返っていた
中には爆睡している客も居るのだろう、鼾が聴こえてきた
何の気なしに手に取ったMR.BIGのライヴDVDと灰皿を持ち、備え付けのPCでDVDを再生する
イヤホンをつけ、煙草に火を点けると、だらしなく椅子に座る
煙草を吹かし、ポール・ギルバートとビリー・シーンの超絶ユニゾンをただぼんやりと眺めた
そのうち、菱和が特に気に入っている曲が演奏された
パット・トーピーのリズミカルなドラミングから始まり、ポールのギターとビリーのベースが重なる
エリック・マーティンのハスキーなヴォーカルが、妙に眠気を誘う
“Take Cover”
“逃げ出す”
“隠れる”
「言いたいことは言えと人は言うけれど、言葉は出て来ない
頭が働きすぎて、口を閉ざしてしまう
誰か、この魂を救ってくれ
いつも自分に正直でありたいと願ってしまった
想いは片っ端から手離した
誰も気付きやしない
別にそれで良い
身を引くのが賢明な時もある
潜んでればいいだけだ
お願いだから、今のままでいさせてくれ
理解してもらうには、どれほどの時間が必要なんだろう
だけど本当は逃れたい
君の前から姿を消したい
カタがついたら呼んでくれ
それまでは、逃れていたいんだ」
飽きるほど聴いた曲の歌詞が、今の自分の心境と重なる
こんな形で心に沁みるとは、思ってもみなかった
『菱和さ、MR.BIGも聴くって云ってたよね?何の曲が好き?』
『‥‥“Take Covor”とか、“Daddy, Brother, Lover, Little Boy”とか 』
『おお!“Take Covor”とかシブいねー!“Daddy,Brother,~”なんか兄ちゃんと弾きまくったなー、サビのユニゾン速過ぎでさ!』
『‥兄ちゃん?』
『うん、元々バンドでベース弾いてたの、俺の兄ちゃんなんだ』
『へぇ‥‥』
全くと云っていいほど他人に興味なんて無かったくせに
好意を寄せるほど親密に関わってしまった
あいつとこの曲の話をしたことをはっきり覚えてる辺り、未練がましいな
自分の気持ちなんかどうでも良いと思ってたのに、告げられなかった想いがいつまでも頭に纏わり付く
この想いが消えてしまえば、相手の記憶から自分の存在も無くなってくれるような気がする
わざと相手に嫌われるような言葉を選んで突き放したんだ、永遠に伝わることはないんだから
だから早く、消え去ってくれ
脱力した菱和の瞳は、ゆっくりと閉じられる
画面の中のミュージシャン達は、菱和が眠った後も演奏を続けていた
***
2時間ほど眠り、菱和は目を覚ました
DVDは再生が止まり、PCの画面はスクリーンセーバを映し出している
時刻は6時過ぎ
煙草に火を点け、一口喫う
起き抜けの煙草は、無性に美味い
煙草との相性が抜群の濃いブラックコーヒーを飲んで少しだらだらした後、怠そうにシャワーを浴び、菱和は漫画喫茶を後にした
若干口元が痛む
大した威力ではなかったが、古賀から浴びた一発は傷になっていた
シャワーを浴びた際、少し傷口が開いたようだ
夜のうちに浄化されて澄み切った朝の空気は、次第に汚れていく
朝の喧騒に紛れ、菱和は自宅を目指して歩いた
駅に向かい歩いていくと、マンスリーライヴの前夜にユイと2人で話をした広場が点在する通りに出た
菱和はふと思い立ち、そこへ向かった
あの場所でユイと2人で居ると、自分は本音で話すことが出来た
ユイはその言葉を素直に受け止めてくれた
あの時は既に、ユイへの感情は特別なものになっていた
今だって、その気持ちに偽りはない
無人のベンチに、足を放り投げて座る
『何だよそれっ!!!どういうことだよ!!?“友達ごっこ”って何だよ!?本気でそんなこと思ってんのか!!今まで遊びで俺らと付き合ってたって云うのかよ!!?』
んなわけねぇだろ
“ごっこ”だなんて思ったこと、ただの一度もねぇ
いつだって、本気だったよ
でも、こうすることしか思い付かなかった
そしてそれが最善だと思ったけど
最後の最後に、傷付けちまった───
繰り返される、ユイの言葉
届く筈もない、自分の返事
自分を見つめるユイの物哀しい顔が、何度も脳内に再生される
───一体いつまで付き纏うんだ、この気持ちは
そんな途方もないことを思い、菱和はぎゅっと胸の辺りを掴んだ
「───何してんの」
気付くと、目の前には私服に身を包んだリサが立っていた
ロングのニットカーディガンにコーデュロイのショートパンツ、デニールの濃いタイツに程よく履きこなしたエンジニアブーツ
ボーイッシュなコーディネートが、とてもよく似合っている
そういえば、ここまで来る途中に擦れ違う人間は、サラリーマンや学生よりも私服の若者が多かったように思える
───ああ、今日は土曜か日曜か‥‥すっかり曜日の感覚が無くなっちまってる
「‥‥‥どっか行くのか?粧し込んで」
「カナと映画」
「随分、時間早いな。まだ9時前だろ」
「中途半端な時間からのしかなくて」
「ふーん‥‥」
菱和の口元に、まだ真新しい傷がある
リサは、眉を顰めた
「‥‥‥‥喧嘩、したの?」
「ああ」
「‥‥‥‥‥ちょっと見せて」
リサは菱和の横に座り、鞄を漁った
普段から持ち歩いている応急道具が入った小さなポーチを取り出し、消毒液をティッシュに含ませる
「こっち向いて」
大した怪我ではないのだが、リサは手当てをするつもりでいる
菱和はどこを見るわけでもなく視線を落とし、リサの方に顔を向けた
消毒液を含んだティッシュで、傷痕をそっと拭う
先程開いた小さな傷に液が滲み、ピリッと痛む
「‥っつ」
「我慢して」
若干顔を引き攣らせる菱和を尻目に、リサは手際よく消毒をしていく
絆創膏を取り出し、丁寧に傷口に貼った
「はい、出来た」
「‥‥どーも」
リサが普段から応急道具を持ち歩いているとは、クールな印象からはあまり想像が出来ない
学校内に一定数存在する、リサを狙っている男子生徒は、リサにこんな女子らしい一面があることを知らない
その多くは、リサを容姿でしか好んでいないからだ
そんな姿を垣間見てしまう辺り、リサとも親密になってしまったのだと思い、菱和は少し口角を上げた
「‥‥‥‥あいつら、どうしてる?」
「私に訊かないで、ガッコ来れば良いじゃん。嫌でも会えるでしょ、ユイたちに」
鞄にポーチを仕舞ったリサは、ぶっきら棒に言葉を返した
「‥‥そっか」
菱和はふ、と鼻で笑った
初めから、それが出来れば何の苦労も要らないだろう
胸を叩く痛みを抱えることも
ユイや拓真の顔を必要以上に思い出すことも
でもそれをしないのは
出来ないのは
今更戻れる訳がないと諦めているから
顔を合わせるのが
想いを伝えるのが
“怖い”から
逃げたがってんのは、“自分自身”からか───
薄ら笑いを浮かべる顔からは、その心情を汲み取ることが出来ない
菱和は今、何を考えているのだろうか
「‥‥‥‥、ユイのこと、嫌いになった‥‥?」
リサの問いに、心がざわつく
───そんなわけねぇじゃん
「──────‥‥‥‥好きだよ。ずっと」
菱和は、優しく笑みそう云った
リサの心臓が、どくんと鳴った
今まで見てきたどの顔よりも、酷く優しい顔
その気持ちまで表れていて
胸の奥が痛くなる
ああ
そうなんだ
こいつはきっと
ユイを──────
「ねぇ、あんた‥‥」
「───もう、何も起きねぇから」
「え?」
「何も、心配要らねぇから」
そう云って、菱和は立ち上がった
「‥‥‥‥ありがとな」
穏やかな声で礼を云うと、菱和は呆然とするリサを残して去っていった
伝えたいのに伝えられない、強い“想い”があるということを思い知る
微かに残る菱和の香水の香りを、ユイや拓真と同じように反芻した
***
菱和の表情が頭に張り付いて離れず、映画の内容はさっぱり頭に入ってこなかった
カナに申し訳ないと思いつつ、軽くランチをした後でカナと別れ、帰宅の途につく
自宅に着いてからも、延々と同じことが頭の中をぐるぐると回る
“ずっと”って、何時からなんだろう
本人に直接訊かないことにはわからないけど、ただ一つわかったのは、“今でも”菱和はユイを想っているということ
切ない、儚い、強い、“想い”───
リサは、ユイの自宅に向かった
ユイは自室のベッドに腰掛け、ぼーっとしていた
お気に入りのクッションを抱きかかえ、活気の無い顔を埋めている
大好きなギターは、スタンドに立て掛けられたまま
