忍者ブログ

ガレキ

BL・ML小説と漫画を載せているブログです.18歳未満、及びBLに免疫のない方、嫌悪感を抱いている方、意味がわからない方は閲覧をご遠慮くださいますようお願い致します.初めての方及びお品書きは[EXTRA]をご覧ください.

NEW ENTRY

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

  • 04/20/07:13

166 布石

合宿も受診も無事に終え、始業式を明後日に控えた日
ユイは晴れ晴れとした面持ちで、バンドメンバーと共にマンスリーライヴの会場にいた

ここ数ヶ月の間欠席続きだったマンスリー
合宿に出掛けていたこともあり、練習時間が十分に取れないと踏んだHazeの出演は今回もお預け
演奏者としてではなく観客としての参加だったが、久々のライヴハウスに心は躍る

演者の中にはSCAPEGOATの面々、“BLACKER”との諍いの際に“お世話”になった高橋を擁する“WINDSWEPT”の姿もあった
対バン仲間との久し振りの再会に終始はしゃぎまくるユイや拓真、そしてアタル

 

「そっか、合宿行ってたのな」

「そーそー。春休みの恒例行事なの」

「たけちゃんがいるときからずっとだもんな」

「っつーか、めっちゃ楽しそうだよな!楽器弾きまくって、酒も飲んでってか?」

「カップラーメンもね!今回はチョコ味の焼きそば買って、あっちゃんが当たったんだよ!」

「流石だな、のせ。籤運の良いこって」

「バカ野郎。あんなとこで使う運じゃねぇっつの」

「菱和くんは初めてだったんだよね」

「‥‥はい」

「ひっしーってばさ、めっちゃ腕振る舞ってくれたから、ゴハンには困らなかったよ」

「ほんとな。サイコーだったぜ」

「え、なに、菱和くんて料理するの?」

「おう。コイツ、こんな形してっけどベースと同じくれぇ料理上手ぇんだよ」

「っマジかよそれ!!ね、今度なんか食わしてくんない!?」

「いつでも大歓迎す」

「よっしゃーっ!!じゃあ俺、パエリア食いたい!」

「俺は天麩羅が良いなぁ」

「俺はー、えーと、えーと‥‥‥‥何でも良い!」

「なにラピュタのアンリみてぇなこと云ってんだよお前」

「だぁってよ、ベースと同じくらいっつったら、相当上手いってことだぞ?」

「‥‥、人並みすよ」

「全っっ然人並みじゃないから!てか人並み以上だから!ね?」

「ああ」

「うん」

「ほらなー!あー楽しみ過ぎんぜー!」

「菱和くん、楽しみにしてるね」

「はい。俺も楽しみにしてます」

菱和も、自然と輪の中に巻き込まれていった
この界隈ではガラが悪いことで有名なSCAPEGOATとWINDSWEPTのメンバー
銀メッシュの長身男が一人紛れている程度、彼等を知らない周囲の人間も「奴もメンバーのうちの一人だ」と何の疑いも持たぬほど馴染んでいる

「‥‥で?合宿の成果はどうだったの?」

「上の上の上、だな」

「うは、そんな良いもんだったんか」

「ひっしーがね、曲作ってきてくれたんだ。それがまた滅茶苦茶良くってさー」

「マジ!?菱和くん、曲も作れるんだ!」

「や、昔遊びでやった程度なんでまだまだ‥‥」

「なーに云ってやがる、てめぇは」

「誰が歌うん?あっちゃん?」

「いや、こいつ。こいつが作詞の英訳済ませりゃ早々に御披露目出来ると思う」

「ゆっちゃんが歌うの、珍しいなぁ!」

「大役じゃーん、ユイユイ」

「ねぇ‥‥もぉ、毎日辞典引いてるから頭痛くなりそうで‥‥」

「頑張ってるね」

「早く聴きてぇな!」

「対バンすんの楽しみにしてるぜ」

ハジや高橋が肩を抱いたり頭をくしゃくしゃに撫で回し、ユイはもみくちゃになった
だが、その顔は終始楽しげだった

───久し振りだ、こういうの。楽しいな

 

バンドをやっていなければ、楽器を弾いていなければ、全ての出会いは無かったかもしれない
対バンが叶わず残念がり次の機会を歓迎してくれる仲間の姿に、ユイは頬が綻びっぱなしだった

いつでも最前列で見守っていてくれる幼馴染み、完全無欠のリーダー、頼りになるマブダチ、そして“大事な人”───ちっぽけな自分を取り巻く全てに救われているのだと、改めて実感する
それは大きな糧となり、バンドとしても個人的にも更なる飛躍を目指す原動力となる

自らの、そしてバンドの未来に、大いなる期待を抱かずにはいられなかった

 

バカ騒ぎは続く
沸き立つオーディエンスはヘッドバンキングをしたり、サークルを作ってぐるぐる回り出す
Hazeのメンバーもその中に紛れ、SCAPEGOATやWINDSWEPTの曲を最前線で愉しむ
いつまでもこの空間に居たくなると思わせる熱気に塗れ、演者と共に昇りつめる

 

***

 

此度のライヴに出演していないのにも拘わらず、ちゃっかり打ち上げに参加することとなったユイたち
まだ春休み中だ、もう少しくらいバカ騒ぎを続けても良いだろうと誰もが思っていた

演者たちが片付けを進めている隙に、ユイは用を足しにいそいそとトイレへ向かう
その途中、擦れ違い様に誰かと肩がぶつかった

「っと、すいません」

「───あ、Hazeのギター‥!」

 

咄嗟に謝り振り返ると、同じく振り返った相手はユイを凝視した
どうやら、ユイのことを知っているよう
目が合うと至極嬉しそうな笑みを零し、興奮してその場で躍り跳ねた

「やべぇ!!こんなとこで会えるなんて!マジラッキー!!しかも今日出演してなかったよね!?うわぁ、これって運命ってやつ?」

初対面で“ラッキー”“運命”などと思わぬことを云われ、相手の興奮にすっかり取り残されたユイは反応に困ってしまった

「え、えと、あの‥‥」

「あ‥ごめんごめん。‥俺、結構マンスリー観に来てて。君の顔すっかり覚えちゃった。Haze、俺の推しバンドだからさ」

 

ぶつかった相手は、Hazeの一ファン
短髪に眼鏡、ロンTにジーンズとラフな格好をした、恐らくユイたちと同世代であろう気さくな少年だった
Hazeのメンバーであること、ギター担当であること、今回は出演していないことまでも知っており、更には“推し”であることまで伝えられたユイは、素直に感謝の気持ちを述べた

「え、ほんと!有難う!!」

「最近マンスリー出てなかったよね?今日こそは観られるかなーなんて思って来たんだけどさ」

「あ、うん‥‥ちょっと、色々あって‥‥」

「そうだよね。色々事情あるよね、きっと。赤い髪の人は年上でしょ?社会人?年齢層が違うメンバーがいると、練習するのもライヴ出るのも大変なんだろうなー‥‥って思ってたんだ」

「今んとこそんな大変でもないんだけ、ど‥‥」

「そうなんだ?‥俺は演奏してるとこしか観られないけど、他のバンドもきっと時間作って沢山練習とかしてんだろうなーと思うとさ、こう、胸がアツくなるっていうかさ。嬉しくなるんだよね」

「その気持ちめっちゃわかる!今日は友達のバンドが出てたんだけど、やっぱ滅茶苦茶上手くて、みんないつ練習してんだろうなー?とか思っちゃった!」

「ふふっ。他のバンドもマンスリー常連さんばっかだったもんね。お友達のバンドって、どれ?」

「SCAPEGOATと、WINDSWEPTだよ!」

「うわ、マジで!?あの2バンドも俺の推し!」

「! ほんと!」

「うん!Hazeと同じくらいめっちゃ大好き!」

本来の“目的”をすっかり忘れ、ぶつかった相手と意気投合するユイ
初対面で馬が合ったこともさることながら、演奏面だけでなくそのバンドの背景にまで思いを馳せてくれるファンがいるのだと思うと、“益々精進せねば”と奮い立つ

暫し立ち話をしたところで、少年はふと顔を上げた
見上げた先には、トイレの表示───

「ってか、トイレ行くとこだったんだよね?呼び止めてごめんね。会えて嬉しかった。有難う」

「こちらこそ!‥また会えると良いね!」

ちょっとした偶然が及ぼしたこの出会いを大事にしたいと思ったユイは、『その言葉が現実になるように』と想いを込めてにこりと笑った
少年もふ、と笑む

そして、含みを持った声でポツリと呟いた

 

「───どうせまたすぐ会えるよ」

「へ??」

「‥ううん、何でもない。じゃあ、またね」

「うん、またね!」

少年は軽く手を振り、その場を後にした
ユイは、彼の姿が見えなくなるまで大きく手を振り、見送った

 

『───どうせまたすぐ会えるよ』

彼が云ったその言葉は『きっとまたライヴで会える』という意味だと、ユイは信じて疑わなかった

自分達を観てくれている人間がいる───その事実に胸は躍り、『マンスリーに出たい』『ライヴをやりたい』という気持ちが逸る

ふと身体が震えたユイは、急いでトイレへ駆け込んで行った

 

 

 

 

NEXT→[Haze.Ⅱ]

拍手[0回]

PR

165 psykosomatisk medicin

がらんとした診療所の待合室に、足を投げ出してソファに座す長身の男
暇潰しにと適当に手に取ったのは、料理雑誌
パラパラ捲ると、“主婦”と野次られたことを思い出し、仄かに苦く笑む

 

遡ること一週間前───

ユイの父・辰司は、心療内科の予約を取った旨を合宿から帰ってきたユイに伝えた
“家族会議”の際に、辰司と尊が提案したカウンセリングの為の受診となる
了承したユイが打ち明けると、菱和は「付き添う」と即答した
カウンセリング初経験のユイにとってはとても心強く、有難い話だった

予約の時刻は14:00
二人は軽く昼食を済ませ、来院した
早々に受け付けを済ませたものの、そこから名を呼ばれるまで30分ほどを要した
ソーシャルワーカーによる診察前の主訴、生育歴の聞き取りが行われ、20分ほどで面談室を出る
そこから更に一時間近く待ち、漸く診察室へと促された

 

幼い頃に受けた傷は水面下では癒えておらず、押し込められていた忌まわしき記憶は小さな身体に多大なストレスを与えた
いつまた牙を剥くかわからない
心の問題は複雑で、短時間で解決出来るものではない
漠然とした不安を抱えていたものの、ワーカーもドクターも終始柔和な態度で、安堵したユイは“話を聞いてもらえること”に価値を見出だし、心に留まる疑問をあれこれ質問しまくった
幼少期の一件が原因ではあるものの、ユイのケースは所謂“病的”なものではなく“葛藤”に近いものだと明確に提示された
不安への対処が上手くいかなかった場合に備え、それ相応の薬の処方も可能だと提案され、“逃げ場”があることに更に安堵する
ユイはその“逃げ場”を心の拠り所にすることとし、それまでは自分なりに自分を見つめ直し、家族や友人の力を借りて対処の方法を模索すると決めた

『解決を急がず、あるがままの自分を受け入れること』

当たり前のようで困難だが、それが、ドクターと共に導き出したユイの結論だった

 

30分後
診察を終えたユイが面談室から出てきた
どことなくすっきりとした表情で、菱和の横に座る

「‥お疲れさん」

菱和はにこりと笑み、大きな手で優しく頭を撫で、ユイを労った

 

夕暮れ、帰り道
河川に架かる橋の欄干に、二人並んで寄り掛かる

「‥‥どうだった?」

「うん‥‥‥なんか、ほっとした。ちゃんと話してこれたし、話を聞いてもらえた。『困ったことがあったらまたおいで』‥って」

「ん。良かったな。そんときはまた呼んで。俺もまた一緒に行く」

「うん‥‥ありがとね、今日。来てくれて」

「いいえ」

「てか、めっちゃ待ったよね‥ごめんね」

「別に、なんも。待つのは目に見えてたから」

「そ、っか‥‥‥‥‥俺ね、いっこ決めたことがあって」

「うん?」

「まず、『また過呼吸になっちゃったらどうしよう』とか考えないことにした。ほんとは、これ以上みんなに迷惑掛けたくないんだけど、またなったらなったで今度は薬使ってみるとか、方法は沢山あるから、そこからいちばん自分に合ったやり方をやってみることに、する」

吹き抜ける風が、さら、と髪を揺らす
真ん丸の瞳は、確乎たる決意を湛えていた
自身を“弱い”と卑下し流した涙が、まるで嘘のよう

あの時間で“そこ”まで辿り着いたのか───改めてユイの“強さ”を見た菱和は、無意識に戦慄いた

「‥うん。ちゃんと自分で選んで、決められると良いな。何にしても、“絶対独りで抱え込まないこと”。これ、めっちゃ大事だから。なんかあったらすぐ云えよ」

「う、うん‥‥これからも、迷惑掛けちゃうことあると思うけど‥その‥‥」

「お前の周りの人間は、それでもお前の傍に居るよ。“生きづらい”と思ったら、俺も含めて使えるもんは何でも使っちまいな。みんな何とも思わねぇから、絶対」

「そ、かな‥‥」

「そうだよ。‥‥‥‥俺もお前の傍に居る。ずっと」

「ずっ、と‥?」

「うん。ずっと」

優しく揺れる瞳が、安堵を齎す
例え挫けそうになったとしても、きっと何度でも奮い立たせてくれる───そう思わせる“色”を、放つ

「‥‥有難う、アズ」

「ん。俺も、有難う」

「な、何でアズがお礼云う、の‥‥俺、アズに何も出来てな、い‥よ」

「何もしなくて良い。元気でいてくれるなら、それだけで十分」

「‥‥、‥‥‥」

「‥‥‥‥欲を云えば、時々くっついたり出来たらそれで満足。‥‥“ベロチュー”も出来れば尚良し」

「‥‥‥!!!だ、そ‥!!」

菱和は意地悪そうな顔をしてベロを出し、ユイの頬を軽く抓った
慌てふためく様を見、からかうように笑む

 

平日の夕暮れ時
自分達以外に、人の姿は無い
それを良いことに、菱和は徐にユイの手を取り、自分の上着のポケットに突っ込んだ

“これ”で良い
“それだけ”で良い
“そのまま”で良い
そう、強く想いを込め、しっかりと握り締める

自分とは比べ物にならないほどの、深く暖かな“力”が、いつも隣にある
これもまた、ユイの“拠”だ

 

『傍に居る。ずっと』

ずっと───

それは、いつまで?
言葉通り、“永久”に?
それとも、俺がアズと同じくらい強くなれるまで?
もし言葉通りだったなら、嬉しいな
いつまでも、こうして隣に居たい
でももし言葉通りじゃなかったとしたら、
この手が離れてしまうようなことがあったとしたら、
そんな時は永遠に来て欲しくないけど、

───それまでは、どうか、アズの“力”を借りることを許してください

寄り添う心に、ほんの少しだけ寄り掛かる強さを湛える

各々に想いを抱き、二人は暫し流れゆく川を眺めた

 

「‥‥‥腹減ったな。なんか食い行っか。何食いたい?」

「‥、何でも、良い。アズは?」

「俺も何でも良いんだけど‥‥‥あ、ずっと気になってたとこあんだけどそこでも良い?」

「何屋さん?」

「洋食屋、っていうのかな。エビフライハンバーグオムライス、みたいな」

「‥行きたい!食べたい!オムライス!!」

「じゃ、行くか」

時刻は18:00
もう陽も暮れ、すっかりと空腹
一処に留まらぬ川の流れを見送り、ユイと菱和は華やぐ街へと繰り出した

拍手[0回]

164 träningsläger-söt night

深夜2:00過ぎ、寝室にて
ベッドのヘッドボードに凭れ、ケータイをポチポチするユイ
その横に、菱和が頬杖をついて寝そべっている

───落ち着かねぇ足だな

ご機嫌な様子で指をわきわきさせているユイの足を、菱和はぼーっと眺めていた

 

スウェットから、踝と細い足首、脹ら脛が3分の1ほど覗いている
視点を上へとずらしていくと、少し隆起した鎖骨、そしてふわふわの髪が流れる項が目に入る

衣服を纏っていない方が唆られるのだろうか
何度か共にした入浴時にはさほど気にも留めていなかった血色の良い肌が、ある“欲”を掻き立てる

 

「───やっぱお前美味そう」

「うん?」

ケータイ弄りに夢中になっていたユイは菱和の言葉を上手く聞き取れず、きょとん顔で視線を落とした
菱和は腕の力で身体を引き摺らせてユイに近付き、その腰をホールドした

「‥‥‥ちょっとだけ、噛んでもい?」

そう云いながら、気だるげにユイを見上げる

 

“食いたい”

夕べの一言が、脳内に反響する
ずくん、と疼く心臓
物欲しそうな眼
油断していると、また吸い込まれてしまうかもしれない

「───‥、や、だ」

「‥‥ん」

ユイが顔を真っ赤にし小さく拒絶すると、菱和は大人しく引き下がり、ユイの太股にこてん、と頭を落とした
そのまま瞳を閉じ、ほんのりと口角を上げる

 

夕べの一幕が蘇る
鼓動は加速し、治まらない
沈黙が耐えられなくなってきたユイは、ぽつりと菱和に尋ねた

「‥‥酔って、る?」

「んーん。“サンセット”以外飲んでねぇし」

「じゃ、何で‥‥」

「‥云ったろ。“美味そう”なんだって」

低い声でそう呟いた菱和の手はわざと鎖骨に指を這わせ、首をなぞり、ユイの頬へ辿り着いた

「食っちまいたいくらいめんこいの、お前」

もう片方の手は細い腰をホールドしたまま
力が込められ、掌の温みが伝わる

「‥‥‥‥アズって、食人鬼だった、の」

「‥‥人間デス」

目を泳がすユイは思い付いたことをそのまま口に出し、その言葉に菱和は少し苦笑いした

 

我慢させているかもしれない
我慢なんて、しなくても良いのに
だけど、俺がキョドるから仕方なく、遠慮してるのかもしれない
昨日の今日でまた頭がゴチャゴチャしてきた
“食べたいくらい可愛い”って、どういうこと?
俺にはまだよくわかんない
わかんないけど、アズが俺に何かしたいと思ってくれてるのはわかる
それはめちゃくちゃ嬉しいし、受け入れたいと思う自分もいる

“互いに同じ気持ちになった時”と、約束を交わした

ひょっとしたら、“今”が───

 

「───‥どこ食べたい、の」

変わらず赤面し、目は泳いだまま
それでも要求を受け入れる覚悟が出来たのか、ユイはケータイを置いて尋ねる
菱和はゆっくりとユイを見上げ、こくんと首を傾げた

「‥全部」

「っそれは駄目!どっか一箇所だけ!!」

ユイが喚くと菱和はく、と笑い、のそりと起き上がった

「‥‥駄目なトコある?」

「‥‥‥、こことか、‥‥ここ以外、なら」

「んなとこ噛まねぇよ、“まだ”」

くすくす笑うと、菱和は目を瞬くユイの項をつ、と見下ろした後、襟刳りを少しずらし、覗いた肩に軽く噛みついた
本当は豪快にかぶり付いてやりたい───そんな衝動を抑え、許可を与えられた“一箇所”を至極優しく愛撫した

滑らかな肌に、歯の当たる感覚
ぬるりと這う舌と、暖かい唇の感触
きゅ、と吸い付く音

ユイは咄嗟に、去年の学祭でキスマークを付けられた時のことを思い出した

あの時は、負傷していたこともあり、ちくりと痛みが走った
今も、痛みがある
だが、今感じている痛みは心地良い気がしてならない
あの時と今、菱和がしている行為に大きな違いはない
一体、あの時と何が違うというのだろう

「───っ‥、‥‥‥っ‥‥」

ユイは目を瞑り、菱和の肩にぎゅ、としがみついた

その行為すら、菱和を煽っているということも知らずに───

 

痛くないようにはしてる筈だけど
苦しいのか、切ないのか、恥ずかしいのか
それとも、“イイ”のか
何れにしても、必死なんだ
ああ、この辺で止めておかなければ
歯止めが利かなくなるかもしれない
これ以上のことをするつもりはない
でも、
応えてくれたいじらしさが堪らなく愛おしい
もっと慈しみたい
深く味わいたい
心も身体も、思い切り愛したい
もっと、もっと──────

 

歯止めが利かなくなることを危惧した菱和は、自分が付けた“跡”がくっきりと残る肩を一瞥し、衝動が去るのを静かに待ち堪えた

「───‥‥“唯くん”」

低く嗄れた声が呼ぶ
そろりと目を開けると、菱和の情欲塗れの瞳がこちらを見ている
ユイの心臓が、また跳ね上がった

「‥‥‥‥何ですか、“梓くん”」

ユイが困り顔でぽつりと呟くと、菱和の瞳から情欲の色が消え、和んだ心が自然と笑いを促す
一頻り笑うと、戸惑うユイに額を合わせた

「‥ユイ」

「な、に」

「‥‥やっぱ、“こっち”の方が良いな。本名で呼びたい気持ちも、あんだけど」

「別に‥‥‥名前なんて、好きに、呼んで、‥‥ください」

「何で敬語になるんだよ」

「わかんな、い」

「ふふ。‥‥‥っつーか、何でいきなり許可降りたの?“おんなじ気持ちになったら”って約束したじゃん」

「今が、その“時”かもしれないって、思ったか、ら」

「‥‥おんなじ気持ち、だったかも?」

「たぶ、ん」

「そっか。‥嬉しい」

“それ以上のこと”も、出来たかもしれない
しかし、菱和はそれ以降はいつものように抱き寄せたり髪を梳いたりする以外はユイに何もしなかった
互いに心が高まったことを喜ばしく思い、ユイへの慈愛を益々募らせた
ユイもまた、“おんなじ気持ち”になれたことを気恥ずかしくも嬉しく思い、甘い愛撫の感触を反芻しながら眠りに就いた

拍手[0回]

163 träningsläger-Slutligen ikväll

地下では、ユイを除く3人が楽器を鳴らしていた
地上にいるユイにも熱と震動がドカドカ伝わるほど、激しい楽曲を演奏しているよう
耳を欹てると、演奏し慣れたバンドのレパートリーの一つが聴こえてくる

各メロによってビートが変わるその楽曲は、アタルが幾つかの曲を一つに纏めたハードロック色の濃いナンバー
ドラムは終始乱れ撃ち
ギターとベースのユニゾンが何度も入り混ざり、ソロではドリルのように突き抜ける16分刻みのベースとトレモロピッキングが疾走していく
かと思えば哀愁漂うセクションもあり、緩急のバランス配分が絶妙かつ大胆にハマっている
最後の夜に“総攻撃”をぶちかます、お気に入りのバンドのレパートリーナンバー
ユイの口内に、キツめの炭酸水のような味がぶわ、と広がった

 

「───ね!カップ麺食べよ!!」

熱気で溢れる地下室に、ユイの陽気な声が響いた

「あー‥‥‥そういやまだ、食べてなかった、もんね‥‥」

「はー‥‥ああ、食いに、行くか。折角、買ったしな」

3人は、息も絶え絶え
膝をついたり天井を仰いだり、額からは汗が滴る
言葉を繋ぐのも精一杯で、昂りが治まるのを暫し待った
逆に、3人の熱の余韻を浴びたユイの鼓動は加速していった
作詞は無事に終えたが、“この場”に居られなかったことを心底口惜しく思った

 

カップラーメン用の湯が沸くまで、四人は拓真の提案で記念写真を一枚撮ることにした
リビングのソファにユイが座し、後ろに菱和とアタルが並ぶ

「この辺が良いかな」

「あっちゃん、ちょい背縮めて。上手く入らない」

「んなもん無理に決まってんだろ!屈めば入るか?」

「あー、良いね。じゃ、撮るよー」

拓真はデジカメをカウンターにセットすると、急いでユイの横に座った
シャッター音が鳴ると、わくわくしながら出来を確認する
ユイは顔の横でピース
拓真は親指を立ててグーサイン
菱和は特にポーズはとらずベロを出しているのみ
アタルは菱和の肩に腕を回してメロイックサイン
菱和がバンドに加入してから初めて撮影された集合写真
ユイは暫しデジカメに写る写真を眺め、慶びの笑みを浮かべていた

 

時刻は深夜1:00を回った
普段は使わない頭を酷使したユイと、楽器を弾き倒した後の3人はすっかり小腹が空いていた
ガッツリいきたいわけではないが、何か腹に入れたい気分───深夜のカップラーメンは手軽でいて、どこか背徳的な魅力が満載だ
買い出しの際に拓真と菱和が購入したラインナップはオーソドックスな味が二つと激辛、そして“シークレット”
パッケージの時点で誰もシークレットには食い付かず、拓真は阿弥陀籤を作った
誰がどの味を食すかは、神のみぞ知る───犠牲になったのは、アタルだった

「誰だよこんなもん選んだのは!!!」

「‥俺です。安かったんで」

「てめえぇ‥‥」

「すいません」

「うひひ、伸びちゃうから早く食べよ!うわ、拓真の超辛そう!真っ赤っか!」

「すげぇ色だな」

「明日の朝が怖いなぁ‥‥辛いのは好きだけど。んじゃ、頂きまーす」

「くそおぉ‥‥‥そっちのが何倍もマシだぜ‥‥何だよチョコって‥不味そう‥‥」

“シークレット”は、バレンタイン時期に発売されたチョコレート味の焼きそばだった
激辛が当たった拓真は、額に汗を滲ませながら食す
文字通り“激辛”で、氷水をお供にしていても舌がバカになりそうな刺激
オーソドックスな味のユイと菱和は、悠々と麺を啜る
深夜のカップラーメンを大いに楽しんでいる3人を尻目に、一人意気消沈しているアタルもチョコレート味の焼きそばを漸く口に運んだ
咀嚼していくうちに、顔色が変わっていく

「───‥いや待て、これ意外と美味いかも」

「っマジかよ!そんなこと云われたらどんなか気になる!ちょっとちょーだい!」

ユイが焼きそばを摘まみ出すと、興味を引かれた拓真と菱和も一口

「‥ほんとだ、想像してた味と全然違う!意外とイケるかもね!」

「だろー!?」

「あー、俺舌麻痺してるから全然味わかんないや。ひっしー、どぉ?」

「‥ごめ。無理」

「あらら‥‥駄目だった?」

「選んだ本人がそんなこと云ってたら本末転倒じゃねぇか、くそぉ」

「アズに当たらなくてちょうど良かったね!」

籤運に助けられた菱和は、“シークレット”が当たらずに済み、心底安堵した
小腹が満たされた四人は名残惜しげに最後の夜を堪能し、就寝の準備を始めた

拍手[0回]

162 “SUNSET”

風は春へ対うも、まだ寒さの残る弥生の後半
陽が傾きかけた空は、蒼と紫のグラデーション
乗り込んだ車内は冷えきっており、エンジンをかけてもすぐには暖まらず、吐く息も白い

「3月とはいえ、まだまだ寒みぃな」

「うん、パーカー着てきて正解だった」

助手席で、自分の手に息を吐くユイ
運転席に座る菱和は、徐にその手を取った

「‥繋いでても良い?」

「ん、い、良いけど‥‥片手で運転出来る‥?」

「余裕。ナビ、して」

「うん‥道なりだからあんまナビ必要ないかもだけど‥‥まず、道路出て左折」

菱和は笑み、照れ臭そうにしているユイの手を握ると、車を発進させた

道中、二人は手を繋いだままでいた
運転している横顔を一瞥すると、大きな掌が力を込めてくる
夕べの畏怖など何処へ行ったやら、いつも感じている柔らかい優しさを得る
菱和の手の温みに、ユイは心なしか胸の辺りも暖かくなった

 

「あ、あすこ。あの“40”のとこ」

辺鄙で退屈な道を15分ほど行ったところで、ユイは目的地を知らせた
最高速度を表す道路標識があり、その辺りを指差す
菱和は減速し、辺りを見回した
標識の数十メートル先、左側に、舗装が途切れている横道が見えた

「ここ、入って」

「さっきの標識くらいしか目印ねぇのか‥‥ガチでなーんもねぇからわかんねぇわこれ」

「そうなんだよね‥‥あ、車はこの辺に停めて」

砂利道の先は草臥れた草木が項垂れる茂みが広がっており、人が足を踏み入れた形跡が見てとれる開けた場所に出た
特にめぼしいものも無く、知る人ぞ知る場所という印象を得る

もう間もなく日没であり、海岸線が近い所為か、車外へ出た途端に強風が吹き付ける
その風に乗る潮の匂いが、嗅覚を掠めた
近くに、波の音も聴こえてくる

「わ、寒‥」

「アズ、こっち。あの坂道登ってくの」

ユイは掌を差し出し、菱和を誘う

よもや、ユイから手を差し出してくるとは───希有な機会を尊く思った菱和は、躊躇わずにその手を取った
ユイが先導し、菱和がその後をついていく
手を繋ぎ、夕陽の見えるスポットまで足早に歩を進めていった

 

「良かったぁ、まだ間に合った!見て、アズ!」

辿り着いた先は、アタルも云っていた通り、切り立った崖の上
その向こう側に、沈む太陽に紅く染まった大海原が広がっていた

「‥、すげぇ」

眼前に広がる光景に感銘を受けた菱和は、ただ一言そう呟いた

遠く燃える日輪が空と海を“動”から“静”へ導き、煌々と溶けていく
名残惜しく輝きを解き放ち、波間に煌めく
何処か懐かしく、儚い茜色
普段は気にも留めない夕焼けは胸に“くる”ものがあり、菱和の想像の範疇を優に超える絶景だった

「‥‥‥なまら綺麗」

「‥でしょ?」

「見れて良かった。‥‥これ見過ごしたまま帰ってたら後悔してたわ」

「良かったぁ、そう思ってもらえて」

「‥‥‥来年も、見に来たい」

「‥‥、また一緒に見に、来よう?」

ユイは、いつものように笑った
夕陽に染まった顔が、菱和の瞳により一層、朗に映る
菱和は口角を上げてこくんと頷き、今一度、ユイの手をぎゅ、と握った

 

大好きな菱和が、隣にいる
大きな手が、自分の手と重なっている
同じ景色を見ている

幸せを感じるユイの脳内に、菱和が作った曲のワンフレーズが流れた

口内に、“味”が溢れ出す───

 

 

刹那、ユイの身体がびくん、と跳ねる
その衝撃は、手を繋ぐ菱和へと伝わった

「‥‥どした?」

まるで、全身に電気が走ったような衝撃だった
意図していない不可解な反応に、ユイ自身も戸惑いを隠せないでいる
目を真ん丸にし、抑揚なく菱和に尋ねた

「───ねぇ。夕焼けって、英語でなんて云うの?」

「‥‥“sunset”」

「‥サンセット‥‥、」

そう呟いた後、ユイは目を真ん丸にしたまま動かなくなってしまった

何故英訳を問われたのかを疑問に思った菱和は、憂わしげにユイの顔を覗き込んだ
その瞳には、冀望と闘志の色が宿っていた
作詞のネタでも浮かんできたのだろうか

「‥なんか“降りて”きた?」

「あのね、あっちゃんが作ったカクテル」

「ん?」

「‥アズの曲、俺がジュースと間違って飲んじゃったカクテルの味に似てるんだ。今思い出した。名前も“夕焼け”っていう意味だった筈。‥‥前に話したの、覚えてる?何年か前の合宿でジュースと間違って飲んだことあるんだ、ブラッドオレンジジュースみたいな色のお酒」

「ああ、そういや云ってたな。そのカクテルの味、なんだ?」

「うん」

来て正解だった───そう思わざるを得なかった

 

「──────‥‥じゃあさ。曲名にすりゃ良いんじゃねぇか、“sunset”。まだタイトルもついて無かったろ。‥‥確か、甘くて爽やかだけど苦くて、“懐かしい味”っつってたよな。夕焼けって、切ない感じとか懐かしい感じするし、結構ハマってんじゃねぇかな」

「‥‥‥云われてみれば、そうかも」

「帰ったら、佐伯とあっちゃんに訊いてみよっか」

「うん!」

 

切なく、儚く、何処か懐かしい夕焼け
ただ、暖かく、締め付けられるような感覚が心に落ちてゆく
記憶の扉が齎した閃きを胸に留め、二人は夕陽を最期まで見送った

 

***

 

「───あるよ。“テキーラ・サンセット”って名前のカクテル。テキーラにレモンジュースとグレナデンシロップ混ぜて、氷と一緒にミキサーでガーっとしたやつ。フローズン・カクテルって云われてる」

合宿所に帰った二人は、早速拓真とアタルに件の味と閃きの話をした
正味一時間程の間に見出だした収穫を、興味深そうに聞く

「フローズンてことは、シャリシャリしてんだ?」

「そうそう。で、レモンの輪切りとマラスキーノ・チェリー飾って完成」

「まらすきーの??」

「パフェのてっぺんとかに乗っかってるサクランボ。テキーラベースだから結構度数高けぇんだ。だからユイも一口で引っくり返っちまったんだよ、多分」

「なるほど、そゆことだったのね」

「綺麗な色だったから、ジュースかと思ってつい‥‥」

「ははっ。今はミキサーねぇから作れねぇけど、似たようなのなら出来るぞ」

「‥ほんとに!じゃあ、作って!」

「飲むのかよ?お前、また引っくり返っちまうんじゃ‥」

「俺じゃないよ!俺は飲めないもん、みんなで飲んで!みんなで、俺の感覚共有したい!」

ユイの共感覚は、ユイにしか感じられないもの
その味は、今までも大いに楽曲に貢献してきた
今回も、そうなる予感に期待が弾む
また、ユイ自身も行き詰まる作詞の活力になればと逸る

