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144 DATE④
どれくらいの時間が経っただろうか
菱和の心臓の音が聴こえてくる
ユイは菱和に身を預けたまま、暖かさと安堵に抱かれぼんやりとしていた
菱和はユイに腕枕をし、その腕の先をユイの頭に持っていって、ゆったりと髪を梳いていた
大きな掌はただ優しく触れ、矢鱈と眠気を誘う手付きだった
食後ということも手伝ってか、ユイはこのまま眠ってしまいたい気分になった
菱和が軽くユイの顔を覗き込むと、ゆっくりと瞬きをする眼がとろんとしている
「‥‥‥眠いのか?」
甘美な低い声が、聴こえる
「ん‥‥少し」
「‥‥‥‥寝ちまうか。このまま」
「え‥だ‥‥今寝たら、絶対朝まで起きない」
「良いんじゃね。泊まってけば」
「それは、急だし‥流石に悪いから‥‥」
「全然構わんけど。‥‥‥‥じゃあ、“あっち”行くか?」
「‥‥アパートの方?今か、ら?」
「うん。年開けてからまだ行ってねぇから、なまら寒みぃと思うけど」
「行きた、い‥‥けど、なんか悪い‥よ」
「『来たいときにいつでも来い』っつったじゃん」
「そうだけ、ど、‥‥‥‥‥いつまでも帰れなくなりそう、だから」
「‥‥既に帰したくねぇっつの」
これくらいの我儘は許容範囲もいいところ
、我儘にすら感じない
離れ難いと思うのもお互い様
今更何を遠慮することがあるのだろうか
だが、ユイなりに気を遣っているのだろうと思い、菱和は少し口角を上げた
ユイが眠ろうが泊まろうがアパートに来ようが帰宅しようが、菱和はどんな選択をも受け入れるだろう
ユイ自身もそのように感じており、ならば『もしここで眠ってしまえば明日の朝まで一緒に居られる』などと狡い魂胆がちらりと脳裏を掠める
帰らなきゃ、いつまでも離れられない
離れたくない、もう少しだけこうしていたい
相反する感情が揺れ動くも、ユイは遂に決断した
「───アズ」
「ん」
「‥‥今日は、帰る」
「ん。‥送ってく」
後ろ髪引かれる思いでいるユイの頭を、菱和は優しく笑みながらぐりぐりと撫でた
そのまま抱き締め、額を合わせる
ユイは菱和の胸元をくしゃっと握り締め、あと幾ばくかという二人きりの時間を噛み締めた
と、ふと顔を上げ、首を傾げる
「‥ね、送るって‥‥何処まで?」
「お前んちまで」
「っそれはダメ!!」
ユイはいきなり上体を起こし、全力で抗議した
喫茶店で会計をまとめて払った時と同じようにしているその顔を、菱和はぼんやりと見上げた
「は‥」
「だってさ、嬉しいけど、めっちゃ嬉しいけど!‥アズが帰るの、遅くなっちゃうじゃん」
「別に構わねぇけど‥」
「ダメ!それも平等じゃない!寒いし!暗いし!お母さんだって心配するでしょ!」
「お前の親父さんだってこんな時間まで出歩いてちゃ心配すんだろ。だから自宅まで送るって」
「俺は良いんだよ!男なんだから!」
「俺も男だよ」
「‥知ってるよ!」
「‥‥何だそれ」
今のやり取りがツボにハマったようで、菱和はくすくす笑い出した
ユイは眉間に皺を寄せる
「も‥笑うなよ!」
「いや、悪りぃ。‥‥何が駄目なの?」
「ダメってか、送ってくれるのはほんと嬉しいんだけど、その所為でアズが風邪引いたりしたら、やなんだもん‥」
「風邪なんか引かねぇって。俺丈夫だから」
「もおぉ!そんなのわかんないだろ!?丈夫なのも知ってるけど!」
「なら、問題なくね」
「大アリだよ!!1月だよ!冬だよ!寒いよ!?ほら、帰りに雪降るかも!」
「寒けりゃどっかコンビニ入るし、雪降ったら傘買う」
「その出費が勿体無いじゃん!」
「ビニール傘一本、どうってことねぇって」
「あのねぇ、“塵も積もれば何とやら”って云うだろ!?」
「‥‥何とやら?‥“塵も積もれば”?」
「‥‥“山となる”」
「よくできました」
「‥んんん!!それくらい知ってるってば!」
「誠に失礼致しました」
互いに譲らぬ攻防戦の最中、菱和は意地悪な顔をしてユイをからかった