週末になると欠かさず朝から晩まで弾いていた筈の大好きなギターも、今はさっぱり弾く気になれない
「───今日は弾いてないんだ、ギター」
顔を上げると、リサがドアのところに立っていた
人の気配をシャットアウトするほど、ぼーっとしていたようだ
「‥よ!来たの全然気付かなかった」
「‥‥、ご飯食べたの?」
「うん。‥あれ、今日カナと映画じゃなかったっけ?」
「もう観終わった」
「ふーん。おもしかった?」
「‥よく、覚えてない」
「何だそれ!」
そう笑って話すのは、何時ものユイだ
ただ、
───‥‥空元気
長い付き合いの幼馴染みだ、それくらいは手に取るようにわかってしまう
リサは溜め息を吐いて、椅子に座った
「‥‥あいつとなんかあった?」
「ん?」
「学校、全然来ないでしょ。なんかあったの?」
ユイの表情が、次第に曇る
「───‥‥‥‥、もう俺らとバンドやらないって云われた。俺らと一緒に居たのは、『暇潰し』だったんだって」
「‥あいつが、そう云ったの?何でそんなこと‥‥」
「‥‥わかんない。なんかあるみたいだけど、理由は全然わかんないんだ。‥‥やっぱ、嫌われちゃったかな」
へへ、と笑うユイ
リサは、また胸がちくんと痛んだ
「───そんなことない」
「え?」
「‥‥今日、あいつに会った」
「‥‥アズに?」
「喧嘩したみたい。ちょっと怪我してた」
「‥!」
その喧嘩は、自分達を突き放したことと何か関係があるのだろうか
それが、“不利益”の原因なのだろうか
誰かを傷付け、自分も傷付いたのだろうか
ユイは不安そうな顔をして、リサに訊く
「‥‥大丈夫そう、だった?」
「メールでもして訊いてみれば?」
「‥‥‥‥ずっと、無視されてるからさ」
そう云って、ユイは俯いたが、すぐにぱっと顔を上げた
「‥良いんだ!アズが元気ならそれで‥‥」
「───ほんとにそう思ってる?」
「え‥‥」
リサは真っ直ぐ、ユイを見つめた
リサの瞳に写るユイには、無数のはてなが浮かんでいる
拓真同様、ユイが何を考えているのかが手に取るようにわかる
拓真が云った“恋患い”の意味が、漸く理解出来た
ユイが菱和に拘っているのは、ただ単に『友達だから』という理由だけではない
それ以上の、もっと特別な感情を抱いている
だからこそ、どこか遠慮をし、連絡も出来ないでいる
それもその筈───ユイも菱和も、男なのだから
だが、この際そんなことは関係無い───
「‥‥あんたを避けてんのには、絶対に理由がある。理由もなく人のこと避けるなんて、あいつに限って有り得ないでしょ。まさか、あいつがあんたに嫌気さして学校来なくなったとか思ってたの?」
「‥‥‥‥ん‥‥」
顔を伏せるユイに、リサはまた溜め息を吐いた
「───‥‥‥‥あんたがあいつのことまだ少しでも想ってたり信用出来るなら、一つ教えてあげる。あいつはあんたのこと、嫌ってなんかいない。‥‥あんたが“好き”って、云ってたから」
漸く口にした菱和の“好き”という言葉は、ユイではなくリサが聴き受けた
その感情に偽りが無いと確信したリサは、それをユイへと伝える
ユイはその言葉がすんなりと受け入れられなく、怪訝な顔をする
「‥‥ほんと、に?」
「私が嘘吐く理由はないよ」
「‥‥‥‥、そうだよね、そんな嘘吐くとか意味わかんないよね‥‥」
ならば、今リサから聞いた菱和の気持ちは、真実と云っても過言ではない
ユイは目を丸くしたまま、クッションに顔を埋めた
「‥‥私は、伝えたからね」
そう云って、リサは立ち上がった
「‥冷蔵庫ん中、なんか入ってる?」
「あ、ああ、何かかんか、適当に‥‥」
「何食べたい?あいつみたいに凄いものは作れないけど、あんたが食べたいもの作ったげる。‥‥下行ってるよ」
リサは部屋から出て、階段を降りていった
菱和の気持ちを伝えたのはお節介だったかもしれないが、ユイの“恋路”を応援したいのはリサも同じだ
───早くガッコ来いっての。‥‥ばかやろー
ユイと菱和が相思相愛だということは、リサはまだ自分の胸に閉まっておくことにした
ユイは、抱えていたクッションを更に抱え込んだ
俺は、嫌われてない?
良かった、アズに嫌な思いさせてなかったんだ
でも、じゃあ、何で学校来ないの?
嫌いじゃなくても、会いたくない‥‥‥‥?
俺は、‥‥会いたいな───
70 LASTBRAWL※
◆◆◆喧嘩のシーンがあります 暴力的な描写が苦手な方はご注意下さい◆◆◆
ある日の深夜
駒井から連絡を受け、菱和は繁華街を彷徨いていた
電話で駒井が指定した場所に向かい、煙草を咥えながら怠そうに歩く
駒井はとある喫茶店を待ち合わせ場所にし、そこで菱和を待っていた
菱和は喫茶店に入り、駒井の姿を捜した
窓際の席に座っていた駒井が気付き、軽く手を上げる
「居るか?」
「‥‥あすこ」
駒井が指差したのは喫茶店の真向かい、雀荘が入っている小さなビルだった
駒井は高野がやられた今、『次は自分がやられるかもしれない』という危険を冒し、古賀の動向を探っていた
決まった曜日に必ず出入りする店があるとわかり、その規則性を確認して菱和に連絡をした
菱和はいち早く“不利益”の原因を叩こうと、機会を見て古賀を伸してやるつもりでいた
「ほんとに、やんのか?」
「ああ」
菱和は駒井の向かいに座り、煙草に火を点けた
ゆっくりと煙が立ち上ぼり、菱和はぼんやりとその煙を見つめた
「もし怪我したら、バンドに響くんじゃねぇの?」
「そんなの、お前にゃ関係ねぇだろ」
「‥‥そりゃ、そうだけど‥‥‥‥」
駒井は注文したままだった冷えたコーヒーを、申し訳程度に啜った
向かいのビルから、若者の集団が出てきた
先頭に古賀が、その後ろから男達がぞろぞろと湧いて出てくる
「‥‥古賀の他にあと7、8人くらいいるか」
「お前はもう帰れよ。わざわざありがとな」
菱和は煙草の火を消し、席を立ち上がった
駒井もすく、と立ち上がる
「‥俺も行く」
「‥‥喧嘩出来んのか?」
「出来る気は、しねぇな」
「じゃあ帰れよ。別にお前の為にやるわけじゃねぇし」
「わかってるよ、そんなこと。でも俺も、高野がヤられたことで頭きてんだ。何も出来ねぇかもしんねぇけど、俺も行かせてくれ」
大事なバンドメンバーを傷付けられた駒井は、怒りにうち震えた
本来なら古賀一人を叩ければ良いのだが、どういうわけかいつも古賀の後ろに群れる連中がいた
多勢に無勢では勝ち目は無い
だが、報復をしては古賀達と何ら変わらない
思い悩んでいたところ、菱和が『古賀のことを探って欲しい』と頼んできた
菱和の喧嘩の強さは折り紙付きだが、わざわざ菱和に古賀をどうにかして貰うつもりはなかった
ただ、菱和に一目置いている駒井は、菱和の頼みならばと快く引き受けたのだった
例え足手まといだとしても───意地でも引くつもりがなさそうな様子
「‥‥‥、好きにしな」
菱和は駒井の意志を否定せず、喫茶店を出た
***
古賀とBLACKERの残党達は、無駄な喧嘩や万引きといった類いの非行を繰り返していた
補導や逮捕されたメンバーも少なからずおり、その評判はBLACKERが幅を利かせていた頃から見ると既に地に落ちたものになっていた
学習能力の無い餓鬼同然の古賀達に集団で痛め付けられた高野
嘗ては駒井も菱和に対して同じようなことをしてしまったが、猛省し改心した
同じ立場になって初めて、菱和の想いが理解できた
何の抵抗も出来ない人間を集団でフクロにする卑劣さを、許せなかった
自分がやったことを棚上げするつもりはないが、駒井はその怒りをぶつけるつもりで古賀の名を呼んだ
「───おい、古賀」
名前を呼ばれ、古賀は振り返った
そこには嘗てのバンド仲間の姿がある
「何だよ、ちょうど良かった。‥‥そろそろお前の番かなぁと思ってたんだよ」
BLACKERの残党達は、『噂の奴らだ』と云わんばかりに菱和と駒井を見る
「お前、高野に‥‥」
「あ?裏切ったお前らが悪いんだろ?当然の報いさ」
悪びれる様子もなく、古賀は高野をフクロにしたことを自供する
そして、舐めるように2人を見た
「‥‥お前らの次は“あいつら”だ。特に“あのチビ”、生意気に啖呵切りやがってよ。菱和、お前も殺してぇくらいムカつくけど、あのガキにも相当ムカついたよ。ったく、ちゃんと教育しとけよな」
リサを拉致られ、ユイに刃物を向けられたあの日のことが思い起こされる
