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ガレキ

BL・ML小説と漫画を載せているブログです.18歳未満、及びBLに免疫のない方、嫌悪感を抱いている方、意味がわからない方は閲覧をご遠慮くださいますようお願い致します.初めての方及びお品書きは[EXTRA]をご覧ください.

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  • 05/17/16:18

116 おやすみ

その夜、悪夢は見なかった

アズが抱き締めてくれて

頭を撫でてくれて

気付いたら眠ってて

ただただ深い眠りに就いていた

何時だったかはわからないけど

ふと目が覚めたら

横に居るアズが眠ってて

あったかくて

気持ち良くて

心がくすぐったくなった

長い前髪が邪魔じゃないかと思ってそっと除けたら

普段はあんまりよく見えないアズの目が見えて

睫毛が長くて切れ長の目が閉じられてるのが暗闇でもわかって

アズの寝顔を見たら安心して

ちょっとだけ、笑った

アズが少し唸って

思わず寝た振りをしたら

アズが顔を寄せて

俺の額にキスした

大きな手で何度か俺の頭を撫でてから

溜め息を吐いて

そのままアズはまた寝ちゃったけど

俺は寝た振りを続けてた

静かで

ただ静かで

アズの心臓の音が聴こえるくらい静かで

アズが大怪我をして昏睡状態から目覚めたときに

『“死んでなかったのか”って思った』って言葉が蘇ってきて

今度は心がぎゅ、ってなった

アズの胸に手を当てたら

心臓が動いてるのが伝わってきて

今アズが隣にいてくれることが

生きていることが

嬉しくて

嬉し過ぎて

思わずアズに抱き付いた

アズの胸に顔を埋めたら

アズが俺を抱き寄せてきた

ちょっとびっくりして顔を上げたら

アズがふわ、って身体を起こして

俺の頭を撫でて

キスしてくれた

俺は照れて瞬きを沢山したけど

アズは少しだけ笑って

頭を枕に戻してから

布団ごと俺を抱き締めた

アズに抱き付いたら

アズは子供をあやすみたいに

ずっと俺の背中を叩いてくれた

アズの大きい手が

優しくて

すごく落ち着いて

またアズの心臓の音が聴こえるくらい自分の心臓が治まった頃

俺は意識を手離してた

布団から

枕から

勿論アズからも

アズの匂いがする

眠りに就く瞬間まで

五感の全てがアズを捉えてて

アズを独り占めしてることが

贅沢のようで

でも嬉しくて

この時が永遠に続けば良いのにって思った

 

“アズとずっと一緒に居られますように”って、

祈った

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115 「För att lära känna varandra , låt oss prata en hel del」④

「うー‥ん‥‥楽しかったぁ」

「さて、どうすっか‥‥もう寝る?」

「んー‥‥、多分寝れる気しない」

「じゃ、取り敢えず布団入ってごろごろしてるか。そのうち眠くなるべ」

「‥うん」

 

***

 

「そういや、お前はガキの頃何してた?」

「俺?んー‥‥、放課後ガッコでよく鬼ごっこしてた。神社とかお寺で肝試しもやったなぁ。夏は海行って川行ってみんなでお祭り行って、帰りにもえぎの住宅街行って夜景見たり。冬はかまくら作って公園でソリ遊びしたり“しばれ焼き”食いに行ったり。ライヴ終わりにテンション上がりまくって、楽器持ったまま海まで朝焼け見に行ったこともある」

「十分楽しそうじゃん、お前も」

「うん、フツーに楽しかった。‥‥海行ったときさ、俺が兄ちゃんと2ケツして拓真とあっちゃんが2ケツして激チャリしてさ。途中で俺も拓真も漕ぐの交代したんだけど、着いた頃にはあっちゃん酸欠っぽくなってて。いちばん不摂生だからさーあっちゃんて。いっつも最初にヘバるんだ」

「ふふ‥なんか、想像つくわ」

「でしょ、ふふふ。あとは、バンドばっかりだなぁ‥‥毎日自宅か誰かんちでギター弾いて、常に“合宿”状態」

「‥‥合宿?」

「あ、そだ。あんね、俺ら毎年春休みに合宿やってんだ。もう4年くらいなるかな‥‥あっちゃんの親戚のおじさんが別荘持ってて、地下に防音室あんの。2泊3日くらいでバンドの強化合宿に使わしてもらってんだ。食料持ち込んで飯作って、食後にあっちゃんがノンアルのカクテル作ってくれたりして。良いだけ食べて演ったら、みんなで雑魚寝!」

「へぇ‥‥めっちゃ楽しそう」

「もう、超ー楽しいから!今年からはさ、アズも一緒!」

「早く行きてぇな、それ」

「ほんと、待ち遠しい!‥‥‥あ。アズがベース始めたのって、店長が勧めたからって聴いたんだけど」

「ああ、うん。この街来たばっかんときに、時間潰すのにsilvit入ったんだけど最初楽器屋だってわかんなくて」

「あー、俺も最初はアクセか雑貨屋さんかなぁと思った。木目調でお洒落だもんね」

「うん。‥‥入ったら入ったであいつも初対面なのに馴れ馴れしく話し掛けてきやがって。で、よくよく話聞いたらあいつと俺の母親、高校んときの同級生でさ」

「へぇー‥‥世間て狭いねぇ‥‥‥」

「ほんとな。‥そんなんもあって、ちょいちょいsilvitに出入りするようになって。俺には『ギターよりベースの方が似合ってそう』って云われて、少しずつあいつに教わって‥‥」

「店長から直々にベース教わるなんて、かなり贅沢だね」

「そうでもねぇよ。あいつ、結構テキトーだし。‥‥3年くらい前かな、人前で無理矢理演らされたりした」

「何、それ?」

「あいつが久々に『ステージ出る』っつーから、どんなもんか観に行ってやろうと思ってさ。いざ蓋開けてみたら当日俺に『弾け』っつってベース押し付けてきやがって」

「ふふっ、超~無茶振りだね!」

「マジでな。それまで人前で演ったことなんかなかったし、他のメンバーともその日初めて会ったってのにいきなり『合わせろ』って‥‥俺がコミュ障だって知っててそんなことやらせるとか、完全に頭イカれてやがる」

「でも、ちゃんと演ったんだね。‥‥そのときはさ、楽しかった?」

「‥わけわかんなかったしアガってたし、正直よく覚えてねぇ」

「そっかぁ‥‥アズでもアガるんだね」

「そりゃな。‥‥‥‥お前は、いっつも楽しそうだよな」

「うん。楽しい、ね。やっぱり」

「良いこっちゃ」

「‥‥ギター弾いてるとさ、ほんとにやなこと忘れられるんだ。気付いたら色んなの弾けるようになってて、もぉ毎日弾きまくってた」

「‥‥お前には、ギターが合ってたんだな。きっと」

「‥‥アズも似合ってるよ、ベース。店長の目に狂いはないね」

「‥‥‥‥そ?」

「うん。‥アズがベース弾けるって知ったとき、“背が高くて寡黙”ってイメージだったから余計そう思った」

「‥‥ふぅん」

「‥‥‥silvitでセッションしたの、覚えてる?」

「‥ああ」

「あんときね、ほんとにヤバかった。『もしこの音がバンドにあったら』って想像したら、ゾクゾクしてワクワクした。びっくりするくらい音ハマって、気持ち良過ぎて最高だった」

「‥‥俺も楽しかった。‥人と音合わせんのがあんな気持ち良いって、初めて知ったわ。‥‥なんか、変になってた」

「変にもなるよね」

「なるなる」

「ふふ‥‥アズがベーシストで、ほんと良かった」

「‥‥‥‥、もしベース弾いてなかったら、今頃もっとやさぐれてた。‥‥下手したら、もうこの世に居なかったかもしんねぇ」

「‥‥え‥」

「‥‥‥大袈裟かと思うだろうけど、この街来て我妻に会ってベース教わって、お前に会ってバンドやって‥‥‥‥『生きてて良かった』って、心の底から感じた。‥‥それまでは、そんな風に思ったことなくて‥や、ダチといるときは楽しかったけど、それ以外の時間‥‥独りでいるとき、ふとした瞬間に“堕ちる”っつーか‥‥‥生きてんのか死んでんのかもわかんなくなって、そんなことすらどーでも良くなって」

「‥‥‥堕ち、る‥‥?」

「‥‥‥‥‥俺な、刺されたとき結構出血酷くて、一週間くらい昏睡状態だったらしんだ。‥‥目が覚めて真っ先に、『何だ、死んでなかったのか』って思った。下らねぇ人生ならいっそ終わっちまえば良かったのに、って。‥‥下らなくすんのも楽しくすんのも自分次第なのにな。今考えたら、相当頭バグってた」

「‥‥‥‥、‥‥」

「‥‥今はそんなこと考えてねぇよ。‥ちゃんと、『生きてたい』って思う。大事なもんがいっぱい出来たし、お前もいるし」

「‥‥‥、‥‥ね‥‥」

「‥ん?」

「‥‥‥‥死んじゃ、やだ。何処にも、行かない、で。‥‥‥も、独りじゃない、から。俺じゃあんま頼りになんないかもしんないけど‥ちゃんと傍にいる、から」

「‥‥うん。何処にも行かねぇ。約束する」

「ん‥‥。‥あ。あと、無闇矢鱈と喧嘩とかしないで欲し、い」

「‥は?」

「‥‥俺らの為に喧嘩したり怒ってくれたのはすっげぇ嬉しいけど、‥もっと自分の身体大事にして欲しい」

「‥‥‥努力します。‥‥でも、この街来てマジな喧嘩したのって2回くらいしかねぇよ。リサんときと、そのあと一回。あとは多分、してねぇ」

「へ‥‥じゃ、初めて話し掛けたときのバンソコは?カナも、一年のときから顔中バンソコだらけだった、って‥」

「ああ‥なんか、絡まれること多くてな。“そういうオーラ”出てたんかも‥‥でも、手は出してねぇ」

「そうだったんだぁ‥‥でも、何で?それまでは普通に喧嘩してたんでしょ?なんか理由あるの?‥ま、しないで済むのがいちばんだけど」

「‥‥‥ダチと離れて喧嘩する理由もなくなったし、何より楽器始めたから。‥‥喧嘩なんかより、ずっと楽しいしな」

「楽器弾くのって、楽しいよね!」

「ん。楽しい」

「‥じゃ、尚更この手は大事にして。‥‥もし万が一また喧嘩することがあって、それが誰かの為だったとしても、アズには怪我して欲しくない」

「‥‥‥ほんとにやむを得ねぇときはやっちまうかもしんねぇけど、多目に見てくれる?」

「んん‥‥‥あんまそれもやだ。“うちのバンドのベーシスト”の前に、‥‥アズは‥大事な人、だから」

「‥‥‥‥、そっか‥‥そしたら、万が一のときでも誰も怪我しないで済む方法、一緒に考えて」

「そ、だね。うん‥みんなで、考えよ」

「‥‥‥‥俺もお前がいちばん大事」

「ん‥‥‥ありがと」

「‥‥こちらこそ。大事に想ってくれて、有難う」

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114 「Only yesterday you lied‥‥」

「そだ。これ知ってる?」

事の序でと思い、菱和は棚から一枚のアルバム取り出し、ユイに手渡した
金太郎のような服を着た、子連れ狼の大五郎のような髪型の幼児が、麒麟のような生き物に跨がっているジャケット
ユイが初めて目にするものだった

「“Stone Temple Pirots”‥‥知らない。洋楽?」

「うん。我妻が教えてくれたバンド。‥‥お前なら、気に入るかも」

そう云ってCDをセットし、再生する

酷く嗄れたヴォーカル、余計な飾りを施していないギター、リズミカルなベースと、特に強く聴こえるハイハットとタム
曲調はあっさりしていて円やか、且つ軽快で爽快
ユイにとっては深く炒った茶葉のような、渋く強く芳ばしい味がする曲だった
初めて耳にしたにも関わらず、モノクロの映画を観ているような懐かしい雰囲気がし、ユイは幾度も繰り返されるリフを自然とハミングする
曲が終わると、ユイはまた鳥肌が立っており、腕を軽く擦った

「どぉ、好き系じゃない?」

「うん。こういう古臭いハードロックめちゃめちゃ好き。バンドでも演りたいなぁ。‥‥‥これももっと早く知ってたかった。‥‥何て曲?」

「“Interstate Love Song”。このバンドの中でいちばん売れた曲で、俺もこの曲がいちばん好きで。ベースも、ギターも覚えた」

「ギターも?」

「コードだけな。そんな難しくなかった筈」

「‥ギター借りても良い?」

ユイは菱和の返事を聞く前にギターに手を伸ばした
逸る気持ちを抑えられず、今すぐにでも自分のものにしてしまいたかった

ベーシストである菱和の自宅には、菱和が楽器の自然な音を好む故にエフェクターの類いが一切存在しない
だが、今聴いた曲はそこまで歪ませる必要がなく、ユイにとっては逆に好都合だった
シールドを繋ぎ、アンプのゲインを最小にしよりクリーンな音にして、ユイはCDの音に合わせてリフを奏で始めた

さほど難しい曲ではないのだが、一度耳にしただけの曲をユイはほぼ完璧に弾きこなした
コード進行も大体合っており、菱和はユイの耳に感心する他なかった
上機嫌で弾き終えたユイは軽く息を吐き、菱和を見た

「こんな感じかな。どぉ?」

「‥‥お前、すげぇな」

「んふふ。昔から耳は良い方なんだー、耳コピで鍛えたからね。‥‥ね、少し練習するから、歌って?」

予想外の注文に、菱和は眉を顰めた

「‥‥‥‥俺が歌うのかよ」

「だって、歌詞わかんないもん。英語だし何喋ってるかわかんない。歌詞、わかってんでしょ?」

「まぁ、一応‥‥」

「じゃ、やっぱ歌ってよ。‥何回か弾いてみるから、待ってて」

歌うのを嫌がる様子の菱和を尻目に、ユイはデッキを再生して曲の進行を頭に馴染ませるように三回ほど続けて演奏した
菱和はユイがギターを弾く姿をじっと見つめ、今まで培われてきた耳とギターの腕にただただ感心する

三回も弾けば大体は覚えられたようで、ユイは納得したように頷いた

「‥‥うん。も、良いよ。じゃ、合わせよ!」

CDの再生を止めてぱっと顔を上げると、菱和がじとっとユイを見つめていた

バンドでコーラスこそやっているものの、菱和は基本的に歌うことが好きではない
どちらかというと低く声量もない菱和は、自ら進んで歌うという選択肢を端から持ち合わせていない
ユイから視線を逸らし、ポツリと呟く

「‥‥ベースなら、喜んで弾くんだけどな」

「今日はお休み!手も怪我してるんだし‥‥それにこの曲、意外とベース動いてるじゃん。傷開いて治り遅くなってもやだしさ。ね、歌って!」

途端、菱和の手の甲がちくんと痛んだ
意識し始めると、じわじわと血液が滲み出てくるような感覚がし始める
菱和は今更になって、保健室の窓ガラスをぶち割ったことを少し後悔した

「‥‥‥‥」

「あーず、おーねーがーい!」

「‥‥わかった」

にこにこ笑って懇願するユイに根負けして溜め息を吐き、菱和は渋々歌うことにした

 

ユイは笑みながらイントロ部分を弾いた
一音一音を確実に弾き、きゅ、と指板を滑る心地良い音がユイを陶酔させていく
リフを弾き、Aメロに入るところで、ユイはちらりと菱和を見た

───ちゃんと歌うっつの

菱和は何となくユイの思惑がわかり、す、と息を吸った

 

ある日曜の午後、察したものを待ち受ける
それはお前の“嘘”
錆びた恥辱をこの手に浴びた気分だ
哀しむ者を嘲笑うのか、なぁ答えろよ

俺が云った全てがお前にとって何の意味も成さなくなった今、息をするのも辛い
お前は嘘を吐いた

‥‥“さようなら”

南の列車に乗って去って行った
お前が嘘をついたのはつい昨日の話
『こうなる筈だった』という約束は果たされず、徒に時が過ぎただけだった
こんな事を全部、お前は俺に云ったんだ───

 

ギターのリズムに合わせ、2人の身体が揺れる
ちょっとしたサービスのつもりで、菱和はリフのメロディーを歌った
その声と、ユイのギターが重なる
ユイは主旋律を滅多に歌わない菱和が“歌っている”と思うと忽ち嬉しくなり、にこりと笑った
リフを迎える度に二人は顔を見合わせ、最後のリフのあとに即興で軽く速弾きをしたユイのギターで演奏は終わった

 

ユイは和訳を知らないので普通のラブソングだと思っていたが、軽快な曲調とは裏腹に歌詞は切ないもの
それは後々語るとして、菱和はユイに感想を求めた

「‥‥‥‥どっすか」

「めっちゃ気持ち良かった!!」

「‥‥そ。よござんしたね」

「こんなバンドあるなんて知らなかった。教えてくれてありがとね!」

「いえいえ」

「‥‥‥‥でもね、もいっこ感謝しなきゃなんないことある」

「‥‥何」

「アズを“コーラスだけにしとくのは勿体無い”ってことがわかったから!今度、アズがメインで歌えるような曲あっちゃんに頼もっかな。それか、俺が作る!」

「‥‥‥‥、冗談だろ」

「んーん!超真面目だよ!キーは低い方が良いよねー、アズ声低めだもんねー‥‥」

「んなもん誰が聴きたいんだよ‥‥」

「‥、いちばんは、俺かな。アズの声、もっと聴きたい!」

ユイは菱和の嗄れた歌声が堪く気に入ったようだった
主旋律の他にがなったり叫んだりといったシャウトを担当するアタルや、同じく主旋律を歌ったり高音域でハモる自分とはまた違った魅力を感じ、原曲のヴォーカリストが嗄れた声だったこともあるのか妙に“クセになる味”がした
にこにこするユイを余所に、菱和はげんなりとする

「‥‥勘弁してくれ」

菱和はユイが本気で自分用の曲を作ってしまう気がし、苦笑いをして前髪を掻き上げた

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113 “RIOT”

ユイは茹でダコになる前にと湯槽から上がり、菱和の洗髪をすることにした
下半身が見えるか見えないかのギリギリまで上がったところで、ユイは菱和の視線に気付いた

「‥‥見ないでよ。恥ずかしいから」

「‥“そこ”は見てねぇよ」

「も、良いから下向いててってば‥!」

「はいはい。終わるまでずっと目ぇ瞑ってます」

菱和は湯に浸かったまま肩から上を湯槽から出して凭れ掛かり、頭を下に垂らした

ユイはそわそわしつつ股をタオルで隠して椅子に座り、シャワーで菱和の髪を濡らしていった

「‥メッシュの色、だんだん落ちてきたね」

「あー‥‥‥‥。‥‥いい加減もう染めねぇと」

「これ、自分でやったの?」

「うん」

「へぇ‥‥すげぇ」

「簡単だよ、こんなの」

「そうなの?‥‥‥‥アズの髪って、真っ黒だね」

「だろ。なんか重くてつまんねぇからメッシュ入れたんだけど」

「真っ黒だから却って映えるよね。次は何色にする?」

「‥また同じ色で良いかな」

「ちょっと奇抜な色にしてよ、ピンクとか!」

「‥‥似合うと思ってんの?」

「思ってる!絶対似合う!」

「あっそ‥‥」

菱和は呆れたように生返事をしたが、ユイは楽しそうに洗髪を進めた

宣言通り、菱和はユイが洗髪を終えて湯槽に浸かるまで目を瞑ったままでいた

 

***

 

先に着替えを済ませた菱和は濡れた髪を軽くタオルで拭いてから一本に纏め、煙草を喫い始めた
項に垂れる水滴が、いつもの気だるい様子と相まって妖艶な雰囲気を醸し出す
髪を纏めている菱和を見るのは初めてのこと
いつもと違う印象に、ユイは若干照れたようにした

菱和は煙草を喫い終えると冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎ、一口飲んでからユイに差し出した

「飲む?」

「ありがと。‥‥あ。ねぇ、さっきCD聴いてて、ジャケットがないの見つけたんだけど。結構古いやつ」

「?‥‥何だ、どれだろ」

ユイは足早に楽器が置いてある部屋へ向かい、件のものを取って戻ってきた

「これ」

「ああ‥‥それ、我妻のバンド」

「店長‥の?」

「あいつのプロ時代の」

「え!店長ってプロだったの!!?」

「‥‥知らなかったんだ」

「初めて聞いた!」

「もう解散して暫く経つけど、結構人気あったっぽい。これはデモだから、一応“レア”物だって自慢してた。‥聴いてみる?」

「うん!聴きたい!」

二人は楽器部屋に行き、我妻がバンドをやっていた時代の曲を聴くことにした
ケースを開けると、“RIOT demo”という字と共に曲名が走り書きされているCDRが入っていた

「‥りお、っと‥‥?バンドの、名前?」

「“らいおっと”。“暴動”って意味。でも、“バカ騒ぎ”って意味もあんだって。我妻は、そっちの方が気に入ってこの名前にしたって」

菱和がデッキにCDをセットし、ユイは再生されるのをわくわくしながら待つ

 

全てのパートが一斉に音を出す
出だしから歌が始まるとは思っていなかったユイはのっけから肩を竦めて驚き、音が耳に届くと同時に背筋に悪寒が走り、口内にぶわ、と味が広がった

頭に、耳に、口に
音を感じ取る器官の全てが、我妻のバンドの曲にあっという間に引き込まれる

お洒落で繊細な印象のギター
ツボを押さえつつ滑らかに動くベース
軽やかに全体を纏めるドラム
そして、生き生きと、朗に、全てを解放し歌うヴォーカル

一曲目は、爽やかなアップテンポの曲だった
楽器隊の他に、間奏部分にピアノと裏声のコーラス
軽くエコーの掛かる、奏者の感情を最大限に表現したギターソロ

風が吹き抜けて花びらが舞う花畑の情景が思い浮かぶと共に、フルーツ味のドロップのような甘く賑やかな味覚が口一杯に溢れる

 