この時間帯であればまだバスも電車も運行しており、タイミングさえ合えばタクシーを拾える
金銭の発生如何を問わずすぐに帰宅する手段も無いわけではない
菱和にとっては帰宅が遅くなることも多少金が出ていくこともどうということはなかったが、どうやらユイからしてみればそれも平等ではないらしい
健気な眼差しに根負けした菱和は、徐に手を伸ばして指の背でユイの頬を撫でた
「‥‥‥じゃあ、駅前までなら良い?」
待ち合わせをした駅には、バスターミナルが併設されている
日付を越えさえしなければ互いにバスですぐ帰宅出来、運賃も定額で済む
自宅までの距離を考えても、“不平等”ではなかった
元より、待ち合わせ場所で解散となれば特に問題ないのでは───ユイは提示された妥協案を飲むことにし、頬を撫でる手を握った
「‥‥おっけー」
「あざす」
菱和はふ、と笑むと、今日最後になるだろうキスを、ユイの額に落とした
時刻は間もなく21:30
バスの時刻を調べると、幸い22:00頃には駅前に着きそうな時間帯のものがあった
その後も、バスは日付が変わる頃まで運行予定だ
気が変わってしまわない内にと、2人は部屋を出た
「つーか、袖色違いなのな。すっかり云いそびれてたけど」
「! 気付いてくれてたんだ!中はね、ラグランなんだ。‥ほら!」
「ふーん‥‥シンプルだけど洒落て見える」
「この組み合わせ、俺のお気に!アズのニットは?カシミヤ?」
「知らねぇ。フツーにウールなんじゃね」
「すっげぇ手触り良いからてっきりカシミヤだと思ってた!」
「‥‥あんま服にゃこだわりねぇんだって」
今日の服装について話しながら階段を降り、ダイニングチェアの背に掛けたままのアウターを取りにリビングへ向かう
リビングでは真吏子がソファでまったりと雑誌を読んでおり、2人の気配がすると振り返り立ち上がった
「帰るの?」
「はい!どうもご馳走様でした!ゴハン、凄く美味しかったです!あとデザートも‥‥お店で食べた気分でした!」
「こちらこそ、リクエストどうも有難う。喜んで貰えて良かった。作り甲斐があったわ」
真吏子はにこりと笑む
菱和はアウターを携え、パーカーをユイに手渡した
「ちょっとそこまで送ってく」
「そう。わかった。ユイくん、また遊びにいらっしゃいね」
「はい!お邪魔しました!」
「お邪魔しました」
ありったけの感謝を込めて頭を下げるユイの横で、菱和も同じように頭を下げた
「やだもう。‥‥気を付けてね」
真吏子は呆れたようにくすくす笑い、玄関先まで2人を見送った
***
辺りは真っ暗
ぴんと張りつめた空気
鋭く立ち込める冷気
深い深い藍色に満天の星
空が近く見える感覚
清んだ冬の匂い
仄かに灯る街灯
白い吐息はぼんやりと消え失せる
足音は二つ
擦れ違う人など居ない時間帯
冬の寒さに、身体はみるみる冷えていく
大きめのパーカーを着てきて正解だったなと、ユイは思った
「───手、ちょーだい」
坂道を下りきったところで、菱和は徐に手を差し出した
「ん、‥」
「‥‥さっき、『またあとで』って云ったの、覚えてる?」
「───‥‥‥‥あ、」
結果的には却下されてしまったが、菱和はユイが帰宅する際には端から自宅まで送り届けるつもりでいた
その時にはまた手を繋いで歩けるだろうと踏み、云い残した『またあとで』
その“また”がこの機会のことだったのだと、ユイは悟った
最寄のバス停までの道程、バスを待っている間───2人は手を繋いでいた
ほんとは、帰りたくない
ずっと一緒に居たい
でも、あんま我儘云って困らせたくもない
大丈夫、こんな機会はきっとこれからも幾らでもある
アズも、手を繋いで歩きたいと思ってくれている
“想われてる”ことを、誇りに思おう───
『自惚れろよ、もっと』
ユイの心に、仄かな自信が湧いた
こんな時間のバスの乗客など、自分達しか居ないのではないかというほど高が知れている
案の定乗客は一人もおらず、菱和はこれ幸いにと繋いだ手を離さないまま乗車する
ユイは菱和に手を引かれながら乗車し、2人は一番後ろの座席に座った
掌が、温い