二度とあんなことが起きてしまわないようにと願い、それを実現させる為に来た
古賀の厭らしい視線を鬱陶しく感じ、菱和は冷たく呟いた
「もうあいつは俺とは関係ねぇよ」
「あ?何だそれ」
「やめたんだよ、バンド」
「へぇ‥‥‥‥じゃあまた俺とやる?独りぼっちで可哀想だったお前に声掛けてやったのは俺だぞ、忘れたのか?仕様がねぇから、また仲間に入れてやるよ」
「何度も云わせんな。“死んでもごめん”だ」
「ふーん‥‥そんじゃあ、今から死ねよ。望み通り殺してやっから」
古賀の目付きが、おかしい
古賀は何も、変わっていない
狡猾で冷酷で、自分を中心に地球が回っていると信じて疑わないような人間
駒井は、古賀が段々“憐れ”に思えてきた
「お前、いい加減にしろよ!!そんなことしたって何の意味もねぇんだって‥‥!」
「知るか。とにかくムカついてんだよ。さ、早いとこお前らボコるからついて来いよ」
BLACKERの残党達に囲まれ、菱和と駒井は人気のない場所へと連れて行かれた
***
「さて、どっちからにする?選ばせてやっても良いぜ。それとも2人いっぺんにヤっちまうか?」
古賀はニヤけ顔をして、菱和と駒井を交互に見る
BLACKERの残党達も、暴れたくて堪らない様子だった
怯えた様子の駒井を尻目に、菱和は低く呟いた
「───何云ってんだお前」
「‥‥あ?」
「俺はお前をボコりに来たんだよ。‥‥周りの奴等は引っ込んでな」
大人しくついてきた菱和だが、古賀以外の人間と喧嘩をする気は皆無だった
「何だとてめぇ!」
「ナメてんのか!?」
BLACKERの残党達は、自分達を畏れる様子の無い菱和に食って掛かる
「───菱っ‥‥!!」
駒井の叫び声は、そのうちの一人が意気揚々と殴り掛かってきたことを告げるものだった
───口で云ってもわかんねぇってことだな
菱和は手を軽く握り直し、力を込めた
相手の攻撃をするりと避け、その顔面を思い切り殴り付けた
男は鼻血を吹き出して倒れ、身体を痙攣させ口から泡を垂らした
「───なっ‥!!?」
一瞬の出来事だった
たった一撃で、BLACKERの残党達は一気に青ざめた
『喧嘩が出来る』と軽い気持ちでいた連中は、その相手がのこのことついてきたことで更に勢い付いていた
だが、菱和の一発で、たった一発でその勢いは萎えた
この無愛想な男は衝撃的な強さで、自分達は足元にも及ばないと確信した
「‥‥てめぇらも殴られてぇなら後から好きなだけ殴ってやるよ」
菱和は、連中を一瞥した
その眼光は、ビビらせるのには十分すぎるほどだった
相手を殴った右手の手首を、ぶらぶらと振る
無意味な喧嘩を繰り返していた中学時代からの癖だった
「な、何だよお前ら‥‥早くやっちまえよ!!!」
古賀は怖じ気付くBLACKERの残党達に怒鳴り散らした
完全にビビっている連中は、誰一人微動だにしない
菱和は溜め息を吐いた
「‥‥お前って、いっつもそうだよな」
「は‥!?」
「群れて強くなった気でいるだけじゃねぇか。お前一人、怖くも何ともねぇよ。‥‥っつっても、束になって来たところで烏合の衆なんぞに負ける気しねぇけどな」
菱和が向き直ると、BLACKERの残党達は後退りをした
戦意などとっくに殺がれていた
古賀はギラリと残党達を睨み付けるも、徐々に近付いてくる菱和の足音に冷や汗をかいた
「何だよ。怖いのか?俺が」
「っ誰もてめぇなんか怖くねぇよ!!」
「そうか。じゃあ、お前一人でかかってきな」
菱和は掌を上に向けて指を折り返し、古賀を挑発した
BLACKERの残党達は使えない
菱和は臨戦態勢に入り、いつでも殴る準備が出来ている
最早後には引けなくなった古賀はギリ、と奥歯を鳴らした
鼓動が早くなり、呼吸が乱れる
慌ててポケットをまさぐり、ナイフを取り出した
菱和は古賀が握るナイフを一瞥した
「‥‥一つ云い忘れてた。今お前がかかってくんなら、この場でお前を再起不能にする。動けるようになってまた同じようなことすんなら、また再起不能にする」
「は‥‥“再起不能”?‥‥‥出来んのかよ?」
「するよ、今から」
菱和は拳を握った
「‥‥お前が俺に関わろうとする限り、何度でも伸してやるよ」
ドスの利いた声と、眼光
謂われもない恐怖感が、古賀を支配する
ナイフを持つ手は震え、膝も笑い出す
それでも古賀は、菱和に対する憎しみをぶつける
「───いい加減気付けよ!俺じゃねぇ、お前が元凶なんだよ!!!お前さえいなくなりゃ全部済む話なんだよっ!!!」
そんなこと
「──────知ってるよ」
菱和は低い声で呟いた
そう、俺が全ての“元凶”だ
こんな奴と関わっちまったばっかりに、無関係の奴らまで知らぬ間に巻き込まれる
そんなのは、二度とごめんだ
だから、消えるんだよ
その存在が初めから無かったかのように
それがいちばん手っ取り早いだろ
俺が居なくなれば、全部済むんだろ
どうなっちまっても良いんだよ、この身体も心も存在も記憶も、全部
今の俺に、失うものは何もねぇ
「──────教えてやろうか?“喧嘩のやり方”」
菱和は不敵に笑い、向かってくる古賀を煽った
***
素手の菱和と、武器を持つ古賀
菱和は頬に軽く一発浴びたのみ
一方、見るも無惨に血塗れになった古賀と握っていたナイフは、情けなく地面に転がっている
その差は、歴然だった
菱和はナイフを手に取り、古賀に馬乗りになった
より殺傷能力のある握り方に持ち替えて力を込めると、古賀の顔面目掛け、一気にその刃を降り下ろす
「‥‥っあ‥っっ!!!」
古賀は死を覚悟し、固く目を閉じた
その場にいた全員が息を飲んだ
菱和が古賀を殺めたと、誰もが思った
だが、古賀が今身体に感じるのは菱和に殴られた痛みだけだった
目を開けると、そこには自分を見下ろす侮蔑を含んだ無表情
ナイフは、古賀の頬の横に突き立てられていた
「───“これ”は、人を傷付ける為の物じゃねぇ。“凶器”使わなきゃなんねぇようなら、ぜってぇ喧嘩にゃ勝てねぇよ。‥‥その悪りぃ頭でよぉく覚えときな」
菱和は吐き捨てるようにそう云い、立ち上がった
煙草を取り出し、火を点ける
そして、怠そうに煙を吹かす
───‥‥‥美味ぇ
思えば喧嘩の後の一服は美味かったなと、菱和は中学時代を思い出した
「菱和!」
静観していた駒井が菱和に駆け寄る
やはり、菱和の喧嘩の強さは目を見張るものだった
予想通り自分は何も出来ずに終わってしまったが、菱和が大怪我を負わずに済んだことに安堵した
「びびったぁ‥‥マジで刺したかと思った」
「んなことしねぇよ。‥‥まぁ、これで少しは大人しくなんじゃねぇの」
菱和は髪を掻き上げ、古賀を見下ろした
大の字に倒れたままガタガタと震え、視点が定まっていなかった
煙草の煙を吐き、菱和はBLACKERの残党達に一瞥くれた
「‥‥大勢でフクロにしか出来ねぇなら、喧嘩なんざやめちまえ。それは喧嘩じゃねぇ、“弱い者いじめ”っつーんだよ」
そう云うと菱和は煙草を投げ捨て、地面に転がる古賀とすっかり縮み上がったBLACKERの残党達を残し、颯爽とその場を離れた
駒井も、菱和の後に慌ててついて行った
「お前、あんときより強くなってねぇか‥‥?」
「さぁ。知らねぇ」
「あんときは、本気じゃなかったのか?」
「いや、本気だったよ。でもあんときと今回じゃ全然状況違うし。‥‥でも仮にあれが100%だとしたら、今日は120%だったかもしんねぇ」
「ひぇ‥‥‥古賀、相当痛かったろうなぁ‥‥」
「一遍痛い思いしねぇと、相手の痛みもわかんねぇんだよ。だから平気で人を傷付けられんだろ。喧嘩っつーのは、殴られる方は当然痛てぇけど、殴る方も痛てぇんだ。そんなこともわかんねぇ奴は、端っから喧嘩する筋合いなんかねぇ」
嘗て、菱和は絵に描いたような不良だった
万引きや薬等の行為はしなかったが、喧嘩は日常的に繰り返していた
その殆どが、『相手がやってきたから自分もやった』ものだった
その相手の多くは大概報復にやって来て、売られた喧嘩を買う日々を繰り返しているうちに次第に喧嘩慣れしていった
しかし、“凶器”を用いて喧嘩をするようなことは無かった
そんなことで勝てたとしても、何の意味もないと思っていた
ある日を境に、菱和は喧嘩をやめた
相手を殴る為に振りかざしていたその手は、楽器を弾く為のものへと変化した
喧嘩よりも、断然有意義な時間を過ごせた