「‥ちょっと待ってろ、今作る」

アタルはに、と笑み、テキーラ・サンセットの類似カクテルを作る準備を始めた

 

「ほい。“サンセット・ドライバー”。グレナデンシロップをカシスに変えて、オレンジジュース足したやつ。チェリーはねぇけど、レモンは入れた。飲んでみ」

アタルは一杯分の分量でサンセット・ドライバー作り、3つの小さめのグラスに均等に注いだ
レシピが変更されているので名称も若干変わっているが、グレナデンシロップよりも濃いカシスの色合いが夕暮れ時を彷彿とさせる───夕焼けの名に恥じない、存在感のある茜色のカクテルだった
ユイが見守る中、拓真と菱和はく、と一口喉に流し入れる
アタルも、出来映えを確認すべく軽く口に含んだ

「‥‥どぉ?」

「‥‥‥‥、カシスが甘くて、レモンが爽やか。テキーラの苦みもある」

「うんうん。フルーティーだけどずっしりしてんね。“懐かしい”ってのはちょっとよくわかんないけど、色は夕焼けの印象にピッタリじゃん。リフもそんな感じあるしね」

「‥ほんと!!良かったぁ!」

「すげぇな。お前の“味”超まんまじゃんか。共感覚、恐るべし。‥‥じゃあ、曲名は“sunset”で決まりか?別に夕焼けに固執しなくても良いから、自由に詞書け」

「うん、頑張ってみる!協力してくれてありがとね!」

メンバーと味を共感出来たことに、ユイの心は喜びと安堵で満たされた
他の3人も、皆一様にユイの感覚を味わえたことを尊んだ

 

***

 

今合宿最後の晩餐は、余っていた食材を使い切るという目的もあり、かなり大雑把なものとなった
メインは、ユイと菱和が不在の間に拓真とアタルが作った野菜炒め
二人揃って『味の保証はない』と豪語したが、控え目に云っても上出来な味だった
菱和は、予め冷凍しておいた昨晩の唐揚げをケチャップとマヨネーズを混ぜたオーロラソースで和え、リメイクを施した
更に、キャベツの切れ端でウインナーを巻いたものをコンソメスープの中に突っ込み、“何ちゃってロールキャベツ”を作った
さっと出来上がった二品に、3人は『流石、主婦の技』と野次る
残りのもので『明日の朝はチャーハン』と全員の一致が意見したところで、のんびりと夕食を摂った

 

食事が済み、各々が片付けや入浴を進める
風呂上がり、肩からタオルを提げたまま作詞に勤しんでいたユイの下へ、拓真がいそいそと寄ってきた

「ユイー、良いもん見付けたー」

「なぁに?」

「夕焼けの夢診断」

「夢診断?」

「『夕焼けの夢は、“結末”を意味する。スタートの朝、活発な昼、停止の夜というパターンの昼と夜の間に位置する夕方と同一の意味を持つ夕焼けは、あなたが“どのような結末を迎えるか”を表す。美しい夕焼けは、あなたが“心から満足できるような結末”を表す。』‥‥だって。参考になるかな」

ユイにネタを提供出来ぬものかとスマホで何やら調べていたらしく、拓真は“お誂え向き”と踏んだ記事を読み上げる

“動”から“静”への架け橋の時間は、終わりの地点を意味するのだという───絡まっていた光の束が、一筋に集約されていく

「‥‥‥‥うん、上手く盛り込めるかもしんない!」

「そっか。良かった。このサイト、ケータイに送っとくから」

「ありがと!」

有力なネタを得た心地がしたユイは、マブダチの気遣いに多大な感謝をし、にこりと歯を見せて笑った

口内に感じた味
海で見た夕陽
カクテルの色
夢診断
“夕焼け”は、菱和が作った曲の重要なキーワードとなった
歌詞に盛り込めなくとも、“想い”は載せられる

 

『誰も見向きもしてないんだから、思った通りやってみよう
思い通りにやらなきゃ、そこには何も無いだろ
だったら全部曝け出しちゃえば良いよ
大丈夫、どうせ誰も見ちゃいないんだからさ
記憶の欠片を繋ぐ為に何度も繰り返した過ちも嘘も全部掻い潜って
辿り着くんだ、“そこ”に───』

 

全神経を集中しノートに認めた“想い”は、日付が変わる前に纏められた

アタルが何の気なしにドライブへと連れ出さなければ、こんなネタは降りてこなかった筈───図らずも、アタルの提案が功を奏した結果となったのだった

無事に大役を勤め上げたユイは、長い長い溜め息を吐いた
疲労感はあれど、その顔は安堵と仲間への感謝で綻んでいた

拍手[0回]

161 träningsläger⑥

煙草を取りに一旦席を外した菱和は、階段を昇る途中で、降りてきた拓真と会う

「───お。どう?ユイの様子?」

「うん。いつも通り」

「そっかー、良かったー」

「ごめん。巻き込んじまって」

「いやいや、俺らがからかい過ぎたからね。反省反省‥‥」

「いや、佐伯たちは何もしてねぇじゃん。あいつの機嫌悪かったのは、100パー俺がやらかした所為っしょ」

「えー?そんなことないと思うけどなー?」

「‥へ‥‥?」

「ん?‥あ、煙草でしょ?」

「ああ、うん」

「じゃあ、ユイと待ってるわ」

「ん、おっけ」

含みを持った拓真の言葉を疑問に思いつつも、菱和は階段を昇って行った

 

「ゆーい」

「あ、拓真」

ユイは胡座をかいてギターのチューニングをしており、菱和の云った通り機嫌も直っているようだった
安堵した拓真は、ユイの傍らにすとんと腰を下ろした

「機嫌、直った?」

「別に。いつものことだし。しょーがないから、拓真とあっちゃんのこと、許してあげるっ!」

ユイは、わざと唇を尖らした
“愛のある弄り”は、日常茶飯事
それでも、拓真はちょっぴり反省をしていた

ユイの機嫌が悪いのは自分の所為だと思ったらしい菱和だが、拓真の読みは“チェリー弄り”:夕べの一悶着=9:1くらいの割合だった
菱和がユイに何をしたのかはわからないが、不機嫌になるとすれば“無理矢理迫った”くらいの理由しか思い浮かばず
菱和の性格を鑑みると、無理矢理迫るタイプには到底思えず、仮にもしそうだったのだとしたら“酔っていたから致し方なかったのだろう”という結論に達する
それに、菱和に対するユイの態度は不機嫌というよりも“気まずい”という印象だった
菱和とユイ、ユイと自分達との関係性はまるで別物、夕べの一悶着と“チェリー弄り”は別問題
拓真は、そう思っていた
“アフターフォロー”の大義名分の下、僅かな野次馬根性を覗かせ、ユイを突っつき出した

「───ぶっちゃけさ、夕べひっしーと何してたの?」

「‥‥‥‥‥‥‥‥“ベロチュー”‥‥‥」

「‥‥、だけ?」

「‥‥ん」

「ふーん‥‥‥」

「‥‥何?」

「別にー。良いペースなんじゃないかなーって」

「‥ペース?」

「“そういうことする”ようになるのに要した、時間」

「え‥‥‥、それって、早い、の?遅い??」

「さぁ。する人は即日するし、しない人は何年経ってもしないだろうし。二人の場合は、4ヶ月ってとこ?人それぞれのペースがあるし、早いとか遅いとか考えなくても良いんじゃないの」

「うーん‥‥‥」

「‥‥したくてしたくてずっと我慢してたのがとうとう爆発しちゃったのかもね」

「───え゙!!!そうなの!!?いつそんなこと云ってた!?」

「いや、知らん。そんな話したことないし」

「‥何だよもぉ!びっくりしたぁ‥‥‥‥っていうかさ、“そういうことしたい”って、誰でも思うもの?」

「そりゃあ、好きならしたくなるっしょ。フツーに。ならない?」

「や、キス、とかは、わかるけど‥‥え、えっちなことは、まだ‥‥‥‥さっき、アズと、“そういうこと”は“お互いにそういう気持ちになったら”、って話してて‥‥」

「そっか‥‥‥多分、ひっしーは、お前のこと物凄く大事に想ってるんだなぁ」

「そ、そぉ‥?」

「じゃなかったら、お前の気持ちなんか無視してとっくにヤってるって。それに、“ベロチュー”までしかしてないんでしょ?」

「‥‥‥それもつい数時間前に初めてしたんだけ、ど」

「まま、やっぱり我慢出来なかったんじゃないかねー。夕べはお酒の力もあったし?『酔ってるときにその人の本性が出る』とかよく云うでしょ」

「んん‥‥そっか、我慢させてたの、か‥」

「そこは本人に聞いてみないと何とも云えないけどねー。っていうかさ、愛がなきゃ我慢なんかしないってフツーは。大事にされてるよ、お前は」

「そう、かな‥‥」

「うん。自信持って良いと思う。‥‥お前、ひっしーとベロチューしてどう思った?」

「‥‥‥、正直云うと、嬉しかっ、た。凄く」

「うんうん」

「恥ずかし過ぎて爆発しそうだったけど、“そういうことしたい”と思ってくれてんだ、って、嬉しくて‥‥身体中の力が抜けて、こう、ドロッと溶けてアズと一緒に混ざっちゃいそうになる気がして‥‥‥‥って、何云ってんの俺ってば‥!もおぉ!!今!今爆発する!!」

「っははは!良いじゃん良いじゃん、お前がそういう風に思ってるって知ったらひっしーも喜ぶって。ひっしーのこと、超好きなんだなー」

「‥‥‥大好き」

「はーい、御馳走様でしたー。あー、愛し愛されるって良いなぁ。二人が仲睦まじいと俺も幸せ」

「も、何だよそれ‥!」

「正直、羨ましいんだよね。そんなに深く恋愛したことないし。良いなぁ‥‥俺も、そこまで好きになってくれて、好きでいられる相手に出会いたい。お前はこれから、ひっしーと一緒に色ーんなこと経験してくんでしょ。身も心も曝け出すのは恥ずかしいかもしんないけど、とーっても有意義な時間になると思うよ。いつか“そういうこと”も“愉”しめると良いな、ひっしーと」

「ぐ‥‥!俺の話はもう良いよ‥!拓真も、彼女作れば!」

「まぁねー。でも、現実はそんなに上手くいかないってば。所詮、いっつも“良い人”止まりだからさ。‥‥さぁて、今日も楽しく演りますかー」

 

夕べは強引だったが、普段は遠慮なり我慢をしているかもしれない
それでも、“互いに同じ気持ちになった時に”と二人は約束をした
少し頭の整理がついたユイは、菱和の深い愛情を自分だけが独り占めしていることを改めて自覚し、拓真の“アフターフォロー”は功を奏する形になった
拓真にとっては二人の仲の良さを知る良い機会となり、今後も見守っていくことを決めた

 

***

 

風呂掃除を終えたアタルがリビングへ戻ってくると、菱和がキッチンで煙草を喫っていた
早速自分も、と、先程のように菱和の横に並ぶ

「解決したか?」

「‥どうにか許してもらいました」

「そっか。ははっ。お前ら、案外進んでたのな。意外だったぜ」

「‥‥、ベロチューって、進んでるんすかね」

「‥は?ベロチュー??何だよ、それしかしてねぇのか?」

「うん」

「っマジかよ!超~健全じゃねぇか!!俺なら、ベロチュー止まりだったら堪んねぇぜ‥‥お前、大丈夫なの?溜まったりしねぇ?」

「元々、そんなに性欲ないんすよね。あいつもまだそんな気ねぇみたいだし、あいつが望まない限りは必要以上求めるつもりねぇっす」

「うわぁ‥‥‥ピュアあぁ‥‥やべぇ、涙出そ‥」

「そんな、大袈裟な」

「いやいや、なまら良い話聞いた。そっかそっか、うんうん‥‥」

「お騒がせしてすいませんでした」

「なんも。これからもそゆことはあるだろ、きっと。俺らで良ければ中入るからよ。遠慮なく使ってくれ」

「うん。ありがと」

「おう。‥‥‥ユイとたーは、地下か?」

「はい、多分居ると思います」

「‥よっしゃ。お前、ちょっとあっち座って待ってろ。髪弄るぞ」

「‥‥ああ‥‥‥うん‥‥はい」

思い出したように菱和の髪を弄ると云い出すアタル
菱和は煙草を喫い終えると渋々カウンターの椅子に座り、今日もアタルに散々弄ばれた

 

ユイと拓真が地下室で談笑していたところ、菱和の髪を弄り終えたアタルが扉を開けて入ってきた

「待たせたな。なんか演っか」

「遅ーい、二人とも!」

アタルに続き、納得がいかないような面持ちの菱和が怠そうに部屋へ入ってくる

「なに、ひっしーの髪いじってたの?」

「どーよ?今日もなかなか良い出来だぜ」

ドヤ顔のアタルは、菱和の肩に腕を回した

「良いねー、昨日よかファンキーじゃん」

「うん、キマってる!!」

「だろー?」

「似合ってるよ、ひっしー」

「‥‥‥‥‥」

アタルが髪を弄り慣れているのは納得したが、『似合っている』と云われてもちっともピンと来ない菱和は何とも渋い顔をしていた
楽器を弾いて気を紛らわせるしかない───そう思い、昼食の時間まで一心不乱にベースを弾き続けた

 

***

 

昨晩の唐揚げが見事に“丼”に様変わりした昼食
ジューシーな鶏肉と、甘辛い味付け、半熟の玉子は、正しく“親子丼”のような風味だった
空腹だった四人は一気に掻っ込み、あっという間に平らげた

合宿中の食事を堪能出来るのは、今日の夕食と明日の朝食のみ───明日は、帰宅の日だ
菱和は冷蔵庫を物色し、食材を上手く使い切れる献立を考え始めた
他の3人も帰宅に備え、部屋の掃除や私物の片付けをする

その後は再び地下室で楽器を触る算段でいたが、気付けばそろそろ“良い時間”になっていた

「おいお前ら、早えぇとこ海行ってこいよ」

アタルが声を掛けなければ、タイミングを失っていたかもしれない
ユイも菱和もはっとし、時計を見た

「わ、もうこんな時間!陽が暮れちゃう!」

「ほんとだ。行っといでよ。ひっしー、米は研いであるんだよね。なんかやっとくよ」

「ああ、メモしといたから適当に頼むわ」

「寒いだろうから、あったかくしてけよ」

「うん!行ってきます!」

ユイと菱和は、いそいそと合宿所を後にした

拍手[0回]

160 avstämning

さっさと食事を済ませたユイは、一人地下に籠った
拓真とアタルは、ほとぼりが覚めるまでは自分達からユイに接するのを控えようと決めた

ユイがご機嫌斜めなのは、チェリーであることを再三弄られたから───無論、拓真とアタルに対してはそれが理由であり、単なる幼馴染み同士のじゃれ合いでしかない
だが、菱和に対する態度が二人へのそれと違うのは誰が見ても一目瞭然だった
早急にどうにかするべきだと考えた菱和は拓真とアタルに夕べの事の顛末を聞き出そうとしたが、二人とて菱和がユイに何かした場面を目撃したわけではない
食後にアタルが淹れたコーヒーを飲み、煙草を喫いながらゆっくりと記憶を整理していく

───確か、ぎゅーってして、あいつからキスしてきた。‥‥いや、俺がそう強請ったんだ。で、気付いたら俺が上になってて‥‥‥‥そうか‥ベロチューしたんだ。それから‥‥

「‥‥‥‥‥」

冷静に考えれば、ユイにとってはかなりの修羅場だったのではないかと思えてきた
剰え、酔った勢い───色々と“やらかした”感が否めない
難しい顔をしている菱和の横に、煙草を咥えたアタルが来た

「どした?」

「‥俺、夕べ、結構なことやらかしたかもしれません」

「思い出したんか?」

「ん、多分」

「そうか‥‥‥別に最後までヤった訳じゃねぇんだろうに?あんな短時間じゃ」

「そう、だとは思いますけど‥‥」

「ま、だいぶ酒入ってたからしゃあねぇよな。もしかしたら、ウイスキーとは相性悪いのかもなぁ。笑い上戸だってのがわかって、面白かったけどな!‥‥っつーか、飲ませちまった俺にも責任あるよな‥ごめんな」

「いや、飲んだのは俺だから‥‥‥美味かったすよ、ハイボール」

「‥そか」

「取り敢えず、“仲直り”してきます」

「ああ。俺らは風呂でも洗ってらぁ。ごゆっくり」

菱和は煙草の火を消すとアタルに軽く会釈し、颯爽と地下に向かった

 

***

 

「───ユイ」

菱和が地下室のドアを開け放つと、ユイは部屋の隅で胡座をかきながらギターを爪弾いていた
菱和の姿を認めると一気にバツの悪そうな顔をし、ぱっと顔を逸らす
菱和は室内に入り、ユイの前にしゃがみ込んだ

「‥‥夕べ、お前に何したか全部思い出した」

「‥‥‥‥、そぉ」

ユイは、変わらず菱和と目を合わせようとしない
それでも、言葉を返してくれたことに安堵し、菱和は話を続けた

「‥“ベロチュー”、したよな」

「‥‥うん」

「‥‥‥嫌だった?」

「ううん、別に‥‥」

「ほんとに?」

「‥‥うん。‥結構酔ってたもん、仕様がないんじゃない」

ユイは、やや棘のある云い方をした
唐突に加え無理矢理、おまけに酩酊状態───思い返すほどに、“最低だ”と思わざるを得ない

「‥ごめん。‥‥超失礼な言い訳だけど、完全酔ってた。自分でも、酔ったらあんな風になるなんて思わなかった」

菱和は、真摯に謝罪した
ユイが“そういうこと”に慣れていないのは菱和も熟知している
ならば、リラックスさせるなり段階を踏むなりして臨む場面───もっと云えば、幾ら制御が利かなかったとはいえ“この機会”にするべきではなかったと猛省した
謝罪の言葉を聞いたユイは泳がせていた目を止め、きょろ、と菱和を見た

「‥‥‥、アズは、‥‥」

「うん?」

「‥‥、酔った勢いで出来ちゃう人‥‥?」

「‥‥‥‥、何を?」

「‥その‥‥‥‥え、えっちな、こと‥‥」

そして、顔を赤らめながら夕べ感じたことをそのまま問う
“ベロチュー”以外に性的な行為に及んだ記憶がない菱和もまた、浮かんだ疑問をそのまま尋ねた

「‥‥‥‥俺、お前にえっちなことした?」

「く、“食いたい”っ‥て‥‥服ん中に、手‥」

「んん‥?‥‥‥‥‥ああー‥‥あれは、ほんとに“食いたい”って意味」

「‥へ」

「‥‥まんま、“食事をする”、って意味で」

「───はあああああ!!!??」

“食う”という言葉をそのままの意味で使った菱和と、やや歪曲して受け取っていたユイ
齟齬があったようだ

「何だぁ、そうだったんだぁ‥‥」

「‥何想像してたんだよお前は」

「だって、あの状況だったら“そう”だって思うだろ!!」

「“そう”、って?」

「も、だからぁ‥!今回ばかりはマジで心臓バクハツするかと思ったんだから!!『え、これ“しちゃう雰囲気”じゃん』って‥!」

「‥チェリーの割りには随分ませたこと考えてんのな」

「な、も‥うるさいなぁ!そういう流れだと思ったんだってば‥!あっちゃんだってアズに『任せれば』とか云ってたし、覚悟決めてたんだよ実は!!っていうか、“慣れてない”なんて嘘吐くなよ!べ、ベロチューだって全然“初めて”な感じじゃなかったし!も、頭ん中おかしくな───」

菱和は、照れ隠しからか矢継ぎ早に話すユイにこつん、と頭突きをした

「‥‥嘘なんか吐いてねぇよ。‥どうやったら“イイ”のかなって、考えながらやっただけ」

武骨な掌がユイの後頭部を覆う
さらりと流れる長い前髪から、漆黒の瞳が覗いた

「っ、だって、あんな‥‥‥あんな‥‥」

ユイの目は、再び泳ぎ始めた

 

「───‥‥気持ち良かったんだ?」

 

菱和の低い声に、夕べの“ベロチュー”の感覚が蘇ってきたユイはゾクリとした

舌が、唇が触れる度に
蕩けるような気がした
愛撫されていると思うと
おかしくなりそうだった
おかしくなってしまっても良いと思えた
求められて、嬉しかった
五感の全てが、菱和を感じていた
嫌じゃなかった
“イイ”と感じてた───

「ん、そ‥‥‥」

ユイは赤面し、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事しか出来なかったが、菱和は“肯定”と受け取り、額を合わせたままにこりと笑む

「‥“しても良い”と思ってくれてたんだ?」

「‥‥‥『仕様がない』ってのが本音、だけ、ど」

「‥‥でも覚悟決めてくれてたのな」

「‥う、ん‥‥」

不本意ではあったかもしれないが、“事に及んでも構わない”と思っていたと云うユイを何ともいじらしく感じた菱和は、その頭を優しく撫でた
そして、再び謝罪する

「ごめんな、ほんと」

「‥‥‥“お酒の所為”ってことで、許して、あげる」

「ありがと。‥‥もう絶対無理矢理しない。約束する」

そう云って、ユイの手を頭をぐしゃぐしゃと頭を撫で回す
ユイも心が解れ、そっと菱和に寄り添った
菱和はユイの肩に腕を回し、また額を合わせた

 

「‥‥‥‥あのね。‥俺、ちょっと悔しかった」

「‥‥うん?」

「アズが、その‥‥経験ある、って聞いて」

「ああ、うん」

「でもそれは、俺らが出会う前の話でしょ。そんなんいちいち気にしてたらキリないよね。‥でも、俺の知らないアズを他の誰かが知ってるのは、悔しいなって思っ、た」

「あー‥‥、なんかそれ、嬉しい」

「そ、そぉ‥?」

「うん。嬉しい。なんか変な感じする。‥‥っつーか、経験ない割りにはすげぇこと考えてんのな」

「そういうの、したことないくせに、生意気かもしんないけど‥‥」

「そんなことねぇよ。‥‥っつかさ、経験してるしてないで優劣付けんなよ。あっちゃんも云ってたろ、『経験してりゃ偉いってもんでもねぇ』って。チェリーだろうが何だろうが、そんなことどうでも良いよ。俺も、いざ“そういうこと”になったらお前を悦ばせる自信ねぇしさ」

「お、俺は良いんだよ、別に、何だって‥‥」

「何だそれ。‥‥でもやっぱ、そういうことするならお前とが良い。‥っつーか、お前とじゃなきゃする意味がねぇ」

「‥は!!?」

「だって、そうだろ。キスだってえっちなことだって、好きな奴としたいじゃん。この価値観がズレてたら、どーしょもねぇけど」

「‥‥‥、‥‥」

「‥‥ん?」

「‥‥‥‥、俺も、アズと、が、良い‥‥」

「‥そっか、良かった。‥‥‥俺はいつでも良いけど?」

「な‥!!!ぉ、俺はまだ‥!!」

「わかってるって。お互いに、おんなじ気持ちになった時に、な」

「う、うん‥‥」

 

互いに同じ気持ちになった時

その時が、一刻も早く来て欲しいような、永遠に来て欲しくないような───

“事に及ばなくても、こうして隣に居られれば十分”
現時点で、二人のその想いはぴったりと重なっていた

 

「‥‥一つ、訊いても良い?」

「何?」

「今日の約束、覚えてる?」

「‥‥、海までドライブ」

「‥!覚えてたんだ!良かったぁ‥‥っていうか、運転出来る?」

「ああ、うん。酒はもう残ってねぇから。こう見えて、頭はすっきりしてんだ。さっきあっちゃんにも云われたけど、俺ウイスキーとは相性最悪なのかもしんねぇ。美味かったんだけどさ」

「ふーん‥‥合う合わないって、あるんだ」

「ま、どっちにしても今日は飲まねぇ。これ以上醜態晒すわけにもいかねぇし」

「醜態‥?かなぁ?」

「そうだろ。酒で失敗するなんて、情けねぇったら」

「‥‥‥‥‥さっきも云ったけど、俺、嫌じゃなかった、よ。どうすることも出来なかったし、アズいつもと違うからちょっと怖かったけど‥‥‥」

「‥怖かったんだ」

「正直云うと、ね‥‥‥‥ぉ、俺は‥‥なんもかんも、初めて、だから‥」

「‥‥‥云っとくけど、俺も初めてだよ。‥‥や、訂正する。“初めてみてぇなもん”」

「‥そ、‥‥」

「嘘じゃねぇ。っつーか、何で“慣れてる”って思うのか全然わかんねぇんだけど」

「‥‥‥‥、だよ」

「は?何?」

「っだから、上手だったの!!多分!今までそゆのしたことないし、アズとが初めてだからわかんないけどっ!!」

「‥‥‥‥‥、何で“上手”だと思ったの?」

「え‥そ、れは、何ていうか‥‥最初、は‥ドキドキし過ぎてヤバかったんだけど、そのうち、段々ふわふわしてきて、頭ぼーっとして‥‥その‥‥‥」

「‥‥‥‥気持ち良かった?」

「‥‥‥う、ん」

「そっか‥そりゃ良かった」

「‥‥、アズ、は‥?」

「気持ち良くねぇわけねぇじゃん。お前がイイと思ったことは、俺もイイんだよ」

「ん、‥お、俺が相手で、も?俺、全然、何も出来ないし‥」

「違う。相手がお前だからそう思えるんだよ。それはもう“上手い”とか“下手”とかそういう次元じゃねぇんだ。‥例えば、佐伯とかあっちゃんがすんげぇ“上手い”として、ベロチューなり何なりしたとしても、絶対お前との方が気持ち良い筈。それはめっちゃ自信ある。‥‥要は、“それくらい好き”ってこと」

「‥だ‥‥!!ぁ、う‥‥‥‥‥俺も、アズのこと、“それくらい好き”、だ、よ」

「‥良かった。嫌われてなくて安心した。あんだけ“酷でぇこと”したのに」

「嫌いには、ならない、よ‥てか、多分、嫌いになる方が無、理」

「‥‥何だよそれ。超めんこい」

「ゎ、ん!苦し‥!!」

 

無事“仲直り”をした二人
菱和はユイを思い切り抱き締め、自分の腕に収まる小さな身体も健気な心も真に“大事にする”と強く心に誓った
ギターごと抱き締められたユイは、今一度濃密な夕べを振り返り、騒ぎ出した心音が聴こえない振りをした

拍手[0回]

159 drinkare

「‥あのバンドの『ファンの女食ってる』って噂は、ホントだったのか?」

「みたいすね」

「お前は、食わなかったのか?」

「‥‥何度か出待ちっぽいのに囲まれたことあるんすけど、基本楽器弾いたらすぐ帰ってました」

「ほんっっっと真面目よな、お前」

「そうすかね‥‥幾らファン?とはいえ、どこの誰かもわかんねぇ女とヤるのは無理っす」

「じゃあ、どこの誰だかわかってたらヤれるってことか?」

「どうなんすかね‥‥よくわかんねぇっす」

 

「───‥‥‥‥お前、童貞卒業したのいつ?」


「ちょ‥、なに聞いてんの!?」

ユイは、飲んでいたプッシーキャットを噴き出した

「いやー、今ならどんなことでも答えてくれそうな気がしてよ。云いたくなかったら云わなくても良いぜ、別に」

アタルはニヤニヤしており、拓真も菱和の女性遍歴には興味がありそうな様子
だが、ユイの顔は若干曇った
グラスに残っていたハイボールを飲み干すと、菱和は首を傾げながら云った

「‥‥いつだったかな‥‥‥‥‥中学のとき、かな。‥‥や、でもアレを“卒業”と云ってしまって良いもんかどうか‥‥」

「なに、なんか事情があるの?」

「よくわかんねぇけど、全然記憶に無くて」

「覚えて、ないんだ?」

「‥‥とにかく、色々あったっぽい」

「“っぽい”っていうのは、誰かから詳細を聞いたってこと?」

「ん。当時つるんでた奴がゴチャゴチャ云ってた。もうそれも覚えてねぇんだけど‥‥」

菱和自身もよくわかっていない“裏事情”
拓真の問いにも、歯切れの悪い返事しか出来ないでいる

「その“色々”が聞きてぇんだけどなぁ‥‥ま、覚えてねぇならしゃあねぇか。で、そのヤった相手とはそっから何かなかったのか?」

「それっきり」

「そういや前にも云ってたな、『女と付き合ったことない』って」

「うん、ほんと興味なくて。女って、面倒臭せぇし煩せぇし。“色々あった”所為もあって余計苦手で。そういう奴ばっかじゃねぇってのは、わかってんだけど」

「煩わしく思うのは、何となくわかるわ。やれデートだの記念日だのっていちいち面倒臭せぇんだよな。それなら一日中ギター弾いてた方がよっぽどマシだぜ」

「そんなだから、付き合ってもすぐフラれるんだよねー」

「ばっか、俺は優しいの!“来るもの拒まず、去るもの追わず”なんだよ!どの女も、最初は『ステージでギター弾いてるのがカッコイイ』とか『ずっとギター弾いてて欲しい』とか云うんだよ。でもそのうち『私とバンドどっちが大事なの』とか云われてよ」

「そこで『バンド』って云っちゃうんだよね、いっつも。そういや、一回スタジオに怒鳴り込んできた人いたっけね」

「あー、そんなこともあったな!懐かしいなー、もう顔も名前も覚えてねぇけど」

「今まであっちゃんが付き合ってきた人は、完全にルックスに騙された感あるよね。あのときも、『こんな人だと思わなかった』とか云われて思いっきりビンタされちゃってさー」

「‥軽く修羅場だな、それ」

「何だよ!俺の所為かよ!?大体、一回ライヴで見掛けたからって俺の何がわかるってんだよ!」

「そりゃそーだけどさ、お付き合いするんなら大事にしないといけなくない?」

「俺は『構ってやれねぇ』って云ったんだよ!向こうが『それでも良い』って云うんだから仕様がねぇだろ!それで『こんな人だと思わなかった』って、堪ったもんじゃねぇよ」

「まぁ‥‥疲れますね、そりゃ」

「もう暫く要らねぇわ、そういうのは。女とデートするよか、お前らといる方がよっぽど楽しいっての」

拓真も菱和も、アタルの言葉に軽く笑った

 

「───おい、大丈夫か」

桃色の話題には特段耐性が無く、会話に参加せず禄に反応もしないでいるユイを、アタルは一瞥した

「‥‥‥何が」

「‥ああ、お前にゃまだ早かったか?こういう話」

「別に。俺抜きで話続けなよ」

そう云って、ユイは目を細めた

「ユイも全っ然興味ないもんね、そういうの」

「して、どうせお前はまだチェリーだよな」

「っ!うっさいな!関係無いだろ!!あっちゃんと拓真はどうなんだよ!?」

「愚問だ」

「俺は‥‥‥‥内緒」

「何だよそれ!ずるい!!」

拓真とアタルに関しては、“云わずもがな”なのだろう
菱和も、記憶が無いだけで経験済みのよう
ただ一人、“確定”であるユイは、蚊帳の外にいる自覚があり膨れっ面をした

 

「───‥ほんとに童貞なの」

菱和が意地悪そうな顔をし問うと、ユイは目を真ん丸にして赤面し、口を結んだ

「‥‥今のも愚問だったみてぇだぞ?」

「!!‥何だよっ!チェリーでも何でも良いだろ!?」

「ゆーい。今の発言、『自分はチェリーだ』って認めたようなもんだぞ」

「‥なぁ゙っっ‥‥!!?」

「ぎゃはははは!!お前、マジで面白ぇー!!」

「っははは!あははは!!」

「───~~~~~~~っっ!!!」

堪らず、バカ笑いする拓真とアタル
声にならない唸り声を出しながら、ユイは顔を真っ赤にして憤慨した

ふと視線に気付いたユイがそちらを見遣ると、菱和と目が合う

「──────っはははは‥‥、‥ふはははは!」

二人は暫し見詰め合っていた、が、徐々に顔を歪め、菱和も声を出して大笑いした
菱和が声を出して笑う機会は、滅多に無い
腹を抱えて笑う菱和の姿をほぼ初めて見る拓真とアタルは、思わず仰天する