ユイの口の中は条件反射で分泌された唾液がじわじわと出ていた
間延びしたギターの音が途切れると溜まった唾液を飲み込み、軽く唇を拭い、気が抜けたように感想を漏らす

「‥‥‥‥すげぇ‥‥鳥肌立っちゃった」

「良いよな。やりたいこと自由にやってる感じで」

「うん、どのパートもカッコイイ!もっと早くに知ってたかったなぁ‥‥‥‥勿体無いな、何で解散しちゃったんだろ‥‥」

菱和は一旦CDの再生を止め、低い声で呟いた

「‥‥メンバーの誰かが、亡くなったらしい。確か、ヴォーカルだったかな」

「え‥」

「『このヴォーカルが居ないバンドは有り得ない』って、メンバー全員一致で解散決めたんだってさ。でも、ギターの人もドラムの人も音楽関係の仕事してるって。我妻もそうだけど」

「そうなん、だ‥‥」

 

その声は終始明るく爽やかだったが、時折切なく、甘く、妖艶な雰囲気もあった
その全てが、鮮明に耳に焼き付いて離れない
今までユイが聴いてきた数々のバンドの中でもトップクラスと讃えたくなる程のそのヴォーカルに、“天才”と云っても過言ではない才能を感じた

若くしてヴォーカルが亡くなり、惜しまれつつもバンドは解散
人生の全てを音楽に捧げるつもりでいたバンドマンにとっては、苦渋の選択だったに違いない

拓真も、アタルも、そして菱和も、Hazeになくてはならない存在であり、バンドメンバーである以前に幼馴染みで、更に菱和とは恋仲だ
もし、自分が我妻と状況になったら───そんなことは考えられないし、想像したくもなかった

───ほんと、リアルタイムで聴いてたかったな‥‥

 

『あんたたちの音は、永遠に俺のもんだ』

我妻たちが奏でていた音は一生涯、亡くなったヴォーカルだけのものになった
ヴォーカリストとしてもバンドとしても、なんとも贅沢で残酷な現実
いつも笑顔で迎えてくれる楽器屋の店主、我妻
その笑顔の裏の哀しい過去を知り、ユイは少し胸が苦しくなった

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112 裸の付き合い

夕餉を終えた二人は、キッチンに並んで食器を片付けた
片付けが済むと菱和は煙草を一本喫い、序でにユーティリティにある給湯器のスイッチを点け、風呂を沸かす準備をした
程なくして風呂が沸いたことを報せる音が鳴り、菱和はユイを促す

「沸いたから、先入ってきな」

「え‥一緒じゃなくて、良いの?」

昨日から『一緒に入る』と云われていただけに、ユイはきょとんとした

「お前こそ、一緒で良いのかよ」

「‥‥、‥‥‥‥」

ユイは目を瞬かせ、少し顔を赤らめた
ちらりと菱和を見上げ、もじもじしながらポツリと呟く

「‥‥その手じゃ、不便でしょ。髪、洗ったげる」

傷だらけの菱和の手には絆創膏
不可能なわけではないだろうが、洗髪などをするには幾分か不自由だろうとユイは思っていた
『大した恩返しにはならないかもしれないが、自分にも菱和に出来ることをしたい』と、ずっと考えていた折の提案
菱和はユイの申し出を、快く受け入れた

「‥‥ん。じゃあ頼むわ」

 

二人は揃って脱衣所に向かう
菱和はさっと衣服を脱いだ
ユイも衣服はすぐに脱いだが、下は思いきって脱ぐことが出来ない
ふと顔を上げると、菱和の身体がある
ちらりと見えた下着
そこから覗く骨盤
しなやかな腕
筋肉質な肩や背中───妙に性的な魅力が漂う
同性であっても思わず目を見張るようなその魅力に、早鐘が鳴り止まない

───なんか恥ずかしいな‥‥俺、全体的にちんちくりんだし。アズが入ってから脱ごうかな‥あーもう俺諦め悪いなぁ。‥‥よし

覚悟を決めてユイがズボンに手を掛けたところで、菱和の背中に痣のようなものが幾つもあるのが目に飛び込んできた

───喧嘩で出来た傷、かな

大きな背中をじっと見ていると、菱和が振り返った

「‥‥ん?」

「‥んーん!何でもない!」

「‥‥‥‥ああ、背中?」

「‥‥喧嘩の、傷?」

「当たり。レンチかなんかでぶん殴られたときのかな」

「ぅえ、レンチって‥‥骨折れたりしなかった?」

「幸い、打ち身で済みました。‥ムカついたから速攻で伸してやった」

「相手が武器使ってても勝っちゃうんだ‥‥」

「凶器使わなきゃ喧嘩出来ねぇような奴にゃ、今でも負ける気しねぇわ」

硬派な菱和らしいポリシーだとユイは感心したが、菱和が徐に下着を下ろそうとし、途端にドキリとする

「‥‥‥‥なに、見たいの?‥‥やらしいな」

「っ違うよ!」

「‥‥そ」

からかうようにくすくす笑う菱和
ユイは、自棄糞になりながら漸く下着を脱いだ

 

***

 

浴槽に張られた湯は、白く濁っていた
ふんわりと、湯気から良い香りもする

「真っ白‥‥入浴剤?」

「ん。こんだけ濁ってりゃ、下半身も見えねぇだろ」

一人暮らし用のアパートの浴槽の広さなど、高が知れている
互いに配慮しようものの、どうしても肩が触れるほど密着してしまう
それでも、二人は何とか浴槽に浸かった
今まで、こうして密着することは何度もあった
ただ、衣服を纏っていた時とはまるで状況が違う
すぐ横にある菱和の生身の身体に、意識を散らそうとしてもどぎまぎしてしまう
ユイは、膝を抱えて小さく縮こまった

菱和は絆創膏が貼ってある手を浴槽の縁からだらりと垂らし、溜め息を吐いた

「熱くねぇ?」

「‥‥ちょうど良い」

「‥そ。‥‥‥‥で、なに緊張してんの」

菱和は垂らしていた腕をユイの肩に回し、自分の方に引き寄せた
二人の身体が、より密着する

「や‥‥な、‥」

「さっきからめっちゃ強ばってんのまるわかり」

「何でもない、よ‥」

「ほんとかよ」

菱和は顔を逸らすユイの肩に顎を乗せた
汗が吹き出す感覚がし、益々ユイの緊張が高まる

「も、何でもないってば‥!」

「云いたいことあるなら云えよ」

身体も、顔も、超至近距離
ユイは半ば自棄になり、声を張り上げた

「あ、アズが悪いんじゃんっ!そんな身体してるからっ!!」

「‥‥‥‥は?」

「っなんか、え、エロいんだよ、アズの、身体‥!」

ユイは顔を真っ赤にしてそう云った
菱和は思わぬ言葉にきょとんとする

「‥‥‥‥そう、か‥‥?」

「もおぉ‥‥ごめ‥俺、何云ってんだろ‥‥恥ずかし‥‥‥!」

ユイは恥ずかしさのあまり、手で顔を覆った
より身体を強ばらせ、萎縮する

何とか気持ちを鎮静化させようとしていた矢先、菱和は後ろからユイの身体を捕らえた
突然の行動にユイは慌てたが、湯の中でがっちりと、しかも後ろから抱かれた身体は自由が利かない

「っわ‥や、アズ‥‥」

「‥‥お前、人の身体に欲情してたんかよ」

耳元でボソリと図星を突かれ、身動きは取れず
背中には、菱和の身体がぴったりとくっ付いている
ユイの脳内はすっかり修羅場と化していた

「や、ちが‥‥‥くはないけどっ‥‥!‥なんか、ドキドキする‥‥」

「‥‥ふーん‥‥‥‥。‥‥、嬉しい。‥‥こんなんでも、そういう風に思ってくれてんなら」

消えない醜い傷が、幾つもある
その身体を、ユイは“意識する”と云う
菱和にとっては、喜ばしいことだった

「“こんな”って‥‥‥‥俺、すげぇ羨ましい、よ」

「‥‥どこが?」

「どこがって‥‥全体的に恵まれてるじゃん。背ぇ高いし、足も指も長くて。細いのに筋肉ついてるし‥俺はこれ以上大きくなれないし、筋肉もあんまないから羨ましい」

“ちんちくりん”な自分と恵体の菱和とでは、バランスが悪く不釣り合いだろうとユイは常々思っていた
それでも、菱和が弱い自分を受け入れてくれているように、ユイも菱和を丸ごと受け入れたいという気持ちでいる
傷だらけなことなど、関係なかった

“エロい”はさておき、“羨ましい”と思われているとは想像もしていなかったこと
その長身でガタイの良い見た目でだいぶ損をしてきた菱和にとって、これもまた嬉しい一言だった

「‥‥ふぅん」

ユイの素直な気持ちに、菱和は軽く笑む

 

「でもやっぱ、アズだから、なのかも‥‥‥‥」

ユイは小声でそう云い、鼻の辺りまで湯に浸かった
言葉の後半はぶくぶくと湯槽に消えていったが、菱和はそれを聞き逃さなかった

「‥‥今のもっかい云って」

「や、やだよ!恥ずかし過ぎる!‥一刻も早く忘れて!」

「云うまで離さねぇ」

「やぁだ!逆上せる!」

初めての“裸の付き合い”は、初めてにしては随分と長湯になりそうな予感がした

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113 「För att lära känna varandra , låt oss prata en hel del」③

「晩飯、適当で良い?」

「うん、何でも良いよ。宜しくお願いします」

ユイの食欲は、元通りになりつつある
正直なところ、菱和もユイ自身も食事は満足にとれないかと危惧していたが、どうやら杞憂に終わりそうだった
なるべく胃に優しく食べやすいものが良いかと思慮し、菱和は和食を作ることにした
菱和が調理している間、ユイは楽器の置いてある部屋に行き、往年好きだったバンドのCDを漁って聴いていた
兄の尊がギターを始めて洋楽にハマり出し、横で聴いているうちに自然と好きになった数々のバンド
既に解散してしまってるものも多いが、すっかり耳に焼き付いた様々なフレーズはユイの口内に様々な味覚を齎した
食事が出来たと菱和が報せに来るまで、ユイは思い出に浸りつつ鑑賞を続けていた

 

テーブルには和食の定番、肉じゃが
その他には白米、味噌汁、簡単なサラダ、そして箸休めの柴漬け
夕餉を目の前にしたユイは、ぱっと笑顔になった

「‥肉じゃが!」

「正直、和食はあんま得意じゃねぇんだけど。冷蔵庫にあるもんで作れそうだったから」

じゃがいも、人参、玉葱、白滝、牛バラ肉
程よい匙加減の砂糖と醤油で煮詰められた根菜には味がしっかりと染みており、口に含んだじゃがいもがほろりと崩れる

「‥美味い!じゃがいも甘い!も、これのどこが“苦手”なんだよ?」

「甘じょっぱい味付けって難しくて。見た目だけは完璧かな、とか‥‥濃くない?」

「見た目も味もバッチリ!」

「そ。‥お前、嫌いな食べ物無いの?」

「んー‥‥無い、かなぁ。肉も野菜も魚介も、何でも好き」

「そりゃ良いこって」

「んふふー。アズは?」

「得体の知れないもんは、食う気になれねぇ」

「例えば?」

「‥‥ホヤとか」

「俺も食ったことないなぁ‥‥あれ、どう料理すんのかな」

「わかんね。触りたいとも調理したいとも思わねぇ」

ホヤには何の恨みもないが、菱和は嫌悪感を露にしてそう云い、ず、と味噌汁を啜った
ふと、ユイは箸を止めた

「‥‥、ウーパールーパーも?」

「‥‥‥それ、前に喋ってたな。ウーパーの唐揚げ云々、って」

夕餉に相応しくない生物の名前が出てきて、菱和はく、と軽く笑った

「ふふ。なんか今思い出した」

「あれは基本的に観賞用だから無理。素手で触りたくねぇ」

「両生類とか爬虫類、苦手?」

「爬虫類は好き。‥‥‥‥そういや昔、カメレオン触ったな」

「カメレオン?」

ユイは菱和の話に興味を唆られ、口に入れようとしていたじゃがいもを一旦器に戻した

「‥‥中学んとき、つるんでた奴等とガッコサボって、何でか知んねぇけど動物園行ったことあんだ。そんときに、こうやって指に止まらしてもらった」

菱和は左手の人差し指を右手の親指、人差し指、中指で摘まみ、当時の様子を再現した

「へぇー‥‥どんなだった?」

「ちょっとひんやりしてて、ぴったり貼り付くってか吸い付くっていうか‥‥何とも云えねぇ感じ。15㎝くらいの小さいやつで、めんこかった。‥そのカメレオンさ、高齢で目があんま見えねぇとかで、自分で餌食えねぇから飼育員から直接餌付けされてんの」

「‥‥ぷっ‥」

「笑うだろ」

「くく‥‥うん、なんか、想像したらおかしかった!」

「だろ。今はもう、この世にいねぇんだろなぁ‥‥」

「中学生時代に年寄りだったんなら、そうかもね‥‥。‥‥‥ね、他には何してた?」

「‥‥中学んとき?」

「うん」

当然のことながら、出会う前の菱和のことは何も知らない
ユイは学校をサボったことがほぼなく、自分たちが普段勉学に勤しんでいた間に菱和が一体何をして過ごしていたのかとても興味深かった
徐に箸を置き、菱和は当時のことを思い出しながら語り出した

「んー‥‥‥‥。‥‥‥なんか、下んねぇことばっかやってた。夜中に他所のガッコ忍び込んだり廃墟行ったり、知り合いの雀荘で人生ゲームやったり、夜通しスマブラとかボウリングとか缶蹴りとかしてた。喧嘩したあと真っ直ぐ海まで遠出して、焚き火して夜遅くなってド田舎のラブホ泊まって朝までトランプしたりとか‥‥今思えばロクなことしてなかったな‥‥‥」

「何それめっちゃ楽しそうじゃん!」

「‥‥そうか?」

思い起こせば下らない出来事ばかりが浮かんでくる
菱和は苦笑いしたが、ユイは目をキラキラさせていた

「じゃあさ、主に遊んで過ごしてたってこと?」

「そうだな‥‥遊ぶか喧嘩か、って感じ」

「‥良いなあぁ、混ざりたかったー!‥‥喧嘩は無理だけど!」

「喧嘩なんて自分から進んでやるもんじゃねぇよ」

「そう、か‥‥痛いもん、ね」

「まぁ、それもあるけど‥‥喧嘩がいちばん下らなかった‥ような気がする。負けたらムカつくだけだし、勝ったからって別に何も得るもんねぇしな。‥精々煙草が美味かったくらい、か」

「そっかぁ‥‥。てか、アズの中学んときの友達って、めっちゃアクティブな人だね」

「友達じゃねぇ。‥‥つるんでただけ」

菱和の声のトーンが少し変わったのがわかり、ユイは怪訝な顔をした

「‥‥、それって友達と同じじゃない、の?」

「‥‥‥‥わかんねぇ」

かつて“つるんでいた”という人物との間に何かあったのだろうか、それとも何か強い“想い”があるのだろうか───その真意はわからない
菱和から無理矢理話を聞き出そうという気は無かったが、ただ単に“どういう人物だったのか”という純粋な疑問を抱き、ユイは思い切って菱和に尋ねた

「───どんな人だったの?」

ユイは真ん丸の瞳で菱和を見た
何の悪気も邪推も感じられない、いつもの純粋な目と感情
ユイの素直さに何となく根負けしたような気持ちになり、菱和はぽつりと話した

「‥‥‥‥一人は、お前くらい背の小せぇ、クソ生意気なチビ。‥‥あと、全く見分けつかねぇ双子の兄弟」

「4人で、遊んでたの?」

「うん。‥アホなこと云ったりやったりすんのは、大体双子。突拍子もないこと云い出して、思い付いたら即行動って感じ。良いとこのボンボンで、何で俺みたいなんと一緒にいんのか意味不明だった。‥‥チビの方は、その双子にいっつも苛ついてた。見分けつかねぇ上に入れ替わったフリしてどっちがどっちかマジでわかんなくなったりして余計苛ついて。でも、喧嘩はいちばん強かった」

「アズよりも?」

「多分」

「ふぅ‥‥ん」

「‥‥俺も含めて、家庭環境に難アリの、ただの問題児の集まりだった。家でもガッコでも爪弾きにされて、歪んで。‥‥‥大人に反発したい気持ちとか、わけもなく苛々する気持ちとか、わかり合える部分も気が合うとこも多少はあったのかもしんねぇけど‥‥なんか、よくわかんねぇや」

そう云って菱和は薄ら笑いを浮かべた
そこにどんな想いを巡らせているのかはわからないが、ユイはくす、と笑い、穏やかに云った

「やっぱり、友達じゃん」

俯き気味だった菱和は、ユイの言葉にゆっくりと顔を上げた

「下らないことって、ほんとに仲の良い友達とじゃないと出来ないじゃん。アズの話聞いてたら、アズとその人たちが傷を舐め合ってるとか、義理で付き合ってたとは思えなかった。一緒に楽しいことしたいとか、そういう時間を過ごしたいとか‥‥アズを友達だと思ってたから、その人たちはアズと一緒にいたんじゃないかな」

想像の範疇にしか過ぎないが、ユイはにこりとしながらそう云った

 

あいつらがどう思ってたかなんて今更知る由もないけど、“あれ”も立派な友達の形だったのかもしれない
個々の状況は違えど、その心は歪んで、次第に自ら檻の中に閉じ籠り、荊で雁字搦めに囚われていた

劣悪な環境が生み出した荒んだ心
喧嘩で鬱憤を晴らすように紛らわせていた
あいつらと一緒にいる間は解放されて、荒みきった心なんて忘れられていた
下らないバカ騒ぎも、しんと静まり返った誰もいない家も、『この夜が永遠に明けなければ良いのに』と願ったことも、どこの誰かもわかんねぇ奴に刺されたことも、どれもこれも全部“現実”だった
目の前の現実に浮いては沈んで、どうにか均衡を保ってた

あいつらも、そうだったのかな
あいつらなりの苦労や葛藤も、少しは紛れていたんだろうか
あいつらがわざわざ俺に絡んできたのも、ユイが俺と『仲良くなりたい』と云ってきたときみたいな気持ちと似たようなものだったんだろうか

そうなんだ、傷を舐め合ってる気なんて全く無かった
はみ出しものの集まりだった
それぞれの家庭に事情があったのは確かだ
でも、例え俺やあいつらの家庭環境が複雑じゃなかったとしても、多分一緒につるんでいられたような気がする
あいつらを、人間的に気に入ってたからだろう
だからきっと、一緒にいられたんだろう
今思えば、あいつらは多分、俺の友達だった───

 

「───‥‥‥‥」

友達の定義も作り方も存在意義も、当時はわからなかった
今は、心を赦せる友人が何人もいる
改めて考えてみると、当時つるんでいた同級生との差違は殆ど無かった
あれこれ考えているうちに様々な感情が府に落ちていく感覚がして、菱和はユイの顔をぼーっと見つめていた

「‥ごめ‥‥何も知らないのに、知った風な口利いて」

ユイは『余計なことを云ってしまったかも』と思い、おずおずと謝る
菱和はゆっくりと首を横に振り、穏やかに笑んだ

「‥‥‥‥もしまたあいつらと会うようなことがあんなら、思い出話の一つや二つ、出来んのかな」

低い声でそう呟いた菱和は、それを強く望んでいるように思えた

友達との絆
その価値の大切さと尊さを、恐らくユイは菱和よりも強く深く理解している
つまらないことで一緒に笑い合える関係を大切にしてきた自負がある

嘗て、菱和は自他共に認める不良だった
そんな菱和にも、下らないことを一緒にやってのける気の置けない友達が存在していた
自分がギターに夢中になっていた14、5歳当時
その年齢の菱和は同年代の人間と何ら変わらない“ちょっと尖った普通の少年だった”ということがわかった

「‥出来るよ、きっと。友達だもん!」

ユイはにっこりと笑い、菱和の望みが叶う日を心から願った

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110 Jag vill oroa!