一体、どんな不良だったのだろう───達観した様子の菱和を見て、駒井はそう思った
「‥‥そうだな。‥‥‥‥てか俺、ほんとに何も出来んかった‥‥ごめん」
「別に。云ったろ、お前の為にやったんじゃねぇよ」
「‥‥、手、大丈夫か?顔も」
「ああ、別に何とも」
「そっか‥‥なら、またすぐライヴ出来そうだな」
駒井の一言に、菱和は歩みを止めた
ユイたちの目の届かないところで、何とか“不利益”を取り除くことが出来た
だが、いつまた同じようなことが起こるかわからない
“元凶”である自分は、やはりあのバンドにいることは相応しくないのかもしれない
何か問題が起こる度にこんなことを繰り返していては、ライヴはおろかバンドすら続けられなくなる
バンドをやめたとしたら、もうベースを弾くこともないかもしれない
それならそれで、もう良いんじゃねぇか
あいつらを突き放したままで、今更『またバンドやりたい』なんてどの面下げて云えるか
大体、あいつらを護る為なら、俺なんかどうなったって良いんだ
バンドが出来なくても、ベースが弾けなくなっても構わねぇ
‥‥でも、あっちゃんには伝えとかなきゃなんねぇかな
「‥‥‥‥もう、戻れねぇよ」
「へ?」
「‥‥何でもねぇ」
菱和はまた煙草を取り出し、喫いながら歩き出した
69 恋ワズライ
「あのさ‥‥‥‥あっちゃんとかリサには、云わないで欲しいんだけど‥‥」
スタジオ練習を終えたユイと拓真は、足早に帰宅する
その道すがら、ユイは恥ずかしそうに拓真に云った
『言わずもがなだろ』と思い、拓真は軽く笑った
「俺からは何も云わないよ。‥‥そのうち嫌でも伝わっちゃうだろうから」
「───え゙!!」
ユイは立ち止まり、また顔を赤らめる
歩を進めていた拓真は振り返り、くすくす笑った
「‥‥俺ってそんなわかりやすい?」
「うん、めちゃくちゃ。ひょっとしたら、ひっしーにもバレちゃってるかもなー」
「え!?‥‥うぅー‥‥‥‥」
「‥‥今日はなんか食ってくか。久々にマック行く?」
「うん‥‥。俺、グラコロ食いたいな」
「そっか、もうそんな時期か。俺もグラコロにしよっかなー」
いつもなら、菱和の自宅によって夕食を作って貰っていた
しかし、今はそれは出来ない
菱和の料理は、いつも美味しかった
味は勿論申し分なかったが、盛り付けまで気を抜かずにいた
お代わりも沢山用意してくれた
飲み物がなくなると、直ぐに注いでくれていた
やはり、思い浮かぶのは菱和のこと
───またいつか、あの時間を
そう願わずにはいられなかった
***
菱和が来なくなって3週間目になる
未だ学校に菱和の姿はないが、ユイたちは相変わらず屋上に集う
段々と冬の気配が近付いてくる霜月
ドアを開けると、冷たい風が吹き抜けた
「おー、流石に寒くなってきたなー」
「もう11月だしな。そろそろ教室とかホールで飯食う?」
「皆は教室で食いなよ。俺はここで食うから」
そう云って、ユイはすたすたと柵の方に向かった
「そんなわけにもいかないでしょ、風邪引くよ」
「んーん。ここに居る」
リサの声掛けにも応じず、ユイは座り込んだ
拓真やリサのみならず、上田やカナもユイのことが気になっていた
菱和が居ないだけでこうもユイの元気が無くなるとは、予想外だった
2人はユイの恋心に気付いていないが、ユイにとって菱和が大事な友達だということくらいは普段の姿を見てとっくに理解している
一人で屋上の景色を眺めるユイの姿が、いつもそうしていた菱和の姿と重なって見えた
───健気だねぇ、ユイも
上田は軽く笑み、ぽつりと呟いた
「‥‥俺、コーンスープ飲みてぇな」
「あ、私もあったかいミルクティー飲みたい」
「お、したっけコンビニ行くべ!拓真と近藤サンはどうする?」
「俺ら、ホールに居るよ」
「じゃあ、なんか皆でつまめるお菓子買ってくるね!」
上田とカナは、足早にコンビニへと向かった
ユイを一人にするのは心許ないと思ったリサは、その後ろ姿を見つめたままでいた
「‥‥今は、そっとしといてやろ」
拓真がリサを促し、2人は屋上を後にした
「‥‥やっぱり、ユイがあんな感じなのはあいつが居ないから?」
「んーまぁ、何というか‥‥‥‥“恋患い”、ってやつですかね」
「‥‥‥は?」
「ま、見守ってやってよ。いつもみたいに」
特に心配の色を見せることもなく、拓真はリサの肩を軽く叩いた
拓真の様子から、過剰に心配する必要はないのだろうとリサは思った
だが、小さく哀しげなユイの背中が気になり、少しだけ胸がちくりとした
***
ユイは昼食を置いたまま、ぼーっと景色を眺めていた
草木や空の色、空気までもが、学校祭と時期に見た風景とは違う
あれは初夏だった
賑やかな校内、ざわめく木々
放課後、2人並んで座り、他愛もない話をした
つい半年くらい前のことだが、何だかとても懐かしく感じてしまう
季節はすっかり秋になり、吹き抜ける風は冬の訪れを予感させる
ユイたちが出入りする以前、菱和は独りで屋上にいた
今のユイと同じように、ぼんやりと景色を眺めていたのかもしれない
アズは今も、独りで何処かに居るんだろうか
それとも、誰かと一緒に居るのかな
独りは、淋しいな
アズは、いっつもこんな気持ちだったのかな
俺なんかと違って強いから、独りでも平気だったかな
俺、やっぱうるさかったかな
独りでいた方が、アズは気楽だったかな
でも、俺は、アズと一緒の方が良いな、やっぱり
きゅうう、と、腹の虫が鳴った
「‥‥‥‥腹減った」
ユイは漸く、昼食を食べ始めた
68 Fallin’ 【Y SIDE】
『菱和が問題を片付けるまでバンドは一時休止。但し、個人練は怠らない』と決まった数日後
ユイと拓真は気持ちを切り替えるのには最適だと判断し、スタジオに行って音を出すことにした
アタルは相変わらず課題に忙しそうなので、暫くは2人での練習になりそうだった
「店長、こんにちは」
「お、いらっしゃーい。Bスタ、もう入れるよー」
「え、でもまだ少し時間あるし‥‥」
「ぜーんぜん気にしないで!今日は予約少ないし、ゆっくり使ってって良いよー」
「いつもすいません、有難いっす」
「いえいえー」
拓真が我妻と話をしている間、ユイは喫煙所の方を見つめていた
いつも
アタルと並んでベンチに座ってのんびりと煙草を喫い、他愛もない話をしていたんだろうか
自分の知らぬ間に、煙草が2人の信頼関係を築いていたのか
そろそろ、あの扉から菱和が入ってくるような気がしてならない
シルバーのメッシュが入った黒い長髪を揺らして怠そうに、腰から提げたウォレットチェーンを鳴らして───
「‥‥行こ」
拓真に背中を叩かれ、ユイははっとした
名残惜しそうに喫煙所の方を見つめ、拓真と共にBスタジオに入った
拓真には、ユイの視線の先と、『一体何を考えていたのか』ということが手に取るようにわかった
ドアを閉めると、ユイはギターをスタンドに立てて椅子に座り、小さく溜め息を吐いた
拓真もドラムセットの椅子に座り、ユイの図星を突いた
「‥‥ひっしーのこと考えてたんでしょ?」
「ん‥‥うん。‥‥‥皆で“待つ”って決めたけどさ、アズに会えないのはやっぱ淋しいなー‥‥って」
そう云って、ユイは薄く笑った
「───好きなんだもんな。ひっしーが」
拓真は敢えて“好き”という単語を口にした
「‥‥え?う、うん‥好き、だよ。大事な友達だもん」
「いや、“そういう好き”じゃなくて」
「へ?」
上手く核心をついたつもりだったが、どうやらユイはピンときていないようだ
───あーあ、ほんと鈍いんだから
この際だからと、拓真は立ち上がってユイの前へ行く
「目ぇ閉じて」
「‥は?」
「いいから目ぇ閉じて」
拓真はユイの目を手で隠した
その意図を理解する間もなく目の前を遮られ、ユイは云われるままに瞳を閉じた
「‥‥今、真っ先に思い浮かぶのは、誰?何も考えないで、“その人”のことだけ考えてみ」
拓真の問いに、ユイは一度頭を空っぽにした
無愛想な無表情
怠そうに煙草の煙を吹かす横顔
時折見せる笑顔
鮮明に、克明に、次々と菱和の顔が思い浮かんでくる
意識せずとも、今まで見てきた菱和の顔が浮かぶ
不思議な気持ちだった
同じ空間にいなくても、つい菱和のことばかり考え、菱和の顔ばかり思い起こされる
さっきだってそうだ
いつも菱和がいる場所に、居るような気がしていた
怠そうな歩みと共に鳴るウォレットチェーンの音が聴こえてくる気がした