「うわ、笑ってるひっしーめっちゃレア」

「‥‥何だよ、まさかの笑い上戸か?」

「わかんねぇすけど‥‥‥っはは‥‥今、めっちゃ楽しいっす」

「そりゃ良いこって。酒の“あて”にゃちょうど良い話題だった、かな?」

「あっちゃん、いじめになるからもう止めなよ」

「いじめじゃねぇよ、事実じゃんか」

「まぁ、そう‥‥みたいだけどさ?」

「‥‥くっ‥はははは‥‥!」

「ふっはははは!!」

再び、バカ笑いの波が来る
ユイは仏頂面をし、ボソリと呟いた

「‥‥もうみんな嫌い」

「悪り悪り。でも良いじゃん、チェリーでも。経験ありゃ偉いってもんでもねぇんだから」

「そうそう。節操無しよりは全然マシだよ、ね?」

拓真に同意を促された菱和は、目尻を指で軽く拭いながらユイを見据える

「‥‥‥、“好きな奴”なら、そんなんどうでも良い」

「‥‥だってよ、ユイ」

菱和の云う“好きな奴”───アタルに指摘された途端、ユイはまた赤面した

「ま、いざ“そういうこと”になったらひっしーに全部任せりゃ良いんじゃねぇの?」

「‥‥っつっても、ほぼ未経験みてぇなもんすけど‥」

「記憶にねぇからか?それはそれでちょうど良いじゃんか!“初めて”の気分味わえんだろ。なーに、同性同士の方が“ツボ”わかるだろうし、楽勝だべ!」

「宜しく御指導御鞭撻の程を‥‥」

「承りました」

「‥な、勝手に決めるなよ!!」

下ネタについていけないユイはすっかりおいてけぼりを食らう
バカ笑いする3人を、恨めしそうに眺めていた

 

***

 

「あっちゃん、も一杯ちょうだい」

「おー、気に入ったか?」

「うん。美味い」

菱和が空になったグラスを手渡すと、アタルは上機嫌で2杯目のハイボールを作った
ウイスキーを炭酸で割ったハイボールは、ストレートよりも若干度数が下がる
炭酸の心地が良く、菱和は堪く気に入ったようだ

なるべく下ネタを封印しつつ、四人は暫し談笑した
が、

「‥ね、アズ大丈夫?ちょっと、酔ったんじゃない?」

会話を続ける中、ユイはいち早く菱和の口数が減っていることに気付いた

「‥‥んー‥‥そーかな‥‥‥」

「キツかったか?」

「んーん。美味いっすよ。も一杯貰えますか」

再び空になったグラスをアタルに手渡す菱和
思いの外ハイペースで飲んでおり、実はこれで4杯目のハイボール
愉しんでいるところに水を指すのも気が引けるが、これ以上は明日に残るのではないかと、ユイは危機感を募らせる

「も、寝ようよ。具合悪くなったら大変だし」

「‥‥んー‥ああ、そういや明日海行くんだったな。悪い」

菱和はユイの頭をぽんぽん、と叩いた
顔色は普段と変わらないが、酔いが回っている所為か、その目はとろん、としていた

「いや、それは良いんだけどさ‥‥」

「よっしゃ。俺らももう寝るべ。片付けはやっとくから、先にひっしー連れてけよ」

「う、うん。じゃ、おやすみ‥‥アズ、行くよ」

「んー、‥‥また明日」

「はいはーい、おやすみー」

ユイは菱和の腕を自分の肩に回し、寝室へと促した

 

「アズ、だいじょぶ‥?」

「んーー、何が」

「‥もう、酔っ払い」

寝室に入るや否や、菱和はベッドへダイブした
溜め息を一つ吐いたユイは菱和の身体に布団を掛けてやり、まだ片付けをしている拓真とアタルがいる階下へと向かおうとした
ドアに手を掛けようとしたところ、菱和が徐に起き上がった

「───‥‥唯君。ちょっとこっちおいで」

「‥“ただしくん”!!?」

いきなり本名で呼ばれたユイは、思い切り振り返った
菱和がユイを“タダシ”と呼んだのは、これが初めてのことだ

「‥もー、寝なよアズ‥‥酔ってるんだか、ら‥」

「良いから早く来いって」

上体を起こし、掌を上にして仰ぐように“来い”と合図し、低い声でユイを呼ぶ菱和
その目は、完全に据わっていた
拓真とアタルの応援に向かいたいが、酔っている菱和の行動は未知数で、一体何を仕出かすかわからない
ひょっとしたら、殴られるかも───ユイはビビりつつ、菱和のいるベッドへゆっくりと近付いていった
手の届く距離まで辿り着くと、菱和はユイの腕を掴み、ぐっと引っ張り寄せる

「───ぅわあっっ!!」

そしてそのまま、自分の胸へと抱き止めた
ユイがぶつかった反動で二人はベッドへと倒れ込み、菱和はユイに頬擦りする

「‥んー‥‥ユイ‥めんこい」

酔っている人間の力とは思えないほど、菱和のユイを抱く力は強かった
振り解こうにもがっちりとホールドされ、全く身動きがとれない
ユイは軽く混乱し、無我夢中で抵抗をする

「も、寝なってば‥!」

「‥‥‥‥‥、じゃあ、」

「あ‥っ!?」

今度は、視界がぐらりと揺れる
気付けば、ユイの身体は菱和に跨がる形になっていた

「‥お前からして。そしたら寝る」

菱和は自分の唇を指差し、不敵に笑んでいた
『自分からキスをしてくれれば大人しく寝る』という交換条件の提示にユイはまたしても混乱し、ただただ赤面して菱和を見下ろした
剰え、手首をがっちりと捕まれており、逃げる隙はほぼ無いと云っても良い状態だ

このままこうしていても、きっと菱和は云うことを聞いてくれない───そう思ったユイは意を決し、菱和へと顔を近付けた

「‥‥目ぇ閉じて」

「‥‥‥‥」

「っ早く目ぇ閉じて!」

悪戯に、愉しげにユイを見上げる菱和
ユイが声を上げると、菱和は漸く、ゆっくりと瞳を閉じた

軽く息を飲み、ユイはそっと菱和にキスをする
ほんの少し唇が触れただけの、軽いキスだった

「‥‥‥、それで終わり?」

菱和は、不満そうにそう呟いた
約束は果たしたのだから、自分の役目は終わり
そう思ったユイは抗議しようとした

「‥も、俺ちゃんとしたよ!だから早‥───!!」

刹那、菱和はユイの頭を掴むとぐっと引き寄せ、強引に唇を押し付けた
そして、食むように何度もユイにキスを繰り返す
顔が離れたかと思えばまた視界は揺れ、今度は菱和がユイに覆い被さった
徐に伸びてきた無骨な手はユイの小さな手に重なり、もう片方の手はふわふわの髪の毛に絡まる
ユイの混乱はピークに達し、されるがままになっていた

「───‥ユイ」

荒く、乱暴で、甘い口付けの隙間
溶けるような吐息混ざりの声で名前を呼ばれ、ユイの心臓が跳ね上がる

「‥口開けて」

それは、触れるだけに踏み止まらないキスへの甘美な誘い
何度も交わした普通のキスでさえ、まともに受け止める余裕は未だにない
ユイにとって未知の領域───唐突に訪れた“ベロチュー”の機会に、益々混乱する

「や、む、無理‥‥っ」

「‥‥‥、‥‥」

とろんとした目でしっとりとユイの瞳を捕らえたまま、菱和は舌先でユイの唇を舐めた
ユイは咄嗟に口を固く結んだが、輪郭をなぞるように這う舌は『開けろ』と促してくる

酔った勢い
欲望に塗れた漆黒の瞳
甘い唇
どんな感覚が待ち受けているのか全く想像がつかないが、“求められている”ことに無性に心臓がざわつく

 

吸い込まれ、る──────

 

ユイは、困ったような顔をしながら僅かに口を開けた
菱和はふ、と笑むと、震える唇を親指で何度か優しく撫で、ユイの口を覆うように唇を重ね、ゆっくりと舌を絡ませた

「‥ふ、ぁ‥っ‥‥」

───お酒くさい

嗅ぎ慣れた香水と煙草の香りを、アルコールの匂いが掻き消していく
逃げ場の無い口内に侵入する舌は夢中で求め続け、ねっとりと、しつこく、何度も何度もユイの舌を撫でた
濡れた唇が隙間なく密着し、互いの唾液が交ざり合う水音と、溜まったそれがこくりと喉を通る音が聴こえてくる

───な、に、これ‥わけわかんなくな、る

官能的な刺激に全身が支配され、情欲塗れの濃厚な愛撫にユイの脳内は次第に麻痺し、抵抗する気はすっかり失せ、蕩けていった
執拗で淫らな音が止む気配はなく、悪戯に菱和を昂らせる

 

「───ぎゃあっ!!!」

無骨な指先がTシャツの中へするりと侵入し、脇腹辺りを撫でてくる
ユイは擽ったさに身を捩らせた

「ちょっと、何してんの‥!?」

「‥‥お前、美味そう。食いたい」

菱和は妖艶な笑みを浮かべ、切れ長の眼を細くさせた

「食う!?って‥‥や、やめっ‥!」

「動くなよぉ。食えねぇだろぉ」

「ちょ、待っ‥!!」

「待てねぇ」

菱和の手はユイのTシャツを捲り上げつつ、どんどん上へと伸びていく
麻痺していた脳内は瞬時に冷静さを取り戻し、ユイは必死で抵抗を試みた
だが、菱和にマウントを取られていては出来得る抵抗など高が知れている

先程の3人の会話が頭を過る

自分だけが“未経験”だという恥辱
“好きな奴”が相手なら、そんなことは『どうでも良い』と云い放った菱和
ユイにとっては有り難く、嬉しい話だ
だが、

何の覚悟も準備も出来ていないのに“食われてしまう”というのか
菱和は、酔った勢いでヤれてしまうというのか
求められるのは嬉しいが、“初めて”がこんな状況で訪れるとは───あまりの急展開に様々な感情が錯綜し、ユイの頭の中はぐちゃぐちゃになる

“慣れてない”なんて、嘘吐き───

「アズ──────!!!」

ユイは堪らず目を瞑り、縋るように叫んだ

 

「───‥‥‥‥‥あれ、」

ユイが叫んだ途端、菱和の動きがピタリと止んだ
待てど暮らせど何の刺激も起きない変わりに、菱和の身体の重みがずしりとのし掛かってくる
不審に思ったユイは、そっと目を開けた

「‥アズ。‥‥アズ?」

「‥‥‥‥くー‥‥」

どうやら、菱和は力尽きたようだ
先程の騒動などまるで無かったかのように、静かな寝息が聴こえた

───ええええええ!!!

 

「たっ、拓真ぁ、あっちゃあぁんっ‥!」

片付けを終え、ちょうど階段を昇っていた拓真とアタルがユイの声に気付き、扉を開ける

「なーにー、呼んだ?」

「なんだお前ら、何してんだ?」

「ちょ、アズどかして‥‥っ」

二人が室内を覗き込むと、ベッドの上で菱和の下敷きになっているユイがじたばたしていた

「‥おやおや‥‥」

「寝ちゃったの?ひっしー」

拓真とアタルは菱和を引き剥がし、ベッドへと仰向けに寝かせた

「っつーか、何でこんなことになってんのよ?」

「‥知らないよ!!も‥大変だったんだから‥‥!」

漸く解放されたユイは肩で息をし、すやすやと眠る菱和を畏怖の目で見遣った
乱れたベッドやユイの顔を見て何となく察しがついたアタルは、ふ、と笑みを零した

「こいつ、酔ったらこんなんなるのな‥‥いつものクールな感じと全然違げぇじゃん」

「お酒の力って、怖いねー」

ユイの修羅場を他所に、拓真も呑気に呟く

「お前、どうする?ここで寝るか?それとも別な部屋使うか?」

「同じベッドで寝たら、また身動き取れなくなっちゃうかもねー」

野次られたユイは赤面した後俯き、ボソリと呟いた

「‥‥そこのソファ使う」

「何だよ、ベッド余裕あんぞ?」

「‥ソファで寝るのっ!!」

未だ早鐘を打つ心臓が早く治まらないかと、ユイは夢中で声を上げる
アタルは、ぷっと噴き出した

「‥‥ま、こいつももう朝まで起きねぇだろうし、大丈夫だろ。じゃあな」

「おやすみ、ユイ。よい夢を」

拓真とアタルは、ニヤけ顔で部屋を去っていった

 

しんと静まり返る室内
ベッドで爆睡する菱和
口内に残る舌の感触
欲情した瞳
乱れたシーツ
濃厚な余韻
求めてきた手

決死の覚悟もただの取り越し苦労に終わりほっとするも、この気持ちをどう昇華しろというのか───

「‥‥アズのバカ」

ユイは膨れっ面で菱和に布団を掛けてやると、毛布を携えてソファに深く項垂れた
徒労感でいっぱいだったが、眠気が一向に訪れなかった

 

***

 

翌朝

目を覚ました菱和は起き上がり、ボサボサの髪をざっと掻き上げた
寝惚け眼で室内を見回すと、ベッドに自分が居る他は何もなかった
ふと目に入ったソファの上に、畳まれた毛布が置いてある

「───‥‥‥‥‥」

酒は抜けているが、起き抜けの脳はぼーっとしており、夕べの記憶は途切れ途切れ
取り敢えず、煙草が喫いたい───菱和はベッドから出て、リビングへ向かおうとした

 

「あ、おはよー」

「よう」

「‥‥はよ」

リビングには起床した3人が既に揃い踏み、朝食を摂っている最中だった
拓真とアタル、階段を降りる菱和は朝の挨拶を交わしたが、ユイだけは菱和と目を合わせようとしなかった
わざと菱和に背を向けるようにし、パンを口に運んでは必死に咀嚼している

様子がおかしい───そう思った菱和は、階段を降りきったところで首を傾げながら問う

「‥‥‥‥‥俺、夕べなんかした?」

「いや、別に。な?」

「うん。ね?」

「‥‥‥‥‥‥」

拓真の同意にユイは返事をせず、口をもぐもぐさせている

やはり、様子がおかしい
俺、絶対なんかやらかしたな───そう直感したところ、わかりやすい反応をするユイを一瞥したアタルはコーヒーを啜りながら菱和に尋ねる

「覚えてないのか?夕べのこと」

「‥‥‥ここで、チェリーがどうのって話したとこまでは覚えてっけど‥‥‥‥」

ボリボリと頭を掻き、菱和はそう呟いた

「───ぶはっ!!!あははは!!お前、サイコーだな!!」

「そこだけ覚えてれば十分じゃない?‥‥っく、あはは!!」

拓真とアタルは、堪らず噴き出した
菱和は眉を顰め、どうしても思い出せない夕べの記憶を必死に辿った

「‥みんな大っ嫌い」

恥辱を蒸し返されたユイは、暫しの間不機嫌そうに過ごした

拍手[0回]

158 Bacon&Tuna Spaghetti… 'n' Japanese Fried chicken

午後二時、遅めの昼食
菱和は、ユイの合宿中のリクエストであるパスタを振る舞った
程好い固さに茹でたスパゲティーと共にベーコン、ツナ、薄切りにした玉葱を炒め、塩胡椒と醤油で味付けされた極シンプルなものだった

「簡単なやつだけど、どうぞ」

粉チーズとタバスコを添え、菱和は皆が待ち侘びるダイニングテーブルへと着席した

「ふわ、うーんまそう!」

「頂きまーす」

手を合わせ、各々パスタを頬張り始めた

「うまぁ!美味い美味い!」

「すげぇシンプルだけど、美味しいね。粉チーズかけた方が美味しい?」

「俺はかけた方が好き」

「作った本人が云うなら間違いないね、俺もかけよっと」

「俺も俺もー!」

「俺もー」

そう云って、全員が粉チーズを贅沢に振りかけた
菱和とアタルは更にタバスコを振りかけて、味を調整した

「素朴だけど、良いね」

「うん、美味ーーい!」

「これは、オリジナル?」

「んーん。母親がよく作るやつ」

「なるほど。だから“それっぽい”のか」

「“っぽい”って?」

「何となく、時短テクと有り合わせの材料を駆使した感じっぽいなーって。あと、初めて食うのに慣れ親しんだ味。‥って、俺が勝手に慣れ親しんでるだけだけど‥‥」

「親しんでもらえたんなら、満足だわ」

「っつーか、よくそこまで推察したな。普通に『美味ぇ』としか思わなかった」

「‥それも、嬉しいっす」

「パスタはカルボナーラ、ペペロンチーノ‥‥そういやナポリタンも作ってもらったっけね」

拓真は、今まで菱和に作ってもらったパスタのラインナップを指折り数えた

「有名どころは大体網羅してんじゃん、俺ペペロンチーノしか食ってねぇけど‥‥‥そだ、今度ボロネーゼ食いてぇな。ボンゴレも」

「ビアンコ?ロッソ?」

「んー‥‥‥‥‥どっちも?」

「ははっ!だよねー」

「じゃあ、なんかの機会に作ります」

「頼むぜ」

「うぃす」

「やった!俺、アズのパスタだぁーーーい好き!!」

「‥そ。ありがと」

「っつーかよ、この合宿マジで至福だな。食事の美味さにはガチで何も云うことねぇ」

「ほんとねー。ひっしー、ありがとね。大変満足です」

「いえいえ。これくらいは、合宿じゃなくても、いつでも。夜は、佐伯の“唐揚げ”にするわ」

「ほんとに?楽しみにしてるわ」

 

『母親がよく作るやつ』

菱和の母・真吏子の顔を思い浮かべたユイは、このパスタも菱和にとっては所謂“お袋の味”なのだと思い、食事を頬張る頬が自然に綻んだ

 

***

 

昼食後から夕方まで、ユイを除く3人は昨日同様菱和が作ってきた曲のアレンジを進めた
ユイは一人作詞に勤しみ、3人が奏でる音を階下に聴いては時折地下に赴いた
ユイが地下に顔を出す頻度が増えてきた頃、アタルは呆れ顔をした

「何だよ、また来たのかお前は」

「だってさー‥‥‥全然思い浮かばないんだもん‥‥」

ユイは溜め息を吐き、入り口辺りにしゃがみ込んだ

「作詞なんて、滅多にやらないもんね。あんま出来なさそうならあっちゃんにやってもらえば?」

「んー‥‥でもそれもなぁ‥‥‥‥」

「‥やっぱ自分でやりたい感じ?」

「‥‥うん」

頬を膨らませるユイは、珍しく辟易している
普段は使わない頭をフル回転させているのだ、3人は“無理もない話だ”と思った
見兼ねたアタルは、ユイにヒントを与えることにした

「───良いこと教えてやろっか」

「‥何?」

「“作詞に使っちゃいけない言葉は一つもない”」

ユイはきょとん、と目を丸くし、拓真はスティックをくるくる回しながらアタルに問う

「何それ?あっちゃんの持論?」

「俺が尊敬するシンガーソングライターのインタビュー記事で読んだんだよ。この言葉聞いてから、俺も超参考にしてる」

さも持論を展開したのかと思えば違ったようだが、それでもアタルはドヤ顔をしていた

「“使っちゃいけない言葉は一つもない”って‥‥‥‥下品な言葉も使っちゃって良いっての?」

「そりゃ場合によるだろ。あとは、あれだなぁ‥‥‥例えば『ある単語を使いたい』と思ってもしっくりいかないようなら、別な言い回しを使う」

「あー、うんうん」

疑問符が浮かぶユイを他所に、拓真はアタルの言葉に納得したようで頻りに頷いた

「‥‥“ギターを弾く”って言葉を、“音を紡ぐ”とか“奏でる”とか、違う言葉に変えてみるってこと。‥‥で、合ってる?」

更に、菱和が一つ例え話をすると、アタルは軽く笑んで頷く

「‥ま、この辺は国語の知識になっちまうけどな」

「引き出し多けりゃ、他の言い回しの選択肢も広がるしね」

「むー‥‥、でも俺、ボキャブラリーないもんなぁ‥‥」

理解は出来たものの、ユイは自分の語彙力の無さに途方に暮れてしまう

 

「───明日、ひっしーとドライブでも行ってこいよ」

「‥ドライブ?」

「こっから15分くらい行ったとこに海あんだよ。崖っぷちだから下にゃ下りらんねぇけど、夕焼けが綺麗なんだよ。結構沁みるぜー?」

「へー‥‥そんなとこあるんだ‥」

「‥‥って、二人で行ってきて良いの?」

唐突な提案に、ユイは目を瞬いた

「ああ。良い気分転換になんじゃねぇの」

「案外、なんか閃くかもしんないしね」

ゴチャゴチャになった頭のリフレッシュと同時に、菱和と二人きりになれる機会───嬉しさはあるものの、何となく申し訳なく思ったユイは躊躇いがちに菱和の顔を見上げた

「‥‥アズ、良い?」

「うん。じゃあ、今日はあんま酒飲めねぇな」

「あ、そっか‥‥ごめん」

「ううん。明日に残んねぇ程度に飲むから」

「よっしゃ。じゃ、今夜はそこそこに飲むか!お前、一回作詞やめてこっち来いよ。ギター弾きてぇだろ?」

「そうだね、ちょっと四人でなんか演ろっか」

「‥うん!!」

声が掛かると、ユイはパッと笑顔を弾けさせ、いそいそとギターの準備を始めた

 

***

 

「だいぶ形になってきた、な」

「うん。結構出来てきたよね。あとは歌、か」

「ん、頑張る!頑張って、良い詞書く!」

「その調子その調子。‥さて、ぼちぼち夕飯にすっか」

昼間同様、汗だくになった地下室の四人
夕方には演奏を切り上げ、夕食の準備へと取り掛かる
菱和は一足先にキッチンへ向かい、拓真のリクエストである唐揚げの下拵えをし始めた

「今日はあっちゃんが先風呂入ってくれば?」

「おう。軽く汗かいてくらぁ。お先ー」

地下室の片付けを済ますと、アタルはバスルームに向かった
ユイと拓真は菱和の手伝いをし、アタルの入浴が終わるのを待った

アタルが入浴を済ませて出てくると、香ばしい香りが鼻を擽った
真っ直ぐキッチンへ寄り道をし、バスタオルで髪を拭く傍ら唐揚げを摘まみ食いする
まだ着替えも済んでいないというのに、冷蔵庫から缶ビールを2本取り出して飲み始めた

「っかーーー‥美味ぇー‥‥」

「あ、あっちゃんずるい!俺らもまだ食べてないのに!」

「お行儀悪いですねぇ。上半身裸だし」

「そうだそうだ!この裸族!」

「うっせぇ。誰が裸族だ」

ユイと拓真の野次にも全く聞く耳持たずアタルはビールを煽り、残りのもう一本を菱和に手渡した

「ほれ。お疲れ」

「‥お疲れ様です」

菱和はビールを受け取ると、乾杯を促してきたアタルと缶を合わせた

「俺らにもなんか作ってよー!」

「あーもううるせぇなぁ、これ飲んだらな!」

唐揚げは、全部で三種類
菱和もビールを飲みながら、各々の味を説明する

「こっちが塩。こっちがちょっとスパイシー。こっちはにんにく醤油」

「俺、にんにく味食いたい!!」

「ほら」

菱和が、摘まんだ唐揚げをユイの口に放る

「‥‥ん、美味い!!めっちゃ美味い!!」

「忠実にリクエストに応えてくれて‥‥ありがたやありがたや」

手を合わせながら、拓真も摘まみ食いを始めた

「これが、明日には丼になってるのね」

「一応、その予定」

「“どん”??」

「卵で閉じるんだってさ」

「わ、それめっちゃ美味そう!」

「じゃあ、明日まで楽しみにしてますか。でも、あんま食い過ぎないようにしないとな」

「まだまだ沢山あるから大丈夫だよ。めいっぱい食って」

「よっしゃーっ!!」

「酒が進むぜぇ」

そのまま、流れるように夕食の時を迎えた

 

「いつか、リサんちの味付け真似たいんだけどさ。超美味かったから」

「あー。あれ絶妙だよな、ほんと」

「うん!俺、めっちゃ好き!リサの母さんのもにんにく利いてて、結構スパイシーだよね!」

「おー、それも酒が進みそうだな」

「帰ったら、レシピ聞いてみようか?」

「そうだね!」

「‥‥あ、レモンかけっか?まだ余ってんぞ」

「かけよかけよ!」

アタルはレモンを切る傍ら、オレンジ・パイナップル・グレープフルーツジュースにグレナデンシロップを混ぜた“プッシーキャット”を作り、ユイに渡した
ユイを除く3人は取り敢えずビールを飲むことにし、カクテルは夕食後に堪能することにした

暫し夕食に舌鼓を打ち、その後はユイ、拓真、菱和の順で入浴を済ませた

『今日一日その髪で過ごせ』というアタルの言葉通りにしていた菱和
当然、洗髪の際にその髪型は崩す他なく、さっと一本に纏められた菱和の髪を見て、アタルは堪く残念そうな顔をした

「あーあ、俺の最高傑作が‥‥‥‥‥」

「髪型?」

「ほんと、似合ってたよね!」

「お前、明日も髪いじっかんな」

「‥‥ああ‥うん、はい」

アタルが用意していた風呂上がりの一杯であるハイボールを差し出された菱和は、ニヤニヤしている3人を一瞥すると口を“へ”の字に曲げ、頭を垂れた

 

「───そういやよ、お前何であのバンドに居たんだ?もっと良いバンドあったろうによ」

まったりとしていたところ、アタルが菱和に問う

以前菱和がいたバンドについては菱和以外のメンバーにとっても碌な思い出がなく、“あの”事件以来何となくタブー視の傾向にあると思われた
だが、アタルの疑問は誰もが一様に気になっていたところ───菱和は特に気にしている様子もなく、ぽつりぽつりと語り始めた

「‥‥そんな特別な理由はないんすけど‥‥‥あいつらたまたま“climb-out”観に来てたみてぇで、終わって暫くしてから誘われて。その頃、我妻に『どうせ楽器やってるならバンドやればも少し楽しくなんじゃねぇか』って云われてて、あいつらもちょうどベース捜してたみてぇで、『別に良いかな』って。‥‥でも俺コミュ障だし、和気藹々とやんのはまだ早えぇかなと思ってたから、取り敢えずサポートって形で弾くことんなって‥‥‥‥」

「くく‥‥よく云うわ、“コミュ障”とか。なまら行動力あるくせによ」

「‥母親にもそう云われたけど、全然ピンとこねぇすわ」

そう云って、菱和は軽く頭を掻いた

「ユイが誘ったときは、どう思った?」

「嬉しかったよ、フツーに。最初は『何事か』と思ったけど。前のバンドは演奏面は二の次三の次だったから俺も辞め時図ってたし、良いタイミングだったんかもしんねぇ」

「うは、俺ファインプレーじゃあん!」

ユイは、満面の笑みを零す

「今だから云うけど、たーはお前に声掛けんのめっちゃビビってたんだよ。『殴られたくねぇ』とかぼやいてたっけな?」

アタルがニヤけ顔で暴露すると、拓真はバツの悪そうな顔をした

「あーもう、今更そういうこと云うの止めてよ‥‥‥でも俺、あんときまだひっしーは完全に不良だと思ってたから‥‥ごめん」

「んーん。それがフツーの反応だよ。‥殴る気とかは端から全然無かったけど」

「はは!このチビがフツーじゃなかったってこったな!」

「何だよ!最初にアズを誘えって云ったのはあっちゃんだろ!」

「そこんとこは、お前に感謝だな。『見掛けによらずクソ度胸だ』と思わなかったか?」

「まぁ‥‥よく“こんなの”に話し掛けてきたなと思いましたね」

約一年前───ユイが初めて菱和に話し掛けた日は、菱和をHazeに誘った日でもある
紆余曲折あったが、結果的に菱和がベーシストとしてバンドに在籍していることは3人にとって感慨無量と云う他ない
菱和も、それは同じように感じていた

拍手[0回]

157 träningsläger⑤

「あー楽しかった!‥‥さぁて、地下室行こっか?」

「うん!行こ行こ!」

「‥あ。お前、今日一日その頭で居ろよ」

「‥‥‥‥うぃす」

 

菱和の髪の毛を散々いじくり回した後、一同は楽器を触るべく地下室に向かった
拓真とアタルはヘアワックスでツンツンにし、いつものスタイルで足早に地下へ向かった
ユイもアタルにピンで留めてもらい大層ご満悦な様子だが、何度鏡を見ても「自分ではないようだ」と思わざるを得ないヘアスタイルになった菱和は一人浮かない顔をしていた
地下への階段を降りる足取りが重いことに気付いたユイが、菱和に声を掛ける

「どしたの、アズ?」

「‥‥‥‥、変じゃねぇ?」

そう云って、納得しない面持ちで毛先を軽く触る
ユイはにしし、と笑みながら返事をした

「全っ然!超似合ってる!あっちゃん、ほんと髪いじるの上手だよね!」

「上手いとは思う、けど‥‥なんか、落ち着かねぇ」

渋い顔をする菱和
特に不満はないものの、初めて派手に弄られた髪と、それにそぐわない自分の無愛想な顔の取り合わせのアンバランスさを否めなかった

「‥もぉ、そんな顔しないで!超似合ってるってば!」

「‥‥は‥そぉ‥‥‥」

「ねぇねぇ、俺の髪はどぉ?」

ユイは陽気に自分の毛先を触り、菱和に感想を求めた
髪は全体的にヘアワックスを馴染ませており、所々にピンが留められ、ぴょんぴょんと跳ねている

───なにが「どぉ?」だ、畜生

昨晩同様、加虐心が芽生えた菱和はユイの手首を掴んで引っ張り、地下へと向いていたユイの脚を止めた

「───ゎ、っっ‥!!」

ユイは、菱和の胸板へと思い切り顔をぶつけた
菱和はそのままユイを力一杯抱き締め、耳元でボソリと呟いた

「‥めんこい」

髪を弄る習慣がないユイの新鮮な姿に対する、率直な感想だった
だが、息苦しさの中に反響する低い声が若干苛ついているように聴こえたユイは、戸惑いながら菱和の様子を窺った

「え、な、なに‥なん、か、怒って、る‥‥?」

「‥別に」

菱和は、更にぎゅう、と力を込めた

「も、苦し、ってば‥!!離してよ‥!」

「やぁだ。めんこいから離せねぇ」

「何だよそれ‥意味わかんない、‥!」

「褒めてんだろ、めんこいって」

「わかったからぁ‥!も、早く地下行こって‥‥!」

がっちりホールドされた腕は、ユイの力では到底振り解くことは不可能
夕べ、“覚えてろよ”と思った
その思いをぶつけるように、菱和は少しの間ユイに“嫌がらせ”を続けた

 

***

 

「───じゃ、今日は亜実の結婚式の余興の曲決めて演りてぇんだけど‥‥‥“To Be With You”とかどうかなと思ってたんだよな」

「おおー‥ふぅーん‥‥でもあれって、失恋した女の子を励ます歌じゃなかったっけ?」

「英詞だし歌詞の意味なんざ誰も知らねぇよ、多分。それに、“To Be With You”が『君と一緒に居たい』って意味だからちょうど良くねぇかと思ってよ。一応、結婚式だし?」

「『あ、これ聴いたことある』って思うくらいかな、きっと!」

「知名度はあるもんな」

「な。んで、原曲みたいにしっとりバラードじゃなくて、ちょっとアレンジしても良いかなーとか」

「あ、それ良い!“ALLiSTER”みたいにロックっぽく演ってみるとか!」

「楽しそうだね。‥演るのは、一曲だけ?」

「余興の時間が15分くらいなんだと。だからあと2曲くらい‥‥亜実のリクエストは、“FREEWAY”だってよ。俺らの演ってる曲ん中でいちばん好きだから、って」

「へぇー!亜実ちゃん、結構シブいね!」

「‥“ノリノリ系”が好きなんすか、亜実さんは」

「そーそー。テンポ速めで縦揺れ出来るのが良いみてぇ」

「あっちゃんとおんなじ好みじゃん!流石、姉弟だね!」

「あんなのと好み同じでもちっとも嬉しくねぇや‥‥」

「ふふ‥‥。じゃあその2曲は決まり、で良いかな?」

「うん」

「あとの1曲は、演りながら決めるべ」

「おっけー!」

「よっしゃ。したら、“To Be With You”から演ってみっか」

 

地下室で膝を付き合わせて余興の曲を決める四人

“To Be With You”はMR.BIG珠玉のバラード
拓真の云う通り、失恋した女の子を励ます歌詞となっている
『誰よりも君の隣に居たいのは、僕なんだよ』と、純粋で熱い想いが籠められている

“FREEWAY”はHazeのレパートリーで、Bメロが転調するアップテンポのナンバー
そのBメロこそが、亜実の“ツボ”をがっちりと掴んでいる

残りの1曲も、レパートリーから“GO FOR IT”と決まった
“FREEWAY”を凌ぐハイテンポで最後まで突き進む
キーも高めで、ユイをメインヴォーカルに据えた楽曲だ

アタルの「腹減った」の号令が出るまで、四人は地下に籠って汗だくになりながら演奏し続けた

拍手[0回]

156 träningsläger④

「───あれ、」

リビングに降りてくると、人の気配は無かった
てっきり自分達が思いきり寝坊をしたのかと思っていたが、拓真もアタルもまだ眠っているようだ

「なんだ、俺らが一番乗りか」

「そうみてぇだな」

「‥みんな、何時まで起きてたの?」

「2時くらい、かな」

「そんな遅くまで起きてたの‥‥‥てか俺、何時に“落ちた”のか全然記憶にないや」

「1時にはそこで突っ伏してたよ」

「あ、そぉ‥‥‥‥」

「‥何食う?パンもあるし、パスタも出来るし、ゴハンも残ってるけど」

「迷うとこだなぁ‥‥うーん‥」

 