午前中は、イントロダクションのようなものだった
『夜通し語り明かす』と決め、それからはうだうだとどうでも良いことを話したり、腹の底から笑ったり、じゃれ合ったり───今日を入れて、この一時があと3日は続く
そう考えただけで、ユイは今のところ昨夜の悪夢を思い出さずに済んだ

時間は思いの外早く過ぎ去っていった
午後に少し遅めの昼食を食べ終えると、菱和は軽く伸びをした

「んー‥‥、風呂でも洗ってくるわ。洗い物頼む」

そう云って立ち上がり、ユイの頭をぽん、と叩いた

「あ、アズ」

「ん?」

「‥手‥‥大丈夫‥‥?」

保健室で窓ガラスをぶち割った際に硝子の破片が大量に突き刺さった菱和の右手には、包帯が巻かれている
不安そうにしているユイを一瞥すると、菱和は包帯を解いていった
ガーゼと絆創膏を剥がすと、鋭利な硝子による傷が幾つも付いていた
細かい破片は久留嶋が全て取り除き、消毒を施してある
まだ塞がっていない傷口も多くチリチリとした痛みはあるものの、菱和にとってはどうということはなかった

「別に、へーきだよ」

「でも、水仕事したら滲みるでしょ」

「バンソコ貼るし、ゴム手するから」

「‥‥‥そっ、か‥」

唇を尖らせ俯くユイ
菱和はユイの傍にしゃがみ込み、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた

「心配すんなって。こんなもん、放っときゃ勝手に治んだから」

「‥‥‥‥そ‥‥、‥‥‥い」

「ん?何?」

「‥‥俺ばっか、心配してもらって、ずるい」

殊勝な顔をして、ユイは菱和を見上げた
菱和は目を瞬かせる

「は、何だそりゃ」

「‥‥俺はいっつも、心配されてばっか。‥そりゃ、人一倍心配掛けるようなことしてるかもしんないけど‥‥‥‥でも、なんか不公平だ。みんなして、ずるい。‥‥俺にも少しくらい、心配させて、よ」

周りからいつも『“お前は”心配するな』と云われ続けてきたユイは、自分が周りに心配を掛けていると自覚しているも、そう云われる度に何となく孤独を感じていた
菱和は、目に見えない“心の傷”に比べればいずれは治癒する自分の手の傷などとるに足らないものだと思っていたが、ユイはユイなりに周りを心配していると解る

「‥‥ありがと。でも、ほんとにへーきだよ」

「ん‥‥」

菱和はくすくすと笑い出し、いじけているような淋しいような顔をするユイの頭を、ぽんぽん、と叩いた

「‥‥な、バンソコ貼って包帯巻くの、やってもらって良い?利き手じゃねぇからやりづれぇんだよな」

「‥うん、やる」

「洗面所の下の棚に、薬とか包帯とかまとめて入ってる箱あるから持ってきて」

「‥わかった」

 

菱和に云われた通り、ユイは洗面所の下の棚を開け、箱を取り出した
洗面所で手を洗い、菱和のもとに戻る
菱和の手を取り傷口を見ると、若干膿が滲んでいた
塞がりつつある傷もあるが、第2関節から手首までに幾つも出来ている、硝子でぱっくりと裂けた切り口はあまりにも痛々しい
ユイは少し顔を顰め、まずはガーゼを取り出した

「‥消毒、する?」

「‥‥お願いします」

消毒液を染み込ませたガーゼを軽く傷に押し付けると、菱和は僅かに顔を引き攣らせた

「‥っつ」

「あ、ごめ‥痛かった?‥ちょっと我慢して」

不慣れながらも、ユイは丁寧に消毒していく
大きめの絆創膏を取り出し、傷口を覆うように貼った

「‥ちょっとシワ寄っちゃった」

「良いよ、全然。包帯は要らねぇわ」

「その手で、楽器弾ける?」

「んー、どうだろな。中指使わなきゃイケそうな気もすっけど」

菱和は軽く指を動かし、痛みがあるかどうかを確認した
“突っ張る”ような感覚はどうしても拭えず、無理な動きをすると傷口が開いてしまいそうな予感がした

「ワンフィンガーなら弾けそう?」

「うん。速い曲は多分弾けねぇ。‥‥それでも良かったら、あとでなんか演る?」

「じゃあ、あとで、少しだけ」

「ん。‥‥ありがとな」

菱和は手当てを施されたその手で、ユイの頭をゆっくりと撫でた

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109 「För att lära känna varandra , låt oss prata en hel del」②

「さて、何すっか‥‥‥楽器触るか、DVDでも借りてくるか」

「DVDって、映画?」

「別に映画じゃなくても良いけど。っつーか映画って観る?」

「うん、たまに借りて観るよ。拓真がバイト先からお薦めのやつ借りてきてくれて一緒に観たり。‥‥あ、拓真ってね、平日の夜は暇だからスティック持ち込んで裏で練習してんだってさ」

「‥佐伯らしいな。‥‥どんなん好き?」

「えっとね、スカっとするやつは大体好き。アズは?」

「洋画ばっか観てるわ。ミニミニとかワイスピとか、車出てくるやつ。あと、めっちゃ銃ぶっ放してんの」

「へぇー‥‥ホラーとかスプラッタ映画観そうだなって思ってた」

「好き好んで観ることはねぇかな」

「あれ、怖いの苦手?」

「どーかな、あんま観たことねぇからわかんねぇや」

「そっかぁ‥‥じゃあ今度、ホラー映画鑑賞会やろ!」

「お前、ホラー平気なの?」

「うん!大好き!」

「‥‥‥‥意外」

「んっふふー。でも拓真はああいうの駄目で、口直しにホームアローンとかも借りて、ホラー映画と交互に観るんだー」

「ふーん‥‥ちょっと楽しそう」

「でしょ!楽しいよ!」

「じゃ、今度それやろ。‥で、今日はどうする?なんか借りに行く?」

「‥‥‥‥、またの機会にする。‥‥折角一緒にいるから、沢山、喋りたい」

「じゃ、朝まで喋り倒すか」

「‥うん!‥‥でも、先に寝ちゃったらごめん」

「別に。先に寝てくれた方が、嬉しいし」

「‥‥何で?」

「寝顔見れっから」

「‥‥‥‥」

「‥‥何」

「なんか、俺ばっか寝顔とか恥ずかしいとこ見られて、ずるい‥‥」

「見られたくねぇなら、俺より起きてるこったな」

「‥‥自信無いなぁ‥‥。ってか、寝顔の何が良いの?」

「めんこい。癒される」

「‥‥‥‥、‥‥」

「‥‥‥顔、真っ赤」

「あ、アズが変なこと云うからだろっ‥!」

「しゃあねぇじゃん、ほんとのことなんだし」

「‥‥‥、‥俺、寝言云ったり涎垂らしたりしてない‥‥?」

「多分」

「そ、っか‥‥‥」

「‥‥‥‥半目にはなってたけど」

「っそ!!マジで!!?」

「‥嘘。可愛いよ、いっつも」

「んんん‥!‥‥アズのバカ」

「あ?」

「あ‥‥いや、何でもない‥です」

「‥‥‥‥」

「‥‥‥すいません‥でした」

「聞こえねぇ」

「‥‥すいませんでした」

「感情が込もってねぇ。やり直し」

「っすいませんでした!」

「‥‥‥‥ふふ。ふはは‥‥!」

「な、何‥‥?」

「くく‥‥おっかし」

「何だよ!真面目に謝ってんのに!」

「うん‥‥‥ふふ‥‥」

「‥‥俺が謝んのがそんなにツボ?」

「何つーか、からかい甲斐あり過ぎてハマる」

「‥‥‥‥やっぱり、アズのバカ」

「てめ、また“バカ”っつったな」

「‥云ってない!云うわけないじゃんそんなこと!」

「ばっちり聞こえたっつの。ちょっとこっち来い」

「や‥ごめんなさい!」

「うるせぇ。もう謝っても許さねぇ」

「ぅわっっ‥!苦し‥‥」

「反省しな」

「ちょ‥放‥‥ご、めんなさいでしたっ!!」

「‥‥ぶふっ‥‥‥‥はははは‥!ごめんなさい“でした”って‥はは‥‥!」

「う‥‥笑うなよもぉ‥!‥はー‥‥‥息止まるかと思った‥‥」

「くく‥‥ちょっと顎ロックしただけじゃん」

「いや、全然“ちょっと”じゃなかったし!完全に“落とし”にきてただろ‥!」

「んなことねぇよ。愛情表現だから」

「‥‥‥、愛情があるなら、ヘッドロックなんかしなくない?」

「そうか?」

「‥‥てか逆に、“愛のあるヘッドロック”て、なに‥」

「意味わかんねぇな、それ」

「‥ふははは!っははは!!俺も自分で云っててわけわかんなくなってきた!」

「っくく‥‥‥‥」

「はー‥‥笑ったぁ‥」

「下らな過ぎて笑えんな」

「うん、なんか、楽しい」

「‥‥‥‥、ユイ」

「ん?」

「“ぎゅっ”てしたい。おいで」

「‥‥、うん‥」

「ん」

「‥‥‥」

「‥‥」

「‥‥‥‥、またヘッドロックする?」

「‥やめろって。笑っちまう」

「‥‥‥ぷはっ‥‥あはは!!」

「ふふ‥っ‥‥‥マジ下んねぇ」

「絶対流行るよ、“愛のあるヘッドロック”」

「どこに需要あんだよ」

「‥わかんない!」

「なんだそれ」

「ふふ‥‥‥‥。でもちょっと、安心した。‥‥俺ね、正直、アズと一緒にいても今までみたいにもう上手く笑えないかもーとか思ってた。みんなに、沢山迷惑掛けちゃったし、また倒れるかも‥‥とか、色々想像しちゃって。‥‥ぶっちゃけ、まだ少し、不安‥‥」

「‥‥そっか」

「うん‥‥なんかごめんね、ほんとに。‥‥‥‥なんかね、拓真もリサも小さいときからずーっと一緒にいてくれて、『なんでかなー』って、不思議だった。俺、うるさいし、落ち着きないし‥‥」

「‥‥2人とも充分わかってるだろ、そんなこと」

「や‥そうだけどさ‥‥!だから、何でかな、って‥」

「‥そんだけお前のこと好きだからだろ。それ以外に理由なんかねぇと思うけど。佐伯もリサも、今更お前から離れたりなんかしねぇだろ」

「‥‥‥そ、かな‥」

「‥‥2人だって俺だって、例えお前が上手く笑えなくなったとしても、そういうお前も全部引っくるめて好きだから一緒にいるんだよ。‥‥別に無理して笑う必要ねぇし、泣きたかったら気が済むまで泣きゃ良いよ。‥‥‥‥その時その時にお前が自分らしく居られれば、それで良いじゃん」

「‥‥‥‥、うん‥‥」

「‥‥‥少ーしだけ、目の腫れ引いたな。まだ腫れぼったいけど」

「ふふ‥‥俺、今すっごい不細工でしょ」

「‥俺も寝起きの面見られてるし、“あいこ”じゃね」

「寝起き?別に不細工じゃないじゃん」

「‥‥最悪だろ」

「そんなことないってば。なんか、ふにゃふにゃしてて可愛いよ」

「‥‥‥‥“可愛い”‥‥?」

「うん」

「‥‥‥限りなく不相応な形容詞」

「そんなことないって!可愛いよ!」

「‥‥もうあんま云うな。なんか、いずい」

「‥んふふー、アズ可愛い!」

「云うなっての」

「可愛い可愛い!かーわーいーいぃー!」

「てめ、連呼すんな」

「‥ちょ、くすぐったい‥‥!待って!ワキは駄目!弱いから!」

「あ、そう」

「‥ふひゃははは!あはは‥‥!駄目、‥ごめんなさい、もぉ勘弁して‥‥ふっははは!」

「聞こえねぇ」

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108 「För att lära känna varandra , låt oss prata en hel del」①

「寒みぃ‥‥‥‥こっから動きたくねぇ‥‥」

「だからヒーター点けてくるって云ったのに‥‥」

「‥‥‥‥、‥‥‥」

「ん?何?」

「‥‥も少し、こうしてて‥‥‥‥」

「う、うん‥‥」

「‥‥‥‥」

「まだ、眠い?」

「‥‥いや。寝るのはもう良い」

「そ、っか」

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥腹減ってない?」

「ん‥‥少し」

「昨日よりは食欲ありそ?」

「うん‥‥。‥昨日のお味噌汁残ってる?」

「ああ、あるよ」

「あれね、ほんっっっとに美味かった。また食いたい」

「‥‥そっか」

「‥‥‥俺さ、お味噌汁があんな美味いと思ったの生まれて初めてなんだ。なんかね、アズのお味噌汁は“お袋の味”って感じ」

「‥‥何だそりゃ」

「父さんも兄ちゃんもよく味噌汁炊いてくれてたけど、なんか違うんだよ。ほっとするってか、落ち着くっていうか‥‥母親の料理なんて食った記憶ないからわかんないけどさ、多分“ああいう感じ”なんじゃないかなって思ったんだ。だからね、アズのお味噌汁は、俺の“お袋の味”」

「‥‥そ」

「ふふ‥‥」

「‥‥‥‥そんなら、冬休み中に実家来る?」

「え‥‥」

「俺もほんとの母親の料理食った記憶ねぇからさ、今の母親の味が所謂“それ”なんだよ。結構参考にしてること多いし‥‥俺が云うのも何だけど、むっちゃ料理上手いよ」

「アズの、母さん‥?」

「うん」

「へぇー‥‥‥アズの、母さんのごはん‥‥食いたい、な。ってか、会ってみたい」

「そっか。じゃ、行こ。なんかリクエストあれば、連絡しとく」

「んんー‥‥悩むなぁ‥‥‥‥。何でも良いの?」

「大概のもんは作ってくれんじゃねぇかな」

「んー‥‥‥‥あ、じゃあアズがお母さんの料理の中でいちばん“美味い”と思ったものがいい」

「お前が食いたいものにしろよ」

「えー‥‥」

「‥‥ま、今すぐ決めなくても良いし。暫くは俺ので我慢して」

「我慢なんかしてないよ。アズのごはん、ほんとに美味いし」

「‥そうかい。‥‥ありがとさん」

「ふふ‥‥お世話になります」

「こちらこそ。‥‥っつーか、今日は風呂入るぞ」

「え‥。‥‥‥一緒、に‥?」

「たりめーだろ。別々に入ってどうするん」

「‥‥‥‥」

「‥‥何がそんなに嫌なん?」

「や、嫌なわけじゃないよ‥!恥ずかしいんだよ!!」

「何が?」

「だっ、て‥‥裸になる‥でしょ」

「それがどうしたんだよ。お前の裸なら一回見てるし、お前だって俺の身体見たことあんだろ」

「そ、れは‥お互い、上だけじゃんか」

「‥‥‥‥、もしか、下半身見られるのが恥ずかしいの?」

「ん、そ、‥‥」

「何だよお前、そんな立派なん付いてんの?」

「‥は!?違‥、逆だよ!!」

「‥‥‥‥逆‥‥?」

「や‥なっ、何でもないっ!!」

「なぁ、逆って何?どゆこと?」

「んん‥‥も、そんな意地悪な顔するなよ!もう良いだろ下半身の話は‥!」

「‥‥‥‥ふっ‥‥っははは‥!」

「笑うなよ!!余計恥ずかしくなる‥!」

「くっ‥‥‥‥ふふ‥‥良いじゃん、別に。‥でかかろうが小さかろうが、そんなんどうでも良いよ」

「‥‥、アズは恥ずかしくないの?」

「別に」

「あ、そう‥‥。‥‥‥‥見ても笑わない‥‥?」

「笑うかよ。云っとくけど、俺は『見せろ』なんて一言も云ってねぇぞ。でもお前が望むならいっそガン見してやろうか?」

「う‥‥‥‥んな‥‥っ!」

「‥‥く‥‥っはは‥!!っ‥くく‥‥!」

「だからぁ、笑うなってば!!」

「ふふ‥‥お前、ほんと面白いな」

「んん‥‥!!」

「‥悪かったって。そんなに見られるの嫌なら、別々でも良いからさ」

「‥‥ん‥‥‥。‥‥っていうか、アズも下ネタ話すんだね‥‥そういうの嫌いかな‥って思ってた」

「‥そりゃ下ネタのひとつやふたつ、話しますよ。男ですから。佐伯とか上田とそういう話するん?」

「たまにね。‥‥もっと低レベルで下らないけどね‥ポジションがどうとか‥‥」

「ふーん‥‥でもそれは大事な話じゃん」

「そうだよね、大事だよね!」

「うん。めっちゃ重要」

「だよね、だよね‥。‥‥‥‥因みにさ、アズはどっち?」

「‥左」

「あ、アズも?俺も左のが落ち着くんだよねー‥‥」

「‥‥‥‥ふふ‥‥っ‥」

「‥‥ごめん、変なこと聞いて‥」

「‥いや。‥‥朝っぱらからポジションの話したの初めてだわ」

「‥‥すいません‥‥‥っていうか、俺と話してて疲れない?」

「別に。何で?」

「‥‥レベルが低過ぎて」

「全然。もっと下世話な話しても全然構わねぇよ」

「そう‥‥」

「‥‥‥‥話題なんて何でも良いからさ。それもデトックスになるかもしんねぇし。沢山、話そ」

「‥‥うん‥‥‥‥あの、さ。‥‥俺、もしかしたらまた泣いたりするかもしんないけど、そうなったら‥‥ごめんね」

「‥‥‥まだそうなってもいないのに謝んなよ」

「ん、でもまたなるかもしんないから‥‥」

「なっても良いじゃん。俺に遠慮すんな。‥‥云ったろ、『もっと我儘んなれ』って。泣きたいときに涙流せるなら、それがいちばん良いじゃん。我慢しなくて良いから」

「‥‥うん」

「ん。よしよし。‥‥取り敢えず、味噌汁温めっか。お前はまだ布団にいな。あっち寒みぃから」

「ううん。俺も行く」

「そ。じゃ、起きるか」

「うん」

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107 JOY

ぴんと張りつめた冬の朝の空気
その冷気が室内にも入り込む
目を覚ますと、自分の手が大きな菱和の手に包まれているのがわかった
菱和は肩から布団を被り、後ろからユイを抱くようにし壁に凭れ掛かっている
ユイはすっぽりと菱和に収まっており、身体にはしっかりと毛布が掛けられていた

───掛けてくれたん、だ‥

「───‥‥」

見上げると、ゆっくりと静かに寝息を立てている菱和の顔がある
寝惚け眼でその顔を見ていると、互いの胸の内を伝え合った日のような擽ったい気持ちになる

途端、ユイは夕べ菱和と唇を重ねたことを思い出し、ぐっと体温が上がるのを感じた
このまま顔を上げると簡単にキスが出来るほどの至近距離に、菱和がいる
くっついて過ごすことは何度もあったが、今までとはだいぶ心境が違っていた

菱和の唇の感触が残っているような気がして、ユイは自分の唇を親指でなぞった
キスをした記憶がどんどんと蘇り、心拍数が上がっていく

───‥‥‥っていうか俺、『沢山して欲しい』とか『またしてくれるか』とかめっちゃ恥ずかしいこと云ってたよな‥‥うわぁもうマジ今すぐ爆発しちゃいたい‥!

ユイの脳内は軽く修羅場と化した
今更冷静になっても後の祭りだが、やはり恥ずかしさは拭えない
じたばたしたい衝動に駆られるも、菱和を起こしてしまうと懸念し、何とか堪える

 

余裕など全く無かった
ただただ、受け身でしかいられなかった
弱っている自分を、支えてくれた
不慣れな自分を、受け止めてくれた
無我夢中の口付けは時折乱暴だったが、基本的にはとても優しかった
多少の息苦しさを覚えても、菱和の愛情を独り占めしていることに比べたらどうということはなかった
いっそのこと、息が止まってしまっても構わないとすら思えた

菱和と唇が重なった瞬間から、確実にまた距離が近付いた
その事実は口にするまでもなく嬉しいこと
だが、この距離感は時に菱和の足枷になるかもしれない───そう思うと、嬉しさと同様に不安も募る

それでも、菱和と一緒にいられる喜びを噛み締める

“アズと、ずっと一緒にいられますように”

余裕のない中で、ユイはそう、願っていた

 

───‥‥、ヒーター点けてくるか

握られた手をそっと離し、菱和の腕から抜け出そうとする
その腕に急に力が入り、ユイはぐっと引き寄せられた

「‥ぅわっっっ‥‥!!」

いとも容易く、ユイは菱和の胸に戻った
突然のことに驚き振り向くと、菱和が嗄れた声で云った

「───‥‥どこ行くん」

「あ‥‥ヒーター‥‥点けてこよ、かな‥って」

「‥‥‥‥要らねぇ。‥‥こうしてれば、あったけぇから‥‥‥」

そう云って菱和は、毛布ごとユイを抱き締め、ユイの肩に顎を乗せる
僅かに頬が触れ、少しでも首を横に向ければ唇が当たる───そんな距離
またユイの心拍数が上がったが、菱和の腕の中にいるという安心感も増していく

「‥‥そだね、‥あったかいね」

菱和の言葉に納得し、ユイは自分を抱く菱和の腕にそっと手を添えた

「‥‥‥‥目、すげぇ腫れてる」

視線を横にずらすと、菱和が半開きの目でユイを見ている
ユイははにかみ、照れ臭そうにした

「流石に泣き過ぎた、よね‥‥。ほんと、いっぱい泣いた」

「‥‥少しはデトックスになった?」

「で、と‥?」

「“解毒”。‥沢山泣いて、すっきりした?」

「‥‥、‥‥うん‥」

「そ‥‥‥‥良かった‥‥‥」

ユイを抱く菱和の腕に、力が入る
少し長い溜め息を吐き、菱和はゆっくりと目を閉じた

「‥‥もしかさ、」

「‥‥‥ん‥‥」

「アズって、低血圧?」

「‥‥んん‥‥‥‥寝起きは力全然入んねぇんだ‥‥」

「‥全然そんなことないと思うけど‥‥」

「そ、か‥‥」

力なく、捻り出すようにぼそりと呟く菱和
普段から怠そうにしているが、寝起きはより一層気だるそうにしている
互いの気持ちを伝え合った日の朝も、菱和はいつまでもうだうだとし、なかなかユイから離れなかった

寝起きの菱和は随分と無防備で───

───なんか可愛いな、ふにゃふにゃしてて。アズにもこんなが一面があるんだ‥‥知らなかった

ユイは口元が綻んだ

「‥‥‥ん‥?」

「‥‥んーん‥‥‥‥」

ユイは気持ちを悟られないよう、毛布に顔を埋め、口元を隠した

 

「───‥‥忘れてた」

「ん?」

菱和は徐にユイの顔を引き寄せ、目を丸くしているユイにそっとキスをした

「‥‥おはよ」

「‥‥‥は、よう‥‥」

ユイはより目を丸くし、頬を赤らめる
その顔を見て、菱和は半開きの目を細めた

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106 Kiss

苦しい

息が詰まる

胸が痛い

誰か

助けて

誰か

誰か

誰か──────

 

「───イ、ユイ」

「──────っは‥っっ!!」

時刻が日付を越えた頃

自分の名を呼ぶ声に必死に目を開けると、菱和の顔が見えた
額や身体には汗が吹き出ている
べったりと張り付いた衣服を、ユイは忌まわしく感じた

「‥‥悪い、魘されてたから」

「ぁ‥、‥‥っ‥‥‥!‥」

突如、昼間と同じ感覚がユイを襲う
落ち着いて息を吸おうにも身体がいうことを利かず、軽くパニックに陥る
必死に息を続けようと胸を押さえ付けるが、次第に荒くなる呼吸に益々パニックになる