あの香水の香りが、漂ってきそうな気がした
ユイの頭の中を占拠しているのは、菱和だった
「‥‥その場にいない人のことって、相当その人のこと想ってなきゃ思い浮かばないじゃん。‥‥友達としてじゃなくて、それ以上にひっしーのこと特別に想ってるんじゃないの?俺もひっしーのこと好きだし尊敬してるけど、お前の“好き”はもっと“特別なやつ”でしょ」
拓真はユイの気持ちを代弁する
「‥‥違う?」
手を退け、こくんと首を傾げた
優しい菱和が、大好きだ
菱和の笑った顔が、大好きだ
それは“友達として”という感覚だと、ずっとそう思っていた
菱和が時々見せる笑顔や突然触れてくる手に、心臓が鳴った記憶がある
身体中の熱が上がり心臓が早く動くあの感覚に、ずっと違和感を覚えていた
何故そうなるのか、さっぱりわからなかった
拓真に云われた今、それが恋愛感情だったのだと、ユイは初めて自覚した
気付けば、目を丸くしたまま顔を真っ赤にしていた
拓真は思わず、くす、と笑う
「‥‥やっぱりね」
「‥‥‥‥たく‥ま‥‥お、俺‥‥」
ユイは口をぱくぱくさせたが、堪らず顔を伏せ、困ったような顔をした
「‥いつから‥‥わかってた?」
「ずっとそう思ってたけど、俺は」
「ずっと、‥‥?」
「んー‥‥‥ひっしーがバンド入ってちょっとしたくらいかなぁ」
「‥‥‥‥何でそう思った、の?」
「‥‥なんとなく?」
そう云って、拓真はドラムセットの椅子に座った
「惚れるのもわかるよ。優しいし格好良いし男前だもん、ひっしーは。同性から見ても、『良いな』と思うもんね」
言葉にしなくても、拓真にはこの気持ちは明け透けだった
そう思うと、恥ずかしくて堪らない
耳障りなほど、心臓が五月蝿い
そのうち爆発してしまうのではないだろうかと思うくらい、胸の鼓動はバクバクし続ける
ユイは唇を尖らせ、萎縮した
話を聞いてくれた
一緒に演奏してくれた
ご飯を作ってくれた
下らない話に付き合ってくれた
一緒にサボってくれた
車で送ってくれた
自分の誘いを真剣に考えてくれた
大切なものを護ってくれた
ベッドに寝かせてくれた
震える手を握ってくれた
抱き寄せてくれた
『恩人』だとお礼を云ってくれた
笑い掛けてくれた
いつも、隣に居てくれた
今まで菱和がしてくれたことの全てが、嬉しかった
自分の感情を認めた今、その行き場が無くなる
「変、だよね‥‥こんなの、普通じゃないよね」
「何?普通って」
「普通は、女の子に抱く気持ちだよね?でも、アズも俺も男だし‥‥」
「───だから?」
「‥‥え‥‥‥‥?」
「『だから何?』って感じ。‥‥‥人を好きになるのって、凄く素敵なことだからさ。相手が男でも女でも、関係ないっしょ」
拓真はタムに頬杖を付いて、にこっと笑った
ユイの気持ちに気付いた当初から、拓真はその恋を応援するつもりでいた
ユイが誰を好きになろうが、自分がユイのマブダチであることはこの先もずっと変わらない
後押しが必要なら、遠慮なく背中を押してやる
愚痴りたければ、思う存分捌け口になる
マブダチとして、出来る限りのことをしたいと思っていた
純粋に人を想う気持ちは、誰にも止められはしない
ユイの場合は、叶わない恋になるかもしれない
だが、それはそれで良いのではないか
そこまで人のことを想えるその気持ちを、大切にして欲しいと願った
『お前は、そのまんまがいちばん良い』
いつか菱和が云った言葉が、ユイの頭の中に反響する
そうか、そうだ
俺はアズが好きだ
あっちゃんはアズが俺らのこと『気に入ってる』って云ってたけど、俺は少し‥‥いや、大分違ったみたいだ
ひょっとしたら、アズは俺の気持ちなんか迷惑かもしれない
かといって、今更簡単に止められる想いでもない
今はまだ心に仕舞っておく
『アズを好きになった』
この気持ちを、大事にしよう
いつか機会が巡ってきたら、その時アズに打ち明けよう
ユイは、照れ臭そうに笑った
「ありがと、拓真」
「うん。‥‥さ、なんか演ろう!」
拓真は思いきりスネアを叩いた
67 Waitin' ①
「ああもう何なんだよ2人揃って辛気臭せぇ面しやがって!シャキっとしろ!」
菱和との一件の報告をと、ユイと拓真は課題の手が空いたアタルの自宅へ集まった
アタルが3人分のコーヒーの乗った盆を持ち自室へ戻って来ると、2人は俯き、深刻そうな顔をしている
特に、ユイは菱和の実家から帰宅して以来ずっとそんな調子だった
この様子じゃ食事も満足に摂らなかっただろうなと思い、拓真は溜め息を吐く
「‥‥それが出来たら苦労しないよ‥‥‥‥」
「あん?なんかあったのか?」
自分用の濃いブラックコーヒーを一口啜り、アタルは眉を顰めた
「‥‥最近、ひっしーずっとガッコ来てなくてさ。何日か前にアパートとかあけぼのの実家とか行ってみたんだ。実家の方に居たみたいで、たまたま会えたんだけど‥‥‥」
「‥だけど?」
「‥‥‥‥‥アズ、もう俺らと『バンドやらない』って。‥‥‥‥ずっと、遊びで付き合ってたって‥‥『良い暇潰しだった』‥って‥‥‥‥」
「喋り方も表情もいつもと全然違くて、ひっしーじゃないみたいだった。一方的にそんなこと云われたから、全然頭が追い付かなくてさー‥‥‥‥」
ユイは、今にも泣き出しそうな震えた声でぽつりぽつりと話した
拓真も途方にくれたように、頭を掻いてあの日の状況を伝える
思い出す度に胸が苦しくなる、菱和の最後の言葉
あの顔も、あの言葉も、全ての出来事が幻であって欲しいと何度も願った
一方的に告げられた脱退と別れに、ユイは酷く落ち込んだ
それもこれも『もし自分の所為だとしたら』と今までの自分の言動の全てに夜通し後悔が渦巻き、夕べは明らかに寝不足だったとわかる顔をしている
天真爛漫、明朗快活が服を着て歩いているようなユイの目付きに活気がほぼ無く、拓真もアタルも今のユイの姿に居た堪れなくなりそうだった
───なるほど、そうきたか。‥‥ほんと、不器用だな
アタルには菱和がどのように行動するのか幾つかのパターンが浮かんでいたが、やはり自分一人だけで解決する道を選んだのだと知り、“菱和らしい”とも、少し“残念”だとも思う
『でも自分が“楽しい”とか“これが良い”って思ったら、結局何でも良いのかなって』
その手段が本当に正しかったのかどうかはさておき、それは菱和が自分の気持ちに従ってやったこと
それならば、自分達のことを想ってくれた友達への惜しみ無い気遣いを有り難く受け取ることとして、全てを成し遂げるまで見守るしかない
恐らくそれが自分達に出来る“精一杯”だと、アタルは思った
「ふーん‥‥‥‥」
「『ふーん』て‥‥それだけ?何で驚かないの?俺ら、結構ショックだったんだけど」
「‥‥だってこの前、あいつうちの店来たし。そんとき色々聞いたし」
「──────え!!!!?」
アタルはフルボリュームの声に吃驚し、咥えていた煙草を落としそうになった
2人は、身を乗り出して必死に問う
「何だよそれ!いつの話!?」
「『この前』ってどれくらい前!?」
「あ?あー‥‥‥2週間くらい前、かな」
呑気に煙草を吹かしながら今頃になってそれを伝えるアタルに、ユイは食って掛かった
「───‥っ何で黙ってたんだよそんな大事なこと!!あっちゃんはもうアズのことなんかどうでも良いっての!?」
途端、アタルはギラリとユイを睨み付けた
「んなわけねぇだろバーカ!!あいつにも俺にも色々事情があんだよっ!!普通に考えてあいつが本気でそんなこと云うわけねぇべ!バンドが“遊び”だったって?冗談抜かせ!あいつはそんな軽率な奴じゃねぇよ、もしそうなんだとしたら何でわざわざ俺んとこ来て『バンド休ませろ』なんて云う必要があんだよ!勝手に消えりゃ良いだけの話じゃねぇか!!」
ユイの怒鳴り声に負けじと声を張り上げ、矢継ぎ早にがなるアタル
ユイと拓真は、アタルが話したことを頭の中で繰り返した
何をどう考えても菱和の言動とは矛盾しており、2人は益々困惑する
「何‥‥それ」
アタルは一息吐き、今度は穏やかに、冷静に話した
「‥‥‥あいつな、『“出来ることなら”抜けたくねぇ』ってよ。わざわざうちの店来て俺に嘘吐きに来る必要がどこにある?意味不明過ぎんだろ。それに、俺には『辞める』じゃなくて『休ませてくれ』って云ってた。だから、お前らに云ったことは本音じゃねぇよ、ぜってぇ。‥‥俺が保障してやる」