「おはよー」

「あ、拓真!はよっ!」

「はよ」

朝食の献立を考えていると、拓真が起床してきた
普段は整髪剤でツンツンにしている髪はぺたんとしており、おまけに立派な寝癖が付いている
短髪ならではの宿命に、突っ込まずにはいられない

「‥‥すげぇ寝癖」

「んははー。一応、普段はセットしてるからねー。寝起きはいっつもこんなんよ」

ほぼ寝起きのままの髪でいる自分とは、まるで裏腹
毎朝きちんとセットしている拓真の習慣と努力に、菱和は感心した
寝癖は凄まじいがテンションはいつもと変わらず、拓真はのほほんと笑った

「ちょっと、新鮮だな」

「なんか照れるなぁ。‥ところで二人とも、朝飯は?」

「これからだよ、俺らも今起きたとこなんだ。パンかパスタかゴハンかって話してたとこ!」

「そっか。じゃあ俺も‥‥朝は朝らしく、パンかゴハンにする?」

「どっちにしよっか?‥‥昨日のゴハン余ってるなら、先食べちゃった方が良くない?」

「じゃあ、白米にすっか。おかずはなんかテキトーに作るわ」

「おけ。手伝うよ。ユイ、先に顔洗ってくれば」

「うん!」

ぱたぱたと洗面所へ駆けていくユイを見送ると、菱和はさっと髪をまとめて朝食の準備に取り掛かった
拓真は寝癖頭のまま食器を出したり下拵えを手伝ったり等、菱和のサポートをした

 

かりかりに焼いた香ばしいベーコン
ふんわりとした甘い厚焼き卵
昨夜の鍋で余った白菜と茸で炊いた味噌汁からは、食欲を唆る湯気が立つ
ツナ入りの甘辛い餡が掛けられた豆腐も、昨夜の鍋で余ったものだ

「うおー、めっちゃ良い匂いすんじゃん」

欠伸をし、腰の辺りをぼりぼり掻きながらアタルが降りてきた
アタルも拓真同様、普段は整髪剤で髪を逆立てているが、元はウルフカット
髪を下ろしているアタルもまた、菱和にとっては新鮮だった

「‥おはよ」

「おう、はよ。っつーか、朝から贅沢な気分すんなぁ‥‥味噌汁の匂いマジやべぇ」

「はよっ!ゴハン、ちょうど出来たとこだよ!」

「グッドタイミングだね、あっちゃん」

配膳は既に済んでおり、あとは席に着いて食すのみ
正しくグッドタイミングだった

「食おーぜ食おーぜー」

「うぃー。頂きまーす」

「頂きます!」

「頂きます」

各自、手を合わせて朝食を摂り始めた

 

「‥‥そういやさ、」

白米を頬張るユイが、唐突に話し始める

「アズと一緒に、冬休み中にsilvit行ったらね、店長の元バンドメンバーさんに会ったんだ」

「───は、何だそりゃ!!?」

アタルは驚愕し、身を乗り出した

我妻のバンド“RiOT”は、知る人ぞ知る伝説のバンド
アタルはその元メンバーが営む楽器店に出入りしていること自体名誉なことだと感じており、驚愕してしまうのも無理もない話だった
一方、拓真はアタルほどRiOTについて詳しくはないからか、ふーんと頷くだけだった
菱和がユイの言葉の続きを話す

「我妻が『会わせたい人がいる』って云うから訪ねてみたら、ドラムのENさんって人が居て‥‥」

「でね、店長も一緒に4人でセッションしてきちゃった!」

その時のことを思い出し、ユイは満面の笑みを零した

「えーーー!元プロとセッションなんてすげぇじゃんか!俺も混ざりたかった‥‥バイトだったもんなぁ‥」

「ちくしょー、俺もバイトなんて入れなきゃ良かった!してお前ら、何でもっと早く云わねぇんだよぉ!!」

「合宿中の話のタネに、楽しみに取っとこうと思って!ね!」

目配せしてきたユイに、菱和はこくこくと頷いた
一度口の中を空にすると、ユイは“メイン”の話をし出した

「でさ、ENさんは今“ROCK-ON BEAT”の編集者さんで、“ルビジェム”の担当なんだって。そんで、俺らを“ルビジェム”に載せてくれる‥って」

「───んだよそれ!マジかよ!!」

先程よりもでかい声を出し、アタルはまた驚愕した

「元々、店長から俺らのこと聞いてたんだって。“ルビジェム”は、ENさんが自分の足で色んなとこ回って自分が『紹介したい』と思うバンドを載せてるんだってさ。で、会ったときにちょうど俺らの住んでる地域回ることになってたみたいで、」

「我妻がセッティングして会うことになった。‥つーわけなんだけど‥‥」

 

菱和はHazeのメンバーの中で唯一、我妻とプライベートで連絡を取り合う間柄
我妻が菱和を懇意にしていることも今回のオファーの要因として十分当てはまるのではないかと、アタルは改めて二人の関係の“深さ”を感じた
拓真も驚愕せざるを得ず、言葉少なに呆然とした

「マジでー‥‥嘘みたい‥‥‥」

「俺らもそう思ったよ!あの日はさ、何もかもが予想外過ぎて!」

「すげぇ話だなぁ‥‥‥。で、なんか返事したのか?」

「ううん。俺ら二人の独断じゃ決めらんねぇから、佐伯とあっちゃんに相談してから返事する‥‥って話になってます」

「そうか‥‥」

飲み込めない事実だが、事実は事実
きちんと向き合うべきだ
しかし、メンバーの意見が揃わなくては苑樹に連絡をすることもままならない
アタルは箸を置き、皆を真摯に一瞥した
アタルに倣い箸を置いた全員と目が合ったとこで、尋ねる

「───どうしたい?」

皆が思案し黙りこくる中、まずは拓真が重そうに口を開いた

「‥‥‥なんか、全然実感沸かないのと、“畏れ多い”ってのが正直なとこかなぁ‥‥そりゃあ、すごい名誉なことだと思うよ。だけど、『ほんとに良いのかな』って。いや、“良い”と思ってくれたからそういう話をくれたんだろうけど」

拓真の話に、全員が頷く
アタルは、菱和に目線を移した

「お前は?直接会って話聞いて、どう思った?」

「‥‥俺らですら“信じらんねぇ”って感じでした。“畏れ多い”ってのも、滅茶苦茶わかる。‥‥でも元プロのお眼鏡に敵ったって事実には自信持って良いんじゃねぇかな‥って。雑誌に載ることでバンドに何かしら利益が生まれるんだとしたら、全然悪りぃ話じゃねぇと思う」

「そうな。‥‥もしかしたら、もしかするって可能性も高くなるよな」

「‥“もしかしたら”、って?」

「例えばの話だけど、“このバンドがメジャーデビューする”、とかな」

「───!!」

アタルを除く全員が、顔を上げた

「そんなの、夢のまた夢の話‥」

「それが、より現実に近くなるってことだよ。‥‥バンド自体の将来性を見据えてって考えりゃ、雑誌の掲載は一手段としてアリなんじゃねぇの」

アタルがさらりと云った“メジャーデビュー”という単語は、雑誌掲載の可否と同等か、それを上回るインパクトがあった

「‥メジャー、デビュー‥‥‥」

「‥‥ほんと、夢みてぇな話」

「てかさ、あっちゃんはそういうつもりなの?あっちゃんがプロのギタリストになりたいっていうのは知ってるけど‥‥それはバンド全体の話じゃないでしょ?」

「そんなことねぇよ。『このバンドがプロになれたら』ってのは、尊がいるときからずっと考えてたよ」

「え‥‥?」

「‥‥尊とも散々話した。『プロになれたらなぁ』って。でもあいつにゃそれ以上の夢が見付かった。正直『残念だ』と思ったし、尊も俺に詫びてきたけど、あいつがどんな道選ぼうと俺にはそれを妨げる筋合いはねぇ。‥‥お前らだって、これから先バンド以外に夢中になれるもんが見付かるかもしんねぇだろ?勿論それを妨げるつもりもねぇし、『バンドとしての』ってのは、半分は“夢物語”みてぇなもんだ」

 

アタルがそこまで考えていたということを、ユイも拓真も菱和もたった今初めて知らされた
ユイと拓真は目を瞬かせ、菱和は真摯にアタルを見る

かつて尊と語り明かした夜もあったのかもしれない、メジャーデビューという夢
プロへの挑戦を虎視眈々と見据える中に自分達も含まれていたということを、3人は感慨深く思った

「‥何でもっと早く云ってくんなかったのさ‥‥」

「俺は音楽で食っていく気しかねぇけど、お前らもそうか?って云われれば、そうとは限らねぇよな、とか、変にプレッシャーかけちまったりとか、将来ほんとになりてぇものが見付かったときに邪魔になっちまうとしたらどーかなとか、人生左右するレベルの話だし、コーコーセーのお前らにはまだ早えぇかな、って思ってただけだ。事の序でだから今ぶっちゃけちまったけどよ!」

アタルは歯を見せて笑む

「‥プロ、か‥‥漠然と考えたことはあったけど、まだまだ先の話ーとか思ってた‥‥」

「そんなもんじゃねぇの?コーコーセーのうちは」

「でも、早い人はもっと早く決断するでしょ‥?」

「まぁな。でもそれも人それぞれだ。スタートが早いから成功も早いかって云われれば、それはまた別の話だしな」

「そうだね、結局は実力主義の世界なわけだし」

「ただ、元プロが身近にいるってのは強みだぞ。現に、メンバーのうち2人が元プロと接点持ったんだからな。それを考えたら、俺ら運はある方だと思うんだよな。我妻さんと接点があるひっしーがこのバンドに入ったことは、全部何かの巡り合わせ‥‥俺ら、“ツいてる”んだと思うぜ。運も実力のうちだからな」

運も実力のうち
その言葉に、拓真と菱和は妙に納得し頷いた

 

「───‥‥‥あっちゃんはさ、」

「あん?」

「‥怖く、ないの?プロとか、ギョーカイとか‥‥」

「ははっ!!俺に怖いもんなんか、なーんもねぇよっ!‥‥ま、バンド以外にもまだまだ色んな選択肢も可能性もあんだから、あんま重く考えんなよ。あくまで俺個人の夢、だからな」

にこりと笑むその顔に、畏怖など全く存在しなかった

一握りの者しか得られぬ“称号”を手にするその日まで、どれ程の時間を費やすことになるかわからない
何故そこまで、夢を追い掛けられるのだろう
何が、アタルを掻き立てるのだろう
アタルの自信は、一体どこから来るのだろう
ただ一つ、揺るぎない信念を抱いていることだけは間違いない
この自信についていけば、夢を夢で終わらせないことも可能かもしれない───ユイは、アタルの自信に不思議と勇気付けられた

「‥‥俺もね、俺個人がだよ、正直“ルビジェム”に載るようなレベルじゃないと思ってて。‥‥でもENさんが、『磨けば光る』って、云ってくれただ。だから‥‥‥‥───」

『自信を持ってください』

苑樹が掛けてくれた言葉が、甦る

「‥今まで以上に、バンドのこと、ちょっと真剣に考えたい」

ユイが真摯に言葉を紡ぐと、アタルがニヤリと笑む

「‥‥ただ皆で楽しくバンド続けられたらーと思ってたけど、俺も今の話聞いてちょっとだけ真面目に考えちゃった。‥チャンスがあるなら、逃すわけにいかないよね」

拓真はくす、と笑い、ユイの言葉に続いた

「じゃあ、OKってことで良いか?」

「‥‥名刺貰ってるんで、あっちゃんから連絡してくれますか」

「おう、任せとき!‥さて、今日は亜実の余興考えるぞ!」

「おけ!」

「早く食べちゃお!」

 

苑樹に『Hazeの“ルビジェム”掲載を依頼する』ということで話が纏まり、一同は晴れやかな気分で食事を再開した

「つーか、卵焼きうめぇ」

「ね、ふわふわだよね。流石はひっしーだわ」

「お豆腐の餡もめっちゃ美味い!」

「味噌汁も、染みるねー」

「‥どーも。‥‥‥‥髪、下ろしてても似合うすね」

「‥そーか?お前も、纏めてんの似合ってんぞ」

「‥‥そ、すか‥」

「あ!てかさ、昨日『アズの髪いじる』って話してたよね!今思い出した!」

「あー、云ってたね」

「飯食ったら、やるか」

「やるやるー!って、俺は見てるだけだけど!」

「おめぇの髪もいじってやるよ。ピンあるから」

「‥ほんと!やりっ!」

喜ぶユイを他所に、菱和の箸は進まずにいる

「‥‥‥‥‥‥」

「‥ひっしー、良い?」

合意を求めてくる拓真
ユイとアタルはニヤニヤし、見詰めてくる

「‥‥‥‥‥わかった」

どんな奇想天外な髪型にされるやら全く想像がつかず不安に思うも、観念した菱和は髪をいじられることを渋々了承した

拍手[0回]

155 kärlek

「───なんだ、寝ちまったのか」

地下から、拓真とアタルが上がって来た
すやすや寝息を立てているユイを見遣り、半ば呆れたような視線を寄越す

「普段使わない頭使ったから余計疲れたのかねー」

「それはあるかもしんねぇな」

二人はくすくす笑いつつも、内心は一生懸命作詞に臨むユイの姿勢に感心していた
真摯に作曲中の心境を尋ねてきたことをゆるりと思い出すと菱和も少し口角を上げ、先程肩に掛けたブランケットごとユイを抱きかかえた

「寝かしてくるわ」

「おー、頼む。なんか飲むか?」

「ああ‥じゃあお願いしようかな」

「俺も俺もー」

「おーおー。何にすっかなー‥‥」

「気持ち良く入眠出来そうなのが良いな」

「ふはは。よっしゃ、わかり」

アタルは云い残されたリクエストを参考に冷蔵庫を開け、あれこれ思案した
拓真も、アタルの指示に従いグラスを用意する

二人がカクテルを用意する音を背に、菱和は階段を軋ませた
2階の一室へと運び込んだ小さな身体をベッドに横たわらせるとマットレスのスプリングが軋み、僅かに揺れる

「‥ん‥‥ふぁ‥」

枕に頭を置くと、ユイはふにゃりとした声を出した
よくわからない声だったが、それ以上何のリアクションもなく、完全に眠りに入っている様子

 

幼く安らかな寝顔
健気で無邪気な童顔

ただただ、可愛く、愛おしく思う

 

「‥‥‥‥やべぇ」

ボソリと呟くと、菱和はユイの唇にそっとキスをした
ほんの少し唇が動いたが、覚醒させるほどではない軽いキスだった

幾ら気心が知れているといっても、拓真とアタルの前で堂々とキスをすることはやはり憚られる
二人きりになれるタイミングが全く無いわけではなく、現在も状況的には“二人きり”だが、片やユイはすっかり夢の中

今まで、屡々菱和の腕の中で眠りに就いていたユイ
無骨な掌がいつも只管優しく頭や髪を撫で、ユイは眠りに入る瞬間まで菱和の温みを感じていた
菱和は菱和で、全てを自分に預けてくるユイをとても愛おしく想っている
幼い頃に淋しく不安な夜を過ごしたこともあったのだろうと思えば、傍らにいる自分が安心感を与えられるのであればと、片時も撫でる手を止めることはない
親が子を寝かし付ける感覚に似ているところも、あるのかもしれない

快く「一緒に入浴してこい」と勧めてくるくらいだ、ユイと菱和が同じ布団で一緒に眠ることも拓真とアタルは特に何とも思わないだろう
皆で雑魚寝も大いに結構なのだが、入眠前にユイを“ちょす”ことが出来ないことを、菱和は何となく歯痒く思った
それに、

───まだこめかみにしかしてねぇ

ユイがどう思っているかを度外視した場合の話だが、菱和はユイとのハグやキスを大いに愉しんでいる
すればするほど愛おしさが募り、何度も何度もしたくなる───菱和をそんな気持ちにさせるのは、ユイだけだ
合宿所に来てから菱和が覚醒しているユイにキスをしたのは入浴後の一回のみで、今したところでいつもの照れや赤面を見られることもなければ、必死にしがみ付いてくることもない

気持ち良さそうに寝やがって───
極僅かに加虐の心が芽生えた菱和は、ユイの寝顔を恨めしそうに見下ろした後、その唇をぺろりと舐めた
更に、鼻を摘まんだり頬を抓ったりして、安眠を妨害してみる

それでも、ユイが眠りから覚めることはなかった

 

「‥‥‥‥‥」

菱和は、ユイを“ちょす”のを止めた
だが、「後で覚えてろよ」くらいには思った

「‥‥おやすみ」

今度は酷く優しくユイを見下ろし、額に軽くキスを落として部屋を出た

 

***

 

カウンターに座している拓真とアタルは、降りてきた菱和を手招きして迎え入れる

「どうもな」

「いえいえ」

「かんぱい!」

「‥かんぱい」

「熱いから気を付けろよ」

薄暗いカウンターで、3人のグラスがカチ、と鳴る

グラスには濃い琥珀色の酒が入っており、アタルの云う通り熱をもっている
一見すると焙じ茶のように見えるが、香ってくるのはキツいアルコールの匂い
口を付けると、深みのあるブランデーの風味が口内に広がり、喉と脳を程よく刺激する

「あったかいのって、初めて飲んだ」

「どーよ?」

「‥‥なんか、まろやかだね」

「んふふー。実はな、卵黄入ってんだよ。就寝前の酒は“ナイトキャップ”って呼ばれてて、そのまんまの名前のもあんだけどよ。取り敢えずこれはブランデーと卵黄とオレンジで“なんちゃってナイトキャップ”」

「“なんちゃって”のわりには、めっちゃ美味いす」

「ね、気持ちよく寝れそうだよね」

「ん。‥‥これ飲んだら、寝る?」

「うん、俺はそのつもり。あっちゃんは?」

「俺も寝るわ。続きはまた明日やろうぜ。お前も、片付けとか朝飯の準備とかどうでも良いから、寝ろよ」

「うん‥‥」

「たー、お前どこで寝る?」

「別にどこでも」

「じゃあ、おめぇは取り敢えずチビんとこ行って一緒に寝てこいよ。俺らはテキトーに空いてる部屋使うから」

さも当然のことといわんばかりの、アタルの一言
菱和にとっては有り難くあるものの、余計な気を遣わせてしまっているような思いも湧いてきた

「‥‥‥‥‥」

「‥何だよ。一緒に風呂入るくれぇだから、寝るのも問題ねぇだろ」

「いや、そうすけど‥‥‥」

「不満か?」

「不満は、一切ないっす‥‥」

が、やはり気を遣わせてしまっている感が否めない菱和は、少し俯いた
その様子を見て察したのだろう拓真は、柔らかく笑った

「全然気にしないで大丈夫よ。ここでも、普段の二人らしくいてよ」

「そーそー。俺らの前では『堂々としてろ』って云ったろ?」

アタルも、呆れたように笑う

ユイと菱和に“普段らしく居て欲しい”と思うのは、拓真もアタルも同じだった
ユイと菱和の関係性や愛情の深さ、二人を取り巻く全ての事情を知っている以上、今更こちらに気を遣うことなどしてくれなくても構わない、と
それでも、菱和の性格を考えるとそういうわけにもいかないのだろう、とも───

「‥‥なんか、すいません」

案の定───唐突に謝罪の言葉が放たれ、アタルは少し大袈裟に溜め息を吐いた

「お前なぁ‥‥‥こっちはチビのこと色々感謝してんだぞマジで。さっきみてぇに運んでくれたり、他にも世話焼いてくれたりよぉ‥‥」

「ん‥それは‥‥俺が好きでしてることだから」

「あんね、ひっしー。“それ”が、有り難いんだよね。俺らにとっては」

「そー‥‥なのか‥」

「お前はもう、俺らには踏み入れれねぇとこまで入り込めてんだろ。ユイだってそれを受け入れてんだから、なーんの問題もねぇだろうに。‥だからな、あんまいちいち気ぃ遣うな」

「二人が仲良くしててくれると、俺らも嬉しいんだよね」

拓真とアタルの言葉を聞き、表情を見て、菱和は胸の辺りがじんわりとした

 

大切な幼馴染み、マブダチ、バンドメンバー───二人がユイと菱和の仲を受け入れていることこそ、菱和が有り難く感じている真実

「‥‥‥ありがと」

素直にその気持ちを口にした菱和へ、拓真とアタルは「どういたしまして」の笑みを向けた

 

最小限の灯りの下、深夜に味わうナイトキャップ
ユイが居ないことも手伝ってか、そこはかとなく“大人の時間”が漂う
のんびりと、静かに談笑しつつ、3人はナイトキャップを飲み終えた

 

***

 

温い

ほっぺの辺りに、枕じゃない感じがある

頭に、大きな手の感触がある

隣に誰かがいる

俺の大好きな匂いがする

この匂いは──────

 

「───‥‥ア、ズ‥」

「ん、起きたか‥‥おはよ」

「‥‥おは‥俺、下で‥‥」

「うん。詞書いてる途中で力尽きたみてぇだな」

「ごめ‥ここに運んでくれた、の」

「何てことねぇ。お前、軽いし」

目覚めたユイの隣にいたのは、云わずもがな菱和だ
就寝前、アタルに「一緒に寝てこい」と促された菱和はユイが眠るベッドに潜り込み、ちょっとやそっとのことでは目覚めなかったその身体をいつものように自分の腕に収めて眠り、先に目を覚ますと、いつものようにゆったりと髪を梳いていた

知らぬ間にベッドに寝かせてくれていたこと、一緒に寝てくれていたこと、目覚めるまで一緒にいてくれたこと───ユイの心に、安堵が広がった

「‥寝てる間に色々悪戯したんだけど、全然気付かねぇのな」

「え、そうだったの?な、何した、の?」

「ん?鼻摘まんだり、ほっぺ抓ったり‥‥」

菱和は夕べの“悪戯”を一つ一つ再現していき、仕舞いにユイの唇を舐めた

「───ぅひゃ‥!!」

「こんなことしても、全然起きる気配なかった」

「ぅもおぉ‥‥!」

照れに赤面、意味不明な奇声───やはり、覚醒時のリアクションはツボにハマる
菱和はくすくす笑い、ユイをぎゅ、と抱き締めた

二人は暫しベッドの中で談笑し戯れれ、愈々朝食を摂ろうと部屋を出る頃、時刻は9:00を回っていた

拍手[0回]

154 träningsläger③

ユイのことなどそっちのけで、編曲に努める3人

メインヴォーカルを張るということは基本的にギターはリフとバッキングのみ、場合によっては一切弾かないこともある
テクニカルなソロを弾くこともなくコードをジャカジャカ鳴らしていれば良いだけなので、特に根詰めて練習をする必要もないのだ
それを重々理解している拓真も菱和もアタルも、歌と歌詞をユイに丸投げしたところでどんどんアレンジを進めていく

確認の為に何度も奏でられる曲が耳に届く度に、先程聴いたばかりのときに溢れた風味がユイの口内に充満した

「んー、んー、んんーんーんーんーんー‥‥」

空で音色を奏でられてしまうほど、CDは何度も繰り返し再生されている
当然ながら、その曲に歌詞は無い
すっかり蚊帳の外に追いやられたユイは、膨れっ面をしつつサビのメロディをハミングした

 

「───一回合わせてみっか?」

切なげなハミングが聴こえ、放置していたことを少しだけ反省したアタルは、膝を抱えてつまらなさそうにしているユイに声を掛けた

「‥‥‥‥でも歌詞ないでしょ」

明らかにむくれ、いじけた言葉が返ってくる

「わーるかったっての!取り敢えず歌は“ららら”で良いよ。ワンコーラスだけ演ってみようぜ」

アタルは一旦ギターを置き、マイクのセッティングを始めた
その間、拓真と菱和は息を吐いたり伸びをしたり、休憩をとる
音のチェックをしスタンドからマイクを外すと、アタルはにこっと笑みながらユイに手渡した

「ほれ、立てって」

「むー‥‥‥‥」

マイクを差し出されたユイはゆるゆると立ち上がり、仏頂面のままマイクを受け取った

「ずっと聴いてたよな。入るとこ、 大丈夫か?」

「‥‥多分」

「ちょい止まっちまうかもしんねぇけど、勘弁な」

「それは、全然平気」

「ん。思いっきり歌え。たー、ひっしー、良いか?」

「うん」

「おっけー。いくよー」

スティックをくるくる回した後、拓真はカウントをとった

 

イントロ
変拍子
重なるリフとドラムパターン
ズレるタイミング
一回目ならまだ仕方ない
リフが終わるのを確認したユイは歌い出しのタイミングを見計らい、すうっと息を吸い込んだ

ピロピロしたギターとゆったりしたリズム隊の音に、ユイの声が重なる
サビのメロディーを“ららら”で歌っているだけだが、曲の完成度としては決して悪くはない
あーだこーだと思案し煮詰めたアレンジも現段階では上出来だと、全員が確信した

アタルがサビからAメロへの“繋ぎ”の部分に一フレーズ奏でると、曲は意気揚々としたまま進んでいく
手数の多いパターンが続く拓真はリズムを崩すことなく叩き続け、菱和は終始ゆったりとベースラインを築き、アタルは悠々とピッキングをした

 

合わせたのはワンコーラスのみ
未だタイトルすらない“その曲の味”が、再びユイの口内に溢れた

 

***

 

気付けば時刻は夕方
菱和が作った曲を演奏した後、その場のノリで流れるようにレパートリーを3曲ほど演奏した4人
そろそろ夕食の準備をばと、休憩をとることになった

「はー、汗かいたー。俺、先風呂入ってきて良い?」

「ああ。行ってこい」

このメンバーの中でいちばん汗だくになるのは、いつも決まって拓真だ
全身を使いパワーも用いる、ドラマーならではの“あるある”
拓真はいそいそと風呂場に向かった
その姿を見送ると、菱和が夕食の準備をするべくキッチンへと足を運んだ

「飯、何にしようか。鍋いっちゃう?」

「お、良いねー。お前は何が良い?」

「俺もお鍋で良いよ!早く食いたい!」

「じゃ、少し手伝って」

「うぃー」

「はーい!」

ユイとアタルは、喜んで菱和の手伝いをした

拓真が入浴を済ませた頃には、キムチ鍋が出来上がっていた
脱衣所まで酸味が漂っており、拓真はぱたぱたと居間に戻ってきた

「あー、美味そうな匂い」

「お帰り!もう食べ頃だよ!」

「マジー?グッドタイミングだわー」

「んじゃ、食いますか」

「頂きます!」

「まーす」

豚こま肉、韮、白菜、もやし、えのき、しめじ、擂り身に豆腐───ただ鍋に材料をぶち込んだだけの“男料理”だが、空腹の4人にとっては大満足の夕食となった
アタルが作った“お供”のドリンクは、ユイ以外の面々にはコーラとビールを1:1で割った“ディーゼル”、ユイにはコーラにライムジュース・ガムシロップ・ミントを加えたノンアルコールの“コーラモヒート”
談笑しつつの舌鼓は終始和やかだったが、ガツンとクる鍋と炭酸で胃は瞬く間に満たされてしまい、「〆は夜食に 」ということで話がまとまった

食事を済ませた4人は、各々思い思いに過ごした
ユイと拓真は居間でゲラゲラ笑いながら下らない話しを、菱和とアタルは食後の一服をする

「‥なぁおいチビ。お前先風呂入ってこいよ」

アタルが煙草の煙を吹かしながら、ユイに云った

「え、良いの?あっちゃんだって結構イイ感じで汗かいたでしょ」

「ああ。でも俺、も少し呑みてぇから」

「あ、そう‥‥。てか、アズは‥?」

「片付けあるから。行っといで」

「そ、か‥‥じゃあ、入ってくるね」

アタルと菱和に促され、ユイは拓真との話を中断してそそくさとバスルームに向かった

「行ってらー。あっちゃん、俺にもなんか作って」

「おう、じゃあ食後酒作ってやるよ」

注文を受けたアタルが冷蔵庫を漁る傍ら、食後酒作りをスムーズに進められるようにと煙草を咥えたままの菱和が食器を片付け始める
その気遣いに感付いたのか、アタルは軽く息を吐いて菱和が咥えている煙草を取り上げた

「‥お前も今入ってこいよ、あいつと一緒に」

突然の提案、取り上げられた煙草
更にはアタルに手にした食器まで取り上げられる始末
一気に手持ち無沙汰になった菱和は、若干困惑した

「‥‥‥、‥」

「何だよ、何も照れることもないべ?男同士だもんよ」

「いや、照れとかそゆのはねぇんすけど‥‥」

そう云って、頭を掻く
無論、菱和に照れはない
だが、ユイはどうか───以前自宅アパートで一緒に入浴したときのことを思い出し、苦笑いした

「ふふ。ひっしーも飯作ったり色々疲れたでしょ。ありがとね。片付けならやっとくからさ、行ってきて」

拓真がにこにこしてキッチンに来た
スポンジに洗剤を付けながら、アタルから食器を受け取る

「‥‥じゃあ、頼む」

「うん。ごゆっくり」

「風呂上がりの一杯、なんか適当に作っとくからな」

「ありがと」

もしかしたら、“二人きりにさせよう”とでもしてくれているのだろうか───そうではなかったとしても労いや心遣いに感謝しつつ、菱和はバスルームに向かった

 

***

 

『一緒に入ってこい』と云われたものの───自分は一向に構わないのだが、ユイが首を縦に振るかどうかはまた別の話
以前の“裸の付き合い”の際、ユイは身体をガチガチに強張らせ、まともに入浴する余裕など殆ど無かった
挙げ句の果てには『エロい』などと云い放ち、菱和を困惑させるどころか自らも困惑していた
ただ単に恥ずかしがっているだけで一度一緒に入ってしまえば何てことはなく、拒否こそしなかったもののまた身体を強張らせる可能性は十分にあると思った

───ま、そんときゃそんときだな

菱和は開き直り、取り敢えず着替えを携えてユイに声を掛けることにした

 

何も知らず、呑気に口元まで湯槽に浸かるユイ
息を吐くと、湯がぶくぶくと音を立てる
ユイは湯槽に浸かってから、ずっと歌詞のことを考えていた
託されたメインヴォーカルと作詞という大役、折角の良い曲を無駄にはしたくないという想いが脳内を支配していた

───あんま考えててもしゃーないか‥‥そろそろ頭でも洗おっかな。あっつくなってきた

湯槽から上がろうとした矢先、ノックの音がした
曇り硝子の向こう、脱衣所に人影が見える

「ん、だーれー?」

「‥‥俺」

「アズ?どしたの?」

「‥‥‥俺も入って良い?」

「‥え」

「あっちゃんが、『一緒に入ってこい』って」

「‥は!!?」

───ななな何云ってんのあの人‥!?