「大丈夫だよ、大丈夫」

菱和はユイの身体を起こし、抱き止め、一定のリズムでその肩をとんとんと叩いた

「慌てなくて良い。“これ”とおんなじように息しな」

とん、とん
とん、とん

ユイは必死に身体にリズムを馴染ませ、小気味良く刻まれる拍子と同じように息を繋いだ
菱和はユイの呼吸に合わせ、肩を叩く手のスピードを徐々に緩めていく

乱れた呼吸が普段通りに戻った頃、ユイは菱和に凭れ掛かり、長い長い溜め息を吐いた
ユイが脱力したのがわかり、菱和はゆっくりとその頭を撫でた

「‥‥落ち着いた?」

「ん‥‥ほんと、ごめ‥」

「謝んなって。大丈夫だから」

「‥‥‥‥。‥‥夢に、出てきた‥」

「‥‥昔のこと?」

「うん‥‥‥‥もう、ずーっと前のことなのに今更夢まで見るなんてさ、なんか、バカみたいだよね‥‥弱くて駄目だね、ほんと」

へへ、と薄ら笑いを浮かべるユイ
菱和はその背中をゆっくりと撫でた

「‥‥‥‥思い出したら死にたくなるくらい辛い記憶だからずっと長いこと忘れてたんだろ。そういうのってさ、心が壊れねぇように本能的に備わってるもんなんだよ。お前は自分で自分を護ってただけだ。‥‥3、4歳のガキのうちからそんなことやってのけるなんて、なかなか出来るもんじゃねぇ」

身を離し、菱和はずっと云いたかった一言をユイに告げた

「お前は弱くねぇよ。‥‥超強えぇよ」

 

途端、ユイは顔を歪ませ、ぼろぼろと涙を溢した
菱和に縋り付き、声を出して泣いた

こんな情けない自分の姿を見てもなお、傍に居てくれる
弱いと思っていた自分を、強いと讃えてくれたことが嬉しくて堪らない

菱和は、嗚咽を出して泣き続けるユイの頭をずっと撫でていた
少しでも慰めになるのならと、その手を止めることはなかった

次第に嗚咽は治まり、しゃくり上げる声だけが聴こえる
散々泣きじゃくった瞳からは、未だ涙が次々と流れ出ている

泣きたいときは気の済むまで泣けば良い
そうは思うものの、哀しみも苦しみも全て、何とかしてやりたいと思う

 



菱和はありったけの感情を込め、ユイの額に軽くキスした

ユイは少し顔を引いたが、菱和は「逃がすまい」と即座に額を合わせた

もう、独りで抱え込まなくて良い

全部、思いっきり吐き出せば良い

お前を想う人間は、いつでもお前の傍にいるよ

だから、どうか

 

どうか───

何度も吸い込まれそうになった眼差しが、目の前で揺れている


今は
今だけは

この深い優しさに
ただ触れていたい

触れていて欲しい───

 

強くそう思ったユイは菱和の服を掴むその手を今一度ぎゅ、と握ると、そっと目を閉じた





いじらしくて堪らなくなった菱和はふ、と笑み、濡れた頬を掌で優しく包んだ
ほんの少しその顔を引き寄せ、そっとユイに口付けた

 

「‥‥っ‥───」

唇が触れると、ユイは僅かに肩を竦めた

ほんの一瞬だった
互いの唇の感触を確かめる余裕もなく、本当に、一瞬だった

菱和の顔が離れると、ユイはゆっくりと目を開けた
瞬きをすると溜まっていた涙が落ち、菱和の顔がぼやけて写し出される
潤んだ瞳でも、酷く優しい眼差しが向けられていると分かる

菱和は、もう一度ユイに顔を近付けた
ユイは微動だにせず、また瞳を閉じた

今度は、少し長く触れる唇
そして二度、三度と繰り返されるキス

ユイはほぼ受け身だった
ただ身を預けた
強く服を掴むと、自分を抱く菱和の手にも力が籠められる

 

この気持ちは何なんだろう

恥ずかしくてずっと避けていたキス
本当はずっとしたい、して欲しいと思っていた念願のキス
願いは叶って、嬉しい筈なのに

勝手に涙が溢れてくる

 

感極まり、ユイは泣いた
折角の触れ合いに失礼だと思ったが、その涙を止める術はなかった

「‥‥‥‥ん‥‥、‥っ‥‥ふ‥‥‥っ‥」

ユイが泣いているのがわかり、菱和は身を離した
顔はくしゃくしゃになり、頬を伝ってぼろぼろと涙が流れている
次第にしゃくり上げ、ユイは菱和に謝罪した

「ご‥‥ごめ‥‥‥っ‥、アズ‥‥ふ‥っ‥‥‥‥お、れ‥‥」

菱和はユイの顔を覗き込み、涙を拭った

「‥‥‥‥哀しい?‥‥苦しい?」

菱和の問いに、ユイは少し顔を上げた

「‥‥‥‥‥‥多分、“嬉しい”、‥‥かな」

「じゃあ、笑えよ。‥‥嬉しいなら、笑ってよ」

菱和はユイの額に手をやり、前髪を上げた
真ん丸の瞳からまた涙が零れ落ち、頬を伝う
ユイは鼻をすすり、恥ずかしそうに笑ってみせた
ぐしゃぐしゃになった泣き顔に、歪む口元
何時ものように上手くは笑えない
今のユイにとって、精一杯の笑み
その精一杯がどうしようもなく愛おしくなり、菱和は思いきりユイを抱き締めた
ユイも、しがみつくように菱和に抱きつく
気持ちが落ち着いた頃、ユイはほぅ、と息を吐いて、心境を吐露した

「‥‥こんなになるなんて、思ってなかった」

「‥‥‥ん?」

「キス‥って、一回したら、もっと‥‥したくなるんだ、ね。‥知らなかった」

「‥‥ほんとだな」

菱和は、ユイの額に軽くキスを落とす
そのまま額を合わせ、優しく笑んだ

「‥今まで我慢してた分、沢山して良い?」

「‥‥ん‥」

ユイが軽く頷くと、また菱和の唇が重なる

 

「‥ね、もっかい‥、して」

「何回でもする」

「‥‥もっと、‥‥‥」

「‥急かすなよ」

「‥‥‥ア、ズ‥‥‥‥も、っと‥‥」

「‥‥酸欠になっちまうぞ。‥‥良いのか?」

「‥‥‥いっぱい、いっぱい、して欲しい」

「‥‥煽んなっての。‥‥‥欲情しちまう」

「‥も‥‥そ、なこと‥してな‥‥‥んっ‥‥」

「“やだ”って云っても止めねぇぞ?」

「‥‥‥やめない、で」

「‥‥かやろ」

 

もう、歯止めなど利かない

菱和は、何度もユイに口付けした
健気で不慣れな自分が菱和を煽っているとも知らず、ユイは菱和からのキスを受け止めた
愛おしい人から与えられた沢山のキスはあまりにも深く、優しく、このまま何処かに堕ちていきそうな感覚に陥る
それすらも、今なら構いはしない
何度も何度も、互いを貪るように唇を重ねた

 

菱和は名残惜しそうにユイから身を離した
初めてのキスに急激に恥ずかしさが募り、ユイは無意識に顔を逸らした
菱和は少し口角を上げて、ユイの頬に手をやる

「‥‥初めてなのにまさか“おねだり”までされると思ってなかった」

「う‥‥‥‥ごめ‥‥」

「んーん。嬉しかった。‥‥‥‥ほんとは、さっきお前が寝たあとすぐ、普通にしちまうとこだった」

「ぅえ、そ‥なの?」

「ん。でもやめた。やっぱお前が起きてるときにちゃんとしたいな、って。‥‥我慢して良かった、‥なんてな」

「‥‥‥‥、‥‥る?」

「ん?」

「‥‥‥‥また、して‥くれ、る?」

「‥‥いっぱいする」

そう云って、菱和はユイの瞼にキスを落とした

「‥‥ごめんね、我儘云って」

「上等だよ。‥我儘んなれよ、もっと」

「‥‥重く、ない‥?」

「嬉しい。‥好き」

菱和はまたユイを抱き締めた
ユイの云った通り、一度すると何度でも唇を重ねたくなる
何の変鉄もないただのキスだが、すればするほど相手への愛おしさが募る
ユイはおろか、菱和も初めて抱く感情だった

「‥‥‥アズ‥」

「‥うん?」

「‥‥‥‥だ、いすき‥だ、よ」

「‥‥俺も。‥大好き」

菱和はユイと手を絡ませ、ぎゅ、と握った
触れ合う身体と重ねられた掌から、菱和の体温を感じる
この上ない安心感が、ユイを満たしていく

繋いだ手を離さないまま、2人はゆっくりと眠りに就いた

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105 御御御付け

拓真とリサは安心してユイを託し、菱和も責任を持ってユイを預かることになった
時刻は19:00を回り、支度を終えたユイは菱和と共にアパートに向かう

日没から3時間あまりが経過していることもあり、室内はひんやりとしていた
菱和はすぐにヒーターを点け、寝室から持ってきた毛布をソファに座るユイの膝に掛けた
部屋着に着替え、キッチンで煙草を一本喫うと、ユイの横に座った

「なんか食う?」

「‥‥‥んーん‥‥あんま食欲ないや」

いつもなら何かしらリクエストしてくる筈が正直に申告してきたということは、本当に食欲がないのだろう
菱和は、へら、と笑うユイの頭をくしゃくしゃと撫でる

「‥わかった。待ってな」

キッチンに向かう菱和
程無くして、カチャカチャと調理する音が聴こえてくる
ユイは様々なことに申し訳なくなり、膝を抱え込んだ
いつもなら、楽器を触ったり音楽を聴いたりして待っている時間だが、今はそんな気が起きない
何も映し出されていないテレビの画面を、ただぼーっと見つめていた

 

「召し上がれ」

菱和の声にはっとしたユイの前には、温かい味噌汁が入った椀が置かれていた
出汁から炊かれた味噌汁の具材は、4種類ほどの茸
よくよく見ると、大根おろしが浮いている

「食欲ないときは、美味そーーーな味噌汁想像すんのがいちばん」

ユイはきょとんとし、菱和を見上げた

「‥‥っていうのは、母親の持論。でも、どんだけ食欲なくてもあったけぇ味噌汁想像したらマジで腹減ってくんだわ。‥食えなさそうなら無理しなくて良いからな」

菱和はユイの横に座り、味噌汁を啜った

「‥ん。んまい」

納得の出来だったようで、頷きながら軽く舌なめずりをする菱和
目の前には、出汁の香りを含んだ湯気の立つ味噌汁
食欲が刺激されたのか、ユイは徐に椀を手に取り一口啜る
ふんだんに使われた茸の出汁がよく出ており、胃に優しい大根おろしが程よい食感
五臓六腑にじんわりと沁み、心まで落ち着いていく

「‥‥‥‥美味い‥‥ほんと美味い。ほっと、する‥‥」

「そっか。‥‥茸、食える?」

「うん。‥いっぱい入ってる、ね」

「具沢山の方が美味いんだ、茸は。椎茸としめじと舞茸となめこ入れた」

「‥‥全部好き」

「そりゃ良かった。食えそうなら食いな」

「‥うん」

食欲不振な胃向けの食事を作り、食欲さえ沸かせてしまう───菱和の料理の腕に感心すると共に、沢山の優しさを感じる

“お袋の味”を知らないユイにとって、菱和の味噌汁が“お袋の味”となった

 

***

 

味噌汁だけでも、ユイの胃は充分に満たされた
脱衣所を借り、拓真が持たせてくれた部屋着に着替える

「‥‥風呂入るか?」

キッチンで煙草を喫っていた菱和が、ひょこっと顔を覗かせる

「‥‥今日は、いい」

「そ。‥‥明日でも、一緒に入る?」

「いっ‥しょ、て‥‥!」

「背中流してやるよ、洗髪もするし」

「い、いい!いいです!遠慮しときます!」

「‥‥‥‥、そんなに俺と風呂入んの嫌?」

「い、嫌ってわけじゃないけど‥」

「‥‥そっか」

慌てふためくユイを見られたことで、菱和はくすくすと笑った

「少し早いけど、布団入るか」

「う、うん」

菱和は火消しに煙草を挿し、ユイに手を差し出した

「行こ」

そっと手を重ねると、ぎゅ、と握られる
ユイは手を引かれ、寝室に向かった

 

***

 

布団に埋まる2人
夜の寒さで室内が冷やされるも、互いの温もりがあれば何も要らないと思えた
ユイは腕枕され、菱和の心臓の音を静かに聴いた

「‥‥‥アズ‥ありがとね、ほんとに」

「んーん。‥‥俺がお前と一緒にいたかっただけだから」

菱和はユイを抱き寄せ、ゆっくりと頭を撫でる
今日一日で目まぐるしく色々なことがあったが、この腕の中ならば安心して眠れそうだ
そう思うと、急激に眠気が襲ってくる

「‥疲れたろ。ゆっくり休みな」

「‥‥うん‥‥‥ごめん、先に寝ちゃいそ‥‥」

「ん。‥おやすみ」

菱和は、ユイが眠りに就くまで頭を撫で続けた

 

“護りたい”と想ったその時から、何があっても寄り添うと決めた
心が壊れかけている今───願わくばこれ以上苦しむ姿を見たくはないが、例え完全に壊れてしまったとしても、決して離しはしない

───‥‥マジで“毒され”過ぎてんな

ユイへの好意をはっきりと認識しているが、自分が想像しているよりもその感情はとてつもなく深いのではないかと、菱和は感じた
奇妙な感覚に襲われ、悪戯にユイの頬を少し抓ると、既に寝息を立てているユイは僅かに唸る
強烈なストレスを感じ、過呼吸や失神をしたとは思えないほど、安らかな寝顔

「‥‥‥可愛い、な」

無性にキスをしたい衝動に駆られた菱和は、ユイの顎を少し上げ、顔を近付けた

「‥‥‥‥、」

───幾ら寝てるとはいえ‥‥正に“寝込み襲う”みてぇで後味悪くなりそ‥やっぱ止めとくか。でも、せめて‥‥‥

菱和は何とか衝動を抑え、無防備に自分の腕の中で眠るユイの頬に軽くキスをした

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104 Phone

ユイが一頻り泣き、落ち着いた頃
タイミングを見計らうように、携帯が鳴った
拓真はベッドから立ち上がり、鞄の中に入れっぱなしのユイの携帯を取り出した
画面には“兄ちゃん”と表示されていた

「‥‥たけにいから」

ユイは拓真から携帯を受け取り、通話ボタンを押した

「‥‥‥‥もしもし、兄ちゃん?」

久留嶋は名簿を見て、保護者欄に記載のあったユイの父親と尊の両方に連絡を取っていた
尊はすぐに電話を取ることが出来ず、留守録を聞いてユイに直接電話を掛けてきた
偶然とはいえ、このタイミングの良さには感心せざるを得ない
2人の電話が終わるまで、拓真とリサと菱和は席を外すことにした

 

***

 

『ユイ?‥学校から“倒れた”って連絡来てて、今慌てて電話したんだけど』

「うん‥‥へへ」

『‥‥‥大丈夫か?』

「うん、だいじょーぶ‥‥拓真もリサも、アズも居るから」

『‥‥、“アズ”‥?』

「‥あぁ、えと‥‥菱和くん。‥‥兄ちゃんの代わりに、ベース弾いてくれてる人」

『あ、菱和くんね。‥‥‥はー‥そっか。‥ごめんな、ほんとは今すぐそっち帰りたいんだけど‥‥』

「ううん。仕様がないじゃん、働いてるんだからさ」

『‥‥親父も出張中だもんな‥‥親父んとこにも電話いってるみたいだから、あとでかかってくんじゃないかな』

「うん。‥‥ごめん、心配かけて」

『何云ってんだお前‥家族なんだから当たり前だろ。心配くらいさせろよ‥‥‥年末そっち帰るけど、それまで一人で大丈夫か?』

「うん、大丈夫」

『29に帰るから、待っててな』

「うん‥‥‥‥、‥‥‥───」

『‥‥‥どした?』

「───‥‥‥‥に‥ちゃあぁ‥‥‥っ‥ひっ‥‥ごめ、ね‥‥お、れ‥‥‥ぅああぁ‥‥」

『‥‥‥何謝ってんだよバカ‥‥‥‥兄ちゃんこそ、ごめんな。こんなときに、傍にいてやれなくて』

「‥ふ‥っ‥‥ひっ‥、兄ちゃ‥‥‥っ‥‥‥‥ぃたいよ‥‥」

『うん。土産持って帰るから、も少し待っててな』

「うん‥‥うんっ‥待ってる、から‥‥‥」

『‥‥拓真とリサそこにいんの?』

「‥ん、‥‥今は、下にいる」

『あとで連絡するって、2人に云っといて』

「うん‥‥」

 

───今下に降りてったら、泣いてたってまるわかりだな‥‥ちょっと落ち着いてから行こ‥‥‥‥

ユイは通話の切れた携帯を見つめ、鼻を啜った
久々に兄の声を聴くと驚くほど安堵し、箍が外れたように涙腺が崩壊してしまった

軽く目を擦り、尊から譲り受けた愛機のレスポールに目をやる
大好きな兄から貰った、大好きなギター
幼少期、悪意に傷付いたユイの心を癒したのは、このギターだった

ユイが虐待されていたことにより、尊もまた心に深く傷を負った
何故もっと早く気付いてやれなかったのかと悔やみ、悩んだ
その事実を忘却させるかのように、尊はギターを弾き始めた
虐待のことなどおくびにも出さず、笑み、自慢気に奏でていた
そのギターを、ユイは隣でずっと聴いていた

 

積もる話が沢山ある
尊が帰ってくるまであと3日
ひょっとしたらその3日間の間にまた過呼吸になるかもしれない───不安で仕方ないが、何とか乗り切ろうと腹を括る
暫し尊が弾いていたギターを思い出しては懐かしみ、ユイは部屋を出た

 

***

 

先程リサが淹れた焙じ茶は既に冷めており、リサは再び湯を沸かし始める
拓真と菱和は椅子に座り、一息吐いた

「‥‥‥ひっしー、ありがとね」

「‥なした、急に?」

「ん、うん‥‥ひっしーが居てくれてほんとに助かったな、って。‥‥有難う」

「好きでやってることだから何も気にしないで。俺でも力になれることあんなら、幾らでも利用して構わねぇから」

「‥‥ひっしーてさ、ほんと良い奴だよな」

「‥‥‥そうか?」

「うん。ユイの好きな人がひっしーで良かったなって、ほんとに思うよ」

「‥‥‥‥」

───好きな人、か

菱和はふ、と柔らかく笑った

 

「‥‥、電話、終わったの?」

リサが2階から降りてきたユイに気付き、声を掛けた
ユイは、薄く笑って頷いた

「うん‥‥」

「あんたもお茶飲む?」

「‥うん」

返事をすると、ユイは拓真の横に座った
泣き腫らした目が、充血しているのがわかる
だが、誰もその事を気に留めるようなことをしない
その空気が、ユイを殊更落ち着かせた
リサが急須に熱湯を注ぎ始め、香ばしい香りが漂う

「たけにい、何だって?」

「29に、帰ってくるって。‥‥それと、あとで拓真とリサに連絡する、って」

「そっか‥‥わかった」

「29‥‥まだあと3日あるね」

それぞれの前に湯呑みを置き、リサも着席した

 

「──────俺んち来る?」

「‥‥ふぇ‥?」

ユイはきょとんとし、間の抜けた声を出した
『尊が帰ってくるまでの間、うちに泊まっていれば良い』
拓真とリサがそう云おうとした矢先の提案だった

「親父さんもそれくらいには帰ってくるんだろ。‥‥っつーか一人じゃ置いとけねぇ。今日から兄ちゃんと親父さんが帰ってくるまで、うちおいで」

そう云って、菱和は先程と同じように笑む

「そうすれば?ユイ」

「菱和のとこなら、何の心配も要らないね」

拓真もリサも、菱和の提案に賛同した
しかし、ユイはなかなか首を縦に振らない

「‥や‥‥‥でも、悪いし‥‥」

一体、今更何が悪いというのだろう───
3人はそう思った
呆れた顔をして、菱和は溜め息を吐いた

「お前、この前何泊した?」

「‥‥2泊」

「1日増えるだけだろ。どうってことねぇよ」

拓真はくすくす笑い、席を立った

「3泊分の着替え、適当に詰めるぞー」

「‥歯ブラシ持ってくるね」

リサも席を立ち、洗面所に向かった

 

「ほんとに、良いの?」

「何が?」

「アズだって、年末だし実家帰んなきゃなんないんじゃ‥‥」

「兄ちゃんと親父さんが帰って来たら帰るよ」

「‥‥‥‥」

菱和の提案は有り難かったが、ユイはまだ快諾出来ないでいる
懸念はやはり、また過呼吸になってしまうかもしれないという危惧
例え3日間とはいえ、迷惑を掛けるようでは本末転倒と思える

無論、菱和にとってそれくらいのことは想定の範囲内であり、何やら躊躇っている様子のユイにだめ押しした

「‥‥一人の方が良い?」

「‥‥‥んーん‥‥」

「じゃあ、一緒にいよ」

酷く穏やかに笑む菱和
この表情に、沢山救われてきた
弱い自分すら受け入れてくれることが、嬉しく、情けなく、申し訳なくてならない
ユイは、また溢れ出そうになる涙をぐっと堪えた

「‥‥冷めるから飲みな。美味いよ」

菱和はユイの手を握り、湯呑みへと促した
ユイは照れ臭そうにして湯呑みを持ち、一度だけゆっくりと頷いた

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103 上田くんと鐘南ちゃん

「ユイくん、大丈夫かなぁ‥‥」

「大丈夫っしょ。拓真も近藤サンも、菱和も居るんだし」

「そうだよね‥‥大丈夫だよね」

「つーか長原、工藤にめっちゃ辛口だったな。思わず噴き出しそうになっちゃったよ」

「だって、ほんとのことでしょ?僻みとか妬みで人のこと傷付けるなんて、しかも影でコソコソと‥‥低俗で陰湿で、ほんと最低最悪」

「まぁねー‥‥俺も久々キレちった。ってか、近藤サンに告るとかマジ無謀過ぎだよな。俺だって未だに畏れ多くていっつも話し掛けるのすら躊躇ってるってのに」

「そうそう!ほんっと恥知らずもいいとこ!リサに話し掛けることすら赦されないよ。烏滸がましいにも程があるっての、あんな奴」

「‥‥‥やっぱ辛口」

「あんたもそう思わない?てか、リサはあんたのこと何とも思ってないと思うけど」

「およ、そうなん?」

「基本的にチャラい奴は好きじゃないから、リサは」

「‥‥、それって俺も含まれてる?」

「あんた、自分がチャラいって自覚無いわけ?」

「いや、無いわけじゃないけど‥‥」

「もう‥‥一時期、あんたと話したら『妊娠しちゃう』とまで云われてたんだからね!」

「え、マジ?」

「‥‥やっぱ知らなかったんだ」

「てかさ、話しただけで孕ませられるなんて超魅力的な特技じゃね?」

「もう金輪際リサと私に近寄らないで」

「‥じょーだんだよぉ!これからも仲良くしよーよぉ、カーナちゃあん!」

「うっっざ。‥‥まぁ、無害だってわかってるからリサもいちいち気にしてないんじゃないかな、あんたのこと。でも、“オトモダチ”って認識はしてると思うよ。あんたも含めて『PANACHEに行こう』って云い出したの、あのコなんだから」