ユイや拓真が菱和を想う気持ちは、アタルもまた同じだ
菱和は、ユイたちと“一緒に居たい”という想いを押し殺し、“護りたい”という想いを優先させた
自分自身が危険因子だと捉え、自分が居なくなることで“ある問題”の早期解決を図るつもりでいる
わざわざアタルのバイト先に出向いたことから察するに、それは不本意な決断だったのであろうことは想像に難くない
そんな不器用な一面も、菱和らしいところなのかもしれない
どんな想いで自分の店に足を運んだのか
不本意な決断を下すのにどれほどの勇気を要したのか
どんな気持ちでユイと拓真を突き放したのか
自分達のことを想ってくれている気持ちを無駄にはしたくない
アタルは、そう思っていた
菱和がふざけていたとも、アタルが嘘を吐いているとも思えない
昨日の菱和の言葉は自分達の為に已む無く吐き出されたものだとわかり、ユイは胸がぎゅっとなった
「‥‥あっちゃんには、そんな話してたんだ‥‥」
色々と合点が行き、拓真はぽつりとそう云った
「一応、『リーダーだから』ってよ。ほんとそういうとこ真面目よな、あいつ。いつまで経っても敬語で喋りやがるし」
───ひっしーらしいや。きっとまた、あっちゃんが『敬語使うな』って云ったのに真面目な顔して『はいわかりました』とか云ったんだろうな
本質的には菱和は変わっていないのだと思い、拓真は安堵した
「他に、何か云ってた?」
「なんか、『自分がバンドに居ることで生じる不利益を今すぐどうにかしたい』、ってよ」
「‥不利益‥‥‥?具体的に、どういうものか聞いた?」
「いや。なにか出来ることあんなら協力してぇと思ったけど『一人でやる』っつったからよ。そんなに突っ込む気もなかった」
ユイにも拓真にも、菱和が語ったという“不利益”について思い当たることが一つだけあった
それは、菱和の元バンドメンバーがリサとカナを付け回したこと
どういう流れで耳にしたのかはわからないが菱和はそれを知り、また責任を感じて今度も自分一人で解決しようとしているのだろう
あの話をしてから、ユイも拓真も菱和に察せられないようごく自然に振る舞った
菱和の前では絶対にそのことを口にせずにおり、リサやカナから情報を得たとも考え難い
もしかしたら、直接話を聞いていたのかもしれない───
菱和が居ないところで件の話が出来たと思っていた拓真はそんなことが頭を過り、より細心の注意を払うべきだったと猛省した
「そっかー‥‥‥。‥‥てか、あっちゃんはどうするつもりでいたの?」
「端からあいつの問題が片付くまで待つ気でいたよ、機会見てまた声掛けるさ。あいつはバンドに必要な人間だ。今すぐ代わりを捜す気はねぇ」
「‥‥‥‥それでも、もしアズが『もうやらない』って云ったら‥‥?」
ユイは、最大の不安を口にした
アタルは煙草を消し、コーヒーを一口啜った
「あいつが折れるまで口説くよ。‥‥でもあいつ頑固だからな‥‥‥ほんとにマジでどうしょもなかったら‥‥そんときゃそんときだ」
自分のカップを置くと、2人にコーヒーの入ったカップを渡しながら尋ねる
「‥‥‥‥で?お前らは、どうしたい?」
アタルは、いつも『どうしたい?』と訊く
菱和が加入する前のHazeのリーダーは尊だったのだが、それはその名ばかりのものだった
それも『アタルよりも誕生日が早いから』という理由のみで決められたことであり、基本的には尊とアタルが2人でバンドの方針を決めていた
尊が脱退した直後より、アタルは『面倒臭せぇ』と思いながらも“年功序列ルール”に則りリーダーを務めることになった
ルール云々よりもまず、バンドの最年長者であるアタル
『一番年上だからリーダーにならなくてはいけない』ということは決して無いのだが、自分から学ぶことなど皆無かもしれないと思いつつも“人生の先輩”であることに変わりはない
だからと云って、口は悪いが威張ったりはせず、常に2人の意見を尊重するよう心掛けている
冷静且つ幅広い視点でバンドやメンバーを見られる能力のあるアタルは、リーダー気質なのだ
ユイも拓真も、穏やかに『どうしたい?』と訪ねられ、心置きなく自分達の気持ちを整理した
拓真は少し冷えたコーヒーを啜り、ふ、と息を吐いた
「‥‥‥‥俺も待とうかな、ひっしーの問題が片付くの。いつ終わるかはわかんないけど、いつかは絶対終わるよね」
「そうだな。‥‥おいチビ、お前は?」
ユイは受け取ったコーヒーに映る自分の顔を見つめていた
何とも情けない顔だった
アタルも菱和も、いつも自分達のことを考えて行動しているというのに、『菱和が居なくなったのは自分の所為だ』と悩んでばかりいた
きっとこのままでは何も変わらない
今の自分には何が出来るか、それを考えて行動するしかない───
「‥‥‥‥俺もアズのこと待つ」
唇を噛み締め、ユイはそう呟いた
アタルはぐしゃぐしゃとその頭を撫で回す
「ぅわっ‥‥!」
「じゃあ、そういうことでいくべ!あいつの問題が解決するまで、バンドも休み!ただ、個人練習はサボらねぇこと。それで良いか?」
アタルはニコッと笑い、ぽん、とユイの頭を叩いた
「‥‥うん」
「おっけー」
特に異論もなく、ユイと拓真は頷いた
「あー‥‥あともう一つ。あいつ、お前らのことすげぇ気に入ってると思うぞ。『こんなバンドにはもう二度と出会えない』って云ってたし。てめぇの気持ち偽ってでも大事にしたいと思ってんだよ、お前らのこと」
そう云って、アタルは新しい煙草に火を点ける
今の2人を、より安心させる言葉だった
やはり、菱和は変わっていない
ユイも拓真も、菱和の想いがじんわりと胸に沁みた
「‥‥俺もそう思うわ。このメンバーじゃなきゃ、駄目なんだよね」
「‥‥俺も、みんなのこと大好き」
「知ってるっつーの!っつうか、あいつとなら泥被ったって何とも思わねぇよな?」
「‥そんなことくらい、寧ろ喜んでやるし!」
「一緒に問題解決することくらい、どうってことないんだけどなー」
「俺もそう云ったんだけどよ、やっぱ相当頑固だわあの野郎。‥‥‥‥だから、あいつがいつでも“ここ”に帰ってこれるように準備しとこうぜ。俺らが出来るのはもうそんくれぇのことしかねぇよ、多分」
アタルは溜め息混じりに煙を吐いた
バンドとしては、菱和が下した決断を全て受け入れ、“来るべき時”に備えると決めた
また4人でバンドが出来る日を待ち望み、ユイは漸くコーヒーに口を付けた
「っうえっっ!苦っ!!‥‥あっちゃん!何だよこれ!」
「あ?お前は“角砂糖3つ”だろ!?ちゃんと入れたっつーの!」
「あー、こっちがユイのだよ。滅茶苦茶甘いもん」
「何で取り替えようとしないんだよっ!俺がブラック飲めないの知ってるくせに!」
「いやー、どんな反応するのか見てみたくて」
「‥拓真の意地悪!」
「そうカリカリすんなって。ほら、俺のと取り替えてやっから」
「あっちゃんだって何も入ってないだろ!何だよ2人して、苦いコーヒー飲めるからってバカにして!」
拓真とアタルは何時ものようにからかい、ユイも自分らしさを見せた
菱和との約束を無事に果たしたアタルは、少しだけ肩の荷が下りたような気がした
楽器の技術は折り紙付き
その上、見た目に反し随分と情の深い人間であったのだということを知る
菱和という人間をバンドに加入させたことに後悔など何一つ無い
『幾らでも待てる』と思わせるほど、その腕と人間性には価値がある
菱和の持つ“全て”が、バンドにとって必要不可欠なものとなっていたのだと実感するアタル
ふざけ合うユイと拓真を見て、呆れたように口角を上げた
───‥‥‥‥自己犠牲が過ぎんぜ、お人好し。早く帰ってきやがれ
66 “友達ごっこ”
アタルに話を通したところで凡そ一週間ほど時間を使い、菱和は駒井から情報収集をした
どうすれば古賀の脅威からユイたちを遠ざけることが出来るかを、思案し続けた
その間、一度も学校には行かず、ユイや拓真が不審に思い訪ねてくる可能性もあるだろうと思い、実家に赴いていた
連絡をしてみると両親は長期で家を留守にしていることがわかり、学校に行かないことを咎められる心配もない
ほんの少し罪悪感を抱きつつも、心置き無く実家で過ごした
自分の部屋として与えられた、8畳の室内
アパートと同じく必要最低限の物しか置かれていない殺風景な空間に、煙草の煙が漂う
菱和は椅子に座り、机に頬杖をついてぼーっとしていた
携帯が音を奏でる