ユイは菱和の言葉を聞くや否やかっと顔が熱くなり、思わず肩を竦ませた
その拍子に、ばしゃ、と湯が跳ねた

「駄目なら良い。お前が上がるまで待つから」

「や‥駄目じゃない‥‥け、ど‥‥‥」

「‥‥じゃ、入って良い?」

「ん、うん‥‥‥」

ユイは返事をすると湯船の中で膝を抱えて縮こまった
逆上せかけていた身体は頭の天辺から足の爪先まで更に熱くなり、鼓動が早くなっていくのを感じる
何とか心を落ち着かせようと試みるが、なかなかそう上手くはいかない
そうこうしているうちにドアが開く音がし、菱和がひょこ、と顔を覗かせた

「‥お邪魔しま」

「ど、どぉぞ‥‥」

ユイはぱちぱちと目を瞬かせ、カッチカチの作り笑いをした
案の定といったところか、菱和は軽く吹き出しつつ浴室に入った
シャワーで軽く身体を流してから、すっかり縮こまったユイがいる湯槽に浸かる
一般家庭よりも幾分か広い浴室内、そして湯槽
大の男が二人同時に浸かってもそこそこ余裕があり、菱和のアパートの風呂のように身体が密着することもない
それでもユイは、広い湯槽に不釣り合いなほど小さくなっている
菱和は意地悪そうな顔をしてユイにくっついた
小さな身体は、また肩を竦ませる

「久々だな、一緒に風呂入んの」

「う、うん‥‥‥」

「‥‥何。‥また“エロい”とか云い出すの?」

「んなっ‥ぃ、云わないよっ!!」

「あっそ」

声を荒げるユイの横で、くすくす笑う菱和
心の準備をする隙さえも無いままどぎまぎしっぱなしのユイには、最早自分の赤面の原因が逆上せからきているものなのか照れからきているものなのかわからなくなってしまった

 

「もう身体洗った?」

「ううん、まだ‥‥‥‥ずっと、歌詞のこと考えてた。全然思い浮かばなくて‥‥あんな良い曲に俺が歌詞付けるなんて、ほんと畏れ多い‥‥」

ユイはまた口元まで浸かり、頬を膨らませて湯をぶくぶくと泡立たせる
改めて“太鼓判”を押され、菱和は満足そうに口角を上げた

「‥な、具体的にどんな味したの?」

「えと‥‥‥‥甘くて、爽やか。‥‥‥でも、ちょっとだけ苦い。上手く云えないけど‥‥なんか、“懐かしい”味がした」

ユイは“懐かしい味”が充満した口をもごもごさせ、何処を見るわけでもなくそんな感想を漏らした

「“懐かしい”、か‥‥‥‥‥。ま、歌うのはお前なんだから、お前が思ったままを形にすりゃ良いよ。ネタねぇと何も始まんねぇだろうけど。取り敢えず、なんか紙に書いてみたら?あんま無理そうなら、俺も一緒に考えるから」

「‥‥‥ん‥」

「‥頭洗ってやろうか?」

「‥‥自分でやる」

「遠慮すんなって。身体も全部洗ってやっから」

「い、良いってば!自分でやるよ!大体アズは今入ったばっかでしょ!ゆっくり浸かってなよ!風邪引くよ!」

「わかったわかった。じゃあ早く上がってやれよ。もうだいぶ顔赤いぞ。逆上せたんじゃねぇの?」

「っ誰の所為だと思ってんだよ!!」

「何だよ、俺の所為かよ?」

「や‥だって、突然来るから‥‥!」

「お前が行ったあとすぐあっちゃんに云われたんだもん」

「‥‥‥じゃあ、あっちゃんの所為だ」

「ふふ、それあっちゃんに云っても良い?」

「だ、駄目!!黙ってて!!」

「ははは‥‥!」

そんなやり取りを繰り広げつつ、二人は仲良く入浴を終えた

菱和は着替えを済ませるとさっと髪をまとめ、ユイの髪をドライヤーで乾かした

「‥‥あー、気持ちいー‥‥‥‥」

「ふふ、犬みてぇだな」

「‥‥ゴールデンレトリバー?」

「いや、豆柴」

「ぅもおぉ‥!」

やはり、小型犬にしか扱われない
しかし、嫌な気持ちはしなかった
柔らかく髪を梳く手付きが心地よく、本当に“トリマーに整えて貰っている犬になった気分”だった
ユイの髪がふわふわになった頃、菱和はドライヤーのスイッチを切った

「‥よし、終わり」

そう云うと、後ろからユイのこめかみ辺りに軽くキスをした

「ぅわっ‥!!」

「‥‥ん、そういや今日初めてだな」

菱和は澄まし顔で云った

こんなところで、まさかの不意打ち
風呂から上がったばかりだというのに、ユイの身体はまた火照り出した

 

***

 

火照った身体に、アタルお手製の“風呂上がりの一杯”がお待ちかね

ユイにはノンアルコールカクテルの代表格ともいえる“シンデレラ”
オレンジジュース・レモンジュース・パイナップルジュースをミックスしたもので、今回はレモンの比率が高く、熱の籠った身体がきりっと締まる気がした
菱和には“カンパリオレンジ”
カンパリにオレンジジュースを加えた至極シンプルなカクテルだ
拓真とアタルは食後酒の“ブラック・ルシアン”を飲み干し、共に一杯を堪能しようとユイと菱和を待っていた
皆で軽く乾杯を交わし、その後はまったりと談笑に耽った

 

22:00頃
他の3人が曲のアレンジの続きを始めようとするタイミングで、ユイはアタルが持ってきたノートとペンを居間に持ち込み、シンデレラを飲みつつ作詞に意識を向けた
とは云うものの、テーマが無ければ詞を書くのも難しい
暫くは地下から聴こえてくる音を聴きつつ、ペンを回しながらぼーっとしていた

 

『歌うのはお前なんだから、お前が思ったままを形にすりゃ良いよ』

菱和が掛けてくれた言葉と、曲の雰囲気、構成、“味”を反芻する

 

───アズは、どんな想いであの曲を作ったのかな‥‥『あっちゃんに頼まれたから』ってのは大義名分として、アズじゃなかったらあんな出来にはならなかった筈だよね‥‥‥‥

本人に訊くのがいちばん───そう思い立つと、ユイは3人の居る地下の防音室へと向かった

 

「───アズ」

アレンジを進めていた3人が声のする方を見遣ると、入り口にユイがぽつんと立っていた
名を呼ばれた菱和は、こくんと首を傾げた

「‥‥ん、どした」

「‥アズは、この曲作ってるときどんなこと考えてた?」

唐突に現れ唐突に問うユイに、菱和はきょとんとしてしまった
拓真とアタルはユイの質問の意図と菱和の回答に興味を唆られ、二人の顔を覗き込んだ
菱和はたじろいだが、徐に口を開いた

「‥‥んー‥‥‥‥‥何だろな‥‥結構色んなこと考えてたかもしんねぇけど、基本的には一心不乱だった‥かな」

「一心不乱‥‥」

「ん。‥‥やってくうちにあれこれ考えんの楽しくなって、ほんと夢中でやってた」

「‥‥、そっかぁ‥‥。じゃあ、いちばん最初にコード進行聴いたときのイメージみたいなものとかある?」

「イメージ‥?‥‥‥‥第一印象は、心ん中抉られるような感じした。‥あと、ちょっと切ない感じもした。‥‥あんま上手く云えねぇけど」

「へえぇー‥‥」

拓真が感心したように頷いた
アタルも、無論ユイも、興味深そうに菱和の話に食い入る

「‥‥ごめんな、抽象的なことばっかで」

「‥ううん、全然!どうも有難う!」

ユイは笑顔で菱和に礼を云い、ぱたぱたと階段を駆け上がっていった

恐らく作詞の参考にでもするつもりなのだろうことを、3人はすぐに気付いた

「チビなりに色々考えてんのな、あいつも」

「まぁ、チビなのは置いといて‥‥真摯だよね、いっつも」

「だな。期待しとくべ。その為にゃ、曲も良いもんにしねぇとな」

「だね」

「‥‥それにしても、お前のインスピレーションもなかなかのもんだな」

「んー‥‥どうなんすかね。‥でも、コードだけでも結構響いたから。正直、あっちゃんの頭ん中どうなってんのか知りたかった」

「ふはは、ご覧の通りだよ!」

3人はけらけら笑い、また曲のアレンジを進めた

 

居間に戻ったユイはノートに向かい、また菱和の言葉を反芻した

 

「‥‥抉られ‥‥‥‥」

 

それは、曲に心を奪われる感覚に似ている
聴く者の心を鷲掴みにし、捕らえて離さない魅力があるということ
そんな想いは、今まで沢山抱いてきた
数多の曲を聴き、その中でも特段“ハマった”ものを初めて聴いたときの衝撃は、決して忘れ得ぬもの

───そうだ、よく“電気が走る”とか云うけど、きっとそんな感じ。アズも、そんな感じがした‥ってことか

ふと、ユイは一心不乱に曲と向き合う菱和の姿を思い浮かべてみた

 

「──────あ」

 

“何か”が降りてきたかと思うと、一気にペンを走らせた
ユイもまた、感じたままを一心不乱にノートへと書き留めていく

何度か加筆修正を施し、全てを書き終えた頃には深夜1:00を回っていた

 

煙草を喫いに上がってきた菱和の目に、居間のカウンターに突っ伏しているユイの姿が留まった
そっと覗き込むと、ユイは深い寝息を立てていた
一先ずソファに置いてあったブランケットをユイの肩に掛けてやると、肘の下敷きになっているノートに気付いた

 

───‥‥‥‥どんな風に歌うんだか。出来上がりが楽しみだ

僅かに見えた歌詞の一部を目で追うと静かにほくそ笑み、菱和は安らかに眠るその頭を軽く撫でた

 

『立ち尽くす前に伸びる、たった一つの道
一つのことだけに縛られないで
もっと上手くやれるはずだから』

拍手[0回]

153 träningsläger②

ウェルカムドリンクは、モスコミュール
菱和の分はアルコール入り、ユイと拓真の分はノンアルコールだ
本物のモスコミュールはウォッカとジンジャーエールで作られるが、ノンアルコールの方はジンジャーエールにライムジュースとガムシロップを加えれば出来上がる

「‥簡単だけど。本格的なのは夜までのお楽しみってことで」

アタルはニコッと笑い、各々にグラスを手渡した

「よっしゃー。じゃ、ひっしーの初合宿記念に‥‥」

「カンパイ!!」

「かんぱーい!」

皆がグラスを掲げ、乾杯をする
ユイと拓真は、ノンアルコールなこともあり半分程まで一気に飲んでしまった

「あー、美味いね」

「うん!飲みやすい!」

「そりゃ、ノンアルだからな」

アタルも口を付け、出来映えにこくりと頷いた
菱和も、モスコミュールに口を付ける
正月にも味わった、爽やかなライムの風味とジンジャーエールの炭酸が喉を通っていった

「どーよ?」

「‥ん。美味い」

菱和は軽く舌なめずりをした後、3人の歓迎に感謝し頭を下げた

「いやー、なんか“始まった”って感じだね」

「ふふ、ほんと楽しみ!曲演んのもゴハンも!」

「飯は楽しみだな、いつもと違ってひっしーの手料理だし?」

「腹一杯食おー!!」

「おいおい、楽しんでばっかもいらんねぇぞ。やることやって帰らにゃ」

「‥そりゃそーだけど!」

「あー、なんか腹減ったな」

「何だよ、結局あっちゃんもゴハンのことしか考えてないんじゃん!」

「んなことねぇよバカチビ」

合宿中はレパートリーの総浚いに加え、亜実の結婚式用の曲にも手を付ける予定である
山積みとまではいかないにしろ、課題はそれなりにある
ウェルカムドリンクを堪能しつつ、皆で輪になって合宿中の予定を話し始めた矢先
菱和が、徐に顔を上げた

「───‥‥‥‥そういえば、あっちゃん」

「お?何よ?」

「“例のやつ”、持ってきた」

「‥は‥‥??」

「‥‥ちょっと待ってて」

菱和はテーブルにグラスを置くと、一旦席を外した

「なに、“例のやつ”って?」

「あ、あぁ‥‥‥‥頼んどいたんだ、『曲作ってくれ』って。コードは出来てたから、メロとかリフとかアレンジをーと思って‥‥」

「‥マジで!?」

「ずるーい!何で黙ってたんだよ2人して!俺らに秘密にすることないじゃん!」

「いや、お楽しみにしといた方が良いかなーとか‥‥‥」

「ひっしーが作った曲かぁ、どんな感じなんだろー。ワクワクするなぁ」

 

───にしては、早過ぎやしねぇか‥‥?『ブランクある』とか『自信ねぇ』とか云ってやがったのに

アタルは目を見張ったまま菱和の後ろ姿を呆然と見送りつつ、横でやいのやいのと騒ぎ出すユイと拓真の声に応えていた

作曲に要する時間は、数時間から数日、数週間、数ヵ月、或いは数年───如何に時間を掛けるかは、作曲する者の腕次第だ
アタルが菱和に依頼したのは、凡そ2週間前
我妻の助力もあっただろう、だがそれを差し引いても2週間という期間は思いの外───否、予想以上に仕事が早いと感じ、アタルは只管驚愕した

「‥‥、聴いてみてくれる?」

CDRを携えた菱和が戻ってきて、皆に促した

その瞳は、自信が“ある”とも“ない”とも云えない光を放っていた

 

菱和がバンドに加入して以来、初
その感性が大いに詰めこまれた未踏の作品
その“産声”は、自分達がこれから聴き受けることになる

早く聴きたい───

ユイも拓真もアタルも逸る気持ちを抑えきれない様子で、CDRを受け取ると早速地下の防音室に向かった
菱和はモスコミュールを一口飲んでから、3人の後をゆっくりとついて行った

 

***

 

PCの作曲ソフトを用いて作られたその曲は、全てのパートが打ち込みだった

印象的なリフとドラムのパターンが重なるイントロは、菱和も違和感を覚えた変拍子
サビに入ると、リフは所謂“ピロピロ”に変化した

ベースは終始ゆったりと道を作り出しているがドラムは連打やフィルインが多用されており、拓真はイントロの段階で既に眉を顰めた

肝心のメロディーはピアノの音で奏でられており、どちらかというと高音域で朗だった

サビの盛り上がりが一度収まり、メロディーが低音になる
一息つくと、大サビへと一気に昇りつめる

イントロにも登場した印象的なリフとドラムのパターンは、曲の最後までずっと奏でられていた

 

間延びしたギターとベースの音がプツンと止み、地下室に静寂が訪れた
菱和が手掛けた曲を聴き入っていた3人は三様にして沈黙した後、入り口でその様子を静観していた作曲者に“驚愕” “感服” “称揚”といった表情を次々と向けた
3人から一斉に無言でガン見された菱和はその視線を全て受け止めるも、たじろぎ、僅かに肩を竦ませた

───‥‥、駄目、だったかな

やはり、この出来映えでは皆を満足させることは出来なかったか───そう思った矢先、切れ長の眼をきらりと光らせたアタルが、沈黙を破った

「──────‥‥お前、マジで2週間でコレ作ったのか?」

「‥‥‥‥、うん」

軽く頷いた菱和に、神妙な眼差しを向ける

「‥‥いつそんな時間あったんだよ?結構スタジオも入ってたし、こいつらと勉強もしてたろ?」

「‥、それが終わってから、我妻んとこ行って‥‥‥」

「え!ほんとに!?」

共に試験勉強をし、剰え夕食までご馳走になっていた拓真
漸く沈黙を破り、只管目を丸くした

「うん」

「‥‥俺ら、遅いときだと21時とか22時くらいまで居座っちゃってたよね‥‥‥それでも、その後silvit行ってたの?」

「うん」

「平日も?」

「うん」

「そんな、曲に手間かける時間なんて、あった‥‥?」

「‥‥毎日、コツコツ、みたいな」

「‥‥‥‥いつ寝てたんだよ?」

「2時とか3時まで作業して、その後、フツーに」

「アパート帰って、就寝?」

「うん」

「その後、起きて、フツーに学校行って?」

「うん」

菱和は、投げ掛けられる質問に淡々と答えた

「‥‥、マジでー‥‥‥‥」

拓真は気が抜けたように、身体をだらりとさせた

「お前、身体大丈夫か?」

「‥元々、睡眠時間短いから。‥‥‥‥一日だけ、作業中に意識飛んでsilvitに泊めてもらったけど。全然平気」

「んだよそれ‥‥タフ過ぎんだろ‥」

アタルも脱力し、半ば呆れたような顔をした

コード進行のみの土台に“色”を付ける作業を、菱和はたった2週間で終えてしまった
“この日”の為にわざわざ間に合わせてきたのだとしたら何ともニクい演出だと、アタルは思った

「‥‥“しっちゃかめっちゃかになるかも”みたいなこと抜かしやがって。心配して損したぜ」

「‥‥すいません。‥‥‥どう、でした?」

「どうも何も、このクオリティーのどこにケチつけろってんだ!?」

アタルはニカッと笑い、菱和に肩パンした
よろけた菱和は、目を丸くする

「たー、どうよ?」

「すげぇ好きな感じ。ちょと、リズム馴染ませんの時間掛かりそうだけど‥‥でも早く演りたい」

拓真もにこりと笑み、アタルに同意した

「‥おい、チビ。お前は?」

未だ沈黙を続けていたユイ
アタルに尋ねられ、真ん丸の瞳がきょろ、と動く

「‥“美味しかった”よ!!」

満面の笑みで、そう訴えた

「よっしゃあー。じゃ、レパートリーにすんぞー!」

「えーっと、タンタンタン、タン、タンタンタン、タンタンタン、タン、タンタンタン‥‥」

アタルは早速ギターのセッティングを始めた
拓真もリズムを口遊みながらドラムセットの椅子に座る

「アズ、すげぇっ!!この曲めっちゃ好きになりそう!!ん、んん、ん、んっんー‥‥こんな感じかな?」

ユイも意気揚々とリフを口遊み、ケースからギターを取り出した

先程の沈黙が“失望”や“遺憾”ではなかったのだと悟り、菱和は心底安堵した
軽く息を吐き、漸く室内に入ってベースのセッティングを始めた

「変拍子だからサビ以外の譜割りちょい複雑かも。タイミング良いと思うとこで分けてくれれば」

「うん。タンタン、タ、‥‥‥‥もっかいCD聴いても良い?」

「流しながらゆっくりやるべよ」

「アレンジも、もうちょい手入れたいと思ってたから知恵貸してくれたら助かります」

「おう。その辺も煮詰めるべ」

「あっちゃん、イントロのコードは?」

「E(onG#)、A、B、C#m、E」

「E(onG#)、A、B、C#m、E‥‥うん」

皆であれこれ相談しながら、菱和が“色”を付けた曲に“魂”を吹き込んでいく

 

「‥ところでよ。メロのキー結構高めだったよな?」

「そー‥だね、うん‥‥」

菱和は顎の辺りを軽く掻いた
決して歌えない音域ではないのだが、どちらかというとユイ向きだと踏んだアタル

「じゃあ、お前が歌え。詞も、お前が書け」

ユイを一瞥すると、そう云い放った

「‥え‥‥」

「そうだね。明るいし、ユイ向きの曲なんじゃない?」

拓真も、ユイが歌うことに異論はないようだった

「サビんとこって、こーゆー感じか?レガートで‥‥‥‥どうよ?」

「うん、良いかも」

「ピロピロしてんね」

「だろ。‥‥サビ前の“オカズ”、派手に欲しいな」

「じゃあ、ここら辺で1回切ろうか」

「うんうん‥‥‥‥」

3人は、CDに倣いどんどんアレンジを進めていく
メインヴォーカルと作詞を担当することになった状況をいまいち飲み込めていないユイは置いてけぼりを食らったような心境に陥り、話を進める3人に申し訳なさそうにしながらおずおずと声を発した

「‥‥‥あの‥‥」

「あん?」

「‥‥詞も、俺が書くの‥?」

「だって、まだ歌詞ないだろ。歌う奴が書くのが一番分かりやすいだろうし」

何か問題でも?
そう云わんばかりの3人の視線が突き刺さる

「いや、歌うのは全然良いんだけど‥‥歌詞は‥‥‥‥」

「英語でも日本語でも良いから、頑張って書け」

「個人の課題が出来て良かったじゃん。期待してるよー」

「‥‥宜しく」

3人は膝を突き合わせ、アレンジを再開した
ユイは楽器を触るのも忘れ、暫くの間目を瞬かせていた

拍手[0回]

152 träningsläger①

合宿当日、8:00頃

 

ユイ、拓真、菱和は、支度を済ませてアタルの自宅に集った
自宅の前には8人乗りの白いワンボックスカーが停まっており、アタルが荷物を積み込んでいた
大の男が4人、しかも大量の食材に加えて楽器や機材と荷物が嵩張る為、合宿にはレンタカーを手配するのが恒例となっていた
3人も荷物の運搬と搬入に加わり、賑やかな声が朝の住宅街に響く

「あれ‥‥‥アズ、手ぶら?」

ユイが指摘したのは、菱和の手荷物
ユイはデイパック、拓真はメッセンジャーとトート、アタルはボストンと、それぞれ大きめのバッグに着替えや私物を詰め込んでいた
それに引き替え、菱和は極端に荷物が少なかった
腰にシザーバッグを提げているものの、他の手荷物が見当たらない

「‥‥ああ、だいじょぶ。ちゃんとある。着替えとかはもう積んだ」

「そうだよね‥‥びっくりした」

「おいおい、脅かすなよ。まさかとは思ったけど」

「『汗だくんなる』って聞いてたから、ちゃんと持ってきたよ」

「だって、何も背負ってないし持ってないから‥‥」

「『ひっしー、着替え持ってきてない!』って?」

「『3日間同じパンツ!?』ってか?流石にいただけねぇよな」

アタルの言葉に、皆がけらけら笑った

普段の菱和ならば、シザーバッグ一つで事足りてしまう
例え今回のような連泊であっても、拓真やアタルのように整髪料を常用しているわけでもなければ衣類にも拘りがなく、コーディネートに関しては着回しが利くものを選び、ボトムは精々予備に一本程度
いずれにしても、荷物は少ない方なのだ

「てか、元々持ち物少ないもんねひっしーは。財布と携帯と煙草くらい?」

「うん、いっつもそんなもん」

「シンプルで良いこった。‥‥じゃ、出るか」

「よっしゃー!」

「乗ろう乗ろう」

トランクと最後部座席は、ぎっしりと埋まっている
アタルはトランクを閉め、運転席に乗り込んだ
気軽に喫煙出来るよう、菱和は助手席に
ユイと拓真は後部座席に仲良く並んで座する
幸い、天候は良好だ
全員シートベルトを締め、いざ合宿所へ

 

合宿所であるアタルの親戚の別荘へは一般道を通っていく予定で、片道3~4時間程のところにある
道の駅で休憩をとりつつの長距離ドライブ、車内はあーでもないこーでもないと常時会話が飛び交い、尽きることはなかった
尊が居たときからずっと“こんな感じ”だったのだろうなと、菱和は3人の会話をゆったりと聞いていた

道の駅での休憩後、アタルは菱和にハンドルを任せることにした
運転を代わった菱和は、煙草を咥えながらのんびりとハンドルを握る
運転に費やしていた集中力を必要としなくなったアタルは運転中よりも音量を上げて喋り、車内は先程にも増してより賑やかになった

コンビニで再度休憩をとる一同
賑やかな車内で、菱和の運転を気にしていた様子であった拓真が話し掛ける

「ひっしー、運転上手だね」

「‥‥そうか?」

「うん。すっごい安心して乗れたよ。免許取って何年目?」

「2年目、かな。初心者マークは去年とれた」

「‥‥あのさ、免許証見ても良い?」

「ん。どーぞ」

菱和は財布から免許証を取り出し、拓真に手渡した

「おおおー、これが運転免許証ですか。良いなあぁ‥‥学生証以外の身分証明書持ってるなんて、やっぱ羨ましい」

「ふふ。アズ若い!」

羨望の眼差しで免許証を見つめる拓真の後ろから、ユイが覗き込んできた

「髪短けぇからそう見えるだけだろ」

「でも、ほんと若く見える。なーんか、新鮮だね」

「‥‥、そんな変わんねぇよ」

「お。何よ、免許証?」

ユイと拓真が菱和の免許証の写真で盛り上がっている声が聞こえたのか、アタルが会話に加わってきた

「ねー、アズ若く見えるよね?」

「あぁ‥‥確かに、なー‥‥。‥そっか、目だ。目がはっきり見えるから余計そう見えんだな」

そう云って、菱和と免許証の写真を交互に見遣る
事実、現在より若い時の写真であることは明確だが、それを差し引いても皆が云うほど実物と免許証の写真に大きな違いは無いと、菱和は思っていた
ただ一つ、髪の長さのみを除いて───

「‥お前、前髪上げたら?」

「いっそオールバックにしちゃうとか。似合うと思うなぁ」

「‥あ!ねぇ、拓真もあっちゃんもワックス持ってたよね?アレでアズの髪弄ろうよ!」

「何だそれ、めっちゃ楽しそうじゃん」

「やっちゃう?イメチェンしちゃう?」

「やろうやろう!ね、アズ!」

「‥‥‥‥‥‥」

───‥‥ガチで弄られそうだ

半分は冗談、半分は本気なのだろう
ニヤニヤしている3人を一瞥し、菱和は軽く頭を掻いた

「あっちゃんは?免許取ってどんくらい?」

「俺?5年、6年目、かな‥‥」

アタルは手に持った煙草を口に咥え、財布から免許証を取り出し、菱和に寄越す

「‥ゴールドだ」

「ほぼペーパーだからな。俺そんな車乗んねぇもんよ」

「でも凄いよね、ゴールド免許!」

「うーまらーやしー。俺も早く免許取りたい」

「俺もー!そしたら、皆で運転代わって色んなとこ行けるもんね!」

何時かそんな時が来るのだと思うと、気持ちは逸る
ユイと拓真は年齢の壁を疎ましく感じると共に、年上である菱和とアタルをちょっぴり羨ましく思った

 

車は再び、地理感のあるアタルの運転で動き出した
別荘の持ち主であるアタルの親戚からは、鍵は解錠してあるとの連絡を受けている
ここから先は合宿所までノンストップ

景色は次第に移り変わっていき、すれ違う車もほぼいなくなってくる
白樺の木が生い茂る山道を通っていくと、別荘地らしきエリアに入った
北欧調の建物を3、4軒見送った後15分程を道なりに進んでいくと、漸く目的地に到着した
そこには、白樺林に映える総煉瓦の家屋が建っていた

「ふいー、着いた」

アタルは車を降りて、伸びをした

「あっちゃん、お疲れー!」

「おう。俺ここで一本喫ってっから、先に荷物運んどいてくれ」

「ういー。うお、これ重てぇー‥‥」

「持つよ」

「あ、有難う‥‥ユイ、俺のスネア宜しく」

「はいはーい」

3人は早速、荷降ろしを始めた

 

食材、飲料、機材
3往復程で全てを運び出し、合宿所内へ入る
外観は煉瓦だが、屋内は木目調だった
久方振りに暖房を点けたような、若干焦げ臭い匂いがする
食材と飲料は冷蔵庫に仕舞い、機材は地下に運び込む
地下への階段を軋ませながら降りると、冷気が漂ってきた
開け放った扉の向こうは10帖程の防音室になっており、アンプやドラムセット、LPの再生機器等が置かれていた

「‥‥すげぇな、地下室まであるなんて」

「親戚のおじさんさ、退職金叩いてここ買ったんだって。元持ち主が音楽好きだったみたいで、ここは最初から防音室だったんだって」

「へぇー‥‥」

「こうやって使わしてもらえて、有難いよね!」

「まぁ、来るのは大変だけどタダだもんな。‥‥‥、あっちは何?」

防音室の更に奥に、もう一つ扉が見える

「ワインセラーっぽい。全然使ってないみたいだけど。部屋、案内するよ」

拓真に促され、菱和は興味深そうに辺りを見回しながら地上へと向かう
ユイも、その後をついていった

 

キッチン、リビング、トイレ、洗面所、浴室
拓真が一階にある主要施設を粗方説明して回った後、3人は2階へと上がっていく

「上は4つ部屋があるんだ。どこでも好きなとこ使って。‥‥とはいっても、大体いっつも一個の部屋しか使わないんだけどさ」

「そーそー!誰々の部屋ーとか決めても、絶対1箇所に集まるんだよね!」

「で、結局雑魚寝してんのね。‥までも、ほんと好きに使って。こっちはトイレ」

一つ一つの部屋のドアを開けながら、軽く部屋を覗き混む
どの部屋も6~8帖程あり、セミダブルベッド二組とローテーブル、そしてソファが完備されてあった

「なんか、すげぇな。‥‥ちょっと、フツーに生活してみたい」

「ふふ。今度、合宿じゃなくても遊びに来よっか」

「それも楽しそうだね!プチ旅行にはいい距離だもん!」

地上2階建ての6LDK、地下には防音室とワインセラー
煉瓦も、室内に使われている木材も、決して安価なものではない
菱和は、実家の規模と比較しつつ様々な考察をした
土地面積も上物も実家の方が上回っているのだが、この別荘地も相当な額が掛かっているということだけは間違いないだろうと確信する
繁々と見渡しながら、再び建物内を散策し始めた
その後ろであーだこーだと談笑しながら、ユイと拓真がついて回る

「おーい、なんか飲もうぜー」

ちょうど2階を回っていたところで、階下からアタルの声がした
早速、カクテルを振る舞うつもりでいるのだろうか

3人は、駆け足で階段を降りていった

拍手[0回]

151 合宿に行こう‐Extra‐

合宿まで、あと3日

 

23:03
silvitの事務所内に、PCを操作する音が淡々と響く
我妻は事務作業をしながら、ヘッドホンをつけて作曲に勤しむ菱和の姿を静かに見守っていた

菱和は、暇さえあればsilvitに赴いて作曲作業をしていた
『好きなときに何時でも』という我妻の言葉を真に受け、例え深夜であろうと、電話一本で我妻にPCを借りたい旨を告げ、赴いた
無論、我妻もそのつもりで『何時でも』と云い、文字通り“何時でも”事務所を明け渡した

 

『言い忘れてたけど、あの曲一音下げで作っちまった(^ω^)テヘペロ 無理しなくて良いからな!夜露死苦★☆』

CDRを受け取った2日後、アタルからこんなメールが届いた

別に怒りなどしない
ただ、もう少し早めに、出来ればCDRを渡してきた時に云って欲しかったと思った
だが、今更後に引くつもりは毛頭無い
“色”をつける作業が楽しくなってきたのもあるが、託された“想い”にどうにか応えたい───その気持ちが、一心不乱に菱和を掻き立てた

 

23:27
ふと顔を上げ、我妻はラストのスタジオ客の様子を見に一旦事務所を離れた

 

「どうも有難うございましたー」

「はいはーい。お気を付けてー」

客を見送ると、我妻は軽く閉店作業を始めた
入り口の看板を“CLOSE”に換え、ドアを施錠
スタジオの様子を確認し、イコライザーを元に戻す
レジを閉め、伝票をまとめる
店に並んだ誇らしげな楽器たちを見回してから、事務所に戻った

 

「‥‥‥‥おやおや」

コーヒーでも淹れようかと思いながら戻ってきたものの、菱和はPCの前で突っ伏していた
静かに、深く、寝息が聴こえる

我妻はくす、と笑み、電話をかけ始めた

 

「あ。もしもし、真吏ちゃん?こんばんは、我妻です」

『こんばんは。どうしたの、こんな時間に?』

「いやね、今アズサちゃんうちの店に居るんだけど‥‥‥‥実はさ、寝ちゃったんだよね」

『あらやだ。どうしよう‥‥今から迎えに』

「ああ、良いの良いの!うちは全然構わないんだ。ただ、真吏ちゃんが心配しちゃアレだなーと思ってさ。遅くにごめんね」

『そう‥‥ごめんなさいね。わざわざ連絡くれて有難う』

「いえいえ。明日、朝起こして、ちゃんと学校行かせるから。真吏ちゃんに連絡入れるようにも伝えとくね」

『ほんとにごめんなさい‥‥‥宜しくお願いします』

「うん、大丈夫。じゃあ、おやすみなさい」

 

気心の知れた同級生の顔
息子を心配する母の顔
どちらの真吏子も知っている
奇妙な偶然が齎した再会は、懐かしくも淋しくもあった
電話を置いた我妻はそっと笑むと、菱和を一瞥した

「‥アズサちゃん。奥行って寝てきなよ。ここで寝たら風邪引いちゃうよ。身体も休まらないし」

返事がない
席を外していた数分の間に、深い眠りに就いてしまったようだ
再度声を掛け、菱和の肩を軽く揺すった

「アズサちゃん。アズサちゃ───」

「‥るせぇ」

突然、嗄れた声がした
か細く開かれた眼が、我妻を睨み付ける
菱和はすく、と立ち上がり、拳を構えた

「え、ちょっと‥」

殴られると思った我妻は咄嗟に身構えたが、菱和の拳はするりとその肩を抜けた
そのまま、菱和の全体重が我妻にずしりとのし掛かる
次に聴こえてきたのは、先程と同じ寝息だった

「──────えええええー‥‥‥‥」

どうやら菱和は寝惚けていたらしく、夢の中で喧嘩でもしていたようだ

───こんな大きな身体の人間、担いだことないよ‥‥

やっとの思いで、我妻は菱和を奥の部屋まで引きずっていった
事務所の奥は6帖程の小部屋で、ソファーとベッド、机、コーヒーメーカーが置いてある
簡易冷蔵庫とヒーター、小さな流しも設置されていた
寝食程度はここで十分済ませられるが、我妻が店に寝泊まりする機会など殆ど無く、全て念の為に取り付けたものだった
何とかしてベッドに菱和を横たわらせ、身体に布団を掛けてやる

「ふー‥‥びっくりしたぁ。‥あーんど、疲れたぁ」


「‥‥上等だ‥よ。かかって、きやがれ‥───」

一息吐いていると、突然菱和が喋り出した
思わず肩を竦ませたが、寝言だと判明した途端に笑いが込み上げてくる

「‥‥ふふ。初めてここに来たときに戻ったみたいだね、アズサちゃん。‥ゆっくり休みな」

菱和がベースに触れるようになった頃、ここで寝泊まりすることが何度かあった
その時も一心不乱にベースをいじっていた
懐かしさを感じた我妻は、そっと事務所に戻った

 

***

 

───‥‥‥‥寝ちまった。くそったれ

菱和が目を覚ましたのは、翌朝7:00頃だった
いつ記憶が途切れたのかもわからず、ただ深い眠りに就いていた
目覚めた瞬間に、“ここ”が自宅ではないと気付いた
ソファには、折り畳まれた布団が置いてあった
我妻はソファで眠り、菱和の“お泊まり”に付き合ったようだ
我妻に“借り”を作ってしまったことに、菱和の心に少しだけ悔しさが募った

 