「へぇー‥‥。俺、来年からはもう少し積極的に近藤サンに絡んでみるわ」

「あんま馴れ馴れしくすると逆に嫌われるよ」

「おっと‥」

「‥‥っていうか、菱和くん怖かったね‥」

「そうかぁ?普通じゃね?」

「普通、ではないと思う‥‥‥」

「まぁ、相当怒ってたよな」

「だよね‥‥あんな菱和くん、初めて見たからびっくりしちゃった」

「俺は2回目かな。敵じゃなくて良かったなーと思うよね」

「うん。それは素直に思う」

「ふふ。‥‥‥お、返事きた」

「なんて?」

「“オッケー”だってさ。『30分くらい待ってて』って」

「やった!何食べ行こー?楽しみー!‥あ、あんたはもう帰って良いよ。ご苦労様ー」

「え、俺も行きたいんだけど‥‥」

「何で?」

「『何で』って‥‥‥‥長原ぁ、あんま俺を苛めるなよぅ‥‥」

「‥嘘だってば!連絡してくれてありがと!まだ時間あるし、どっか行く?」

「あ、じゃあタワレコ行ってい?」

「うん、行こ!」

 

久留嶋に送ってもらった上田とカナはすんなり帰宅しようと思えず、駅前通りで下車させて貰った
昼食を食べていないこともありすっかり空腹だった2人は、ファミレスへ行くことにした
事の序でと思い立ち、上田はケイに連絡を取った
ケイを甚く気に入っている様子のカナはきっと喜ぶだろうと踏み、ケイから快諾の返事が来ると案の定カナは上機嫌になった
ユイを心配する気持ちは2人も同じだ
だが、拓真とリサ、菱和が居ることで、2人は安心して空腹を満たすことにした
ケイとの合流の時間までタワレコで時間を潰すことにし、2人は談笑しながら歩き出した

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102 THE‐PAST②

「───ユイ!!」

ユイは怯えた表情で膝を抱えていた
3人の姿が目に写ると、肩を竦ませる

「‥‥ぁ‥‥‥っ‥ここ‥‥は」

「お前の部屋だよ、大丈夫」

拓真とリサはユイを挟んでベッドに座り、菱和はユイの前に跪く
ユイは3人に囲まれ安堵の表情を浮かべ、震える自分の手にそっと添えられたリサと菱和の手をぎゅ、と握った
ふと、リサの手に貼られた湿布と菱和の手に巻かれている包帯が目に入り、冷静さを取り戻す

「───‥‥‥その手、ど‥したの‥‥?」

「‥力いっぱい握ってたもんね。‥‥それくらい必死だったんだよね」

リサは薄く笑い、今一度ユイの手を握った

「俺が、やったの?‥‥、アズの手、も‥?」

「‥‥俺のは“単独事故”」

「‥事故‥‥?」

「はー‥‥ほんっとにどうしょもないんだから」

「何だよ、ちゃんと謝ったろ」

「血が出たことに変わりないでしょ!?もう、バカ」

「お前が“こう”なってたかもしんねぇじゃん。そっちのがやだよ」

「そんなの気にしないし。‥やっぱ私が殴れば良かった」

「俺が傍にいるときゃ、ぜってぇそんなことさせねぇ」

「‥‥あっそ」

溜め息を吐くリサとあまり反省の色を見せていない菱和のやり取りを見て、拓真はくすくす笑った

「‥あの、俺‥‥」

「‥‥教室で過呼吸んなったんだ。覚えてる?」

「ん、うん‥‥みんな待ってると思ったから急いで教室戻ったら、工藤がいて‥‥それで‥‥‥‥」

「うん」

「‥‥『片親だから』どうとか云われて‥‥‥」

「うん」

「‥‥‥‥、‥‥昔のこと、少し思い出した。そしたら急に目の前が暗くなって、息出来なくなって‥‥‥」

 

『お前なんかいなくなっちまえ』

工藤が放った一言は、ユイの記憶と結び付き、呼び覚ました
“案の定”と思い、拓真は溜め息を吐いた

「やっぱそうか‥‥」

「ほんっっと最悪なことしてくれたよね、あの工藤とかいう奴」

リサは未だ、自分が工藤を殴れなかったことを悔やんでいた

「‥‥ごめん。折角みんなでPANACHE行こうって約束してたのに‥‥‥」


「はい、気にしなーい。PANACHEなんていつでも行けるっしょ。冬休み中にカナちゃんと上田誘って、みんなで行こ」

ただでさえ
拓真たちを待たせていたのにも拘わらず、過呼吸になった挙げ句失神してしまった
約束していた“クレープ祭り”を台無しにしてしまった
わざわざ自宅まで送り届け、ベッドに寝かせてくれていた
そして、目を覚ますまで待っていてくれた
様々な失態に対しての罪悪感が募り、申し訳なさで一杯になるユイは今にも泣き出しそうな顔をしている

菱和はユイの手をぎゅ、と握り、その顔を見上げた

「───ユイ」

「‥‥ん‥」

「2人から聞いた。‥‥昔のこと」

ユイは何度か目を瞬き、ほんの少し首を傾げた

「‥‥ひっしーになら、話しても大丈夫かと思ってさ」

「っていうか、私たちがこいつに聞いて欲しかったの。‥‥勝手に話してごめん」

「う、うん、そっか‥‥だいじょぶ。‥‥‥アズになら、聞かれても平気」

ユイは、半ばほっとしたような顔をした

「‥‥結構波乱な人生歩んでたんだな」

「‥‥‥重かったでしょ」

「‥誰にだって思い出したくない過去くらいあるだろ。別に昔の話聞いたからって、お前らから離れるつもりねぇから」

揺るぎない自信を携えた言葉だった
拓真もリサも改めて安堵し、ユイも少し顔を綻ばせた

「‥‥アズ‥‥‥ありがと」

菱和はふ、と笑み、ユイの頭をぽん、と叩いた

 

そして、徐に立ち上がる
制服のブレザーを脱ぎ、シャツのボタンを外し出した

「‥ひっしー‥‥?」

「───え?ちょっ‥‥!何してんの‥!?」

リサは思わず顔を赤らめる

「何だよ、男の身体見んの初めてか?」

「や‥ちょっと‥‥!」

狼狽えるリサをおちょくりつつ、菱和は順調にシャツのボタンを外していく
半分ほど外すと、下に着ているTシャツごと、制服のシャツをぐっと開いて見せた

 

鎖骨の下辺りに、歪な傷痕がある

拓真は驚愕ので目を見開き、リサはひっ、と息を飲んだ

ユイには見覚えがあった
初めて菱和の自宅に一泊した翌朝に見た傷痕、瞬時に“見てはいけないもの”と察したが特に何のお咎めもなかった、あの傷だ

 

「──────‥‥‥‥母親だった奴のカレシに、刺された痕」

「‥‥‥母親“だった”‥‥?」

言葉が過去形であることに、疑問を持つ拓真

「今の母親は、血は繋がってっけどほんとの母親じゃなくて。‥‥正確には、“伯母”にあたる。俺、14ん時から伯母の養子なんだ」

そこまで聞いただけでも、複雑な事情が見える
ユイも拓真もリサも、驚きの表情を隠せない
3人が黙って見守る中、菱和はゆっくりと自分の過去を語り出した

 

「‥‥母親だった女は、16だかで俺を産んで、相手の男はもう誰だかわかんなくて。“新しい父親”ってのが次々現れて、子供心に『これは普通じゃねぇ』ってずっと思ってた。‥‥‥そのうち“あの女”が家に帰ってこなくなって、中学入ってからはほんと好き勝手やってた。家にゃ誰もいねぇし、学校サボってつるんでた奴らと喧嘩ばっかやって。何だかんだ、あの頃あの頃で充実してたような気がする。端から見りゃ荒んだ私生活だったけど、何つーか‥‥色んな意味で自由だった。‥‥‥‥この傷が出来るまでは」

 

5年前のとある日の夜、事件は起きた

長らく自宅に帰らず夜半過ぎまで遊び回っていた菱和は、喧嘩仲間と下らない約束をした後久々に帰宅した

そこには見知らぬ男がおり、菱和は“母親の新しい男”なのだと直感する

無視していると、男は菱和をパシりにしようと管を巻いてきた

無視し続けていると唐突に殴って来、菱和は反射的に殴り返した

すると、激昂した男は台所から包丁を持って来た

 

「───気付いたら“ここ”に包丁刺さってて、気付いたら刺さったまんま馬乗りんなってそいつのことボコってた。包丁抜いて、そいつに突き立ててた。‥‥そのうちあの女が帰ってきてさ、すげぇ顔してんの。当然だわな、カレシは息子にボコられてるし息子は胸から血ぃ流してるし、包丁転がってるし。何もかも血塗れでさ。当然警察沙汰んなって、俺は児相に連れてかれた」

「‥“じそう”?」

「児童相談所。母親のネグレクト‥“育児放棄”と、カレシは“殺人未遂”っつーことで。その後も色々あって、最終的に伯母に引き取られて‥‥‥‥で、現在に至ります」

菱和は制服を着直し、ユイの前にしゃがみ込んだ

「‥お終い。‥‥重かったろ」

ユイは目を丸くしている
拓真もリサも、驚愕の表情で菱和の話を聞いていた

「‥‥めちゃくちゃヘヴィだね、ひっしーも‥」

「‥‥何でそんな話してくれたの‥?」

「いや、ユイの話だけ聞いといて俺が話さないのは不公平かな、って。‥‥それにただの昔話だ」

壮絶な過去を晒した菱和は一人、あっけらかんとしている


「これで“あいこ”」

軽く笑み、ユイの頭を撫でた

 

───長い間、ほんとに“独り”だったんだ、アズは‥‥

いつか感じた菱和の孤独感が再び思い起こされ、胸の辺りがぎゅ、と苦しくなる

「‥‥俺らにまで話してくれて、有難う」

「なんも。逆に、聞いてくれてどうも」

「‥‥あんたって、妙に達観してると思ってたけど、そういうことがあったからなのかな、多分‥‥」

「‥達観、か‥‥‥どうなんだろな。自分でも怖えぇくらい『冷めてんなー』と思うときはあっけど‥‥でも今は、ほんの少しだけ感謝してんだ」

「‥‥感謝」

「俺が伯母に引き取られてなかったら‥‥果ては“あんな”状況になってなけりゃ、お前らと会うこともなかったんだろうな‥とか思うと、さ」

そう云って、菱和は穏やかな顔をした

過去を乗り越えたからこそ得られたもの
その価値を考えると、自分が置かれていた状況に感謝せざるを得ない───菱和はそう思っていた

だからと云って、“大人たち”の行為は赦されるものではない
感謝している場合ではないのでは、と思うも、今こうして自分達の輪の中に菱和が居ること、居てくれることは、心強い
リサは妙に納得し、少し頷いた

「それは‥そうかもしんないね‥」

出会った当初から、大人びた印象だった菱和
その壮絶な過去の出来事は、自分ならばきっと『耐えられない』と感じる
途端、ユイは“弱い”自分が恥ずかしくなった

「───‥‥‥やっぱり、アズは強い、ね。‥‥俺、アズと同じ状況だったら、とてもじゃないけど感謝なんて出来ない。‥‥きっと、さっきみたいに過呼吸んなって、卒倒する」

「‥良いんだよそれで。お前はそれで良いんだ。大体、脆弱性なんて千差万別なんだから」

「“ぜいじゃくせい”‥‥?」

「どんだけ弱くて傷付きやすいか、ってこと」

「っていうか、そこは他人と比べるとこじゃないでしょ。‥‥たまたまこいつが“打たれ強かった”ってだけだよ」

リサは少し意地悪そうな顔をして云った
苦笑いをしつつ、拓真はリサの話に賛同する

「そーそー。強そうに見えても、案外脆くて弱い人ってたーーーっっっくさん居るよ。勿論、その逆もね」

「‥‥虐待されてる子供は大概、加害者を悪く云わねぇんだ。あくまでも『自分が悪い』って云うんだと。‥‥そりゃ日常的に『お前が悪い』って云われて育ちゃ、そう思い込むのも無理ねぇかなと思うけど。そういうとこに付け込んだのかもしんねぇな、そのオバサン」

「‥‥そうだね‥‥‥‥」

「っていうか、ひっしー詳しいね、そういう心理的な話」

「ああ、中学んときの喧嘩仲間に施設育ちの奴が居てさ。そいつがよく漏らしてたってだけの話」

「そっ、かー‥‥」

菱和にはきっとまだまだ自分達の知らない過去が沢山ある───
拓真とリサは、そう思った

「‥‥強かろうが弱かろうが、そんなん関係ねぇよ。佐伯もリサも俺も、“そのまんま”のお前がいちばん好きなんだって。‥それだけは忘れんなよ」

菱和はユイに向き直り、優しくそう云った
3人の顔は、皆一様に穏やかな表情

いつまでも変わらない幼馴染みの拓真とリサ
過去を知ってもなお傍に居てくれ、また自らの過去も晒した菱和
云い表せないほどの感謝の気持ちが、溢れ出て止まらなくなる

「───‥うん‥‥‥うん‥‥っ‥、‥‥」

ユイは次第に肩を震わせ、溜まっていた涙をぼろぼろと溢し、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた
恥さえも憚らず、3人の前で泣きじゃくった
拓真もリサも菱和も、ユイが泣き止むまでその傍を離れず、ただ見守った

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101 THE-PAST①

時刻は夕方に差し掛かった
ユイはなかなか目覚めなかったが、直に覚醒するとの判断を下した久留嶋はタクシーを一台呼んだ
拓真、リサ、菱和はそれに乗ってユイの自宅に向かった
更に久留嶋は、上田とカナを自分の車で自宅へと送り届けた

菱和は助手席に、拓真とリサは後部座席に乗り、リサはユイに膝枕をして寝かせた
タクシーに揺られる中、3人は一言も喋らず皆一様にユイのことを想っていた

 

ユイの自宅に着くと、拓真と菱和が2人掛かりでユイを寝室に運び、ベッドに寝かせた

机には読みかけの漫画が詰まさっており、隣の棚には漫画と雑誌がところ狭しと並ぶ
愛機の黄色いレスポールはシールドが刺さりっぱなしで、アンプに繋がったまま
床にはスコアやCDが散乱し、お気に入りなのであろうクッションが草臥れた様子で転がっている

「───‥ユイの部屋、初めて?」

室内を見回していた菱和は拓真に声を掛けられ、ふっと顔を上げた

「‥‥ああ、うん」

「散らかってるっしょ。いっつもこんな感じなんだ」

拓真は軽く笑ってそう云った

いつも雑然としており、拓真とリサに『少しは片付けろ』とでも云われているのだろうか

「───‥‥‥」

室内にその余韻が残っているような気がした菱和は、静かに息をし横たわっているユイをちらりと見て、拓真に続いて部屋を出た

 

***

 

2人が2階から降りてくると、リサがキッチンで湯を沸かしていた

「‥‥どう?」

「落ち着いてるよ。まだ目を覚ます感じじゃないけど」

「そう。‥‥今、あったかいの淹れるから待ってて」

リサに促され、拓真と菱和はダイニングの椅子に座った
程無くして、温かい焙じ茶が入った湯呑みが2人の前に置かれる
香ばしい茶の香りがふんわりと喉を通ると、ついさっきまで騒然としていたことを忘れてしまいそうになるほど落ち着いていく
リサも座り、琥珀色の焙じ茶を見つめた

「───もしかさ、」

「何?」

「‥‥“あのこと”だよな、やっぱ」

「‥‥‥、そうかもね」

長い付き合いを続ける中、ユイが過呼吸になったのは今回が初めてのことだ
拓真とリサにはユイが過呼吸になるほどのストレッサーに心当たりが一つあったが、まさかこんな事態を招くことになるとは2人とも予想だにしていなかった

ユイがこの先ずっと苦しむことになってしまったとしたら───
そんなことを憂い、2人は溜め息を吐いた

「‥‥過呼吸になった原因?」

「ん、うん‥‥‥‥」

「‥や、別に詮索する気はねぇんだけどさ。少なくとも、2人がその辺の事情わかってんならそれで充分だろうから」

そう云って、菱和は焙じ茶を啜った

リサは菱和の横顔を見つめると、ぎゅ、と拳を握り締めた


「───拓真」

「ん?」

「‥‥菱和になら、話しても良いんじゃない」

「え‥」

「‥‥‥‥、何の根拠もないし、こっちの勝手な都合だけど、こいつならユイの過去も全部受け入れてくれる‥って思ってる。‥‥負担にはさせたくないけど」

今一度、ぎゅ、と力が篭るリサの拳
相反する2つの感情を抱く複雑な表情のリサを見遣る

「‥‥‥‥そういう過去も含めて全部“あいつ”だろ。それをわかってて、お前も佐伯もあいつとずっと一緒に居るんだろ」

菱和はほんのりと口角を上げた

───ああ、きっと大丈夫だ

自分達の想いを汲み取ったような言葉を聞き、拓真とリサはそう思った

「‥‥‥ひっしー。聞いてくれる?ユイの昔の話」

「‥うん」

菱和がこくりと頷くと、拓真は心置きなく話し出した

 

「───ユイに母親が居ないのは、知ってる?」

「うん。前にあいつが云ってた。『父子家庭だ』って」

「そう、2歳くらいの時だったかな。‥‥ユイの母さん、交通事故で亡くなってんだ」

「‥事故」

「うん───」

 

15年前

横断歩道を渡っていた母子に、一台の車がノーブレーキで勢いよく突っ込んできた

母親は咄嗟に子供を庇い、そのお陰で子供は掠り傷程度で済んだが、母親は意識不明の重体に

治療の甲斐も空しく、母親は意識が戻らぬまま2日後に死去した

残された家族は哀しみに暮れたが、幼かったユイは母親が亡くなったことをきちんと理解していなかった

兄の尊と父親は『お母さんは遠くに行った』とユイに教え、記憶に残るか残らないか曖昧な年齢のうちからそう教えられたユイはすんなりとそれを受け入れた

だが、事故直後の凄惨な光景───血塗れで自分の傍に横たわる母親の姿は記憶の片隅に残っていた

いつ何かの弾みで“その日”の出来事を鮮明に思い出すかわからず、そのショックは計り知れないものだと、当時の児童心理士は云った

以降、家族はおろか親戚でさえも、事故死した母親のことをユイの前で口にすることは無かった───

 

「───‥‥ユイの叔母さんだけを除いて」

「‥‥‥‥叔母?」

「お母さんの、妹さん。お母さんが亡くなってからここに出入りするようになったんだって。‥‥ああ見えてユイって小さいとき虚弱体質だったんだよ、しょっちゅう熱出してたし今よりずっと食も細くて、結構手が掛かる子供だったっぽい。だから、『お兄ちゃんは健康で勉強も出来るのに何でこの子は』ってなって‥‥‥たけにいと親父さんが居ないとこでユイのこと蔑んで、虐めてたんだ。無視したり、幼稚園のお迎え行かなかったり、飯食わせなかったり‥‥‥事故の話もしたみたいでさ、最終的に出てきた言葉が───」

 

「“お前なんか生まれてこなければ良かったのに”」

 

母親の事故死から2年後

4歳になっていたユイ
叔母から云われた言葉と自分に母親がいない理由が直結し、『母が亡くなったのは自分の所為だ』と刷り込まれ、次第に口数が減り笑顔を見せなくなった

 

「‥‥一番最初は、たけにいが気付いたの。ユイの身体に、痣が出来てるの。‥‥私たちもまだ小さかったから、虐待の定義も意味もわかんなかった。大きくなるにつれて、段々あのときのことがわかってきた‥って感じ。だからって、当時の私たちに何が出来た訳じゃないけど‥‥でもそのとき何も出来なかったからこそ、“今”はユイのこと護りたいの。‥‥‥‥大袈裟かもしんないけど」

「俺らの前では明るく振る舞ってたけど、その裏で悲惨な目に遭ってたんだ‥って思うとやりきれなくてさ‥‥だから、ユイが困ったときは力になりたいと思って、今までずっと一緒に過ごしてきた。腐れ縁だからさ、俺ら。その叔母さんのことよく知らないけどさ、自分で勝手に出入りしといてユイのこと厄介に思って挙げ句虐待とか‥‥‥‥ほんと身勝手だなって、ずっと思ってた」

 

自分達だって幼かったのだ、それは致し方ないこと
悪意に対抗する術がなかったことは自分達だってわかっているが、“当時の自分達は何も出来なかった”と、拓真とリサは未だに後悔の念を抱いている


菱和は、単なる同情ではない幼馴染みなりの慈しみや愛情の深さを改めて実感した
リサが、ユイのことになると“保護者”のように冷静さを欠くほど激昂するのも頷けた

「‥‥‥そうだな。‥‥大人って、結構身勝手だよな」

何か含みを持った菱和の言葉
拓真とリサは、怪訝な顔をした

 

「───うわああああっっっ!!!」

突如、2階から悲鳴が上がった
3人は顔色を変えて立ち上がり、一目散にユイの部屋へ向かった

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100 虐

たくまにもりさにもお母さんがいるけど、ぼくにはお母さんがいない

どうしてかわからないけど、ぼくにはお母さんがいない

でも全然淋しくない

父さんと兄ちゃんがいるから

たくまもりさも、あっちゃんもいるから

それに、“あの人”も

 