手を繋いでいられるのは精々バスに乗るまでが関の山だろうと思っていたが、バスが駅前に到着するまで延びたことになる
それは嬉しい、だが、益々───
───帰りたくないなぁ‥‥
車窓からの景色をぼんやりと眺めていると、窓に映る未練がましい自分と目が合う
明らかに、“帰りたくない”と顔に書いてあった
「───‥‥‥‥まだ時間大丈夫なら、もう一箇所どっか寄ってから解散にすっか。駅前だったらまだ開いてる店あるよな、多分。‥‥でも、日付変わる前には帰ろ」
バスに乗ってから一言も発さないユイを一瞥した菱和は、そんな提案をした
ユイは、肩を竦めながら遠慮がちに菱和の顔を窺った
「‥‥、良いの?」
「帰りたくねぇのは俺も同じだから」
ゆっくりと瞬きをする穏やかな瞳は、いつでも自分を捉えてくれている
以前も、『気が済むまで付き合う』と、帰宅を躊躇う自分と過ごしてくれたことが何度かあった
何故、こんなにも優しいのだろう
想像の範疇を遥かに超える想いは、自分に向けられるものとしては勿体無さ過ぎる気がしてしまう
例えようのない嬉しさばかりで心は溢れ、また少しずつ自信が湧いてくる
「‥‥アズ、有難う」
「いいえ」
菱和は柔らかく笑み、ユイの手を2、3度続けて握った
***
昼間と比べれば、目に見えて人の数は少ない
これから呑みに繰り出す者、帰宅を急ぐ者、その姿は様々だ
駅前には24:00を過ぎても開いている店が何軒かあり、2人はめぼしいカフェに入店した
人は疎ら、席は実質選び放題
互いにふわふわのフォームミルクがたっぷり入った焙じ茶ラテを注文し、適当に座る
今度こそ自分の分の代金を支払ったユイは、甚たく満足そうにしていた
「───あーあ、結局ノープランだったな。もっと色々考えときゃ良かった。‥折角の初デートがこんなんで、ごめんな」
菱和は伸びをしながらぼやき、苦笑いする
ユイは、首を横に振った
「‥そんなこと。俺だって、何も考えてなかったも‥‥めっちゃ楽しかったもん」
「‥‥そ?お前が楽しかったってんなら、何でも良いんだけどさ」
「アズは、どうなの?」
「ん?」
「‥楽しめ、た?」
「‥‥、とても有意義な時間でした」
穏やかに笑み、菱和はそう云った
ノープラン上等
2人で居られるなら場所なんて何処でも良い、楽しくないことなど無い
互いに同じ思いでいられたのなら、それで十分だ
ユイははにかんで、笑顔を返した
「‥あ、ねぇ!今度、映画観に行こうよ!」
「ああ。映画観て、またなんか美味いもん食って‥‥‥あ、スーツも見に行かねぇとな」
「‥そうだった!じゃあ、次はエーガにしよ!で、そのあとスーツ見に行くの付き合ってくれる?」
「ん。どんなの観たい?」
「えーっとね‥‥最近公開されたやつで、面白そうなのあんだよね‥‥‥‥」
スマホで映画の上映情報を調べる2人
初デートは未だ終わってはいないのだが、次のデートに気持ちが逸る
どんな映画を観ようか、何色のスーツにしようか、お昼は何処で食べようか
帰りのバスの時間が迫る中、焙じ茶ラテを啜りながら、他愛もない話を続けた
23:00を目前にカフェを出、バスターミナルへと向かう
乗り場が異なる為、一緒に居られるのはここで最後だ
閑散としたターミナルで、別れを惜しむ
「‥こんな時間まで、ほんとに有難う。今日、ほんとに楽しかった」
「こちらこそ。有難うございました」
菱和は仰々しく頭を下げ、有り余る感謝の瞳でユイを見ていた
「気を付けてね」
「お前もな」
「うん。‥またね!」
「ん。またな」
そう云って、2人は名残惜しそうに別れた
足音と共に鳴るウォレットチェーンの音が、次第に遠退いていった
***
バスに揺られ、帰宅の途に就く
車窓に映ったその顔は、まだ未練がましくしていた
───なんか文句あるか。離れたくなくなるくらい好きなんだから仕様がないだろ
開き直り、狡賢い笑みを浮かべる
バスを下車する少し前まで、ユイは車窓の自分とにらめっこしていた
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