「‥あ、おはよ。朝飯買ってきたから、食べよー」

コンビニの袋を提げた我妻が部屋に入ってきた
菱和は、怠そうに頷いてベッドから出た
淹れたてのコーヒーを啜りつつ、我妻が買ってきたサンドイッチを怠そうに貪る

「ここんとこ、ずーっと遅くまで作業してたもんね。流石に疲れ溜まってるんじゃない?」

「‥‥‥、んー‥‥」

「ふふ。相変わらず朝は覇気がないねぇ。夕べ真吏ちゃんに連絡しといたから、あとで電話でもしなよ。あんまり心配掛けるようなことするんじゃないよー」

「‥‥ん」

まだ頭が働いていないのか、生返事しか出来ない菱和
ぼんやりと、煙草を口に咥える

───そういえば、夢の中に“あいつら”が出てきたような‥‥‥‥気のせいかな‥‥

霞んだ景色
懐かしい声
喧嘩の、痕
未だ眠気が抜けないまま、夢を反芻する

しゃきっとしたいのは山々だが、朝はどうしても力が入らない
しょうがねぇかと開き直り、菱和は起き抜けの煙草をゆっくりと味わった

拍手[0回]

150 合宿に行こう③

学期末試験も恙無く終わり、Hazeの高校生3人組は無事三学年に進級の運びとなりそうだった
元より、拓真と菱和は何の問題もないのだが───ユイも、2人のお陰で何とかギリギリセーフといったところだ

アタルも無事大学を卒業し、大手を振って卒業証書を見せて寄越した
但し、在学中から就職活動は一切行っておらず、当面はフリーター確定だ
まだ暫く厄介になると家族の承諾を得、引き続き実家に置いてもらい、新年度からはバーの他にもバイトを始める予定でいた

 

アタルには“プロのギタリストになる”という夢があり、中学生の頃から周囲に豪語していた

「何がプロだ」
「甘い」
「考え直せ」
「現実見ろ」
家族はそのような類いの言葉を云うことは一切無く、細やかながらアタルの夢を応援し続けている
一年留年はしたものの、大学卒業まで面倒を見、己の可能性を信じてくれる家族へ只管感謝した

当然、ユイと拓真もアタルの夢を知っている
アタルがプロになるということは“いずれバンドから居なくなってしまう”ということ
その事実をしっかりと腹に据え、共にバンドが出来なくなる日を侘しく思うよりも、アタルの夢が成就するときを待ち侘びている

しかし、幾ら願っていても芽が出なければそれまでの話
才能、運、実力、タイミング───夢を夢で終わらせるかどうかは、アタル次第だ

 

アタルの頭の片隅には、『出来ることならばバンド丸ごとプロになれれば』という願いもあった

3人には未だ打ち明けていない、壮大な夢

春に先駆け、アタルの心にはマグマのような闘志が燃え盛っていた

 

***

 

春休みまで残り5日
修了式を控えている
春休みを迎えるその日から、一同は三泊四日の合宿へと臨むことになっている

とある週末
日程や献立の確認、そして買い出しの為、Hazeのメンバーは菱和のアパートに集った
アタルが指折り挙げたものを、菱和はメモに走り書きしていく

「レモン、ライム、ガムシロ、ヨーグルト」

「‥‥、‥‥うん」

「えーと‥‥マンゴージュース、パイナップルジュース、グレープフルーツジュース」

「‥‥、‥‥うん」

「ジンジャーエール、炭酸、グレナデンシロップ」

「‥ごめん、最後のもっかい云って」

「グレナデン、シロップ」

「ぐれな、でん‥‥しろっ、ぷ」

「そんくれぇで良いかな」

「‥‥ん」

「して、献立な。俺、鍋食いてぇなぁ」

「お、良いねぇ!」

「まだ寒いしねー」

「何鍋?」

「キムチ。で、良いか?」

「おっけー!」

「さんせーい」

「‥りょーかい」

「俺、パスタ!味はお任せで!」

「ん。‥‥パ、ス、タ」

「俺はねー、えーと‥‥唐揚げ」

「か、ら、あ、げ‥‥‥‥ん、おっけー」

「よっしゃ。じゃ、行くか」

「応!!」

アタルの運転で、何でも揃う大型のスーパーへと繰り出す
ユイとアタルはドリンクとリカーコーナーへ、拓真と菱和は食料品コーナーへ
二手に分かれ、それぞれ買い出しを始めた

 

***

 

ユイ・アタル組

 

「あっちゃあん、パイナップルジュースなんてないよぉ」

「あ?よく捜せよ」

「だって、ないんだも‥‥‥と思ったら、あった!ねぇ、これで良い?」

「ああ」

「あと、マンゴーね。‥‥てか、トロピカーナばっかだ」

「別にメーカーなんてどこのでも構やしねぇよ」

「何でこんなジュース沢山要るの?」

「そりゃ殆どお前用だよ。お前の為のノンアル」

「え、そうなの?」

「まず、シャーリーテンプルだろ」

「それ、好きなやつ!」

「知ってるっつの。あと、ノンアルのモスコ、シンデレラ、プッシーキャット、ざくろグレフル、ラッシー、かな。そんくれぇありゃ満足だろ」

「そんなに沢山作れちゃうの?この材料で?」

「ああ。卵ありゃミルクセーキも作れるぞ」

「え。ミルクセーキって、カクテルなの?」

「ミルクセーキもミックスジュースもカクテルみてぇなもんだ。‥‥よっしゃ。次、酒」

「何買うの?」

「ビール、グレナデンシロップ、ペシェ、カルーア、カンパリ、カシス‥‥」

「待って待って!頭が追い付かない!横文字多過ぎ!」

「あっそ。じゃあカゴ持ってろ。えーと、これ、これ、‥これ」

「う‥重‥‥!」

「何だよ、だらしねぇなぁ」

「瓶ばっかだから急激に、重くなっ、た」

「ちょっと待ってろ。あと、これも‥‥」

「あっちゃ‥これ、あっちゃんちにも同じやつあるよ、ね。この、ブルーベリーみたいなの」

「カシスな」

「そ、れ。しかも、これより大きい瓶、だったよね。自分ちにあるやつじゃ、ダメなの‥‥!?」

「全部口空いてるもんよ。残り少ねぇし」

「そんなの、拓真も、アズも、気にしないと、思うけど‥‥てかマジで重い‥!」

「んだよ。ったく‥‥ほら、代われ」

「あー‥‥指千切れるかと思った」

「ま、こんくれぇにしとくか。余しても勿体無ぇし。財布出してくんねぇ?」

「どこ?」

「ケツポケット」

「はいはーい。てかさ、これだけの材料で何種類くらい作れるの?」

「んー、結構作れるぞ。カシスは万能だし、カンパリとカルーアは全部のジュースと合うし‥‥」

「かるーあ?って、これだよね」

「そ。コーヒー味のリキュール」

「‥コーヒー!?コーヒーと、パイナップルジュース!!?なんか、全然味が想像出来ない‥‥」

「ばっかお前、めちゃめちゃ美味ぇんだぞ?」

「‥‥ふーん‥‥‥」

「何だよその目。二十歳になったらしこたま飲ましてやっから、それまで楽しみに待っとけ。‥ま、二十歳になったって弱いもんは弱いままだろうけどな!」

「‥うっさいな!!二十歳になったら覚えてろよ!!」

「はは!云ってろ、チビ!」

 

***

 

拓真・菱和組

 

「白菜、えのき、しめじ、マロニー、肉‥‥‥鍋の中身は、大体こんなもんで良い?」

「ん。もやしとか韮とか、すぐ傷みそうなのは前日に買っとく。あとは上手く余らして、どうにか残りの飯に活かすわ」

「なんか主婦みたいだなー、その感覚。ほんと、男でいるのが勿体無いと思えてくる」

「‥‥こんな女、居たら堪んなくね?」

「え、それは見た目の話?性格の話?」

「どっちも」

「もぉ、謙遜しちゃってさ。全然そんなことないってば。‥‥あ。ユイのパスタ、どうする?」

「‥‥それがさ。正直、迷ってて。んーーー‥‥‥‥あ、ツナ欲しいかも。あと、ベーコン。ピザ用チーズも」

「ほいほーい」

「角食と生クリームと、牛乳‥‥‥あと、合宿所って調味料あんのかな」

「ああ、確かあった筈。“さしすせそ”は大体揃ってる。何だかんだ人の出入りはあるみたいだから、あの別荘」

「そっか‥‥じゃあ、ちょい不安なもんは自宅から持ってく」

「おっけー」

「唐揚げは、何味が良い?葱ダレか、にんにく醤油か。カレー粉とかチーズ塗しても良いし、竜田っぽくも出来るけど」

「うわぁー‥‥どれも魅力的‥」

「‥したら、多目に作って何種類かやってみるわ。残ったら、卵で閉じる。っつうか、米も買わなきゃなんねぇか‥‥」

「おおお、それ美味そう!親子丼みたいな感じになるのかな?」

「近いと思う。母親がよくやってて」

「うーん、そっかぁ‥‥ひっしーの“主婦っぽい感じ”は、そこからきてるのかなぁ」

「‥ん?」

「ユイが云ってた。お母さんも料理上手なんだってね。『お店で食べたみたいだ』ーって、めっちゃ絶賛してた。あと、お母さん自体も好きっぽい。家庭的で、優しくて、綺麗な人だって。ひっしーは、『間違いなくお母さんの血引いてる』、って」

「‥‥そうなんかな。よくわかんねぇけど」

「ふふ。家族に似てるかどうかって、客観的にしかわかんないよね」

「‥‥ん‥‥‥」

「‥‥、俺もさ、今度、行っても良い?ひっしーの実家」

「勿論、そりゃ。飯くらい、いつでもどうぞ」

「‥マジー!?うっひゃあ、楽しみ!じゃ、そろそろレジ行こっかー」

「‥‥‥‥待った。佐伯」

「うん?」

「‥‥、いちばん大事なもん買うの忘れてた」

「え!なになに‥!?」

「‥‥‥‥カップラーメン」

「‥ふっははは!!何だー、びっくりしたー!真剣な顔して『いちばん大事』なんて云うから‥‥あははは!もうユイに聞いた?」

「『変な時間に食う』って。結構重要なアイテムだろ」

「そうなのさ、実はね。ふふふ‥‥何個か変な味のやつ買っとこうか。激辛とか」

「だな。‥‥じゃあ、“これ”も」

「ぶふっ‥一体誰が犠牲になるのやら。いやー、思いの外ひっしーがノリノリで安心したぁ」

「‥‥‥、中学んときに戻ったみてぇで。結構、楽しい」

「元々“そういうノリ”だったのね‥‥‥楽しいと思ってくれてるんなら良かった。でも合宿中はもっともっとアホだから覚悟しといてね」

「‥上等だ」

 

その後、4人は合流し、菱和のアパートに戻った
飲み物類はアタルが持ち帰るとしても、菱和のアパートの冷蔵庫は食材でぎっしり埋まった

「うへー、すごい量‥‥」

「うちの冷蔵庫、小せぇからな。足らないもんは、前日までに用意しとくから」

「じゃ、精算しようぜ。前日の買い物分の金は置いてくから宜しく頼むよ」

「うぃす」

「ユイー、レシートー。俺の財布から取ってくれー。序でに煙草もー」

「はいはーい」

ユイと拓真がリビングで談笑中、菱和とアタルはキッチンの換気扇の下で煙草に火を点ける

「‥なぁ。“アレ”、どーなった?」

ユイたちに聞こえないよう、アタルが耳打ちしてきた
菱和はぼんやりと答える

「んー‥‥‥‥ぼちぼち、かな」

「そっか‥‥悪りぃな、あれこれ考えたら面倒臭せぇ感じになっちまってよ」

「いや、全然。逆に、やり甲斐あって楽しいす」

「ほう。そんじゃ、こっちも楽しみにしてんぜ」

「‥‥、そんなに期待しない方が良いと思います」

「なーに云ってんだ。自信持てよ。お前の意見、アレンジんときめっちゃ助かってんだぞ?もっとそういうとこ活かさなきゃ損だと思うぞ」

「‥‥恐縮です」

「お前は抜群にセンスあるよ。俺、結構気に入ってんだかんな」

───それは俺の台詞です

そう云おうとした口を噤み、菱和は軽く頭を下げた

 

「ねー。折角車あるんだから、どっか連れてってよー」

2人が煙草を喫い終える前に、ユイがリビングから声を掛けてきた

「あ?“どっか”って、どこ行くんだよ?」

「どこでも良い!ドライブドライブー!」

「お、良いねー。行く宛のないドライブ。CD、何かけようか?」

「アズー、なんか持ってって良いー?」

「ああ」

菱和が生返事をすると、ユイと拓真はいそいそと楽器が置いてある部屋に向かい、CDを漁り始めた
2人の中で、ドライブは既に決定事項になったようだ
まだ『行く』とすら云っていないアタルは、盛大に溜め息を吐いた

「はー‥‥何であんな元気なんかなあいつら‥‥‥」

「‥‥俺が運転しますか」

「いや、良いよ‥‥そん代わし、合宿んときはちっと頼むかもしんねぇ。片道3、4時間はあるからよ」

「勿論です」

菱和はふ、と笑み、煙草の火を消してジャケットを羽織った
アタルも最後の一口を喫い、溜め息と共に煙を吐き出すと、少し重い腰を上げた

拍手[0回]

149 合宿に行こう②

学期末試験の傍ら、Hazeの面々はスタジオ練習も欠かさず行っていた
来る合宿に備え、ストック曲や新しい曲の練習に励む
試験勉強は専らスタジオ練習後に菱和のアパートに集って行い、ユイと拓真は毎度のこと夕飯をご馳走になって帰宅する日々を送っていた

 

とある日の練習後
菱和とアタルは、一服する為に揃って喫煙所に向かった

silvitの喫煙所は店先と裏口にあり、いずれも錆びたベンチと灰皿が置かれている
店先の喫煙所は完全に屋外だが、裏口の喫煙所は屋内───とはいえ、ただの雑居スペースである
夏場は涼しく快適だが、冬はほぼ外気の気温と変わらず、実質屋外のようなものだ

 

「───ねぇねぇ、お2人さん。中で喫えば?」

喫煙所へ向かう足を呼び止める声に振り返ると、事務所から顔を出した我妻が手招きしている

「は‥?」

「いや‥でも、中‥‥って」

「事務所。使って良いよ。前から云おうと思ってたんだけどさ。寒いでしょ」

暖房の効いた事務所で煙草が喫える
とても有難い提案だった

「良いんすか?」

「うん、おいで。序でに俺も混ぜて」

我妻も、長年に渡り愛煙家である
にこにこしながらマルボロを一本咥え、2人を事務所へと促した

「‥‥お前仕事中だろ」

「良いじゃん別に。ここ俺の店だもん。散らかってるけど、どうぞー」

我妻の言葉に甘えることにし、2人は店内を物色しているユイと拓真に軽く声を掛けてから事務所へ向かった
雑然としているものの、裏口とは比べるまでもなく暖かく快適だった

「あー‥あったけぇ‥‥有難うす、我妻さん」

「いえいえ。流石に店の中に灰皿置くわけにゃいかないけどさ、ここでは気軽に喫ってって」

「‥‥っつうかこの部屋汚ねぇ。ちゃんと片付けとけよ」

「整理整頓とか苦手なんだよねー。それにここ俺しか使わないし、良いじゃん」

「片付け、手伝いますよ」

「有難う、アタルくん。もう少しとっ散らかったら、お願いしようかな」

「十分とっ散らかってんだろ。とっととやれっつうの」

菱和と我妻のやり取りを聞き、アタルはくすくす笑った

菱和のJPS
アタルのラッキーストライク
そして、我妻のマールボロ
いずれも、チャコールフィルターの銘柄だ
三者三様、お気に入りの一本を惜しげもなく味わう

完全禁煙奨励の動きが激化するこのご時世、以前は普通に喫えていた場所でも次々と灰皿が撤去されている
屋外であっても、屋外と変わらない寒さの裏口であっても、灰皿が置いてあること自体に感謝せねばならない
寒さに身を震わせてまで体内に取り込むただの煙に一体何の価値があるのだろうか───“ニコ中”にしか解り得ない、“享楽”と“運命”
屋内から屋外へと追いやられた街中の灰皿に、すっかり肩身の狭くなった“愛煙家の憂い”が取り憑く

元より、楽器屋の店内で喫煙など以ての外であり、silvitの灰皿は初めから店内に設置されていないのだが───

 

我妻が事務作業を進める傍ら、2人はのんびりと煙草の煙を燻らせた
ふと思い出したように、アタルが話を振った

「そういやお前さ、作曲したことある?」

「‥? ‥‥‥‥、だいぶ前に、少しだけ手を付けたことは」

「‥‥そうか」

アタルはニヤリとし、一旦煙草を咥えてバッグを漁り出した

「これに、色付けてくんねぇかな」

「‥‥色?」

アタルが取り出したのは、ケースにも中身にも特に何も書かれていない一枚のCDR
受け取った菱和は、こくんと首を傾げた

「コードだけは組み立てたんだけどよ、メロとかはさっぱり降りてこねぇんだ。出来るとこまでで構わねぇから、頼まれてくんねぇべか?」

アタルの云う“色”とは、組み立てたコード進行にメロディやリフを乗せること───つまり、『ある程度曲を仕上げて欲しい』ということだった
Hazeの楽曲の作詞作曲は殆どがアタル一人の手で行われており、菱和がそれに加わるのは精々歌詞やアレンジ面において『AとBどちらのパターンが良いか』と問われて自分が良いと思う方に票を投じる程度だった
思わぬ依頼に、すっかり面食らってしまう

「‥‥‥、でももう暫くやってないから、支離滅裂なことになるかも‥」

「良いじゃねぇか、しっちゃかめっちゃかでも。逆にそれが功を奏すかもしんねぇし。ま、無理にとは云わねぇから」

例え滅茶苦茶な出来でも構わないと、アタルは気さくに笑った
恐らくコード進行のみが収録されているであろうCDRを見詰め、菱和は考え込んだ

「‥‥アズサちゃん。そっちのPCに作曲ソフト入ってるからねー」

事務作業を片手間に2人の話を聞いていた我妻が、ひらひらと手を振りお節介を焼いてきた

親切な友人から託された、“ブツ”と助力の貸与
自分が曲を作るなど、あまりにも自信が無さ過ぎる
だが、アタルも我妻も、全幅の信頼を寄せている菱和にだからこそ、託し、力を貸すつもりでいる

「‥‥‥‥じゃあ、預かります」

「頼んだぜ。いつでも良いからよ」

「はい。‥‥‥借りるわ、PC」

「うん。いつでも好きなときに使って」

アタルと我妻に感謝の念を抱きつつ、菱和は短くなった煙草を最後まで味わった

 

***

 

「‥ねー拓真。これどういう意味?」

「んー?‥‥あ、もうここが違う」

「え!?ここマイナスじゃないの!?」

「ちーがーうー。っていうかさっきもおんなじようなの解いたじゃん」

「えー、そうだっけ」

「ほんと、鳥頭なんだから」

「こっこっこー」

呆れて溜め息を吐く拓真と、おどけてニワトリの真似をするユイ
silvitを後にしたアタル以外の面々は、菱和のアパートにて試験勉強に励んでいた

「ちょい休憩すれば」

菱和は勉強の合間にも手軽に食べられるようにとおにぎりを数個拵えて来、テーブルに置いた

「あ、有難う。頂きまーす」

「まーす!」

テーブルに広がった教科書やノートを片付け、ユイと拓真はおにぎりを手に取った
菱和も座り込み、ゆかりが塗してあるおにぎり片手にテキストを眺め始めた

「‥ん。‥‥ひっしー、これなに混ぜてあんの?」

「鰹節と粉チーズ」

「ふーん‥‥めっちゃ美味い」

「鰹節とチーズって、合うよな」

「合う合う。俺、コンビニでもついチーズおかか買っちゃうもん」

「ふふ、それわかる!‥アズ、これは?」

「プルコギ入ってる。これだけ韓国海苔」

「‥‥わ、美味っ!!」

菱和が拵えたおにぎりは、三種類×三個ずつ
拓真が食べた、鰹節と粉チーズに醤油を少々垂らしたもの
ユイが絶賛した、プルコギとナルムを詰め韓国海苔で包まれたもの
そして、菱和が食べているゆかりとしらす塗れのおにぎりには梅肉がたっぷり入っていた
食べ盛りの高校生でも十分満足出来る、大きめのサイズだった

「‥‥ねぇねぇ、幾らおにぎりとはいえ、意外と手間かかってません?ただの塩むすびで十分ですのに」

「大した手間じゃ無いですよ。どうせなら美味しいもの召し上がって欲しいじゃないですか」

畏まった拓真に、菱和はふ、と笑んで敬語で言葉を返した

「お心遣い、大変痛み入ります」

「いえいえ。恐縮で御座います。‥‥あ。インスタントだけど味噌汁要る?」

「じゃ、俺やるよ」

拓真はおにぎりを頬張ると立ち上がり、湯を沸かすべくキッチンへ向かった

胃を満たすと、3人は勉強を再開した
ユイと拓真が帰宅したのは、21:00頃のことだった

 

***

 

煙草と灰皿を携え、コンポの置いてある部屋に入る
コンポの目の前に座し、アタルから託されたCDRを再生する
ギターのストロークの音のみが流れる
アタルがメールで寄越したコードとルートを辿る
恐らくイントロとサビの境目であろう箇所で、奇妙な違和感を覚える
その正体については後で考えることにし、一先ず最後まで聴き通してみる

 

───参ったな

 

再生が終了した室内が静まり返る
菱和は溜め息を吐き、軽く髪を掻き上げた

アタルに託されたのは、全体的にキャッチーでアップテンポの曲だった
曲の雰囲気自体はとても気に入ったのだが、問題は先程の違和感───サビ以外のそこかしこに変拍子が用いられており、リズムが馴染むのに時間が掛かりそうな予感しかしなかった
恐らく、アレンジ次第では拓真も相当苦労するだろう

メロディもリフも歌詞も無く、難解な構成だけが聳え立つ

さて、どう“色”を付けたものか───

 

───‥‥‥‥インスピレーション‥‥

 

数多の曲を幾つも幾つも聴き、この世に二つと無い感覚を培ってきたのであろう
インスピレーションに従い曲を構成するそれは、最早魔法のようだ
さらりと変拍子を組み込む辺りは激しく感心せざるを得なく、アタルの脳内は果たしてどうなっているのだろうかと疑問に思う

以前、完全に遊びの感覚で手を付けただけでそれっきりであった作曲という行為
よもやこんな形でやることになろうとは、菱和本人ですら想像もしていなかったこと

 

───あいつみたいに、“味”がすればな‥‥

アタルは作曲においてユイの味覚を参考にすることが多く、蠱惑の口が得たインスピレーションもまた不可解で唯一無二のものだ

ユイの共感覚が羨ましいと、菱和は思った

拍手[0回]

148 合宿に行こう①

2回目のデートは、3月初頭の週末に行われた

初デートの折にも話し合った、所謂“映画デート”

選んだ映画は、予てよりユイが観たいと希望していたアクション物の洋画だった
公開から日数が経っており、客足も若干減っていたので、そこそこベストポジションで観賞することが出来た
派手に一回転し炎上する軍事用ジープや高速で飛び回る戦闘機、拳銃や機関銃を乱射するけたたましい轟音が鳴り響く
普段バンドの練習で鍛えられているものの、スタジオの数百倍はあるだろうかという音響の迫力に耳の適刺激が追い付かない
上映時間前に売店で購入したチリポテトを摘まみながら、ユイはスクリーンに食い入る

隣から無骨な手が伸び、チリポテトを摘まんで戻っていく
その手を目で追っていくと、足を組み、肘掛けを使って頬杖をついてだらしなく座る菱和がいる
かり、とチリポテトを噛む音が微かに聴こえてきた

ブラックジョークがツボにハマったらしい横顔が、静かにふ、と笑んだ
途端にとく、と心臓が鳴る
視線を感じた横顔がふとユイの方を向く
目が合うと、今度は心臓がどく、と鳴った
菱和は口の端を少し上げ、徐に指先をスクリーンへと向けた
意地悪そうな眼が、『俺のカオより映画観ろ』と云っている
ユイは慌てて、スクリーンに目を移した

 

***

 

「───やっぱ、ああいうのは観ててスカッとする!」

「戦闘シーン、良く出来てたな。わりと楽しかった」

「うん!楽しかったぁ‥‥コレにして良かった!」

「あの軍人のオッサン、超カッコ良かったな」

「ほんと、良い俳優さんだったよねー‥‥」

感想を延べつつ、2人は映画館を後にする

 

時刻は14:00を回っていた
少し早めの“おやつタイム”にしようとめぼしい喫茶店を捜して入店し、ユイはアイスロイヤルミルクティーとガトーショコラ、菱和はホットとベルギーワッフルを注文した
頼んだ商品を一つのトレイにまとめるも会計は別々に支払い、適当に席を見つけて座る

 

「そろそろ“合宿”の計画立てないとなー‥‥」

ミルクティーを啜りながら、ユイはぼんやりと呟いた
菱和はベルギーワッフルを齧りつつ、ゆるりと首を傾げる

「‥‥‥‥がっしゅく?」

「‥あ、アズは初めてだもんね。前にちらっと喋んなかったっけ、バンドの強化合宿のこと。毎年春休みにやってんだ」

「ああ、あっちゃんの親戚の別荘でやってるってやつ?」

「そーそー!大体三泊四日なんだけど、行けそう?」

「行けんでねぇかな、多分」

「ほんと!てか、合宿っていうよりちょっとした旅行って感じ?めっちゃ楽しいんだ!夜中にドライブしたり変な時間にカップラーメン食ったり、あっちゃんがカクテル作ってくれたりしてさ!」

菱和はふと、ベルギーワッフルを咀嚼する口と付着した砂糖を払っていた手を止めた

「‥‥お前、酒飲めんの?」

「ぜーーーんぜん!超弱い!へなちょこ!何年か前にジュースと間違って飲んだことあるんだけど、一口飲んだらすぐ寝ちゃった!」

「弱っ」

ドヤ顔で下戸だと明かされ、菱和は苦笑しつつ突っ込んだ

「いや、あんとき飲んだのブラッドオレンジジュースみたいな色のやつでさ、あんまキレイだったから、つい‥‥‥カクテルの名前ももう忘れちゃったけど」

「まぁ、ジュースみてぇな酒もあるもんな」

「そうそう!皆に『こんなので酔うなんて』とか云われてさー。兄ちゃんもあっちゃんも、‥‥あんま大きい声では云えないけど実は拓真も結構飲めるんだよね。俺だけお子ちゃまなんだ。やっぱり、どうしても」

「‥‥そこが良いんじゃねぇの、お前は。めんこくて」

菱和はユイの“めんこい”ところを長所と捉えているが、それはユイが理想とする自分の姿とはだいぶ掛け離れていた
体格も性格も味覚も“お子ちゃま”なことは自覚しており、周囲が子供扱いすることも長年に渡り常態化しているもの
『もっとカッコ良く、男らしくなりたい』と思うも、成長や生まれ持った素質はこれ以上どうすることも出来ず、悔しいが“この辺が限界”なのだと感じている

───わかっちゃいるけど、“そこ”に留まったままは釈然としないんだよ‥‥

「‥‥どうせペットか何かだと思ってんでしょ、皆して」

ユイはやさぐれ、ストローを吹き始めた
ミルクティーがボコボコと音を立てる

「‥‥‥‥、なんか問題あんの?」

さも当然のことと云わんばかりの菱和の態度に、ユイはいきり立った

「‥もおぉ!やっぱりそうなんじゃん!てかアズもそう思ってるってこと!?俺だってさ、好きでチビな訳じゃないし、お酒弱いのだって‥」

「冗談だって」

菱和はくすくす笑いながらユイの話を遮った

「そりゃ、お前にしたらそれが不満なときもあんのかもしんねぇけどさ。皆、お前のそういうとこが好きで、めんこがったり世話焼いたりしてくれんだろ。それって、結構得してると思うけど」

「得‥‥?」

「特別意識したり何にもしなくても、つい“めんこ”がりたくなる。そういう人柄とか人懐こさとか、それがお前の人徳だろ。そのお陰でだいぶ得してると思うけどな。‥‥‥そういや前にもおんなじようなこと話したっけ」

夏の放課後、朱け色の空、共有した“味”
“おんなじようなこと”を話した時の情景を思い出した菱和は、ゆるりと口角を上げた

「そ、だ。屋上で、話してくれた、よね。んー‥‥俺の、人徳‥かぁ」

再び、ミルクティーがボコボコと音を立て始めた
菱和の話を聞き事実を受け止めようとする顔と、やはりそれでは納得がいかないという顔が入り交じっているユイ

“めんこい”は“可愛い”とほぼ同義だが、仔犬や仔猫などの動物や、祖父母が孫を慈しむような感覚に近い表現
サイズ的にも性格的にもつい構いたくなる“めんこさ”───それはユイの良さだと周りの人間は思っており、だからこそ愛を込めてからかい、いじるのだ
構えば構うほど単純な反応ばかり返ってくるいじらしさは、その“甲斐”があると思わせる

───まぁ、それを“良し”としねぇ奴も居るけど‥‥でも別にそんなんは大した問題じゃねぇ。いちばん大事なのは‥‥‥‥

「───お前が好きな人は皆、そういうお前が、好き。‥俺も、な」

不意に訪れた“好き”に、ユイの頬は次第に紅潮していく
それに伴い、ミルクティーの音が徐々に止んでいった

すっかり常態化したからかいやいじりに愛情が籠っているのは理解している
誰しも万人に好かれることなど無いという理の中、自分の好きな人達が自分を好いてくれている
それはとても貴重で、尊く、立派な事実
胸中は複雑、しかしながら沢山の好意を寄せられているそれは限りなく幸福であると感じる

ユイは唇を尖らし、まだ少し赤くなっている頬を両手で覆った

「‥‥、人間扱いだけは、してね」

「してるしてる」

菱和は口角を上げ、こくこくと頷いた
その顔は少し意地悪そうな笑みを浮かべており、ユイは大袈裟に疑いの眼差しを向けた

「も、ほんとかなー!?‥‥ね。俺ってさ、犬に例えたら何犬?」

今度は頬杖をつき、眉を顰めて尋ねる
暫し考えた後、菱和は至極真面目な顔をして答えた

「‥‥‥‥豆柴。‥‥の、仔犬」

「あ、もぉ!!もっとカッコ良い犬種にしてよ!ポインターとか!」

「‥‥どっちにしても仔犬」

「むううぅ!!」

“愛を込め”て、菱和はくすくす笑った

 

「‥‥てかさ。アズは、ボルゾイっぽいよね」

「そうか?」

「うん。手足長いし。それか、ボーダー・コリー」

「成犬になるとでかいやつ、なのな」

「だって、でかいじゃん!あっちゃんも大っきいやつ。ドーベルマンかシェパードかハスキー」

「ふふ。っぽい。佐伯は?」

「アイリッシュ・セターか、ダルメシアン」

「“シュッ”としてる犬種か」

「そうそう!リサは、白いラブラドールかサモエド」

「サモエド‥‥なるほど。確かにチワワとかポメとか可愛らしい感じじゃねぇな」

「でしょ?‥『でしょ』とか云ったら、怒られるかな‥‥」

「良いんじゃねぇの。どっちかってと、愛玩犬タイプじゃねぇもんな。っつーか、犬ってより猫っぽい」

「あ、そうかも!ふふっ!」

「‥‥話戻るけどさ、“合宿所”はキッチンあんの?」

「うん!何だっけ‥‥“あいるらんど”、タイプ?」

「‥“アイランド”型な」

「そう!それ!すげぇお洒落なやつ!」

「そっか。じゃ、折角だからなんか作りてぇな」

「マジ!?ラッキー!わー、なんか楽しみ増えた!」

「“夜中のカップラーメン”も食いてぇけど。結構唆る」

「そうなんだよねー!なんか、めっちゃ美味しく感じるんだよねー。何でかなー、夜中だから?」

「何でなんだろな。昼間に食うより美味く感じるよな」

「ね!てか、アズもジャンクフード食うんだ?毎食手作りだと思ってた」

「食うよ。作んの超絶面倒臭せぇ日は、コンビニのポテチとガラナで済ます」

「‥ガラナ!コーラじゃないとこが良いね!俺も好き!夜中のポテチも何故か美味いんだよね、これがまた!」

「‥なんかさ、夜中のジャンクフードって、そこはかとない背徳感があんだよな」

「はいとくかん?」

「何つーか、『今ちょっと悪いことしてるかも』って感じ。別に悪くもなんともねぇのにさ」

「あー、なんかわかる気がする‥!」

「ふふ‥‥‥‥献立、考えねぇと」

「そーだね、皆で考えよ!買い物も行かなきゃだし!えーと、食材とお菓子と‥‥」

「‥カップラーメンもな」

「ふはは!だね!」

来る合宿に思いを馳せると、話は止まる気配がない
会話に花が咲き誇り、2人は喫茶店で3時間近く駄弁り続けた
合間にドリンクとおやつをもう一品ずつ注文し、それも無くなった頃に漸く店を出た

拍手[0回]

147 Valentine Day

暦は睦月から如月へ

 

朝、普段通りに登校するユイと拓真
駄弁りながら玄関に入り、下駄箱を開ける

「‥‥でさー、あっちゃん今年は7弦ギター買う気でいるみたいよ」

「ははは!そんなに使う機会ないのに、どうせすぐ手離しちゃうに決まって───」

開けた途端、下駄箱の中から何かが落下してきた
次々と足元に落ちてくるそれは、ピンクや赤などのカラフルな箱や紙袋だった
リボンや造花の可愛らしいラッピングに、ハート型のメモや付箋で添えられたメッセージ
2人は足元に転がるそれを暫く見つめ、やがて互いに目を合わす