“あの人”は、よくぼくの家に来てご飯を作ってくれたり、お洗濯をしてくれたりする

父さんも兄ちゃんも、“あの人”がきて喜んでた

ぼくも、嬉しい

何だか、“あの人”がお母さんになってくれたみたいで

 

“あの人”は、良い人

でもぼくは、“悪い子”だった

よく風邪をひくし、ご飯もたくさん食べられないから

 

そのうち、“あの人”は幼稚園のお迎えに来なくなった

ぼくが悪い子だから

 

そのうち、“あの人”はぼくの云うことが聞こえなくなっちゃった

ぼくが悪い子だから

 

そのうち、“あの人”はぼくの体を叩くようになった

ぼくが悪い子だから

 

ぼくは、「“生まれてこなければ良かった”」

ぼくが悪い子だから

 

ぼくにお母さんがいないのは、ぼくのせいなんだって

ぼくのせいでお母さんは死んじゃったんだって、“あの人”が教えてくれた

 

誰にも云っちゃいけない

誰にも見せちゃいけない

ぼくが誰かに「痛い」って云ったり青くなった背中を見せたら、父さんも兄ちゃんも居なくなっちゃうって、“あの人”がそう云ったの

“あの人”とぼくだけの秘密

 

だから、我慢しなきゃ

父さんと兄ちゃんが居なくならないで済むなら

ご飯が食べられなくても

喉がひっつくくらいカラカラになっても

暗いとこに閉じ込められても

ベランダに出されても

ぜんぜん平気だよ

 

ぼく、我慢できるよ

大丈夫だよ

 

だから、父さんも兄ちゃんも、そんな怖い顔しないで

そんな哀しい顔しないで

 


悪いのは全部、ぼくだから──────

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99 Malice⑤

「よっ!ユイ図書室行ったん?」

「うん。12:30までなんだってさ」

「ちょっと小腹満たすのにコンビニ行ってこない?」

「行く行くー!ユイにジュースでも買っといてやっか!」

「リサと菱和くんは、待ってる?」

「‥‥いや、俺も行くわ」

「おや、珍しっ。今日は雪でも降りますかねぇ」

「‥‥槍かもね」

「ん、リサも行くの?」

「‥うん」

「‥‥やっぱ、降るとしたら雪じゃなくて槍かもしんないね」

終業式が終わり、人も疎らになってきた校内
ユイを待っている間、拓真たちはコンビニへと買い出しに出掛けた

 

***

 

12:30を少し過ぎた頃
ユイは図書の仕事を終え、鞄と上着のパーカーを取りに教室へと急いだ

───PANACHEのあとは、家帰ってギター弾いて‥‥夜は兄ちゃんに電話でもしよっかな、父さんにも。‥‥‥そういや何だかんだでアズとはまだ長電話してなかったなぁ‥‥冬休み中に一回くらい、付き合ってもらおっかな

楽しみだけがユイの頭を占拠し、気持ちは逸る一方
ガラリと勢いよく教室のドアを開け放つ
誰も居ないだろうと思っていた室内に、一人の男子生徒が居た
ドアの音にかなりビビり、気まずそうな顔をしている

「‥あれ‥‥‥‥確か5組の、工藤‥‥だっけ?何してんの、ここ2組だよ?‥‥てかそれ、俺のパーカ───」

軽く笑って教室に入ると、工藤がユイの鞄とパーカーをゴミ箱に突っ込んでいるのが目に入る
ユイの顔から笑顔が消えた

疑うのも気が引けるのだが、この現状を見て今までの私物の紛失や破損は目の前にいる同級生の仕業としか思えなくなった

「‥‥‥‥、‥‥ひょっとして、俺の上靴とか教科書、工藤がやったの‥‥?」

「‥だったら何だってんだよ」

工藤は舌打ちをし、ユイの鞄とパーカーを床に叩きつけた

「いや、違うならごめん。俺、最近モノ失くなること多くて‥‥‥‥俺がなんかした所為でそういうことされてんだと思ってたから、ずっと謝りたいなぁって思ってたんだ。‥‥だから、もしそうならそうだって云って欲しい」

「は?そういうのマジうぜぇ。イイ子ぶってんじゃねぇよ。ほんっときめぇ。菱和と一緒にいるからって、イイ気になんなよ」

「‥‥‥‥なに、それ‥‥イイ気になんかなってないよ。そんな風に思ったこと、一度もない」

「どうだかな。‥っつうかお前、片親なんだってな」

「‥‥‥‥、そうだけど」

「お前、ほんと躾がなってないよな。一体どんな教育されてきたんだよ。お前がそんなんなら、親も親だなきっと」

工藤は鼻で嘲笑った
心無い暴言に、心が傷む

───何でこんなこと云われなきゃなんないの?確かに俺は兄ちゃんみたいに頭良くないし空気読めないし落ち着き無いけど、それは父さんの所為じゃないよ───

疑問符だらけだったユイの表情に、怒りが加わった

「‥‥関係ないだろ。俺は何云われても良いけど、親まで侮辱する筋合いなくない?」

「あっそ。やっぱお前ってうぜぇわ。ムカつく。やっぱ鞄も上着も焼却炉に突っ込んでくるんだった」

工藤は苛立ちに任せてゴミ箱を蹴飛ばした
空のゴミ箱が乾いた音を立てて横に倒れる
その音に驚き肩を竦めたユイは、眉を顰め、捻り出すように工藤に訴えた

「‥‥‥‥俺、そんなに悪いことした?ほんとに身に覚えないんだ‥‥何が悪いのかわかんないまま謝るのも失礼だしさ、ちゃんと教えて欲しいんだよ」

「───じゃあ云ってやるよ。お前の存在自体きめぇんだよ。お前なんか、この世から居なくなっちまえば良いのに」

 

工藤が抑揚なく云い放った言葉に、既視感を覚える

歪んだ声が、ユイの頭の中に再生された

 

お前なンカ

生まレてコナけれバ良かっタノに

 

「──────‥‥‥‥は‥‥っ‥」

 

息が詰まる

鼓動が速くなる

掌の汗

血の気の引く感覚

膝が笑い出す

目眩

目の前が暗くなってゆく

 

堕ちる

 

「‥‥‥おい、どうしたんだよ」

ユイの様子がおかしいことに気付き工藤が声を掛けた刹那、ユイは膝から崩れ落ち、身体を痙攣させた

「‥っぁ‥‥‥‥、‥っ‥‥‥か‥‥‥‥っっ‥‥!!!」

「何だよどうしたんだよ!!俺なんもしてねぇぞ!?っマジふざけんなよ!!」

ユイは倒れ、酸素を求めてのたうち回った

 

「ユーイ、いるー?‥ユイ!?」

「何だよ、どうしたん?」

コンビニから帰ってきた拓真たちが教室に入ってきた
工藤が呆然と立ち尽くす傍らでユイがのたうち回っているのを見て、直ぐ様駆け寄る

「‥ぁ‥‥っ‥‥‥‥っ!!」

ユイは必死に何かを訴えようとしている様子だが、上手く呼吸が出来なくパニックに陥っていた
菱和がユイの身体を起こし、眉を顰める

「‥‥過呼吸だ」

「くるちゃん呼んでくる」

上田は保健室へと一目散に走っていった

「ユイ!大丈夫!?ユイっ!!」

リサは震えるユイの手を握った
見開いた目は視点が定まらず、身体の痙攣は一向に治まらない

「ユイっ!!ユイっっっ!!!」

声掛けに応じたいと思っても、身体が云うことを利かない
ユイは今一度目を見開くと、意識を手放した

騒然とする教室に、上田と久留嶋が走ってくる音が響く

「くるちゃん、早く!!」

「はー、はー、待っ、て‥‥」

久留嶋は全速力で走る上田に追い付こうとも追い付けずへろへろになっていたが、教室に入ると途端に“養護教諭の顔”になる

「石川くん。わかる?石川くん」

失神しているユイは脱力し、久留嶋の呼び掛けに応じない

「‥‥取り敢えず、保健室運ぶね」

菱和はユイを久留嶋に託した
久留嶋がユイを背負うと、拓真と上田は後をついていく
カナは震えるリサの肩を支え、保健室へと促した

 

「───お前も来いよ、“第一発見者”」

菱和に無表情で見つめられる工藤
未だ殆どの生徒に『畏れ多い』と思われている菱和───工藤も、ご多分に漏れない生徒の一人だ
怯えた様子で保健室に向かう面々の後に続き、菱和は更にその後をついていった

 

***

 

「稀な症状だけど、過呼吸のあとに失神するケースもあるんだ。でも命に関わるようなことじゃないから。少し休めば、そのうち気がつくよ」

保健室のベッドに横たわるユイ
意識はなくとも、ゆっくりと呼吸している
それぞれが椅子や空いているベッドに腰掛ける中、菱和はドアの側におり、壁に寄り掛かっていた
工藤が逃げ出さないよう、無言の圧力を掛けている

リサの手は、ユイがパニックの中力の限り握り締めていたことで若干鬱血しており、久留嶋が冷湿布を貼ったその手でまたユイの手を握った

「‥‥ユイが目を覚ますまで、待ってても良いですか」

「うん、構わないよ」

リサの問いに、久留嶋はにこりと笑って返事をした

「‥‥ひっしー、カナちゃんと上田も、先帰んなよ。ユイ、いつ目覚ますかわかんないし」

「ううん。待ってる」

「俺もー」

上田もカナも、拓真やリサと一緒に、ユイが目を覚ますのを幾らでも待つつもりでいる

「‥‥だってさ」

無論、菱和もそのつもりで、穏やかにそう云った

「‥‥‥‥ありがと、みんな」

 

保健室は、静寂に包まれる
呼吸音すら聴こえない息のユイに、皆一様に思いを馳せる

「‥‥何で過呼吸になったんだろな‥失神までするなんて」

誰もが疑問に思っていたことを、拓真がぽつりと口にした

「‥‥‥‥きっと、心に相当過剰なストレスがかかったんだろうね。石川くん、だいぶパニックになったと思うよ」

「心、に‥‥‥‥」

久留嶋は、医学的見地から見解を述べる
過呼吸になった原因は、“心への過剰なストレス”
では、そのストレスとは一体なんだったのか───

「念の為、親御さんに連絡しようか」

「今ユイの親居ないんです、出張中で」

「他に、ご家族は?」

「お兄さんが居るんですけど、どっちにしてもすぐ帰ってこれる距離じゃないから‥‥こういうときって、どうしたら良いんだろ‥‥‥」

「佐伯くんは石川くんと仲良いの?」

「あ、はい。幼馴染みなんで」

「そっかそっか、だから石川くんの家族構成に詳しいのね。なるほど‥‥‥取り敢えず、名簿取ってくるよ」

久留嶋は名簿を取りに、職員室に向かった
ぱしん、とドアが閉まると、保健室に再び静寂が訪れる

 

その静寂に紛れ、小さくも憤怒の声がする

「‥‥何したの」

声の主は、リサだった

「───ユイに何したのっっ!!?」

リサは工藤を睨み付け、怒鳴った
憤慨するリサを見るのは、保健室にいる殆どの人間が初めてのこと
拓真ですら滅多に見ることの無いその姿に皆が驚き、クールなリサのイメージが覆される
工藤は吃りつつ、弁解した

「な、何もしてねぇよ‥‥話してただけ、で‥」

「‥‥じゃあさ、何話してたのか教えてよ」

拓真は冷静に、工藤に問い掛ける
工藤は目を逸らし、押し黙った

「‥‥‥‥早く云わねぇと、お前も失神しちゃうかもよ?」

上田は低い声で工藤にそう云った
四面楚歌の状況下、少々やんちゃな生徒とも付き合いのある上田に加え、長らく“不良”と目されている菱和
この2人にならば、容易く“失神させられる”───工藤はそう思い、重い口を開いた

「‥‥‥‥、‥‥片親だってことと、『いなくなっちまえ』って云っただけだよ」

皆、眉を顰めたり溜め息を吐いたりし、肩を落とす

「そういうのはさ‥‥“人として云っちゃいけない言葉”なんじゃないかな」

拓真は諭すように云った
工藤はバツの悪い顔をしている

「‥‥っつうか工藤さ、近藤サンに告ったんだって?」

突然、上田が何の脈絡もない話をし出す
当事者がこの場に居るにも拘わらず、ユイのようなKY発言をかます上田に、工藤は慌てふためいた

「!! ばっ‥何で知ってんだよ!?」

「んー?飯田と新谷と3人で話してるの聞いちゃったんだよねー。もう、密談と猥談はもっと場所選ばなきゃ駄目よぉ。『悩み相談してた保健のセンセーに職員室までお使い頼まれて帰りに教室寄ったらうっかりたまたま話聞いちゃったクラスメイト』とか居るかもしんないじゃん?‥あ、飯田と新谷にまで八つ当たりすんのやめろよな?あんな時間だから誰も居ないだろうと思って油断してたお前が悪いんだからさ、な?」

上田はおちゃらけた口調で次々と話した
工藤は顔を歪ませたが、すぐに顔を背けた

「いやー、ほんと酷かったなぁ。聞けば聞くほど引いちゃったよ。よくあんなこと出来たよな。俺なら同じことされたら登校拒否しちゃうかもしんない」

「‥‥何の話してんだよ」

「あれ?しらばっくれんの?無駄な足掻きはよした方が身の為だと思うよ?」

「何がだよ、うぜぇな」

「‥‥‥樹、もしかして‥‥」

カナが上田と工藤を交互に見遣る
他の面子に比べあまり詳細を知らないカナでも察しがつく、上田の口調

「そうそう!『犯人は、この中にいる!』ってやつね!」

「何だよ“犯人”って!!」

「だから、ユイの私物しっちゃかめっちゃかにした犯人だよ。スマホまであんなバッキバキにしてくれちゃってさ」

「な‥“それ”は俺じゃねぇよ!!」

「でも上靴とか教科書とかノートとかスニーカーはお前がやったんだよな?教室にあった鞄もパーカーもどうにかする気だったんだよな?ってか、ユイのスマホ壊れてねぇから」

上田は怒りを露にし、早口で云った
カマをかけられていたのだと気付き、工藤は漸く観念した

「‥‥何で、あんなことしたの?ユイ、工藤になんか酷いことした?」

幼馴染みに酷い仕打ちをした人間を目の前にしても尚、拓真は冷静にしている
リサがこの場に居合わせている最悪のタイミング
工藤は、恥を承知で弁解した

「‥‥いっつも騒がしくてうるさくて、目障りだった。‥菱和と居るようになってから完全調子乗ってると思って、告ったのが上手くいかなかったのも、あいつがいっつもべったりくっついてるからだ、って‥‥」

「何それ。リサにフラれた腹いせに、ユイくんに嫉妬と八つ当たりしてたってこと?男のくせに随分女々しいんだね、あんた」

カナは、バッサリと斬り捨てた
反論する余地もなく、工藤はただ俯いた

「‥‥‥‥そんな下らない理由でユイのこと傷付けたの」

聴こえるか聴こえないかという小さな声で、リサは呟いた
突然椅子から立ち上がり、工藤に一発お見舞いしようと試みる
が、握り締めた拳がふわりと包まれる
有無を云わさず殴ろうと思っていたその手を止めたのは、菱和だった

「───やめとけ」

菱和は怒りに震えていたリサの手を、軽く握った

「──────っ離して!!何でユイがこんな目に遭わなきゃなんないの!?意味わかんない!!仮に私がOKしてたらここまでされてなかったってことでしょ!!?」

「そういうことじゃねぇ。お前の所為でもねぇ」

「リサ、違うでしょ。落ち着いて」

カナが宥めるも、リサは冷静さを欠いている
2人の制止を、振り解こうとした

「良いから離して!!も‥赦せないんだよっっ!!!」

「俺もだよ」

重く低い菱和の声に、リサの動きがピタリと止まった
切れ長の垂れ目が、鬱陶しい前髪から垣間見える
その瞳の奥は、自分と同じ“怒り”───

「お前がこいつを殴る価値はねぇよ」

菱和はリサの手をそっと離した
その手は自然に脱力する

「‥‥‥‥“こういうの”はさ、」

少し口角を上げ、菱和は工藤を見据えた
“標的”へと、ゆっくりと近付いていく
菱和が歩みを進める毎に工藤は後退りしたが、とうとう窓際まで追い込まれた

「───俺のがお誂え向きだろ」

菱和は何の躊躇いもなく、工藤目掛けて振りかぶった

 

菱和の拳は工藤の頬を掠め、窓ガラスを突き破った
硝子の割れる音が保健室に響き渡る
粉々になった硝子はカシャン、と音を立て、次々と床に散らばった
硝子の透明に混ざるように、鮮血の紅がぱたぱたと落ちる
工藤は殴られるのを覚悟し目を瞑っていたが、窓ガラスが割れる音にその目を開ける
至近距離で冷たく自分を見下ろす菱和が映ると、冷や汗が噴き出し、息を飲んだ

 

「───お前も十分目障りだよ。‥‥こんな風にグッシャグシャになるか失神するか、どっちが良い?」

菱和は血塗れの手で工藤の頬を軽く叩いた
血液が肌に触れ、べちゃ、と音がする

「──────‥ひっ‥‥っ‥!」

尋常ではない恐怖に戦き、工藤は慌てて保健室から出ていった

 

「ちょっとなに今の音ー‥‥っておいおい怪我人出てるし!」

工藤と入れ違いになるように、久留嶋が保健室に入ってきた
窓ガラスが割れる音は静かな校舎に響いており、久留嶋の耳にも届いていた
粉々になった窓ガラスと流血している菱和を見て、一気に青ざめる

久留嶋は菱和の手当てをし、拓真と上田は硝子を片付け始めた

「ビビったぁ‥‥ほんとに殴っちゃったかと思った」

「‥最初から窓ガラス行く気だったんだけど」

「『最初から』って‥‥もおぉ‥‥‥‥はぁ、なんて説明したら良いんだ‥‥なんか適当に言い訳考えるか‥‥‥‥」

「すいませんでした」

「ふふっ、むっちゃ棒読みだし。‥‥ってか菱和、痛くねぇの?」

「‥‥それなりに」

「だよね、めっちゃガラス刺さってたもんね‥‥‥すごい血出てたし‥‥」

「ガラスって、ちょっと触っただけでも意外と出血するもんなぁ」

「ほんっっっとバカ。『血の気の多いのは沢山』って云ったでしょ」

「‥‥怪我してんの俺だけだし、直接あいつを殴んなかっただけマシだろ」

「そういう問題じゃない!!!!!」

5人の声が、綺麗にハモる

「‥‥‥‥すんませんした」

菱和は軽く頭を下げ、窓ガラスを2枚も破損した挙げ句流血してしまったことを全員に詫びた

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98 Malice④

終業式を明日に控えた午後
美術準備室で昼食を摂り終えのんびりと過ごす最中
上田はユイが用を足している間に準備室に隣接する美術室に拓真と菱和を呼び、ユイへの嫌がらせの件を伝えた

「───じゃあ、今までのアレは工藤がやってたってのね」

「そー。飯田も新谷も、素直にゲロってくれたよ。菱和の下駄箱に入れた理由は、ユイと菱和を誤解させ合う為だったみたい」

「悪質だな‥‥‥ま、そんなこったろうと思ってたけど」

「取り敢えず、あの2人はお咎め無しってことで。ちゃんと全部話してくれたし」

「俺からしたら見て見ぬ振りしてた2人も同罪だけどな」

「どうかーん。‥‥でも、俺に免じて多目に見てやって。『次はない』っつっといたし、あいつらはほんとに何もやってないみたいだから。‥‥‥で、どうする?ユイに話す?」

「‥‥‥‥いや、黙ってよ。『もう飽きた』って云ってたんだろ?」

「またなんかやってくることあったら、そんときはボコろーぜ」

「‥‥出来れば穏便にしたいとこだけど」

「たっくんてば、ほーんと平和主義だねぇ」

「いや、わざわざ新しい諍い作らなくても良いだろ」

決して怒りの感情が沸かなかったわけではない
だが、無駄な火種をわざわざ生み出す必要もない
拓真の意見は至極最もだ
上田はつまらなさそうな顔をして、壁に寄り掛かり黙って話を聞いていた菱和に声を掛ける

「菱和はどう思うよ?」

「放置で良いんじゃねぇの。‥‥‥でももし今後ボコるような機会があんなら、俺もやる」

「じゃ、菱和と俺でボコるってことで!」

「嬉しそうに云うなよ!だーかーらー、万が一そういうことになったとしても話し合いで済ませば良いんじゃないのぉー!」

「上手いこと話の通じる相手じゃなかったら、そんときは“仕様がねぇ”ってことで良いんじゃねぇか」

「そだな、そうしよ!」

「もおぉ、勘弁してよ2人とも‥‥」

「ふふっ、冗談だってばぁ」

「ほんとかなぁ‥‥お前のそのニヤけ顔見てると冗談に聞こえない」

「‥‥‥‥っつうか、“工藤”って誰」

「俺のクラスの奴。‥‥って、わかんねぇか。クラス違うなら尚わかんねぇよな」

「正直、皆同じ顔に見えっから」

「‥‥どう過ごしてたらそういう感覚になるんだよ?」

「‥‥‥‥、大した興味ねぇからかな」

菱和の言葉を噛み砕くと“自分達はしっかりと認識されている”と捉えられ、拓真と上田は顔を見合わせ軽く噴き出した

 

「ね、お邪魔して良い?」

話が一区切りついたのを見計らったかのように、リサとカナが準備室のドアからひょこっと顔を覗かせた

「あ、良いよ。どうかした?」

「明日さ、みんな予定ある?」

「いや、無いよ」

「俺もー!」

拓真は軽く返事をし、上田は嬉しそうに手を上げる
菱和も軽く首を横に振った

「ほんと!今2人で話してたんだけどさ、終業式終わったらみんなでPANACHE行かない?」

「おお、良いねぇ。明日は午前中で終わりだもね」

「やった!じゃ、“祝冬休み”ってことで、みんなでパーっと行こ!」

「‥‥っていうか、“みんな”って俺も入ってんの?」

上田が怪訝そうに訴えると、カナは溜め息を吐いた

「なに野暮ったいこと聞いてんの。行きたくないの?」

「いや、行きます!行かせて頂きます!」

いつもなら『あんたは別』などと云われ、今回もそうなのだろうと思っていた上田は心底嬉しそうにし、敬礼をした

 