恐らく、ユイか拓真からの連絡だ
もう何度目だろう
登校しなかった最初の日から、毎日連絡を寄越している
『今日、学校休み?』
『風邪引いたの?』
『アズ大丈夫??寝てたらごめんね』
『今日17時からスタジオだよー!来れたら来てね!』
『ひっしー、具合悪いの?メール見てたら返事くれると嬉しいっす』
『なんか必要なものあったら買ってくよ!』
『今まで休んだ分のノート取ってあるから、学校来たときに渡すね』
菱和は、完全無視を決め込んだ
折り返し電話をかけることもなければ、メールも読んではいるが一切返信していない
多少頻度は減ったものの、それでも2人は電話とメールをし続けている
きっと、他にも方法はあった筈だ
だが、今はまずユイたちから距離を置くことしか考えられなかった
要らぬ心配をし、何の事情も聞かされず只管無視され、2人はわけがわからないでいるだろう
『薄情な奴だ』と、いっそこのままフェードアウトしてくれれば───つい、そんな都合の良いことを考える
──────‥‥‥‥俺なんかの為に
チカチカと着信の報せが点灯している携帯を見て、菱和は罪悪感を募らせた
***
菱和が学校に来なくなってから一週間余り
拓真も菱和にメールをしたが、返事は一向に返って来ない
「もう、一週間経つよね‥‥」
「うん。流石に心配だな。風邪にしちゃ長引いてるし、なんか別な事情あんのかもしんないなー」
「‥‥俺さ、これからアズのアパートに行ってみようと思うんだけど‥‥‥‥拓真、‥‥ついてきてくれる?」
「ああ良いよ、勿論。ってか、何でそんなこといちいち確認すんだよ」
「‥‥俺、アズになんかしちゃったかなぁ‥‥と思って」
「そうなの?」
「‥‥‥もしそうだったらなんか気まずくて‥‥って云っても、身に覚えは無いんだけどさ‥‥」
「まぁそりゃそうかもな、お前の場合。空気読まないのが特技だしな」
拓真はいつもの調子で軽く笑った
ユイは『やはりそうなのか』と思い、俯きながらぽつりぽつりと話す
「‥‥‥‥、やっぱり、俺無自覚に人のこと傷付けてんのかなぁ。‥‥拓真も、俺の所為で嫌な思いしたこと、ある?」
ユイはナーバスになっており、拓真の云ったことを真に受けてしまっていた
菱和が居ないことが、その原因が自分にあるのではないかと思い落ち込むほど、ずっと自分の性格について考えていた
今までは、そんなことをこれほど真面目に考えたことはなかった
空気を読まないことは自覚しているが、そのことで本気で怒ったりする人間は周りにはいなかった
それは周りの人間の優しさか、それとも諦めか、どちらにしても、迷惑を掛けたことも無くはない筈だと思った
もし菱和を怒らせたり困らせたりして愛想を尽かされたのだとしたら、この性格は改めなくてはならないと真剣に悩んだ
いつも天真爛漫なユイのこんな姿は、付き合いの長い拓真でさえ初めてに見るに近いほど
───ひっしーが居ないことが、よっぽど堪えてんだな。そりゃそうか、だって‥‥‥‥
拓真はユイの肩をぽん、と叩いた
「‥‥冗談だって。俺はお前と居て、嫌な思いしたこと一度も無いよ」
「‥‥‥‥ほんと?」
「ん。そうじゃなかったら、こんなに長いこと一緒にも居ないべし」
そう云って、拓真はにこっと笑った
ユイとの長い付き合いの中で、拓真はよく『何故ユイのようなちゃらんぽらんな奴と一緒に居るのか』と不思議がられることがあった
“空気の読めない困ったちゃん”の程好いストッパーともなっており、ユイの“お守り”と云われたこともある
だが、拓真はそのことを負担だとか面倒臭いなどと感じたことはなく、周りのそういった声は寧ろ『余計なお世話』だと思っていた
空気が読めないことに困る以前に、ユイと友達で居ることは自分にとって物凄く価値のあること
拓真は、自分の意志でユイと一緒に居るのだ
今の自分の姿が恥ずかしくなったユイは、少しはにかんだ
珍しく過剰にナーバスになっているユイにとって、マブダチである拓真の存在は心強かった
***
アパートまで行ってはみたものの、菱和は不在だった
チャイムを押しても、ドアを叩いて呼び掛けても、菱和は出てこなかった
このアパートには菱和しか住んでおらず、他の住人に尋ねるという手立ても使えない
ユイと拓真は諦め、仕方なく帰宅することにした
「はー‥‥‥‥‥やっぱりなんかあったのかなぁ‥‥」
落胆の色を隠せず、ユイは益々菱和のことが心配になった
落ち込むユイを見て、拓真は菱和のことは勿論、ユイのことも心配になった
「‥‥‥‥‥‥案外、実家に居るかもしんないな」
ふと、拓真が一つの可能性を口にした
盲点だった
菱和には、帰るところが実質2つある
ユイはぱっと顔を上げて、ぱちんと手を叩いた
「‥そっか!じゃあ実家も行ってみよ!」
「っつっても、“あけぼのの高台”ってことしかわかんないしなぁ‥‥大雑把過ぎる」
「一軒一軒回れば良いっしょ!」
「マジで?まぁ‥‥恐らく表札掲げてるよな」
「‥‥ついてきてくれる?」
「当たり前っしょ!早く行くべし!」
笑顔で促す拓真にどこまでも感謝し、ユイは弾けるような笑顔を見せた
先程までの落胆振りなど無かったかのように生き生きとし出したユイを見て、拓真は少し安堵した
***
2人は高級住宅街方面へと、只管自転車を漕ぐ
僅にでも可能性があるなら、それに賭けたい
アズに、会いたい──────
ユイは、期待に胸を膨らませた
2人は高台までの長い登り坂の手前で自転車を降りた
今度は自転車を押しながら、一軒一軒表札を見て回った
豪邸ばかりが立ち並ぶ、この街の一等地
その一つに、菱和の実家がある
住宅街とはいえ軒数はさほど多くはなく、10軒目辺りで“菱和”と書かれた表札の家を見つけた
2人は目の前の豪邸を見上げ、絶句した
菱和の実家であろう住宅は、ユイ達の自宅周辺にはまず無い規模のものだった
その面積は、凡そ200坪
必然的に、土地面積は更に大きい
煉瓦の塀で囲まれ、出入り口には鉄製の頑丈な門が設けられている
白と黒の高級感溢れる3階建ての上物には、5台ほど駐車出来そうなバカでかいガレージが併設されているのが見えた
他の住宅もかなりの規模のものだが、これほどまでにでかい家だとは全く予想がつかず、2人は思わず息を飲んだ
「これ‥‥‥‥だよね」
「‥‥‥‥多分」
「‥でっけぇなぁー!!これがアズんちかぁ!」
「なんか、とてつもないクラスメイトだったんだな、ひっしーって。‥‥急に遠い存在に思えてきた」
目の前の豪邸にただただ感心し興奮するユイに対し、拓真は『建築費用に一体幾らかかったのだろう』と途方もないことを思った
ユイは自転車を停め、躊躇わず呼び鈴を鳴らした
暫し待ってみるものの、応答は無かった
「‥‥居ないね」
「‥‥居ないな」
「‥‥‥‥‥‥」
菱和に会えるかもしれないという期待は外れ、ユイは軽く溜め息を吐いた
「‥‥もしかしたら今はたまたま出掛けてるだけかもしんないし、こっちもあっちもまた来てみるべし!‥さ、陽暮れるから帰ろ」
「‥‥‥‥うん‥!」
本当は、菱和の姿が確認出来るまで家の前で待っていたいくらいだった
だが、そんなことをしたら拓真にも迷惑をかけてしまう
また日を改めようと決め、ユイは前を向いて自転車を押して歩き始めた
陽が傾き始め、空が橙に染まり出す
ユイは菱和に会えることを待ち望み、拓真はえらくこの場に馴染めないと感じながら、自転車を押して歩く
坂道を下っている途中、前方からやたら長身の男が怠そうに歩いて来るのが見えた
それが待ち望んでいた菱和の姿だと認めるのに、時間はかからなかった
「‥アズだ」
「え‥‥‥‥あ、ほんとだ!ひっしー!」
「アズ!!」
ユイは菱和に手を降り、自転車を押しながら走った
拓真も、そのあとに続く
煙草を買いに出掛けているところだった菱和は、自分を呼ぶ声に顔を上げた
前方に見える、自転車を押して坂道を下る制服姿のユイと拓真に、驚きを隠せなかった
自宅までは数百メートル
電話やメールのように無視することも出来なくはない
だがわざわざ実家を訪ねてきたくらいだ、2人は納得しないだろう
今すぐ、どうにか突き放すしかない
でないと、2人はまたこうして訪ねてくるだろう
一時的にでも永遠にでもどっちでも良いから、自分との接点を早く立ち切りたい
そうすることしか、今の俺には出来ない───
菱和は覚悟を決め、その場で立ち止まった