「───‥‥これって、まさか‥‥」

「そのまさかですな。甘い匂いするし。てか、今日14日か」

2人が登校する前に、数名の女子生徒が下駄箱に忍ばせたチョコレート
下駄箱にギリギリ入りきる量のそれは、“モテる”という自覚が全くないユイと拓真には予想外だった

「まさか、こんなに貰えるとは思わなかったなー」

「ほんと!拓真、何個あった?」

「7個。ユイは?」

「俺も7個。おんなじだね!」

「いやー、奇特な人がいるもんだなぁ。ありがたやありがたや」

2人はチョコを鞄に仕舞い、上履きに履き替える
教室に向かおうとしたその時、ドサドサとけたたましい音が聴こえた
振り返ると、足元に落ちてきた大量の箱や紙袋を凝視している菱和がいた
音を聴いただけでも、その数は自分達よりも多いとわかる
菱和は、床に散らばった大量のチョコをただ見つめていた

「うお、すげぇ数。はよ、ひっしー」

「おはよ、アズ!チョコいっぱい!」

「‥‥‥‥おう」

困惑しつつ床に散乱するチョコを拾い、菱和もユイたちと共に教室に向かった

 

***

 

昼休み
いつものように美術準備室に集うユイたち
上田は菱和が貰ったチョコの数を数えている

「‥‥11、12。12個かぁ。大量だなぁ、持って帰んの大変そうね」

「‥‥正直、困ってる」

「予備の袋やるよ。多分全部入んじゃねぇかな。‥‥ほい」

「どーも。用意良いな」

「地味に俺、中学の時から毎年袋持参してるから。ってか、この感じだと帰りにはも少し増えてるかもしんないなぁ?」

「‥‥勘弁してくれ」

菱和はニヤニヤしている上田から袋を受け取ると、チョコを入れつつ軽く溜め息を吐いた

「いっちー何個貰った?」

「今年は20個だったかな」

「え!そんなに沢山貰ったの!?」

「うん。モテる男はツラいやね」

さらりと云う上田の言葉には、嫌味の欠片も感じなかった
上田がモテるのは周知の事実で、チャラいところもあるが基本的には誰にでも優しく気さくに接している
そういうところが、女子たちには人気のようだ

「毎年毎年、貰ったチョコ全部食うの?」

「わりとガチなやつとかアヤシイやつ以外は食ってるよ。特別ラブでもないのに作ってきてくれる人もいるんだよね、義理チョコも結構多いけど」

「‥‥鼻血出さない?」

「『チョコ食って鼻血』ってか?あれ、迷信らしいぞ」

「え、そうなの!?‥‥知らなかった」

「はは。‥‥‥‥で?そこのお2人さん?さっきからずっと気になってんだけど、その袋!」

上田はリサとカナの傍らに置いてある紙袋を指差してニヤリとした

「樹、めざとっ!‥‥あーあ、バレてるなら仕様がないか。もうあげちゃう?」

カナはギクリとし、観念したような表情でリサに云った

「良いんじゃない、別に」

「じゃあ‥‥‥‥はい、これ!“友チョコ”だけど手作りだよ、良かったら食べて!」

カナが机に置いた紙袋の中には、手作りのチョコが入った小さな箱が6つ
すぐに食べられるように、簡易包装になっている
カナはそれを一人一人に手渡した

「おおー、実は待ってましたぁ。今年は何?」

「原点回帰しようと思って、生チョコ」

「食後のデザートにどうぞー!」

ユイたちはチョコを受け取り、箱を開けた
ココアパウダーとシュガーパウダーが掛かった一口サイズの生チョコが、5個ずつ入っている

「わお!うーんまそう!」

「いやー、なんか毎年作って貰ってほんと幸せだな俺ら」

ユイと拓真は箱に入っていた楊枝でチョコを刺し、しげしげと眺める

「あ、云っとくけど樹の分は“序で”だから」

「え‥‥、‥じゃあ菱和はどうなのよ?去年も2人に作ってんのは知ってるけどさ、菱和も序でじゃねぇの?」

カナから急に意地悪なことを云われ、上田は怪訝な顔をした

「菱和くんとあんたを一緒にするわけないでしょ」

「‥‥‥あのさー長原、それ“依怙贔屓”って云わねぇ?」

「それがどうかした?文句云うなら食べなくても良いよ?」

「いや、有難く頂戴しますっ」

上田とカナのやり取りを聞いて、ユイと拓真はくすくす笑った

 

美術準備室は忽ちチョコの香りに包まれる
リサとカナが作ってきた生チョコを堪能しながら、のんびりと過ごす昼休み
ユイは窓際でぼーっとしながらチョコを食べる菱和の下へ行き、その横に座った

「アズ、なんか考え事?」

「‥‥ん、ああ‥‥‥‥貰ったやつ全部我妻んとこ持ってこうかなって」

「え、店長にあげるの?」

「ん。どうしょもねぇし。なんか、重い。‥‥物理的にも、精神的にも」

「‥‥‥重、い‥‥」

無口な人間がわざわざ口に出すくらいだ
バレンタインのチョコレートは、菱和にとっては負担以外の何物でもないのだろう

「菱和ぁ、そんだけ大量に貰っといてお返しとか何も考えてねぇの?」

「全然そんな気起きねぇ。‥‥お前は毎年返してんのか」

「まぁ、大体はな。自己申告してくるコも俺が貰ってないのに催促してくるコもいるけど」

「律儀だな」

「ふふん、“モテ男の秘訣”よん!」 

上田は楊枝をくわえてニコッと笑った

バレンタインは、女子が意中の相手にその想いを告げる日───ではあるものの、菱和には誰の気持ちも受け取る気はないとわかり、ユイは内心ほっとしていた

「我妻んとこ行った後になるけど、飯食ってかねぇ?」

「アズんち、行っても良いの?」

「うん。今日は佐伯もバイトだし、楽器触んのはうちでも少し出来るだろ。‥‥でもちょい別な用事もあっから、17時くらいに」

「わかった!適当に時間潰してる!」

「‥何食いたいか考えといて」

菱和はユイが持つ箱の中のチョコを楊枝で刺し、口に入れた

「あ!もぉ、俺の分減っちゃったじゃんか!」

「やっぱ美味ぇな、チョコって」

「むぅ‥‥」

「俺の一個やるから。ほら」

菱和は意地悪そうに口角を上げて、自分のチョコを楊枝に刺してユイの口元にやった
不満そうな顔をしつつも、ユイはチョコを口にする
そのやり取りを見ていたカナは、くすっと笑う

「菱和くん、どお?美味しいー?」

「うん、美味ぇ。来年も頼むわ」

「‥任せといて!」

カナはVサインを出し、ニコッと笑った

 

***

 

放課後
菱和が指定した時間まで、ユイは駅前を彷徨いた
街はバレンタイン一色
飲食店は軒並みチョコレートを推した商品が並び、甘い香りが漂ってくる

何の気なしに寄ったパン屋“Eichel”も、ご多分に漏れない
ユイはトレーとトングを持ち、店内を物色し始めた

お気に入りのショコラノエルには『バレンタインに最適』と、いつもは無いポップが掲げられていた

───バレンタイン、かぁ‥‥‥‥

 

『どうしょもねぇし』

『重い』

 

ショコラノエルを渡したところで自分も“重い”と思われたらどうしよう───ユイは、そんな途方もないことを思った

───でも別に『バレンタインだから』って訳じゃないし、いっか。チョコだからわざとらしいかもしんないけど、ただ一緒に食えたら‥‥ってだけだし。もしアズが要らなかったら、俺が一人で食えば良いや

半ば開き直り、ショコラノエルを一つ取ってトレーに入れた

 

***

 

ユイは時間通りに菱和の自宅を訪れた
ふと部屋を見渡すと、上田に貰った袋が何処にも見当たらなかった

「ほんとに全部店長にあげてきたの?」

「ん。なんか、喜んでたわ」

「店長、甘いもの好きなんだね。知らなかった」

「‥‥あいつ、引くほど甘党だぞ。めっちゃクリーム盛ってるくどそうなやつ平気で食いやがって、見てるこっちが胸焼けしそうになる」

「へぇー!俺、店長と甘いもの食いに行きたいな!ケーキバイキングとか!」

「話してみれば。多分、奢ってくれるよ」

「‥ほんと!?ふふ、今度云ってみる!」

我妻に意外な一面があることを知り、嬉しくなったユイはニコニコした

 

「───っつーか、さっきからチョコみてぇな甘い匂いする」

ボソリと呟く菱和
ユイはギクリとした

「‥‥え!!?‥‥な‥そぉ‥‥?」

「ちょーだい」

徐に差し出された、無骨な手

鞄に仕舞った“Eichel”のショコラノエルの存在を、菱和に云われるまですっかり忘れていた
ちらりと様子を窺うと、菱和は意地悪そうな顔をしていた

「‥‥‥‥っていうか、いる?‥‥‥ほんと、全然大したものじゃないんだけど‥‥」

「お前から貰えるなら、何でも嬉しいよ」

柔らかな口調で放たれた言葉に照れつつ、観念したユイは鞄から紙袋を出し、そっと菱和の掌の上に置いた
菱和は袋を開け、中に入っているものを取り出した

「‥‥ショコラノエルか」

「うん‥‥どうせなら一緒に食いたいと思って、さっき買ってきた。‥‥別にバレンタインだからこれにしたわけでも何でもないんだけど‥‥‥‥」

もじもじしながら説明し出したユイとショコラノエルを交互に見遣ると、菱和はくすくすと笑い出した

「‥‥‥、駄目、だった?」

「んーん。‥‥お前らしいわ。ありがとな。‥‥‥‥じゃあ、俺も」

「‥‥?」

菱和は徐に立ち上がり、キッチンへ向かった
戻ってくると、紙袋をテーブルの上に置き、またユイの横に座る
それは、先程菱和に手渡したものと同じ紙袋───

「‥‥“Eichel”の袋」

「ん」

「‥‥開けても良い?」

「うん」

「‥ショコラノエルだ!」

「我妻んとこ寄ってから買ってきた。‥‥俺も別にバレンタインだからってこれにしたわけじゃねぇけど、お前これ『好き』って云ってたから」

図らずも同じことを考えていたようだとわかり、2人は堪らず可笑しくなった

「‥‥ふふ‥‥はは!‥何だぁ、俺らおんなじこと考えてたんだ!」

「そぉみてぇ」

「‥ありがと、アズ」

「こちらこそ。‥‥なんかあったかいもん飲む?」

「うん!ミルクティーとかある?」

「ん。今淹れるわ」

チョコレートとの相性が抜群に良いミルクティーと共に
ユイは菱和が買ってきたショコラノエルに、菱和はユイが買ってきたショコラノエルにかぶりついた

「初めて食ったけど美味ぇな、ショコラノエル」

「でしょ?良かったぁ、アズも好きな味で!」

ミルクティーを一口飲み、ほっと一息吐く

「‥‥‥‥、中にはさ、本気のコとか居たかもしんないよね」

「‥ん?」

「ほんとにアズのこと好きでチョコ作ったコもいたんじゃないかなぁ‥‥って」

「‥‥、一方的にチョコ押し付けてこられただけじゃこっちも何もわかんねぇよ。大体、ほんとに好きならバレンタインじゃなくても告るだろ。チョコの力借りなきゃ告れねぇってんなら、どうせ大した想いじゃねぇんだよ」

「そう、かなぁ‥‥」

───アズが誰のものも受け取らなかったのは嬉しいけど、そんなんで喜んじゃう俺って器小さいな‥‥

そう思い、ユイはショコラノエルを小さく千切って口に入れた

 

「──────俺はお前が良い」

ユイの機微を何となく感じ取った菱和は、低い声でボソリと呟いた

「え?何?」

きょと、とするユイの顔を軽く引き寄せ、その額に軽くキスをする
ユイは思わず菱和から離れ、顔を赤くした

「───アズっ‥!!」

「何だよ。‥‥っつうか、キスする度そんなんじゃ俺も複雑な気持ちになるわ。いい加減慣れろよ」

「無、理だよっ‥‥いっつも不意打ちなんだからっ‥‥!」

「不意打ちじゃなきゃ出来ねぇもん。お前からしてくれるわけじゃねぇし」

「なっ‥!‥ん、そ‥‥っ‥!!」

自分の好きな人───菱和からのキスは、とても嬉しい
だが、余裕綽々な様子の菱和とは反対に、自分はいつまでも慣れず照れてしまう
澄まし顔の菱和を見ると、恥ずかしさでより心拍数が上がる

「‥‥‥‥俺はお前にしか“こんな気”起きねぇから」

顔を真っ赤にしているユイを尻目に、菱和は柔らかく笑みながらショコラノエルを堪能した

 

───ああ、そっか‥‥‥俺は自惚れてても良いんだった、“アズは俺を好きでいてくれてる”‥‥って

菱和の言葉を聞いて、ユイは忽ち安堵した

「ほんと美味ぇな、これ」

「うん‥でしょ?‥‥ふふっ」

「‥‥‥晩飯、何食おっか」

「お任せします!」 

「‥‥りょーかい」

菱和はくす、と笑い、ユイの頭を優しく撫でた

拍手[0回]

146 evil

新学期───

 

拓真とリサと、3人で肩を並べて登校する
いつものように気怠そうに登校する菱和と挨拶を交わし、休み時間には上田と戯れ、昼休みには美術準備室へと向かう
変わらぬ友達、教室、校舎の賑わい

学校での日常が、また始まった

 

新学期早々、小さな修羅場が起きた

ユイたちは知る由も無いことなのだが、ある人物にとっては、ちょっとした事件だった───

 

***

 

昼休みが終わる少し前、一同は美術準備室をあとにする
けらけら笑いながら教室までの道程を歩く最中、一人の男子生徒とすれ違いそうになった
ユイはその生徒とほんの一瞬目が合ったが、すぐに顔を逸らし、拓真や菱和と談笑を続ける
すれ違った瞬間も、特に何も起きなかった

ある男子生徒は、驚き立ち竦んだ

何故、あんな顔をして笑っていられるのだろう───そんな疑問が、彼の脳内を埋め尽くす

 

「───お前なんかとっくに眼中に無いんだっての」

一同に遅れて歩いてきた生徒が、彼に声を掛けた
彼は振り向き、ギクリとした

「‥上田」

「健気だろ。めんこいし。“あんなこと”されても、平然と立ち直りやがった。泣かせるねぇ‥‥」

「‥‥、‥‥‥‥」

上田は彼の肩を抱き、ユイたちを見つめながら気さくに話した
いつものチャラい口調、軽いノリ
下を向き、口を噤む彼の顔を、上田はにこりと笑みながら窺った

「‥‥ちょっとくらい期待した?自分のこと気にしてるかもって」

彼はまた、ギクリとする
上田の目が、笑っていない

肩を抱く手に、力が込められた
彼は、ほんの一瞬血の気の引く感覚がした

「───驕るなよ。お前なんかと違ってあいつは前しか向いてねぇ。表面上取り繕った振りしてまだめちゃめちゃ傷付いてっかもしんねぇんだ。あいつにまたちょっかい出してみろ、“あの”窓ガラスみてぇになっちまっても知らねぇからな」

低い声で矢継ぎ早にそう話す上田
何とも“悪い”顔をし、憤怒の刃を向ける

彼は、菱和がぶち割った保健室の窓ガラスが粉々に砕け、飛び散る音がリフレインされた気がした

「‥じゃーね。ご機嫌よう、工藤クン」

今度は満面の笑みを工藤に向け、上田はユイたちの後を追いかけて会話に混ざった

 

工藤は冷や汗をかいていた
身体は戦慄き、動悸は激しく、立っているのがやっとだった

上田の怒りのマシンガントークは、その心に畏怖の念を齎した
上田も、窓ガラスを破り壊した菱和も、ユイへの仕打ちへの怒りは尋常ではなかった
“あのとき”は本気で菱和に殴られると覚悟したが、直接危害を加えられなかっただけマシだったのでは、と思えてきた

 

遠く、笑い声が聴こえてくる
愉しげに笑うユイが、とても幸せそうに見えた

「───くそっ‥‥何なんだよあいつ‥!!」

何でそんなに、あいつの回りには人が集まるんだ───?

 

それが理解出来るようになるまで、如何許の時間が必要だろうか

小さな修羅場───工藤は、今更ながら自分のしでかしたことを激しく恥じ、悔いた

拍手[0回]

145 PANACHEレポート by 上田くん

どーも、いっちーこと上田 樹です

冬休み中にユイから「PANACHE行こう」って誘われたんで、その時の様子をレポートします

登場人物は、
・ユイ
・拓真
・菱和
・近藤サン
・長原
そして皆様ご存知、俺です(ドヤァ)

 

現地集合だったんで、早めに昼飯食ってからPANACHEに行きました
ちょうどおやつの時間頃?PANACHEに着いたら、俺以外は既に全員居ました
あ、別に俺が遅れた訳じゃないからね?皆が早すぎんの!

ユイは相変わらずパーカーとジーンズ
たっくんはちょっと洒落たジャケット着てて、これがまた「ちくしょー」ってくらい似合ってた
菱和の私服は前見たときとあんま変わんない感じで、ニットとダメージジーンズだった
近藤さんは細いな、タートルネックとショーパンでスマートな感じだった
長原は頭おだんごでストール巻いてて、若干着膨れ気味だった
や、まだまだ寒いからね!2人とも可愛かったよ!

 

休み前に近藤サンが云ってた期間限定とかいうやつ、もう終わっちゃってたんだよね‥‥
いや、俺ね、密かに食いたかったんだー、モンブランかミルフィーユ!
まぁ、“あんなこと”があった日にゃ、クレープどころの話じゃないよね‥‥
でも、ユイから連絡きたから、あいつそこそこ元気なんだなーって一安心した次第なんですわ

で、近藤サンの情報だと、新たな期間限定商品があるというでわないですか!

それは、『アップルパイ』のクレープ

メニューの写真見たら、パイ生地とリンゴのコンポート、それからカスタードクリームもりもり!
うは、胸アツ!
俺は迷わずそれにしました!
んで、他の面々はというと、

・ユイ→ダブルクリームバナナ
生クリームとカスタードでダブルの贅沢、仕舞いにゃチョコソースも掛かってる!チョコ×バナナって反則だよな、見た目からして絶対美味いもん

・拓真→キャラメルマキアート
カフェのメニューにもあるよね‥‥これをクレープに??一体どんな感じなんでしょう?キャラメルソースがかかってます!

・菱和→ガトーショコラ
小さいガトーショコラが、もりもりの生クリームの中で溺れてるクレープ
あんな顔して、意外と甘いもんイケちゃうのね‥‥

・近藤サン→ストロベリーレアチーズ
近藤サンはこれをヘビロテしてるらしい
「ごっそり食べない」って条件付きで、ユイに一口あげる約束してました

・長原→メープルバター×アイス
シンプルなんだけど、アイスが入ってるから美味そう!あったかいクレープにバニラアイスが溶ける‥‥そんなやつ!

というラインナップです

 

味は云わずもがな、美味いに決まってますよねー
アップルパイって、シナモンかかってるじゃないですか?クレープにもかかってたんですが‥‥実は俺シナモンあんま得意じゃないんだけど、さらっとかかってるだけだからほんとに食べやすかった!
もったりしたカスタードが合う合う!りんごもシャキシャキ感あって、大変美味しゅうございました!

ユイのとたっくんのと菱和のは、一口ずつ頂きました
全部美味かったよ!PANACHEのクレープはガチでハズレ無し!
あ、当然、俺のもちゃんとあげました

あー、アップルパイクレープのこと、今度ケイに教えてやろっと!

 

ところで、ユイが新しいスニーカー履いてたんですよ
失くなったスニーカーの代わりに買ったって、ちょっと淋しそうに云ってました
健気だよなぁ、ほんと‥‥

俺ね、あんときガチで工藤にムカついたんだよね
あいつにとってはどーでも良いかもしんないけど、俺にとってユイはマブダチだから
ダチが苦しんでる姿は、誰も見たくないっしょ
だから、あいつが元気そうでほんと安心した
多分、たっくんと近藤サンのお陰なのかな‥‥あと、菱和も??

工藤の奴、今度またちょっかいかけてきやがったら俺と菱和でボコっちまうからな!

 

さぁさ、冬休みも残りわずか
男子高校生らしく、大いに満喫しちゃいましょー!

拍手[0回]

144 DATE④

 


どれくらいの時間が経っただろうか

菱和の心臓の音が聴こえてくる

 

ユイは菱和に身を預けたまま、暖かさと安堵に抱かれぼんやりとしていた
菱和はユイに腕枕をし、その腕の先をユイの頭に持っていって、ゆったりと髪を梳いていた
大きな掌はただ優しく触れ、矢鱈と眠気を誘う手付きだった
食後ということも手伝ってか、ユイはこのまま眠ってしまいたい気分になった
菱和が軽くユイの顔を覗き込むと、ゆっくりと瞬きをする眼がとろんとしている

「‥‥‥眠いのか?」

甘美な低い声が、聴こえる

「ん‥‥少し」

「‥‥‥‥寝ちまうか。このまま」

「え‥だ‥‥今寝たら、絶対朝まで起きない」

「良いんじゃね。泊まってけば」

「それは、急だし‥流石に悪いから‥‥」

「全然構わんけど。‥‥‥‥じゃあ、“あっち”行くか?」

「‥‥アパートの方?今か、ら?」

「うん。年開けてからまだ行ってねぇから、なまら寒みぃと思うけど」

「行きた、い‥‥けど、なんか悪い‥よ」

「『来たいときにいつでも来い』っつったじゃん」

「そうだけ、ど、‥‥‥‥‥いつまでも帰れなくなりそう、だから」

「‥‥既に帰したくねぇっつの」

これくらいの我儘は許容範囲もいいところ
、我儘にすら感じない
離れ難いと思うのもお互い様
今更何を遠慮することがあるのだろうか
だが、ユイなりに気を遣っているのだろうと思い、菱和は少し口角を上げた

ユイが眠ろうが泊まろうがアパートに来ようが帰宅しようが、菱和はどんな選択をも受け入れるだろう
ユイ自身もそのように感じており、ならば『もしここで眠ってしまえば明日の朝まで一緒に居られる』などと狡い魂胆がちらりと脳裏を掠める

帰らなきゃ、いつまでも離れられない
離れたくない、もう少しだけこうしていたい

相反する感情が揺れ動くも、ユイは遂に決断した

「───アズ」

「ん」

「‥‥今日は、帰る」

「ん。‥送ってく」

後ろ髪引かれる思いでいるユイの頭を、菱和は優しく笑みながらぐりぐりと撫でた
そのまま抱き締め、額を合わせる
ユイは菱和の胸元をくしゃっと握り締め、あと幾ばくかという二人きりの時間を噛み締めた
と、ふと顔を上げ、首を傾げる

「‥ね、送るって‥‥何処まで?」

「お前んちまで」

「っそれはダメ!!」

ユイはいきなり上体を起こし、全力で抗議した
喫茶店で会計をまとめて払った時と同じようにしているその顔を、菱和はぼんやりと見上げた

「は‥」

「だってさ、嬉しいけど、めっちゃ嬉しいけど!‥アズが帰るの、遅くなっちゃうじゃん」

「別に構わねぇけど‥」

「ダメ!それも平等じゃない!寒いし!暗いし!お母さんだって心配するでしょ!」

「お前の親父さんだってこんな時間まで出歩いてちゃ心配すんだろ。だから自宅まで送るって」

「俺は良いんだよ!男なんだから!」

「俺も男だよ」

「‥知ってるよ!」

「‥‥何だそれ」

今のやり取りがツボにハマったようで、菱和はくすくす笑い出した
ユイは眉間に皺を寄せる

「も‥笑うなよ!」

「いや、悪りぃ。‥‥何が駄目なの?」

「ダメってか、送ってくれるのはほんと嬉しいんだけど、その所為でアズが風邪引いたりしたら、やなんだもん‥」

「風邪なんか引かねぇって。俺丈夫だから」

「もおぉ!そんなのわかんないだろ!?丈夫なのも知ってるけど!」

「なら、問題なくね」

「大アリだよ!!1月だよ!冬だよ!寒いよ!?ほら、帰りに雪降るかも!」

「寒けりゃどっかコンビニ入るし、雪降ったら傘買う」

「その出費が勿体無いじゃん!」

「ビニール傘一本、どうってことねぇって」

「あのねぇ、“塵も積もれば何とやら”って云うだろ!?」

「‥‥何とやら?‥“塵も積もれば”?」

「‥‥“山となる”」

「よくできました」

「‥んんん!!それくらい知ってるってば!」

「誠に失礼致しました」

互いに譲らぬ攻防戦の最中、菱和は意地悪な顔をしてユイをからかった

この時間帯であればまだバスも電車も運行しており、タイミングさえ合えばタクシーを拾える
金銭の発生如何を問わずすぐに帰宅する手段も無いわけではない
菱和にとっては帰宅が遅くなることも多少金が出ていくこともどうということはなかったが、どうやらユイからしてみればそれも平等ではないらしい
健気な眼差しに根負けした菱和は、徐に手を伸ばして指の背でユイの頬を撫でた

「‥‥‥じゃあ、駅前までなら良い?」

待ち合わせをした駅には、バスターミナルが併設されている
日付を越えさえしなければ互いにバスですぐ帰宅出来、運賃も定額で済む
自宅までの距離を考えても、“不平等”ではなかった
元より、待ち合わせ場所で解散となれば特に問題ないのでは───ユイは提示された妥協案を飲むことにし、頬を撫でる手を握った

「‥‥おっけー」

「あざす」

菱和はふ、と笑むと、今日最後になるだろうキスを、ユイの額に落とした

 

時刻は間もなく21:30
バスの時刻を調べると、幸い22:00頃には駅前に着きそうな時間帯のものがあった
その後も、バスは日付が変わる頃まで運行予定だ
気が変わってしまわない内にと、2人は部屋を出た

「つーか、袖色違いなのな。すっかり云いそびれてたけど」

「! 気付いてくれてたんだ!中はね、ラグランなんだ。‥ほら!」

「ふーん‥‥シンプルだけど洒落て見える」

「この組み合わせ、俺のお気に!アズのニットは?カシミヤ?」

「知らねぇ。フツーにウールなんじゃね」

「すっげぇ手触り良いからてっきりカシミヤだと思ってた!」

「‥‥あんま服にゃこだわりねぇんだって」

今日の服装について話しながら階段を降り、ダイニングチェアの背に掛けたままのアウターを取りにリビングへ向かう
リビングでは真吏子がソファでまったりと雑誌を読んでおり、2人の気配がすると振り返り立ち上がった

「帰るの?」

「はい!どうもご馳走様でした!ゴハン、凄く美味しかったです!あとデザートも‥‥お店で食べた気分でした!」

「こちらこそ、リクエストどうも有難う。喜んで貰えて良かった。作り甲斐があったわ」

真吏子はにこりと笑む
菱和はアウターを携え、パーカーをユイに手渡した

「ちょっとそこまで送ってく」

「そう。わかった。ユイくん、また遊びにいらっしゃいね」

「はい!お邪魔しました!」

「お邪魔しました」

ありったけの感謝を込めて頭を下げるユイの横で、菱和も同じように頭を下げた

「やだもう。‥‥気を付けてね」

真吏子は呆れたようにくすくす笑い、玄関先まで2人を見送った

 

***

 

辺りは真っ暗
ぴんと張りつめた空気
鋭く立ち込める冷気
深い深い藍色に満天の星
空が近く見える感覚
清んだ冬の匂い
仄かに灯る街灯
白い吐息はぼんやりと消え失せる
足音は二つ
擦れ違う人など居ない時間帯

冬の寒さに、身体はみるみる冷えていく
大きめのパーカーを着てきて正解だったなと、ユイは思った

「───手、ちょーだい」

坂道を下りきったところで、菱和は徐に手を差し出した

「ん、‥」

「‥‥さっき、『またあとで』って云ったの、覚えてる?」

「───‥‥‥‥あ、」

結果的には却下されてしまったが、菱和はユイが帰宅する際には端から自宅まで送り届けるつもりでいた
その時にはまた手を繋いで歩けるだろうと踏み、云い残した『またあとで』
その“また”がこの機会のことだったのだと、ユイは悟った

最寄のバス停までの道程、バスを待っている間───2人は手を繋いでいた

 

ほんとは、帰りたくない
ずっと一緒に居たい
でも、あんま我儘云って困らせたくもない
大丈夫、こんな機会はきっとこれからも幾らでもある
アズも、手を繋いで歩きたいと思ってくれている
“想われてる”ことを、誇りに思おう───

『自惚れろよ、もっと』

ユイの心に、仄かな自信が湧いた

 

こんな時間のバスの乗客など、自分達しか居ないのではないかというほど高が知れている
案の定乗客は一人もおらず、菱和はこれ幸いにと繋いだ手を離さないまま乗車する
ユイは菱和に手を引かれながら乗車し、2人は一番後ろの座席に座った

掌が、温い

手を繋いでいられるのは精々バスに乗るまでが関の山だろうと思っていたが、バスが駅前に到着するまで延びたことになる
それは嬉しい、だが、益々───

───帰りたくないなぁ‥‥

車窓からの景色をぼんやりと眺めていると、窓に映る未練がましい自分と目が合う
明らかに、“帰りたくない”と顔に書いてあった

「───‥‥‥‥まだ時間大丈夫なら、もう一箇所どっか寄ってから解散にすっか。駅前だったらまだ開いてる店あるよな、多分。‥‥でも、日付変わる前には帰ろ」

バスに乗ってから一言も発さないユイを一瞥した菱和は、そんな提案をした
ユイは、肩を竦めながら遠慮がちに菱和の顔を窺った

「‥‥、良いの?」

「帰りたくねぇのは俺も同じだから」

ゆっくりと瞬きをする穏やかな瞳は、いつでも自分を捉えてくれている
以前も、『気が済むまで付き合う』と、帰宅を躊躇う自分と過ごしてくれたことが何度かあった

何故、こんなにも優しいのだろう
想像の範疇を遥かに超える想いは、自分に向けられるものとしては勿体無さ過ぎる気がしてしまう
例えようのない嬉しさばかりで心は溢れ、また少しずつ自信が湧いてくる

「‥‥アズ、有難う」

「いいえ」

菱和は柔らかく笑み、ユイの手を2、3度続けて握った

 

***

 

昼間と比べれば、目に見えて人の数は少ない
これから呑みに繰り出す者、帰宅を急ぐ者、その姿は様々だ

駅前には24:00を過ぎても開いている店が何軒かあり、2人はめぼしいカフェに入店した
人は疎ら、席は実質選び放題
互いにふわふわのフォームミルクがたっぷり入った焙じ茶ラテを注文し、適当に座る
今度こそ自分の分の代金を支払ったユイは、甚たく満足そうにしていた

 

「───あーあ、結局ノープランだったな。もっと色々考えときゃ良かった。‥折角の初デートがこんなんで、ごめんな」

菱和は伸びをしながらぼやき、苦笑いする
ユイは、首を横に振った

「‥そんなこと。俺だって、何も考えてなかったも‥‥めっちゃ楽しかったもん」

「‥‥そ?お前が楽しかったってんなら、何でも良いんだけどさ」

「アズは、どうなの?」

「ん?」

「‥楽しめ、た?」

「‥‥、とても有意義な時間でした」

穏やかに笑み、菱和はそう云った

ノープラン上等
2人で居られるなら場所なんて何処でも良い、楽しくないことなど無い
互いに同じ思いでいられたのなら、それで十分だ
ユイははにかんで、笑顔を返した

「‥あ、ねぇ!今度、映画観に行こうよ!」

「ああ。映画観て、またなんか美味いもん食って‥‥‥あ、スーツも見に行かねぇとな」

「‥そうだった!じゃあ、次はエーガにしよ!で、そのあとスーツ見に行くの付き合ってくれる?」

「ん。どんなの観たい?」

「えーっとね‥‥最近公開されたやつで、面白そうなのあんだよね‥‥‥‥」

スマホで映画の上映情報を調べる2人
初デートは未だ終わってはいないのだが、次のデートに気持ちが逸る
どんな映画を観ようか、何色のスーツにしようか、お昼は何処で食べようか
帰りのバスの時間が迫る中、焙じ茶ラテを啜りながら、他愛もない話を続けた

23:00を目前にカフェを出、バスターミナルへと向かう
乗り場が異なる為、一緒に居られるのはここで最後だ
閑散としたターミナルで、別れを惜しむ

「‥こんな時間まで、ほんとに有難う。今日、ほんとに楽しかった」

「こちらこそ。有難うございました」

菱和は仰々しく頭を下げ、有り余る感謝の瞳でユイを見ていた

「気を付けてね」

「お前もな」

「うん。‥またね!」

「ん。またな」

そう云って、2人は名残惜しそうに別れた
足音と共に鳴るウォレットチェーンの音が、次第に遠退いていった

 

***

 