「なんだ、みんなこっちに居たんだ」

用足しを終えたユイが、準備室からひょっこりと顔を出した

「あ、ユイくん。明日の放課後、みんなでPANACHE行こ!」

「‥‥あー‥‥。俺、図書室の受付やんなきゃなんないんだよね。冬休みの間本借りてく人の、貸し出しのチェック」

「ほー、ユイは図書委員なのな。んじゃ、それ終わるまで待ってるか」

「そうだね、借りてく人が少ないことを祈って、みんなで行こ!」

「え、良いよ。待たせるの悪いし、俺抜きで行ってきてよ」

「何云ってんのもう!ユイくんは絶対居ないと駄目でしょ!」

「そう‥なの?」

「うん!っていうか、このメンバーで行きたいの!ね、リサ?」

「‥‥‥‥暫くみんなで会うことなくなるしね」

リサは素っ気ない態度でそう云った
冬休みに入れば、このまったりとした昼休みは一月近くお預けだ
冬休みは冬休みで楽しみだが、この昼の団欒の機会が暫くの間無くなるのは惜しまれる
誰もがそう思い、納得した

「‥そっか。じゃあ、明日はクレープ祭りだね!」

「ふふ、楽しみ!」

 

午後の授業が始まる前に、ユイたちは談笑しながら教室へと戻る

「PANACHEとかめっちゃ久々に行くんだけど。楽しみだなぁ」

「上田も甘いもん好きだっけ」

「おう。PANACHEはケイがよく行くから、たまに一緒に行ってんだ」

「え、ケイさんも甘いもの好きなの!?」

「うん。あいつ甘党だよ」

「やだぁ、何でもっと早く教えてくんなかったのぉ!今度、ケイさんにスイーツ巡りしよって云っといてよ!」

「ああ、良いよ。きっと喜ぶわ」

「ひっしーはまた抹茶?」

「‥‥‥‥他に何があったっけ」

「メニュー多過ぎて覚えらんないよなぁ」

「それはうちらに聞いて!ねー、リサ?」

「生クリームチョコ、カスタードチョコ、キャラメルマキアート、ブルーベリーチーズケーキ、ストロベリーチーズケーキ、チョコバナナ、ガトーショコラ、ティラミス、抹茶、メープルバター、ツナサラダ、生ハムチーズ、モンブラン、ミルフィーユ、‥‥」

「うは、覚えらんねぇ!近藤サン、よくそんなスラスラ出てくるね!」

「暗記するほど行ってるからさ、うちらは!」

「‥‥モンブランとミルフィーユは期間限定だよ」

「うおぉ、“期間限定”とか唆られるなぁ」

 

───明日は何味にしよっかなぁ‥‥

ケラケラと笑う拓真たちを他所に、リサが羅列したメニューを思い浮かべるユイ
ぼんやりとしていると、誰かとすれ違い様に軽く肩がぶつかった

「‥あ、ごめん」

ユイは咄嗟に謝ったが、ぶつかった相手は何も云わずすたすたと歩いて行ってしまった

その相手が自分に嫌がらせを続けていた人物だと知る由もなく、ユイは少し首を傾げて教室へ向かった

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97 Malice③

───誰だ、こんな時間まで残ってるなんて‥‥って、それは俺もか

時刻は夕方18:00頃
保健室でだらだらしていた上田は養護教諭の久留嶋から頼まれ、職員室に備品を取りに行った
久留嶋の云う通り、職員室の久留嶋の机の上には段ボールが置いてあった
中身がガーゼである比較的軽めの段ボールを小脇に抱え、上田は職員室を後にした

保健室に戻る途中、自分の教室の電気が点いているのが見え、何の気なしに寄ってみることにした
3人の男子生徒が、何やら話し込んでいる声が聞こえる

「───やっぱ高嶺の花なんだよ近藤は。他の女子とまるでオーラ違うもんな」

「そーそー。なのに告るとか、無謀過ぎだったんだよ」

「うるせぇんだよバカ!!全部“あいつ”の所為だろ!幼馴染みだか何だか知んねぇけど、いっつもくっついてやがってよぉ‥マジムカつく!」

───‥“近藤”‥‥って、近藤サンのことだよな。まぁ、確かに工藤程度の奴じゃあ無謀だわな。一緒にいる機会増えたけど、俺ですら未だに話し掛けるのも恐れ多いもんな‥‥

上田は教室の外で、会話に耳を傾けた
声を荒げるクラスメイト
それは工藤という生徒だった
他の2人は、工藤と同じ中学出身でよくつるんでいる飯田と新谷
どうやら工藤がリサに告白したらしいということがわかり、薄く苦笑いした
引き続き耳を聳てる

「‥‥それ、完全に八つ当たりだろ」

「っていうか、まだなんかやるつもりなのか?もう十分だろ」

「あー‥‥もう飽きた。石川なんてもうどうでも良いや。‥‥でも、調子こくようならまた嫌がらせしてやる」

 

工藤が口にしたとある生徒の苗字
上田には、心当たりがありまくり過ぎた

 

───『近藤サンにくっ付いてる“石川”』なんて、ユイしかいねぇじゃん

 

上田は思った
ユイの上履きがボロボロになったり教科書が失くなったりしたのは工藤たちの仕業なのではないかと
だが、本人たちの口から具体的な内容を聞いたわけではなく、何の証拠もない───

「っつーかさ、お前らまだ帰んねぇの?」

「バス待ち。お前の話聞いてたら一本乗り過ごしちゃったよ」

「次のバスまであと30分あるし」

「あ、そ。じゃあ、俺チャリだし先帰るわ」

工藤は飯田と新谷を残し、さっさと教室から出ていった
上田は一旦隣の教室に身を隠し、工藤が遠ざかるのを待った

「あーあ、マジうぜぇなあいつ。自分の話終わった途端とっとと帰りやがってよ」

「ほんと。下らない話聞いてやってるだけでも感謝して欲しいよな」

 

「───お友達は選ばなきゃ駄目よん」

上田が徐に教室に入ってきて、飯田と新谷は吃驚する

「‥!上田!!‥‥お前、まだいたのか‥」

「まぁねー。‥‥それよりさ、今の話くわーーーしく聞かしてくんねぇ?バス時まで、30分あるんだっけ」

抱えていた段ボールを勢いよく机に叩きつけ、上田は飯田と新谷を睨み付けた
2人はギクリとした

「いやー、わかるよー。工藤がうぜぇのは俺もよく知ってる。‥‥でもさ、大事なマブダチがこれ以上影でコソコソ嫌がらせされんのはマジで我慢なんねぇんだわ。結構ひでぇことしてくれちゃってさ。‥正直にゲロってくれたら、俺もお前らに“ひでぇこと”しないで済むんだけどな」

口角は上がり、言葉の端々にチャラさが見えるも、その本質は“憤怒”

ユイと上田の仲が良いことは飯田と新谷もよく知っている
その上田に、先程の話を聞かれていたとは露知らず
憤怒のオーラを全開にしている上田に観念し、飯田と新谷は今まで工藤がユイにした嫌がらせの一部始終を打ち明けた

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96 久留嶋先生は養護教諭

「‥‥‥‥なぁ、くるちゃん」

「何かね」

「‥‥例えばの話なんだけどさ」

「うん」

「突然、Aくんの持ち物が失くなりました。探しまくったけどどこにも無くて諦めかけてたら、Aくんと仲良しのBくんが自分の机の中に入ってたと云ってその持ち物を持ってきてくれました。でも、その持ち物は見るも無惨な姿になってました。因みにAくんの持ち物をボロボロにしたのはBくんじゃありません。何故Aくんの持ち物がボロボロにされてBくんの机の中に入っていたのかは謎のままです。‥‥‥‥これって、どういうことだと思う?」

「‥‥‥‥、‥‥よくわかんないけど、第三者がAくんとBくんを仲違いさせたいんじゃないのかね」

「‥‥やっぱそう思う?」

「うん、思う」

「そうだよなぁ‥‥そうとしか考えらんないんだよなぁ‥‥‥んんー‥‥」

「‥‥‥‥自分の話?それとも、お友達の話?」

「‥‥ただの例え話だよ」

「そう。‥‥‥‥っていうかさぁ、何度も云ってるけど、そんなに堂々と喫ってるとこ誰かに見られても俺一切弁解出来ないよ?」

「今更何云ってんの、黙認してんのはくるちゃんの方でしょ。俺は『喫うな』って云われたら喫わないよ」

「ほんとかなぁ‥‥嘘くさぁ‥」

「生徒を信用しないなんて、教師失格じゃん」

「いや、俺養護教諭だし」

「何云ってんの。“先生”なことに変わりないっしょ」

「‥‥あ、そうだ。あのさぁ、職員室に備品取りに行ってくれないかな?そしたら上田くんのこと信用してあげる。行ってくれないなら煙草のこと担任の先生に報告しちゃおう、そうしよう」

「はぁ?何で俺がそんなことしなきゃなんないんだよ。ってか俺今一服中だよ」

「取引だよ、取引。確か、ガーゼとか届いてる筈なんだよねー」

「‥‥自分で取りに行くの面倒臭いだけだろ」

「うん、正解。その通り」

「‥はー‥‥‥どこの世界に生徒と取引する先公いんだよ‥‥くるちゃんほんと教師向いてないわ」

「よくご存知で」

「‥‥給料泥棒め」

「何とでも云ってくれたまえ。ほらほら、早く行かないとチクっちゃうよー?停学になっても良いのかなー?」

「‥‥とかいって、全然チクる気ないでしょ」

「うん。無いね。俺、面倒臭いの嫌いだから。基本的に“保健のセンセー”以外のことしたくないんだよねー」

「ははっ。‥ま、ボランティア精神って大事だよね。やっぱ年寄りは労んなきゃなー」

「年寄りは云い過ぎだよ、俺こう見えてまだ20代だからね。俺の机の上に段ボール置いてある筈だから」

「はいはい。んじゃ、これ喫って10分くらいしたら行ってくるわ。ヤニ臭いまんま行ったらヤバいもんね、くるちゃんが保健室で生徒に喫煙させてるのもバレちゃうもんねー?」

「‥‥うーん‥‥‥‥つくづく食えない奴だなぁ、上田くんは‥‥」

「んふふのふー」

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95 Malice②

自分の身に覚えのないところで誰かの反感を買い、その報復をされている───
ユイの頭は、そのことばかりに苛まれている

ユイの元気がないことは顔を見れば一目瞭然だが、拓真たちは過剰に気を使うことはなく、普段通り接した
そして、ユイに嫌がらせを続ける誰かさんへの怒りが日増しに強くなっていった

終業式まであと3日
冬休みに向けて浮き足立つ校内に似つかわしくないユイの姿
これ以上何も起きてほしくない
そう思っていた矢先、また一つユイの私物が失くなった

放課後
菱和と談笑しながら玄関に到着し、下駄箱を開けると、お気に入りのスニーカーが忽然と姿を消していた
上靴を履いて帰るという最終手段も使えず、ユイは呆然とする他なかった

「‥‥今度は外靴か」

後ろから、菱和がユイの下駄箱を覗き込む

「‥‥‥‥どうしよ、帰れない‥‥」

「‥‥おぶってってやろうか」

「‥大丈夫。‥‥何とかする」

「“何とか”って?」

「‥‥‥何だろ、思い付かないけど‥‥」

ユイは、へへ、と薄笑いをした
軽く溜め息を吐き、菱和はユイの足元に自分の上靴を置いた

「‥‥取り敢えず、これ履いて帰れば。でけぇかもしんねぇけど」

「え‥‥でも汚れちゃう、よ」

「そんなもん拭けば良いだけだろ。‥‥帰ろ」

幸い、路面は乾いている
汚れるとはいっても、多少土がつく程度
菱和はローファーを履き、颯爽と玄関を出た
ユイも慌てて菱和の上靴を履き、そのあとを追い掛けた

 

「‥‥‥‥やっぱ今からでもおぶろうか」

「‥!いや、良い、よ!へーき!だいじょぶ!」

「‥‥家までの辛抱な」

「うん、ほんとにありがとね!」

帰り道
やはり菱和の上履きは少しサイズが大きく、ユイは歩きにくそうにしていたが、優しさや気遣いに笑みを零す

 

無惨な姿に変わり果てた上履きのことを考えると、スニーカーも既にボロボロにされている可能性が高い

───あの靴、お気に入りだったんだよな‥‥‥明日から、どの靴履いてこう‥‥っていうか、明日もまた失くなったらやだな‥‥靴が何足あっても足りない気がしてきた‥‥‥‥

自分に向けられる様々な“悪意”を散々目の当たりにしていると、次第に頭も垂れてくる
一人で3人分くらいの賑やかさと騒がしさを兼ね備えているユイが意気消沈しており、そうなるのは無理もない話だ

「‥‥‥気味悪りぃし気分最悪かもしんねぇけど、こういうのは放っておくのが一番なんだよ。やってる奴もそのうち飽きるから」

黙りこくるユイの背中をぽん、と叩き、菱和はそう云った

「‥‥‥、うん」

「靴、拭いたりとかしないでそのまんまで良いから」

「ううん、ちゃんと拭いて返す。ありがとね、アズ」

「‥‥転けるなよ」

「‥だいじょーぶだよ!」

「‥‥‥気ぃ付けてな」

 

別れ道で自宅方面へと足を向かせようとした菱和は、何かに引っ張られたような感覚に立ち止まった
振り返ると、ユイに制服の裾を掴まれていた

「‥‥どした?」

「‥‥‥、‥‥」

ユイは真ん丸の瞳で菱和を見たが、そのうちゆっくりと俯いていく

「‥‥‥‥これからアズんち行ってもい‥‥?」

捻り出すように、小さな声でそう云った
菱和はくす、と笑い、裾を掴むユイの手をぎゅ、と握った

「良いよ。おいで」

 

***

 

少しでも気持ちが落ち着けばと、菱和はすぐに暖かい紅茶を淹れた
リビングのソファに座るユイにも、芳醇な花の香りがふわりと伝わってきた

「───卑怯で、卑屈で、狡猾で、残忍。想像力が欠けてる。人の傷みがわかんねぇ、陰湿で最低な人間」

紅茶の入ったマグを持ってキッチンから歩いてくる菱和が云った重苦しい言葉の羅列に、ユイは怪訝な顔をする

「‥‥今お前に嫌がらせしてる奴は、そういう奴」

テーブルにマグを置き、菱和はユイの横に座った


「‥‥俺、“その人”になんかしたのかなぁ‥‥‥‥」

横で紅茶を飲む菱和をちらりと見て、ユイは独り言のように呟いた

「さぁ。身に覚えは?」

「‥‥‥‥ない‥‥」

「じゃあ、何もしてねぇんじゃねぇの」

「そ‥‥かな」

「‥‥仮に、お前の言動で何かしら不利益得たんなら直接云えば良いだけの話じゃん。なのにわざとモノ隠したり傷付けたり失くしたりしてお前が落ち込んだり取り乱したりしてるとこ見て影で嘲笑いてぇんだろそいつは。そんな悪趣味な奴のこと構うな」

菱和は吐き捨てるようにそう云い、マグを置いた

「‥‥少なくとも、お前の周りにはお前のそんな顔見たいと思ってる奴は一人もいねぇよ」

菱和の口から紡ぎ出された事実と柔らかい笑みは、ユイを忽ち元気にさせる
ユイは、へら、と笑った

「‥‥‥‥ありがと」

ありったけの“有難う”を伝えると、ユイも紅茶に口をつけた

「うわ‥‥‥‥すごい花の匂い‥‥これ、なんてやつ?」

「“Magnolia”。ダージリンなんだけど、花の匂いが付いてる葉がブレンドされてんだと」

「‥“まぐのりあ”?」

「木蓮。ガッコにもあるよ、白くて大きい花が咲く木」

「あ、春になったら咲くやつだ」

「そうそう」

「甘ぁい匂いするよ、ね」

「散ったらすげぇことになるけどな」

「うん、踏まれた花びらで校門の前すごいことになってた!」

健気に笑うユイ
菱和はユイの頭を撫でながら、穏やかに云った

「‥‥楽器触る?‥‥‥‥それとも、今日は甘えてく?」

「‥!‥‥‥‥」

突然の提案に、ぼっと顔を赤くしたユイ
その顔を見て、菱和は軽く噴き出す

マグを置き、ユイは徐に菱和の肩に額をくっ付けた

「‥‥だいじょーぶ‥‥‥‥」

「‥うん‥‥‥うん‥‥」

菱和はユイを抱き寄せると、呪文のように“大丈夫”と呟いた
ユイは頷きながら、その声と言葉を反芻した

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94 Malice①

期末試験も終わり、冬休みまであと一週間あまり
ユイと拓真とリサは、いつものように3人揃って登校した
ざわつく玄関に、犇めき合う生徒たち
ユイは下駄箱を開けると、首を傾げた

「───あれ、‥‥あれ?」

「ん?どうしたん?」

「‥‥靴がない」

「へ?」

「‥‥隣に入れ違えたとかじゃないの?」

「ううん、入ってない」

下駄箱に入っている筈の上履きが見当たらない
リサの指摘通り、隣の下駄箱を開けるも、上履きは入っていなかった
拓真とリサもユイと一緒に近くの下駄箱を幾つか確認してみたが、一向に見付からない
始業の時間が迫り、玄関付近は人も疎らになっていた
3人は途方に暮れる

「はー、見付からんか。‥まさか裸足で授業受けるわけにもいかんしなー。スリッパ借りてくるか」

「そうだね。そのまんまじゃ足冷たいし汚れちゃう。‥‥行こ、ユイ」

「‥‥うん‥‥‥」

拓真とリサに促され、ユイは首を傾げながら教室に向かおうとした

 

「よう」

3人が後ろを振り返ると、菱和が立っていた

「アズ!おはよ!」

「はよー」

「‥‥何、その靴?」

「ん」

リサは、菱和がボロボロになった上履きを提げているのに気付いた
よくよく見ると、その靴には“石川”と名前が書かれている
リサの背筋に、悪寒が走った

「‥俺の靴‥‥!」

「ひっしー、それどこにあったの?」

「‥‥‥‥俺の下駄箱ん中」

3人は、目が点になった
先程まであちこち探し回っていたユイの上履きは、見るも無惨な姿になって菱和の下駄箱の中に押し込められていた

「‥‥え、何で」

「知らねぇ。っつうか、これもう履けねぇよ。バックリ裂けてる」

菱和の云う通り、爪先の部分が刃物か何かで裂かれており、パクパクと口を開けているように見えた
紐は千切れ、油性マジックでぐしゃぐしゃと落書きされている
自分の上履きが何故こんな姿になってしまったのか皆目検討もつかず、ユイは呆然とした
拓真は思わず眉を顰める

「ぅわ‥‥ひでぇ‥‥」

「コーコーセーにもなって、こんなガキみてぇなことする奴いんだな」

菱和は提げている上履きを一瞥した

「取り敢えず、スリッパ借りてくるわ」

拓真はスリッパを求めてぱたぱたと職員玄関へ向かった

頭の中が、混乱する
脳内を埋め尽くす、謎
ボロボロになった上履き
誰かに買われた“怨み”
何をどう考えても、わけがわからなかった

───何で?どうしてだろ?俺、誰かになんかしちゃったのかな‥‥

「‥‥行こ」

菱和に頭をぽん、と叩かれ、ユイは我に返った
気付けば拓真がスリッパを持って戻ってきており、足元に置いてくれていた

「‥‥‥‥うん」

ユイはスリッパを履き、先に教室に向かって歩いていく拓真たちのあとを追い掛けた

 

***

 

昼休み
美術準備室には、コンビニに買い出しへ出掛けたユイたちを待つ菱和とリサ

「‥‥ねぇ」

「‥‥‥‥ん?」

「‥‥朝のアレ、誰がやったと思う?」

「‥‥‥‥ユイの靴?」

「‥‥うん」

「‥さぁ‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥、誰かに怨まれるようなこと、してねぇよな」

「多分‥‥。私の知る限りでは、そんな覚え全くない」

「‥‥だよな」

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥誰がやったかは知らねぇけど、あれは完全に“悪意の塊”だってことだけは云い切れる」

菱和は、静かに重く言葉を放った

 

アクイノカタマリ

 

無惨な上履きを目の当たりにしたときと同様に、リサはゾクリとした
そんなものがユイに向けられていることなど、想像もしたくなかった

自分も含め、ユイの周りは多少KYを振り撒いたところで笑って赦せる柔和な人間が多い
しかし、それは自分達の中でだけ通用することであって、ユイをよく知らない人間にとっては迷惑だったり怨みを買ってしまったりしてしまう可能性も無きにしもあらず
周りの優しさに甘んじてはいけなかったのかもしれないと、リサは思った

 

「───眉間にシワ寄ってんぞ」

菱和の指摘に、リサははっとした
気付けば、とても難しい顔をしているのがわかる
そっぽを向き、軽く咳払いをすると、菱和は少し口角を上げた

「‥‥‥‥そんな顔すんなって。あいつが『うぜぇ』と思うなら、端から関わんなきゃ良いってだけの話だろ。あいつの傍に居たいって奴だけ居れば、それで充分だと思うけど」

───‥‥‥そっか、

自分達は、好き好んでユイの傍に居る
“合う”“合わない”は、誰にだってあること
誰しも、万人に好かれることなど出来ないのだから───

「‥‥‥‥、そうだね」

「‥‥もしその“悪意”が俺の目の届くとこに来たら問答無用で殴るから心配すんな」

「やめてよ、血の気の多いのはもう沢山」

「‥‥冗談だよ」

溜め息を吐くリサを見て、菱和はくす、と笑った

 

それは尋常ではない
どす黒い、ただの“悪意”

一同がそれを眼前にするのは、遠い未来の話ではない

 

***

 

翌日
体育の授業を終えた生徒たちは、次々と教室に戻ってくる
ユイも教室に入り、次の授業の準備をしようと机の中に手を入れた
その手に触れるものは、机の金属部分のみ───