「めっちゃ心配したよ!メールも電話も返事来ないし、『独りで倒れてたらどうしよう』とかって‥‥」
「元気そうで安心したよ。もしか、ただのサボり?」
「‥‥どうしたの?アズ」
2人が傍まで来ても、菱和は声を発さなかった
わざわざ俺を捜しに来たのか、何の連絡も返さないから
そりゃあ不思議だよな、つい前日まで仲良く喋ってた奴が、いきなり行方晦ましたんだから
でも、俺にそこまでする価値があんのかよ
一体、何の為にそこまでするんだ
‥‥‥‥いや違う、“ここまでさせちまった”んだな
何つーか、マジで良い奴だなこいつら
そこまで俺のこと想ってくれてんのか
だったら尚のこと、俺みてぇな人間と一緒に居るべきじゃねぇ
“あんな”危険も、その可能性も、全部こいつらの前から無くしたい
何が何でも“護る”って、決めたんだ
その為なら、俺なんかどうなったって構わねぇ
今までこいつらと過ごしてきた時間に、何の後悔も無い
「──────もうお前らとバンドやらねぇ」
菱和は一言、そう呟いた
頭の中で考えていたこととは全く裏腹の、冷たく突き放す言葉
「‥‥‥‥え」
ユイも拓真も、目を丸くした
突然の脱退宣言に、ただ驚くばかり
訳がわからず2人が困惑していると、菱和は今までに無いほど感情の無い声で話した
「‥‥‥‥やっぱり、俺には“友達ごっこ”でしかなかった。ダチとかバンドとか、危うくマジになりそうで、バカみてぇだった。‥‥ベースは早いとこ他の奴当たってくれ」
あまりの感情の無さに、今目の前にいるのは『本当に菱和なのか』と思わず疑ってしまうほど
ユイは眉を顰める
「‥‥‥‥ア、ズ‥‥何‥云って‥‥」
「ちょっと待って、ひっしー‥‥」
拓真には、菱和の言葉が本心とは思えなかった
2人の疑念や困惑を他所に、菱和は更に2人を憤らせるような言葉を放つ
「“友達ごっこ”も、案外楽しかったよ。ありがとな、今まで。良い“暇潰し”だった」
薄ら笑いを浮かべ、菱和はそう云った
ユイの中の何かが、プツンと切れた
「───なんだよそれ」
抑揚なくボソリと呟いた刹那、ユイは菱和の胸ぐらを掴んだ
自転車がガシャリと音を立てて倒れる
「何だよそれっ!!!どういうことだよ!!?」
「‥ユイ!!やめろって!」
完全に冷静さを欠いたユイは拓真の制止も聞かず、両手に力を込める
菱和は若干よろけた
「“友達ごっこ”って何だよ!?本気でそんなこと思ってんのか!!今まで遊びで俺らと付き合ってたって云うのかよ!!?俺は───」
そこまで怒鳴り散らしたところで、ユイははっとした
元々菱和は無表情だが、目の前にあるのは、今まで以上に固く、冷たい、ただの“無”
そこからは、何も感じ取れない
「今は‥‥‥止めとこ」
拓真はユイの腕をそっと掴み、菱和から離した
ユイはそのままだらりと脱力した
菱和は表情を崩すことなく、何も云わず去っていった
門を開け、中に消えていく
がしゃん、と門の閉まる音が、閑静な住宅街に谺した
残り香に、『あれは確かに菱和だった』のだと思い知らされる
呆然と立ち尽くすユイ
まるで化け物でも見たかのような驚愕さ、空しいような、哀しいような、それらが全て混ざり合った、何とも云い難い顔をしている
拓真は自分の自転車を停めてユイの自転車を起こし、その背中を軽く叩いた
「‥‥ひっしーが本気であんなこと云うわけないじゃん。きっと何か理由があるんだよ、あっちゃんに相談してみよ?」
拓真に促され、ユイは漸く動き出した
やっと会えた、嬉しかった
幸せに思えたその気持ちは、あっという間に瓦礫のように崩れる
心にぽっかりと穴が空いてしまったように感じた
「‥‥‥‥‥‥‥アズ‥‥‥‥」
何時かのように菱和の愛用する香水の香りを反芻しながら、ユイと拓真は夕暮れの住宅街を抜けて行った
***
自室に入った菱和はドアを閉め、そのまま寄り掛かり、前髪を掻き上げた
無機質な天井を見上げると、何とも云い難い表情のユイの顔を思い出す
拳を握り、思い切りドアを叩き付けた
哀しませたくなんかなかった
傷付けたりしたくなかった
ユイのあんな顔、見たくなかった
だが、2人を突き放すことが出来た
これで良い
これであいつらと会わないで済む
失ったものはめちゃめちゃでかいけど、あいつらが無事でさえいてくれればそれで良い
“ごっこ”なんかじゃなく、確かに俺は満たされてた
あとは、静かに忘れてくだけだ
例え2度と戻れなくても、今まであいつらと過ごしてきた時間は偽りじゃなく、頭にも心にもしっかり刻まれてる
それだけで、もう充分だ
唯一心残りがあるとすれば、“想いを告げられなかったこと”‥‥か──────
65 Worry
相変わらず他愛ない話をしながら、何時ものように登校するユイと拓真
教室に溢れる話し声や笑い声に、自然と混ざっていく
リサやカナも登校し、昨日観たテレビの話題で盛り上がる
予鈴が鳴り、生徒たちは名残惜しみながら着席し、担任が来るのを待つ
ふと、教室を見渡すと、菱和の席が空いているのに気付く
「あれ、アズ‥‥」
朝のホームルームが終わってから、ユイは菱和にメールをした
『今日、学校休み?』
少し心配になりつつ、ユイは菱和からの返信を待った
しかし、待てど暮らせど菱和からの返信はない
そうこうしているうちに昼になり、『もしかしたら教室に来ないだけで屋上には居るかも』という淡い期待を抱き、拓真や上田たちと共に昼食を持って屋上に向かった
屋上に、菱和の姿はなかった
ユイは少しがっかりし、初めて菱和が居ない屋上での昼休憩を過ごした
「菱和くん、どうしたんだろうね。やっぱ休みなのかな」
「何だよ、来てないの?風邪でも引いたんか」
カナや上田も、菱和が登校していないことに違和感を覚える
ユイは小さく溜め息を吐いた
「朝メールしたんだけど、返事返ってこないんだよね」
「え、まだ返事来てないの?」
「うん‥‥なんかあったのかなぁ‥‥‥‥」
朝送ったメールにまだ返信がないことで、流石に拓真も菱和のことが心配になってきた
「気付いてないだけかもよ」
リサだけは、心配しているような態度をとらない
確かに『妙だ』とは思っていたが、返信する気があっても忘れてしまうことは良くあることだ
「だと良いんだけど‥‥‥」
「ま、今日一日返信待ってみたら?誰だって体調悪くなるときくらいあるっしょ」
「‥‥そうだね、待ってみる」
ユイは小さく頷き、昼食を摂り始めた
放課後になっても、菱和からの返信はなかった
ユイはやはり菱和を心配しつつ帰宅した
今日は拓真がバイトなので、バンドの練習は無い
そうなると、特に菱和と会えそうなきっかけもなく、いっそ安否確認に菱和のアパートへ行こうかと思ったが、本当に具合が悪ければそれも迷惑になってしまうかもしれない
取り敢えず、拓真に云われた通り、今日一日は菱和からの返事を待つことにした
ギターを弾いて過ごしていると、外はすっかり暗くなっていた
時刻は21時を過ぎていた
ユイは2階の自室から1階に降り、リビングの電気を点けて冷蔵庫を開けた
何かと出張が多い父が作り置きしていった、惣菜の入ったタッパが幾つかある
冷凍庫にも、すぐに食べられるように作り置きしたカレーやシチューが入っている
ユイは適当に冷蔵庫を漁り、それらを温め直して食べ始めた
軽く食事を済ませると、ユイは食器を片し、シャワーを浴びに浴室へ行った
もしかしたらシャワーを浴びてる間に返事が来ているかも───
そう期待しつつ洗髪等を終え、浴室から出た
タオルでわしゃわしゃと髪の毛を拭きつつ、リビングのテーブルに置いていた携帯を見る
菱和からの返事は、無かった
「‥‥‥‥‥ほんとに、どうかしたのかな」
少し肩を落とし、ユイは自室に戻った
ベッドに寝っ転がり、溜め息を吐く
どうしたんだろう、学校にも来ないしメールも返ってこない
具合悪いのかな、寝込んでるのかな
それとも俺、アズになんかしちゃったかな
何も思い付くことはないけど、無意識のうちにアズの機嫌損ねることしちゃってたのかもしんない
だったら謝りたいし、具合悪いならなんか俺に出来ることしたい
菱和のことばかり考え、ギターを弾く気にもなれない
“今日一日返信を待つ”
勿論そのつもりだった
だが、ユイはもう一通だけメールをした
『アズ大丈夫?寝てたらごめんね』
───明日は、アズの顔見れるかな
菱和からの返信を待ち望み、ユイは携帯を握り締めて眠った