バスに揺られ、帰宅の途に就く
車窓に映ったその顔は、まだ未練がましくしていた

───なんか文句あるか。離れたくなくなるくらい好きなんだから仕様がないだろ

開き直り、狡賢い笑みを浮かべる
バスを下車する少し前まで、ユイは車窓の自分とにらめっこしていた

拍手[0回]

143 「Inbilsk.」

「ほんとに何もねぇけど、どうぞ」

自室へと促され、ユイはわくわくしながら入る
8帖ほどの室内には、セミダブルのベッドとその横にある机、机の上の灰皿と椅子以外のものは特に何もなく、がらんどうとしていた

「な。『何もねぇ』って云ったろ。必要なもんは全部アパート持ってっちまったから」

決して菱和が謙遜していたわけではないということを悟りはしたものの、ユイは反論する

「‥ベッドがある。机も。椅子も」

「そんだけだろ」

そう云ってユイの頭をくしゃくしゃと撫でると、菱和はカーテンを閉めベッドに腰掛けた
布団は綺麗に整えられており、絨毯には塵一つ落ちていない
恐らく真吏子が掃除したのだろうと、察しがつく
シワをつけてしまうのが申し訳ないと思いつつ、ユイも菱和の横に座った

「ここで、勉強したり、ベース弾いてたんだよね」

「うん」

菱和はボトムのポケットから煙草を取り出し、がらんとした室内に紫煙を燻らせる

「‥‥タバコも、そうやって喫ってたんだ?」

「‥うん」

「てかさ、いつから喫ってんの?」

「中1、かな」

「じゃあ、ここに来たときにはもう喫ってたんだ?バレなかったの?」

「いや、窓開けて喫っててもバレた。でも、『喫い過ぎんな』くらいしか云われなかった。最初から止める気もなかったんだけどな」

「んー‥‥そーなんだ‥」

「‥‥怒るポイント間違ってるよな」

「ふふ、かもしんないね」

 

無骨で長い指先が従えるJPSから、ゆっくりと紫煙が立ち上る
怠そうに煙を吐く菱和
何を考えているのか全く読めないが、無防備であることは間違いないその横顔と仕種はユイが好きな一面
煙草を喫う人間の気持ちは一切理解出来ないが、JPSの香りは菱和にぴったりだと、ユイは常々思っていた

「───‥‥タバコが似合うって、良いなぁ」

「‥ん?」

「なんか、カッコイイ」

「‥‥そうか?」

「うん。アズもあっちゃんも、なんかカッコイイ。‥俺なら喫ってても全然カッコつかないだろうしさ。てか、タバコって美味しいの?」

「‥‥‥‥喫ってみる?」

「‥え」

「‥‥‥“大人の階段”、昇ってみる?」

徐に差し出された、人差し指と中指に挟まれた煙草
ちらりと見上げると、「どうぞ」と云わんばかりにこくんと首を傾げている
ほんの少しの罪悪感を胸に、ユイはフィルター部分を親指と人差し指で摘まみ一息吸った

「‥、ぷは‥‥苦‥」

しかし、吐き出した煙は肺まで吸い込まず、口内で留まったもの
菱和は、くすくす笑いながらアドバイスをする

「‥‥それじゃフカしてるだけ。肺まで入れてみ」

「肺まで‥?」

「鼻から息吸い込んで、深呼吸してみ」

「‥‥‥‥‥、‥はぁー‥‥」

「そうそう。そうやって喫ってみ」

怪訝な顔をしたユイは再び煙草に口を付け、今度は思い切り肺まで吸い込んだ

 

「───‥!!!っげほ‥‥っ、ぅえっ‥!」

吸い込んだ瞬間に呼吸が止まりそうな感覚がし、ユイは盛大に咳き込んだ

───まぁ、そりゃそうなるわな

予想通りの反応だったよう
勧めたのは時期尚早だったか

「大丈夫か?」

菱和はユイから煙草を取り上げ灰皿に置くと、その背中を擦りつつメイソンジャーに挿さったストローを口元に持っていった
ユイは慌ててシトラスティーを口に含む

「やっぱ初めてで11㎎はキツい、か」

「‥‥‥んん‥‥もう、おれ‥にどと、すわない‥‥‥」

激しく後悔したユイは目に涙を浮かべ、辿々しく決心の言葉を紡いだ

「その方が懸命だ。不経済で、不摂生で、何も良いことねぇ」

「‥‥じゃあ、何で喫ってるのさ?」

「さぁ。“ビョーキ”だからじゃね」

自分の人生に、煙草の必要性は皆無
やはり“煙草を喫う人間の気持ちは一生理解出来ない”と、ユイは悟った

 

「───‥‥‥‥喧嘩止めた理由さ、」

「‥、うん?」

「“叱られたから”、ってのもあんだ」

ユイの呼吸が落ち着いた頃
菱和はぽつりと、自分の過去を話し始めた
自分から過去の話をする菱和は、至極珍しい
ユイは真ん丸の目で菱和を見つめ、その話に食い入った

「‥‥中3から転校してさ。見た目“こんな”だからやんちゃなのに速攻目ぇ付けられて。母親が『若い癖に中学生の子供がいるビッチ』みてぇにバカにされて、ムカついたから喧嘩して。相手ボコボコにしちまって、当然親呼ばれてさ。そんとき、『どんなことがあっても手を出すのは駄目だ。二度とやるな』って云われてひっぱたかれたんだ」

「お母さん、に‥?」

物腰柔らかな佇まいの真吏子が菱和をひっぱたくところなど想像したくても出来ず、ユイは目を丸くする
菱和は薄ら笑いを浮かべながら頷き、話を続けた

「‥そのあとすぐ、『理由も聞かずに叩いてごめん』って謝られたんだけどな。で、二人でラーメンと炒飯と餃子食って帰った。‥‥なんか、真剣に叱ってくれたのはあの人が初めてで、ちゃんと“母親”になろうとしてくれてたんだ‥って思ったら、ぶっ叩かれたのに嬉しくなって。だから、“自分からは”やんねぇって決めたんだ。‥‥‥まぁ、リサんときとかは例外だけど」

その“例外”は、菱和自身が定めたもの
自らの危険を顧みず、大切なものを護ってくれた“あのとき”の気持ちが蘇ってくると同時に、菱和を叱った真吏子の気持ち、それが嬉しかったという菱和の想いが、十二分にユイに伝わった

「‥お母さんとの約束、守ってるんだ。良いお母さんだね。そんな風に、叱ってくれるなんて」

「‥‥あの夫婦、子供が出来なかったみてぇでさ。諦めてもう何年も経った頃に“甥が大怪我した”って報せが入って、病院飛んできて‥‥‥あの人たちは“あんなこと”があるまで俺の存在を知らなかったんだ。それでもちゃんと息子として接してくれてんのはマジで有難てぇ話でさ。施設に行くよりよっぽどマシだった」

「旦那さん‥アズのお父さんは、そのとき、なんて?」

「『息子が出来た。嬉しい』って」

「‥‥‥‥、それだけ?」

「フツーはそう思うよな?幾ら妻の甥とはいえ、頭はポンコツ、思春期真っ只中のどヤンキー。‥なのに、引き取るのをちっとも躊躇わなかったんだと」

「‥‥お母さんも凄いけど、お父さんも凄いなぁ‥‥‥難しい話はよくわかんないけど、戸籍とか手続きとか色々あるんでしょ。アズの将来も決まってくるし‥‥なんか、よっぽど信頼してないと『うん』って云えなさそう」

「ほんとな。あの夫婦にゃ、そんくれぇ深い“何か”があんだろうな‥‥なかなかの“変人”同士、流石は結婚するだけのことはある」

「はは‥そんな風には思わないけど‥‥‥お父さんとお母さんに感謝だ。アズが施設に行ったりしてたら、俺ら出会ってなかったかもしんないんだもんね」

感慨深そうに云うユイを一瞥し、煙草の火を消した菱和はボソリと呟いた

「‥‥‥‥そんなん、お前の親父さんにも感謝だっつの」

「え、う───!」

ユイは肩を抱かれ、菱和と共に仰向けの状態で後ろへばふ、と倒れ込んだ

突如、真っ白な天井が現れる
横を見ると、ゆっくりと瞬きする菱和の顔
菱和の左腕はユイの首の下にあり、腕枕状態
ユイの左手は菱和の左手に自然と重なっており、ぎゅ、と包まれる
菱和は手を握ったまま、右腕で徐にユイの腰を抱き寄せ、溜め息を吐きながらその頬に愛おしそうに顔を摺り寄せた

「‥‥‥‥正月お前んち泊まって、少し二人っきりになったろ」

耳元で囁く嗄れた声に、早鐘が打ち付ける

「う、うん‥‥」

「そんなに時間経ってねぇのに、ここ帰ってきてすぐ、お前の顔見たくなった」

二人きりになった時のことを反芻すると、徐々に顔が熱くなってくる
あまり見られたくないと思うも、腰に回っていた手はするりと頬を撫でて来て、ユイはその顔を覗き込まれた

「‥‥ついさっきまで“こんな風に”腕の中に居たのにな、って」

心臓が、どく、と鳴る
甘く優しい視線が、ユイの瞳を捉えて離さない
やり場のない緊張を何処かへ吐き出したくなり、ユイは包まれている手をぎゅ、と握った

「‥‥‥そんなに‥好きでいてくれてる、の」

「“そんなに”どころの話じゃねぇよ」

「‥じゃあ、どれくらい‥‥?」

「‥‥お前が想像してるよりもずっと。‥‥ずぅっと独り占めしてたい」

そう云って、目を閉じた菱和はユイの髪を優しく梳いた

壊れ物か宝物のように酷く慈しみ、温もりを確かめる手付きや仕種
まるで自分の身体が大切なもののように思えてしまう
体温も匂いも鼓動も感じるこの距離が、この上なく幸せだ
だが、『ここまで愛でられている』という嬉しさと同時に、『こんなに愛でられて良いものか』とも思ってしまう

「‥‥俺もだよ、そんなの。‥叶うものなら、ずっとこうしてたい。‥‥でも時々、不安になるん、だ。ほんとに俺で良いのかなって‥‥‥アズが好きでいてくれてるのを信じてない訳じゃないし、アズのこと大好きだ、よ。ただ、俺に自信がないだけ、で‥‥」

素直に心境を吐露したユイの言葉に、菱和はゆっくりと瞳を開けた

「‥‥‥‥お前“で”良いんじゃねぇ。お前“が”良いんだ。‥‥幾ら自信が持てなくたって、それが“お前”だって云うんなら十分」

そう云って、ユイの額にキスを落とす

「‥‥これからも、そういうことはちゃんと云ってな。前にも云ったけど、言葉に出さねぇと伝わらねぇから。『こんなこと云ったら迷惑かも』とか思ったりすんなよ」

「ん‥‥」

「‥‥‥だってさ、“平等”なんだよな?」

「う、ん」

「なら、遠慮しちゃ駄目だ。そこはちゃんと、な」

「‥うん。アズも、ね」

「うん。‥‥‥‥もう、責任取れよ」

「‥‥、何の?」

「こんだけお前のこと好きになっちまった責任」

「そ、な‥どうやっ、て」

「自惚れろよ、もっと。“一人の人間をここまで惚れさせた”って思い上がれ。少しずつで良いから。‥‥それが自信になるから、きっと」

 

そんなのは烏滸がましい、畏れ多過ぎる
自分なんて取るに足らない存在だって、アズには相応しくないって、とんと自信の無さが沸き出る
揺るぎない思いを寄せてくれることがただただ嬉しくて、俺には勿体無いことのように思えてならない
でも俺だって、引くくらいアズのこと好きなんだよ
言葉じゃ云い表せないくらい、それこそ多分、アズが想像してる以上に大好きなんだよ
俺はアズみたいにはなれない
思い上がるなんて以ての外だと思うけど、そう思うことも“平等”じゃないんだね、きっと
『少しずつで良い』って、“こんなん”でも『好き』って云ってくれた
だから、今度からは、ちょっとだけ思い上がってみようか
アズのあったかい『好き』が、俺の糧になる───

 

「‥‥ほんとに少しずつだけど、待ってて」

「なんぼでも待つよ。でも、無理はすんなよ。‥‥‥‥‥な、“ちゅー”して良い?」

いつもなら同意を求めず“不意打ち”をかましてくる筈だが、今のは『自信がない』と云った自分への気遣いか
深過ぎる優しさに溺れそうになる、ひ弱な自分の心
今なら、溺れてしまっても良いか──────

 

ユイがほんの少し頷くと、菱和はその頬を引き寄せ、軽く唇を重ねた
顔が離れ、ぱちぱちと目を瞬くユイに反し、菱和はゆっくりと瞬きをしている
一抹見つめ合った後、二人はまた唇を重ねる
離れた瞬間に吐息が混ざり、深い息遣いがじわじわと脳を麻痺させていく
余裕のないユイを、菱和は悪戯に煽る

「───‥‥っ、‥‥‥‥」

ちゃんと出来ているだろうか───

 

ユイの不安を他所に、菱和は腕を抜いてふわりと上体を起こした

見上げたその表情は、“情欲”

菱和のこんな顔を見るのは、初めてだ
今一度、ユイの心臓がどくん、と鳴った
握ったままだった手に細く長い指先が絡まり、力が籠る
またもやり場のない感情をぶちまけるように、ユイがその手を握り返す
それが合図かのように、菱和は再び口付けを続けた
BlueJeansとJPSの香りが鼻を擽る
吐息が漏れる度に昂っていく
『どうなってしまうのだろう』『どうなっても良い』
脳内は相反する感情に支配され、他のことを考える隙など無い

菱和は甘美な目でユイを見下ろし、その唇をつ、と舐めた
ぬるりとした生温かい感触に、ユイは思わず肩を竦ませる
ユイの瞳を捕らえると、口角を上げた菱和はボソリと一言呟いた

 

「───‥‥甘い」

 

カタラーナの甘さか、それとも───

 

いずれにしても、今まで体感したことのない刺激にユイの全身は粟立つ感覚がした
独占欲に塗れた漆黒の瞳に吸い込まれそうになり、どんどん動悸が早くなる

余裕がないのは菱和もまた同じだった
無我夢中でユイを求め、食むように何度もキスを繰り返す

無骨な掌が頭を撫で、細く長い指がふわふわの髪の毛に絡み付く
その刺激にも堕ちそうになるユイは、しがみつくように菱和の服を掴んだ

 

やめて
やめないで
離して
離さないで
もう、どっちなの
わかんない
何もかもどうでも良くなるくらい
甘くて優しい“好き”が溢れる
ちょっとタバコ臭いアズのキスが、すごく好きだ

 

散々互いを堪能し唇を離すと、は、と息が漏れた
ユイは若干肩で息をし、眉間に皺を寄せ、切なげな顔で菱和を見上げた

───何だよ、“足らねぇ”のか?

一見困ったような表情だが、菱和には“まだ求めているような気がしないでもない”顔にしか思えなかった
しかし、“これ以上”は『自分も歯止めが利かなくなる』と予見する
名残惜しそうにふ、と笑み、覆い被さるようにユイを抱き締めた
ユイも、大きな肩に腕を回し、菱和を抱き締める

「‥‥‥びっくりした?」

「‥し、た」

「やっぱり?めっちゃバクバクいってる」

「だ、って、いきなり“ぺろ”ってしてくるんだもん‥!」

「だって、舐めたくなるくれぇ好きなんだもん」

ユイは顔を真っ赤にし、顔を歪ませて唇を尖らせた
耳まで暑くなったこの身体を、一体どうしてくれようというのか
そんな気持ちを知ってか知らずか、菱和はユイをからかうようにくすくす笑った

『自惚れろよ。思い上がれ』

そんなことが出来るようになるまでに、悠久の時を費やすことになるかもしれない
その時まで、待っていてくれるだろうか
いつまでも、好きでいてくれるだろうか
先のことを憂いても仕方のないこと
今、確実に胸の中にある想いは、たった一つ───

「‥‥アズ、好きだよ。大好き、だ」

「ん。‥大好き。ユイ」

二人はありったけの“好き”を伝え合うと、ベッドに寝転がったまま特に何を語るわけでもなく、二人きりの時を大いに慈しんだ

拍手[0回]

142 Gratin & Minestrone …'n' Crema Catalana

錆び付いた鉄製の門を開け放つと、ばかでかいガレージと美しく剪定された樹で埋め尽くされた庭が目に入る
上物は三階建てで、シンプルな外観だった
洒落たインターロッキングが玄関まで伸びており、靴の音が閑静な夕刻に響く

どこかの会社の重役である菱和の父が所有するものなだけあり、如何にも金持ちが住んでいそうな豪邸
このレベルの土地や建物は、自宅周辺には存在しない
ユイはそわそわ、キョロキョロしながら菱和の後ろを歩いた

 

「どうぞ」

素朴な木製のドアを開け、菱和はユイを促す

「お邪魔しま、す」

木製のドアの先は、4.5帖はあるだろうかという広さの、大理石の玄関
天井は吹き抜けになっており、きらびやかな電飾が下がっている
傍らには花が生けられており、壁にはプリザーブドフラワーのリースが掛かっている
その中央に括り付けられた小さなポプリから、フローラルの可愛らしい香りがした

腰から提げたウォレットチェーンを鳴らしながら、菱和は長い玄関ホールを颯爽と進み、リビングへ向かった
大豪邸に気後れするユイも慌てて靴を脱ぎ、菱和の後を追う

リビングに近付くにつれ、こんがりと焼いたチーズの香りがしてきた
ユイがリクエストしたグラタンが、目下完成といったところだろうか

「ふぁ‥良い匂い‥‥」

「な。‥‥ただいま」

振り向き、ふ、と笑むと、菱和はリビングへ続く焦げ茶色のドアを開けた

 

「‥あ、お帰り梓。今、ちょうど出来たとこ」

2、3冊ほどの雑誌を抱えた物腰柔らかな女性が穏やかに笑みながら、息子の帰りと来客を歓迎した

見た目の年齢は30代半ば
身長はユイと同じくらいだろうか、体型は細くすらりとしている
少し垂れ気味の目とつんとした高い鼻が薄いナチュラルメイクに映え、菱和の血縁者であるという雰囲気がそこはかとなく醸し出されていた
漆黒の艶髪は項の上で纏め、首には華奢なピンクゴールドのネックレス
ぱりっとした空色のスプライトのシャツ、その裾はゆるりと結ばれており、下にはネイビーのマキシロングワンピース
そして足元には、如何にも高級そうなふわふわとしたワインレッドのスリッパ

“淑やかで清楚な女性”
それが菱和の母、真吏子の第一印象だった

「“ユイ”。正月、泊まらしてくれた。俺の母親」

菱和はユイと真吏子を手短に紹介した

「───は、お、お邪魔しま‥初めましてっ‥‥アズ‥“菱和くん”と同じクラスの、石川です‥っ‥‥」

真吏子が纏う大人の女性の雰囲気に意識を取られていたユイは、慌てて頭を下げた
わざわざ愛称呼びを打ち消し他人行儀に挨拶をするユイに、菱和も真吏子も思わず噴き出した

「普段通りで良いっての。なに緊張してんの」

「ふふ。いらっしゃい。寒かったでしょ、どうぞ」

真吏子は柔らかく笑み、ユイを招き入れた

 

洗面所で二人並んで手を洗い、序でに嗽も
ちらりと横を見遣ると、ユーティリティーと硝子張りの浴室らしきものが目に入る
いずれも今まで見たことがない広さで、まるで何処かの高級ホテルのような造り

「───どしたの」

ゆったりと体当たりされ、ふと顔を上げると、鏡の中で首を傾げた菱和と目が合う

「ん、や‥別に‥‥‥てか、お母さん、美人だ、ね。結構似てて、びっくりした」

「まぁ‥血は繋がってるから、多少似てるとこもあんのかもしんねぇな」

「‥‥アズんち、でかいね。‥何もかも」

「‥‥‥‥‥、もしか、引いてる?」

「いや、そんなこと‥」

「ない?‥‥ぶっちゃけ俺、最初ドン引きしたよ」

「そ、なの‥?」

「ある日突然、『今日からここが君の家』とか云われてみ。フツーに引くから。‥‥なんも、ほんとフツーにしてな。居心地悪りぃなら、飯食ったらすぐ帰ろ」

「や、そゆわけじゃないけど‥‥」

 

「ねぇー、もうごはん食べるでしょー?」

リビングの方から、真吏子の声

「うん、食う」

菱和は真吏子に聞こえるように、少し大きめの声で返事をした

「飯食って腹一杯になったら、少しは気も紛れんじゃね」

「う‥ん‥‥‥‥」

その時、きゅうう、という、何とも切ない音が洗面所に響いた
その正体は、ユイの腹の虫だった

「あ」

緊張、気後れ、驚愕、圧倒───そんな心理状況であっても、腹の虫は鳴るようだ
まるで自分自身のように空気の読めない胃袋に、些か怒りを覚える
口を結んで見上げると、菱和は目を瞬いていた

「‥‥‥ふふっ」

「も、やだぁ‥!恥ずかし‥‥!」

「‥ははっ‥‥ほんと、腹減ったな」

菱和は歯を見せて笑い、赤面するユイの頭をくしゃくしゃと撫でた

時刻は間もなく19:30
腹の虫が鳴いてもおかしくはない時間だ
一足先に菱和が洗面所を出、ユイは鏡を覗きこみ、軽く頬を揉んでからその後を追った

 

「このパン、“eichel”の?」

「うん。‥あ!こら!」

「‥‥美味ぇ」

母の制止も聞かず、つまみ食いをする菱和
さく、かり、と、香ばしい音がする
悪戯にパンを囓り母に窘められている姿は、至極お茶目に見えた
やはり実家という場所故か、あれは“素”の姿なのだろうか───クールで大人びた印象の菱和が、何とも子供らしく感じた

「ユイくん、こっち来て座ってて」

「あ‥はい」

真吏子に促され、ユイはダイニングテーブルに向かう
パンを咥えたままの菱和が「ここに座るように」と椅子をちょいちょい、と指差した
着席すると、華やかにテーブルに並んだ品々に一瞬にして視覚と嗅覚が奪われる

「───わ‥」

ユイのリクエストのグラタンは程よく焦げ目が付いており、蕩けたチーズが空腹の胃をより刺激する
無論、ホワイトソースから手作りだ
スープは、以前菱和に作ってもらったことのあるミネストローネ
“eichel”のフランスパンは厚さ1㎝程にスライスされ、こんがりと香ばしいガーリックフランスに様変わり
サラダにはフルーツトマト、サニーレタス、ツナ、更にブロッコリースプラウトが散らされていた
見た目にも楽しい品々
味もさぞ格別だろうと、ユイは目をキラキラさせた

「───凄、い。美味しそ‥‥」

「ユイくん、苦手な食べ物は?」

「はい、無いです!」

「良かった。紅茶、飲める?」

「‥はい!」

真吏子はにこりと笑み、冷蔵庫から取り出したメイソンジャーにストローを挿してユイの前に置いた
中は琥珀色の液体で満たされており、レモンとオレンジの輪切りとミントが入っている

「‥‥‥、‥‥綺麗」

「ちょっと浸けとく時間足りなかったかも‥‥甘さ足りなかったら入れてね」

そう云って、蜂蜜が入ったハニーディスペンサーを傍らに置いた
このような形態の飲み物を初めて見るユイは、繁繁とドリンクを見つめた

「“メイソンジャー”ってんだってさ」

菱和は後ろからカトラリーを差し出すと、そのままユイの横に座った

「‥めいそん、じゃー?この、瓶みたいなの?」

「そ。飲み物の他に、サラダとか入れて食うんだって。層になって、見た目すげぇ綺麗なんだよ」

「へぇー、なんかお洒落!」

「でも、いっつもドレッシング入れて振っちゃうから結局ぐちゃまちになっちゃうのよね。‥‥‥じゃあ、食べましょっか?」

「ん。頂きます」

「っ頂きます!」

菱和は軽く手を合わせ、早速スープに口を付けた
ユイもぱん、と手を合わせて、スプーンを取る

心待にしていたグラタン
スプーンを入れると、表面にかかっているパン粉がざく、と鳴る
掬い上げると、チーズがとろりと伸びた
ペンネ、ほうれん草、パンツェッタ、そしてしめじが、とろみのあるホワイトソースに塗れている
濃厚な香りを放つ湯気に息を吹き掛けてから、ユイは口に含んだ
何度か咀嚼し飲み込んだところで、真吏子が尋ねる

「‥‥どうですか?」

「──────すんっっっごく美味しいです!ベーコンが、“じゅわ”って!ほうれん草が甘くて、きのこも美味しい!今、口の中めっちゃ幸せです!」

「そう、お口に合って良かった」

語彙力が欠落した単純な感想にも真吏子は喜悦と安堵を浮かべ、微笑んだ

グラタンを更にもう一口食むと、ユイはミネストローネの器に手を付けた
初めて菱和のアパートに一泊した日の朝に食べたものでもあり、実はグラタンと同等に興味を唆られていた
トマトの酸味が香る赤いスープには、キャベツ、セロリ、1㎝角のじゃがいも、輪切りにされたウインナ、フジッリが入っている
スプーンで掬い、口へと運ぶ

───あ、

野菜の甘味とウインナの脂分が溶け出した程好い酸味が、じわりと口内に広がった
余り物の食材で簡単に作れてしまうものではあるが、独特のコクと深みは手作りならでは

菱和のミネストローネと、どことなく似た風味も感じられた

 

『俺が云うのも何だけど、むっちゃ料理上手いよ』

菱和の言葉に、一切偽りはなかった
その絶妙な味は、例え飲食店で同じものを出されても『プロが作ったもの』と何の疑問も抱かないだろうと思えた

謙遜の必要性など皆無だというのに、自分の腕を“人並み”だと評価する菱和
真吏子の料理の腕前は、脈々と息子に受け継がれていると感じる

───アズは、こんな美味しいものを沢山食べて育ってきたんだ‥‥料理上手のお母さんって、良いなぁ

そう思い、満面の笑みで食事を頬張るユイ
その姿をゆったりと眺めていた菱和は、真吏子に云った

「なかなか良い食いっぷりっしょ」

「そうね。あなたの云ってた通り、『何でも美味しそうに食べる』。作った甲斐があったわ。ふふ‥‥」

ユイは怪訝な顔をし、菱和と真吏子を交互にちらちらと見遣った

「‥あ、ごめんなさい。笑ったりして‥‥梓が家に友達を連れてきたの初めてだから、何だか嬉しくて。バンドも一緒にやってるんでしょ?‥‥本当に、有難う」

そう云って、真吏子はありったけの謝恩を込め笑む
ユイははた、と食事の手を止め、嚥下した後自らの心境を吐露した

「‥‥‥俺の方こそ、仲良くしてくれて、嬉しいです。バンドもそうだけど、ゴハン作ってもらったり勉強見てもらったり‥‥今日も、一緒に出掛けてすごく楽しかったで、す」

少し照れ臭そうに言葉を口にする素直で純粋な心が、真吏子の胸に沁みた
穏やかに笑み、感慨に耽る

「そう。‥‥何だか嘘みたい。こんなに素敵なお友達が出来るなんて。‥ね、学校通ってて良かったでしょ?」

「ん‥‥まぁ」

菱和は首を傾げながら口を結び、軽く頭を掻いた

 

「今日は何処に行ってたの?」

「ずっとぶらぶらしてた。‥な」

「うん。雑貨屋さん行って、お昼にたこ焼き食べて、靴買って、喫茶店行って‥‥あ、楽器屋さんも行きました」

「silvit?」

「はい!」

「‥‥昨日、急に『来い』っつーから。軽く顔出すだけのつもりだったんだけど‥‥」

「だけど?」

「‥‥‥‥また無茶振りさせてきやがった」

「ふふふっ。相変わらずね、そういうとこは」

「母さんに『宜しく』って。何を宜しくすんだか知んねぇけど」

「そう。私もまたお店に顔出しに行こうかな」

「‥あ、そっか。お母さんと店長、同級生なんだっけ」

「そうそう。超奇妙な偶然」

「‥高校の時ね。結構仲良かったの。‥‥あのときからベース弾いてて、バンドもやってて。よく差し入れ持ってライヴ観に行ってたわ。まさか、プロになるなんて思わなかったけど」

「へぇー!店長、すげぇ‥!」

「すげぇのはベースだけだろ。頭は完全にイカれてやがる」

「‥そこは流石に私もフォロー出来ないわ」

我妻の庇護を放棄した真吏子の言葉に、ユイは堪らず噴き出した

 

***

 

談笑しつつ、手間と愛情が詰まった手料理に舌鼓
和やかな夕食の時が、終わりを迎える

「‥ご馳走様でした!」

「お粗末様でした。お腹一杯になった?」

「はい!大満足です!」

「それは良かった。‥‥二人とも。まだ入るなら、デザートにカタラーナ食べない?」

「食いてぇ。食う?」

「‥うん!食べたい、です!」

「今用意するから待ってて。ユイくんは、紅茶が良い?それともコーヒー?」

「あ‥じゃあ、紅茶で」

「俺やるよ。‥‥お前は座ってな」

菱和は席を立ち、飲み物を用意すべくキッチンに向かった
真吏子がカタラーナを準備する傍ら、菱和がポットの湯をマグに注いでいく

キッチンで肩を並べる母子、二人は家族
特段珍しい光景ではなさそうだが、ユイは何とも云えない不思議な気持ちになった

 

ふんだんな花の香りの紅茶と、深みと酸味のあるコーヒーの香りと共に、直径10㎝程のココットに入ったカタラーナが置かれた
予め冷蔵庫に移してあった器が汗をかき始めている

「‥ひょっとして、これも手作りですか?」

「うん。お口に合うと良いけど」

夕食はおろか、デザートまで手作り
その気遣いと優しさ、惜しまぬ手間に痛み入る

「‥頂きます!」

ユイは溢れんばかりの嬉しさに笑みを零し、手を合わせた
スプーン入れると、表面のカラメルがぱり、と音を立てる
口に含んだ途端、カスタードとバニラエッセンスの香りが鼻を抜けた
まだ少し凍っていたカタラーナが、カラメルのほろ苦さと共に口の中でゆるりと、円やかに溶けていく

「‥美味いっ!」

「美味ぇな」

「うん!サイコー!」

真吏子はコーヒーに口を付け、柔らかく微笑んだ

「甘いものも好きなのね」

「めっちゃ大好きです!」

「ほんと、何でも食うよな」

「ん‥‥そのわりに、背は伸びなかったよね‥おかしいな、何でかな‥‥」

「‥‥俺は今のサイズがちょうど良い」

 

『俺よりでかくなくて良かった。めちゃくちゃ抱き締め易いから』

 

「───んぐ‥っ‥‥」

菱和の言葉がどういった意味を含んでいたかは定かではないが、以前云われた言葉が脳裏を過り、ユイは軽く噎せた

「大丈夫?」

「‥はぃ‥‥すいませ‥」

一瞥すると、菱和は素知らぬ顔でコーヒーを啜っている
余裕綽々な態度に細やかな反抗心が芽生えたユイは、軽く息を整えてから真吏子に尋ねた

「‥あの。アズって、どんな子供でしたか?」

菱和の顔付きが、若干変わった

「なに聞いてんだよお前は」

「だって、気になるんだもん」

『さっきのお返し』と云わんばかりに、ユイは唇をつんと尖らした
二人の意図が何となく汲み取れた真吏子は、くすくす笑いながら話し出した

「そうねぇ‥‥‥‥ここに来たばかりのときは、私に隠れてまだ少し喧嘩してたわね」

「え‥そうなん、だ」

「我妻くんのとこ行くようになってからよね、ぱったりと止めたの」

「‥‥楽器弾くにゃ、手ぇ怪我してらんねぇから」

「ふー‥ん‥‥」

「あとは、うーん‥‥‥ほぼ勉強とベースしかしてなかったよね」

「‥‥‥そう?」

「そうよ。呼んでもなかなか部屋から出てこないの。ひどい時だと食事も摂らないで、一晩中没頭してたっけ」

「‥‥全然覚えてねぇ」

「‥嘘ばっかり!もしかして『栄養失調で倒れてるんじゃないか』って心配したんだからね。そういうの何ていうか知ってる?“親の心子知らず”って云うのよ」

「‥知らなくてさーせん」

菱和といえど、母には頭が上がらない様子
真吏子と共にくすくす笑い出すユイを、菱和は横目でじとりと見つめた

『家族が呼んでもなかなか部屋から出てこない』
『時には食事も摂らず、一晩中没頭する』

───俺も、そんな感じだったな。‥‥てか、今でもそうか

ユイにも身に覚えがある
父や兄の呼び掛けなど一切耳に入らず、只管ギターを掻き鳴らしていた
自分にもそんな時期があり、菱和も同じだったのだと感慨に耽る

「‥ね、アズの部屋見てみたい!」

「俺の部屋?‥‥何も置いてねぇよ」

「良いよそれでも!アズが育った部屋、見たい!」

「‥‥そ。じゃあ、これ飲んだら行くか」

「うん!」

「ふふ。ゆっくりしてってね」

「有難うございます!ご馳走様でした!」

名残惜しそうにカタラーナを完食し、それぞれ紅茶とコーヒーを飲み干すと、二人は夕食の時に出されたメイソンジャーを携え、菱和の部屋がある2階へと上がって行った

拍手[0回]