「ん、あれ」

ユイはしゃがんで机の中を覗き込んだ
様子がおかしいことに気付いた拓真は、ユイの下へと駆け寄る

「どした?」

「───‥‥机ん中に何も入ってない」

「え?」

「教科書もノートも、ペンケースも‥‥」

「朝、机に全部入れてたよな?」

「うん‥‥」

「‥‥上田から借りてこよ。ノートは俺のルーズリーフ何枚かやるからそれで凌いで」

「‥‥‥‥ん‥‥」

拓真は教科書を借りるべく、ユイを上田のクラスへと促した
ユイは首を傾げつつ、拓真のあとを追う

 

上田のクラスを覗くと、クラスメイトたちと談笑する上田の姿が見えた
拓真は颯爽と教室に入り、上田に声を掛ける

「いっちー、教科書貸してー」

「お、拓真。‥何の教科書?」

「倫理」

「は、ぶっちゃけ教科書要らなくねぇ?」

「そんなこと云って、ちゃっかり持ってきてんだろ」

「んー、まぁねー。真面目なフリくらいはしなきゃさ、一応」

上田はケラケラ笑いながら友人との談笑を止め、自分の机から倫理の教科書を取り出して拓真に渡した
そのまま拓真を教室の外まで見送る

「およ、ユイ」

「‥あ、上田」

「‥‥ってか、教科書忘れたのってユイか?」

「まぁ、そんなとこ」

「ははっ、だよなー。拓真が教科書忘れるって、なんか変だなーと思ったんだよ」

「‥‥‥‥忘れたんじゃない。失くなったんだ」

ユイはぎゅ、と手を握りしめて俯きながら呟いた
いつもと違う印象を得、上田はきょとんとする

「は?失くなった?」

「‥‥あとで話す。予鈴鳴るから教室戻るわ。教科書、さんきゅー」

拓真は早口でそう云って、ユイの肩をとん、と叩き、教室へと促した

「上田、有難う」

「‥おう、なんも」

上田は怪訝な顔をし、足早に教室に戻る拓真と振り返りながら礼を云うユイを見送った

 

***

 

昼休み
ユイと拓真は上田に倫理の教科書を返しに行き、そのまま足早に美術準備室へと向かった
教科書を借りに来たときにユイの様子がいつもと違うことに気付いた上田は、『何かあった』のだと瞬時に察した
チャラい顔は一切見せず、真摯に2人の話を聞いた

「‥‥さっきさ、教科書借りに行く前。体育だったんだけど、‥‥教室戻ってきたら机の中のもの全部失くなってた」

「‥‥何でまた」

「わからん。俺らが教室戻る前に、誰かが持ってったとしか考えられない」

「何の為に?」

「それもわからん。‥‥っていうか、昨日も‥‥‥‥この状態でひっしーの下駄箱ん中入ってたんだ、これ」

拓真は“取り敢えず”美術準備室の戸棚に仕舞ってあった上履きを取り出し、上田に見せた
ユイはぱっと顔を逸らす

「ぅわ‥」

一体、“これ”をやった人間はどういう心理状況だったのだろう───
冷酷さ以外のものを微塵も感じられず、上田は顔を引き攣らせた
持ち主であるユイはおろか、拓真もリサも菱和も、そして上田も、何故こんなことをされなければならないのか全く見当がつかなかった

「‥‥マジ引くわ。度が過ぎてる」

「ほんとな。でも誰がやったのかぜーんぜんわかんなくてさ」

拓真は上靴を戸棚に仕舞った
上田は軽く溜め息を吐いて腕組をし、うーん、と唸る

「ユイさ、別に誰かになんかしたわけじゃないんだろ?」

「‥ん‥‥うん。‥‥でも、俺の身に覚えがないだけかもしんない‥‥」

「ふーん。だったらその線は無いな」

「え、何で?」

「だって、身に覚えがないんだろ?ユイがそう思うんだったら、そうなんじゃん?」

「‥‥‥‥、‥‥上田は、さ」

「うん?」

「‥‥‥俺の所為で、嫌な思いしたこと、ない‥‥?」

「無いよ。あったらそんときすぐ云うし」

上田はあっけらかんとし、にこっと笑った

ユイと上田の付き合いは、中学時代からだ
通う学校こそ違ったが、バンドを通してライヴハウスに出入りする機会が増えると顔を合わせることも多くなり、そのうち自然と仲良くなった
ユイと拓真と上田、上田のバンドのメンバーであるユウスケとハジがアタルや尊と同級生であったことで、2つのバンドとそれぞれのメンバーの仲が良くなるのにさほど時間はかからなかった
同じ高校に進学することがわかると、3人はとても喜んだ
ユイと上田は“マブダチ”と云っても過言ではなく、互いにその関係を自負している
だからこそ、上田はユイが私物を失くされたり傷付けられたりすることに疑問を隠せない

「まぁ、暫く気を付けた方が良いな。教科書なら幾らでも貸すから、いつでも云いなよ」

「‥‥ありがと」

すかさず、拓真が横槍を入れる

「とか云って、ユイに教科書預けたまま体よくサボる気じゃないだろうな?」

「あ、バレた?」

「そんなん見え見えだし」

「やーだぁ、流石たっくん!ほんっと俺のことよくわかってるぅ!」

「‥鬱陶しいっての!」

上田はいつものチャラい顔で、拓真の肩に腕を回して絡んだ

「ユイー、ノートはたっくんに頼めよー。俺じゃあ無理ゲー過ぎっからさー!」

「うん、わかってる」

「‥『わかってる』?‥‥聞き捨てなんねぇな。なぁ、拓真?」

「今自分で『無理ゲー』だって云ったんだろ!ちょ、離せっての‥!」

───‥‥良かった。何でモノ失くなったりすんのかわけわかんないけど、きっとこの時間だけは失くなんない。それだけで、じゅーぶん‥

気の置けない拓真と上田が普段と変わらない態度でいてくれることは、ユイの救いになっていた
上田の拓真への絡みがエスカレートしていくのを、微笑ましそうに静観した

「あーあーあー、頭悪りぃと辛れぇなぁ。‥八つ当たりしちゃお!」

上田はケラケラ笑いながらぐっと拓真を引き寄せ、顔をロックした
息苦しさを覚えた拓真は、少し憤る

「うっ‥‥おま‥いい加減に‥!」

「───誰の仕業か調べてみる。‥なんかわかったら伝えるわ」

ふざける振りをして、上田がボソリと耳打ちしてきた

口元は緩んでいるが、その瞳の奥は友人を傷付けられた“怒り”で満ちていた

怒りの感情など滅多に見せることのない上田の眼光に拓真は呆気にとられたが、ユイのことを真摯に考えてくれていることに感謝しつつ、ほんの少し頷いた

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93 Girl's TALK

「え、工藤に告られたの!?」

「‥‥うん」

「いつ?」

「先週‥‥だったかな」

「“だったかな”、って‥‥そういうこと忘れるフツー?」

「興味ないから」

「返事は?」

「ノーに決まってるでしょ」

「あっそぉ‥‥‥‥でも、振って正解だわ。工藤って無駄にオラついてるし、樹よりタチ悪いタラシだって有名だし。ああいうタイプの人苦手でしょ」

「‥‥っていうか、苦手じゃなくても断る」

「‥‥‥リサってさぁ、結構モテるのにほんと勿体無いと思う‥‥」

「男にモテたからって、何の自慢にもならないよ。それに今は色恋沙汰に興味ないから」

「‥‥そう‥」

「‥‥‥‥私のことより、カナはどうなの?」

「え、私?」

「なんか進展ないの?」

「‥‥‥‥無いよぉ‥‥こう見えて私、超奥手なんだから‥‥あーあ、卒業までに気持ち伝えられるかなぁ‥‥」

「頑張らなきゃね」

「うん‥‥‥‥協力してくれる‥‥?」

「私に出来ることがあるなら、協力するよ」

「じゃあ、まず志望大学聞いておいて!」

「同じとこ受験する気?」

「うん、相当頑張んなきゃなんないと思うけど‥‥」

「志望校ね、機会があったら聞いておく」

「お願いします!」

「はいはい」

「‥‥‥‥ねぇ、今日PANACHE行かない?」

「‥‥んー‥‥‥‥」

「あれ、珍しい。いっつも『行く』って即答なのに」

「‥‥‥‥行きづらいの」

「何で?」

「‥‥、前に一悶着あったから」

「何それ!なになに!?」

「‥‥‥‥、ユイと拓真と菱和と、4人でクレープ食べに行ったのね」

「うんうん」

「ユイと拓真が席外して、ドリンク飲んでたら、‥‥逆ナンされたの」

「‥‥菱和くんが?」

「‥‥うん」

「っ嘘ぉ!!!マジ!?」

「うん。多分、西高の制服だった。公害並みの香水つけてるすっごいギャル2人に『遊びに行こう』って云われて」

「うわぁ‥‥‥‥それで?」

「私みたいな『つまんなそうな顔してる女より自分達と遊んだ方が楽しい』とか、そのコたちのこと少しも見てないのに私が『睨んだ』とか云われて」

「‥‥そこまで云われてよく黙ってたね」

「煮え繰り返ってたよ。‥‥でも私がキレる寸前で、菱和が『うぜぇ』って云ったの」

「‥‥‥‥それで?」

「‥‥、店出て、終わり。そのあとどうなったかは、知らない」

「‥‥‥あ、そう‥‥てか、そんなことがあったんだー‥‥」

「‥‥なんかすっかり話そびれちゃって。超事後報告でごめん」

「ううん。全然良いの。‥‥てか、行きづらい理由ってそれ?」

「‥‥うん。もしまたあのコたちがいたら、気まずいから‥‥‥‥」

「‥‥そっか。じゃあ、PANACHE行こ!」

「え、私の話聞いてた?」

「聞いてたよ。もしそのギャルたちがいてなんかいちゃもんつけてきたら、今度は私が『うぜぇ』って追い払うから!」

「‥‥‥‥、‥‥」

「もぉ、そんな顔しないの!変なギャルたちの為にPANACHEのクレープお預けにするなんて、勿体無さすぎるじゃん!だから、行こ!」

「‥‥‥‥うん」

「っていうかさ、菱和くんてやっぱカッコイイね」

「‥‥逆ナンされるくらいだから、そうなんじゃない。一緒にいること多くなったから、全然気付かなかったけど」

「リサ気付くの遅すぎー!私、一年のときからカッコイイイなーって思ってたよ。滅多に学校来なかったけど、そこがまたミステリアスで!」

「‥‥ふぅん」

「見た目の印象とぜーんぜん違うよね、話聞いてたら結構楽しいし。喧嘩強くて、身体張ってくれたこともあるでしょ?おまけに然り気無く守ってくれるなんて、キュンとしちゃう!」

「そういうもんなのかな‥‥」

「‥‥‥菱和くんのこと、受け入れられてるんだよね?」

「‥うん」

「うんうん。‥きっとね、菱和くんも同じだと思うよ」

「‥‥そう?」

「うん!リサと菱和くんて、“似てる”から」

「‥‥え?」

「前から思ってたの。『あ、2人は似てるなー』って」

「‥‥‥‥そう?」

「うん!嬉しい?」

「‥‥‥、別に」

「もーほんと素直じゃないんだから。‥‥さ、今日は何にしよっかなー。やっぱリサは“ストロベリーレアチーズ”?」

「‥‥、久々にアイスクレープにしようかな」

「じゃあ、私はプリン乗せにしよっと!」

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92 Beginner

バンドの方針として、テスト期間になるとスタジオ練習は“お休み”になる
バイトのシフトが増えたとはいえ、拓真も時間があればユイの勉強を見てやった
時にはリサも交えて4人で勉強会を行い、ユイは“平均点以上”を目標にひたすら机に向かった
此度の試験期間中は、今までの自分の記憶に無いほどの時間を勉強に費やした
その甲斐もあってか、ユイは全ての科目で平均点を超えることが出来た
一番苦手だった数学も大幅に点数が上がり、ドヤ顔で拓真と菱和に答案用紙を見せて寄越した
下校途中、ユイと拓真と菱和は並んで歩きながらそのことについて話す

「何にしてもお疲れさんでした。ほーんと、奇跡みたいな点数ばっかりだったな」

「んっふふー。俺、“やれば出来る子”だった!」

「‥‥何で今までちゃんとやってこなかったのか不思議でなんねぇわ」

「う‥耳が痛い‥‥」

「いやー、ひっしーの教え方が上手いんでしょ」

「そんなことねぇよ」

「またまた、謙遜しちゃってさ。とにかく、有難う御座いました。これで俺も心置きなくバイトに勤しめるわ。今日も稼ぐぞー」

「何だよ、折角試験終わったんだからスタジオ行こうよ?」

「試験終わったからこそバイトだろー。冬休みに向けてガッツリ稼がなきゃさ」

「むー‥‥!」

「そう膨れるなって。スタジオ行く代わりに、ひっしーになんか“ご褒美”でも貰ったら?」

「“ご褒美”‥‥?」

「今まで作ってもらったことないものご馳走になる、とかさ」

「あ、それ良い!っていうか、そんな話聞いたらめっちゃ腹減ってきた!」

「‥‥じゃあ、このままうち来るか?」

「うん!アズんちのギターも触りたいし!」

「したら、行くか」

「俺はバイト行ってきまー。また明日ねー」

「気ぃ付けて」

「バイト頑張ってね!ばいばーい!」

ユイと菱和はバイトへと気持ちが逸る拓真と別れ、菱和の家に向かった
その道すがら、菱和はユイに尋ねる

「何食いたい?」

「ずっと考えてたんだけど、今結構腹減ってるから何でも良い!」

「あっそ‥‥」

ギターと食事にわくわくしているユイを尻目に、菱和は冷蔵庫の中に何が入っていたかを思い出しながら歩いた

 

***

 

帰宅するなり、菱和は煙草を喫い始める
ユイは菱和のギターをケースから出すと胡座をかき、アンプに繋がずそのまま爪弾いた
煙草を喫い終えた菱和はユイの下へ行き、頭を軽くぽん、と叩いた

「これで心置きなく弾けるな」

「うん!めっちゃ弾く!俺のギター全然触ってないし、おまけに先にアズのギター触っちゃったからきっと機嫌悪くしてるよ!」

「‥‥妬きもちか」

「そうそう!でもこれほんとだよ、ちょっとでも触んないと拗ねてキーキー云うんだから!」

「ふーん‥‥」

───ほんとに好きなんだな、“相棒”が

心底楽しそうな顔をするユイを見て、菱和はそう思った

「それにしても、ほんと勉強頑張ったな」

「アズのお陰だよ、ほんとに有り難う!逆に俺が“ご褒美”あげたいくらい!」

菱和にありったけの感謝を気持ちを込め、ユイはニコニコ笑った

 

“ご褒美あげたい”

そのワードを聞き、菱和はボソリと呟いた

「──────‥‥“ちゅー”するか」

ユイは怪訝な顔をして、首を傾げる

「‥‥、“ちゅー”‥‥‥?」

「ん。“ご褒美”」

そう云って、菱和はユイからギターを取り上げ、スタンドに立て掛けた
そしてユイの顎を掴み、顔を近付ける

“ちゅー”がキスのことであると認識したユイは、途端に慌てふためく

「‥ちょ、ちょっと待って!!」

「何が」

「や、『何が』じゃなくて!」

「‥‥‥‥あぁ。初めて、か?」

「初めて、ってか、初めてだけど‥‥‥‥って、そうじゃなくてっ‥!それはさ、どっちに対する“ご褒美”なの‥!?」

「‥‥‥‥、お前にとってどうかは知らねぇけど、俺には“褒美”の価値あるよ」

真顔でそう話す菱和
ドキリとするその間にも、菱和との距離が無くなっていく

「は‥!!?いや、まっ‥‥!」

「大丈夫。俺もお前にすんのは初めてだから」

「あ、当たり前だろっ!されたことないんだからっ‥‥」

「だから今するって。‥‥ちゃんと出来ねぇ、動くな」

顎を持つ手に力が入ったのが伝わる
それと同時に、脈がより早く打つ
ユイは固まり、動けなくなった

 


ヤバい
これ、“マジのやつ”だ
え、なに‥俺このままアズとキスしちゃうの?
いずれは“そういうこと”もするのかなーと思ってたけど、今なの?急すぎね?
どうしよ、まだ心の準備も出来てないのに‥‥
てか、顔、近っ!!
ヤバいヤバいヤバい───

「───っ!!」

ユイはぎゅっと目を瞑り、唇を固く結んだ

 

「──────っく‥‥っ‥‥‥‥はは‥‥!」

待てど暮らせど何の感触も伝わってこない代わりに、菱和の“笑い声”が聴こえた
こんなにはっきりと菱和の笑い声を聴くのは、初めてのこと
そっと目を開けると、切れ長の垂れ目はより細くなり、肩を震わせ、歯を見せて笑っている菱和の姿がある
菱和のこんな顔を見るのも、初めてに等しい
いつもの菱和の笑みは、少し口角が上がる程度の小さいものだ
その顔も、その声の高さも、初めて目の当たりにするもの

───‥‥こんな風に笑うんだ‥

無邪気に笑う菱和の姿に、目を奪われた

「‥ふ‥‥っ‥く、はははは‥‥!」

可笑しくて堪らない様子の菱和は髪を掻き上げ、未だ声を出して笑っている
ユイはなかなか笑いが収まらない様子に戸惑い、菱和の顔を覗き込んだ

「あ、アズ‥‥?」

「───お前、超めんこい。‥‥でも、そんな顔されたらめっちゃやりづれぇ」

菱和はくく、と笑いながらユイの頭を撫でた

「‥な‥‥あ、う‥‥‥‥ごめ、ん‥‥なさい‥‥」

「‥‥ユイ、おいで」

ユイは促されるまま、菱和の腕に収まる

「‥‥ハグは、平気なのな」

「‥んん、決して平気な訳じゃないんだけど‥‥」

「‥‥‥嫌だった?」

「嫌じゃない、よ‥!いきなりだったからわけわかんなくなって混乱しただけ!」

「そっか‥‥ちょっと安心した」

「‥え‥‥何で」

「だって、あんな顔するから本気で『嫌なんだ』と思って。‥‥でも、マジで可愛かった」

───ああもう、爆発しそう

恋愛経験が皆無な自分にはキスなど土台無理な話だ
菱和の顔も、身体も、吐息も鼓動も、何もかもが近くて、それだけでも破裂しそうなくらい緊張してしまう
しかし、菱和が“そういうこと”をしたいと想ってくれているのは素直に嬉しいこと

「‥‥嫌なわけじゃないんだ、ほんとに。でも、俺にはまだハードルが高過ぎるっていうか‥‥‥‥」

ユイが恥ずかしがっているだけだということは、菱和も充分理解した
他の場所ならばいきなり唇にするよりハードルが低く、幾分か緊張も紛れるかもしれないと思い、菱和はユイの唇を指差した

「‥‥‥‥あのさ、“ここ”じゃなかったら、良い?」

ハードルを下げてくれたことに『申し訳ない』『情けない』と思いつつも、ユイは頷いた

「‥‥‥、ん」

 

菱和はふ、と笑むと、ユイの前髪を上げて額にそっとキスをした

 

『一体どこにされるのだろう』とおっかなびっくりだったユイは、あまりにすんなりと済んだことに少し拍子抜けした

「‥‥‥お前の番。‥‥どこでも良いから、お前の好きなとこにして」

そして、顔を覗き込まれまた心臓が鳴る

「‥‥、‥‥‥‥」

漆黒の瞳に見つめられると、吸い込まれそうになる

この眼差しも、初めて落とされたキスも優し過ぎて
その優しさを一人占めしてるのが不安になるくらい嬉しくて
耳障りな鼓動だけが動いてるみたいで
思考が止まりかける

───っていうか“キスそのもの”が俺にはハードル高いんだよ‥‥や、ちゃんとやんなきゃ。アズはしてくれたんだから

早鐘は止まぬままだが、ユイは決心した
しかし、『どこでも良い』と云われても困り果ててしまう
思い悩んだ挙げ句、ユイは徐に菱和の手を取った
ギターよりも弦の太いベースを弾く、細く長い指
固くなったその指先に、軽く唇を押し付ける

 

──────そういや少し前、顔真っ赤にして“好き”って云ってたっけ。‥こいつらしいな

ユイのいじらしさに柔らかく笑み、菱和はたった今キスをされたその手でユイの頭を撫でた

「‥‥‥ありがと」

「‥‥‥‥、ごめん‥‥」

「何で謝んの?」

「く、唇じゃなかったから‥‥」

「場所なんてどうでも良いよ。お前が“そういうことしてくれた”ってのが、一番嬉しい」

「ほん、と?」

「うん。ちょっと、意外な場所だったけど」

「‥‥ごめん、ほんと慣れてなくて‥‥」

「‥慣れてたらそれはそれで複雑だわ。‥‥っつーか正直、俺も探り探りだから」

「そ、なの?」

「そうだよ。‥多分、好きだから余計に」

菱和はぎゅ、とユイを抱き締めた

「‥‥‥手も繋ぎてぇし、キスもしてぇなって思うけど、かといって、無理強いする気はねぇから。お前が嫌がるようなことは絶対しねぇ。‥‥きっとそのうち何もかも普通に出来るようになるだろうから」

 

菱和の心臓の音が聴こえる

自分の早鐘よりも、ゆっくりと、深く、静かな鼓動

余裕綽々な菱和と今にも爆発してしまいそうな自分
『慣れている菱和』と『不慣れなユイ』というアンバランスな構図の2人だが、菱和とて恋愛経験が豊富というわけではない
経験の有無など関係なしに、自身の気持ちに素直に従っているだけだ

「‥‥アズ」

「ん?」

「‥‥‥‥俺、のこと、‥好、き?」

「うん。好き。‥‥慌てたり照れたりしてるお前も、可愛くて好き」

「な、ん‥!!」

先行きを不安に思うユイは堪らなく『自分を好きか』などと尋ねたが、即答され案の定照れまくる

───あーあ、なんかこれ癖んなりそ

照れるユイを余所に、菱和はくすくす笑いながら『つくづく自分は“S”だ』とぼんやり思った

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